★今日の東京は最高22度と涼しいです。しかし、まだ9月中は最高気温が26~27度位まで上がる日が多い予報ですので、涼しいのは今日だけのようです。でも朝晩の風はもうすっかり夏の暑さではなくなりましたよね。
★今日の朝刊を読んでいたら、年収1億のブ男と結婚するよりもニートだが誰もが認めるようなイケメンと結婚する方が良い、ヒモ男でもイケメンと生活できるなら全然かまわないという女性も一定数いるように、家事は何でもそつなくこなす不細工な女性よりは家事が殆ど出来なくても顔が綺麗でスタイルも良い美女と結婚する方がいいと考えている男性もいるというような話が出てましたが、自分のことを言われているようでビックリンコしちゃいましたー(@_@)。まあ、しかし、綺麗な顔という場合の綺麗=美の基準というのは案外人により違うので一概には言えないとしても(例えば今、70代の日本の女優さんの中で十朱幸代さんには凄く魅力を感じるのにタモリさんが昔から好きな吉永小百合さんは個人的には全然魅力を感じなかったりします)、誰もが美しいと思うような美女というのも世の中には確かにいますよね。
★私の場合、料理や裁縫は全く出来ませんので(大汗)、基本食事は外食(しかも大抵はトンカツ定食、天ぷら定食、カツカレーなどの揚げ物。食べ物の好みは高校生の頃から40年以上変わらず。)ですし、つい先日も長年使っているお気に入りのエドウィンのジーンズのお尻に穴が開いたのですが既に廃番になっている製品で新品が買えず、かと言って自分では直せないので穴ふさぎの直しに出したりしました。こうしてお金さえ出せば食事も衣類の修繕も今の時代は出来ますが、それを奥さんが家でやってくれたなら随分と助かるのかもしれませんよね。でもね、そもそも不細工な奥さんでは私の場合はなかなか恋女房のように心底愛すことは難しいですので、正直な話、やはり美人で家事も出来るという女性が理想という話になりますよね。ところが、この話を知人にしましたら、世の中大勢の男性がそう思ってはいても誰もが羨むような美人で家事も出来るような完璧な人を奥さんにするのは競争率が高くハードルが高くて難しいから、みんな「程々に綺麗かな?位の人」と結婚することで諦めてるんだよ、ポルシェさんは理想が高過ぎるんじゃないの~?という話をされて、高齢独身者の私は、なるほど、「程々」で大抵の人は諦めて結婚しているのか、と思ったりしましたYO☆☆
★閑話休題
さて、今日はプラモデル・コレクションからの第3回として今井科学などのポルシェ912のプラモをご紹介しますNE☆
実は今井科学の912は2012年9月3日の自動車カタログ棚からシリーズ第49回のポルシェ912の記事のオマケに少し画像を載せているのですが、5年も経っているので画像も撮り直して掲載しますNE☆☆
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★ポルシェ356から911へのフルモデルチェンジ は、6気筒エンジン等の生産コスト上昇から356より大幅に販売価格を引き上げることとなった。日本では当時の正規輸入代理店・三和自動車の356ベースグレードの価格235万円が、最初の911では435万円と一気に200万円も上げられた。
この911の価格大幅上昇による古くからの356購買層のポルシェ離れを食い止めるため、911のボディに356SCの水平対向4気筒OHV空冷エンジンを積んだ「ポルシェ912」が911発売から半年後の1965年(昭和40年)4月に315万円で市販された。
1969年(昭和44年)7月までの4年強で3万台以上が生産された912のうち日本に正規に入ったのは僅か100台、そのうち4台は日本初のポルシェのパトカーとして使用された。
ポルシェ912パトカーは、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて、愛知県警・京都府警・神奈川県警・静岡県警の順で計4台が三和自動車もしくは損保協会等を迂回する形にて寄贈された。911ではなく912が寄贈された理由は不明だが、車両価格の高い911を少数寄贈するより廉価な912を多く寄贈する方が宣伝効果が高いと考えたのだろうか。912パトカーは規定の6年間、15万キロ以上使用された後、神奈川県警の車両については2005年(平成17年)まで神奈川県警察学校に展示されていたが、惜しくも現在は全車両が廃車・解体されている模様である。
●ポルシェ912パトカー「神奈川県警」実働写真
1971年フレーベル館こどもの観察カメラ第3巻「じどうしゃ」(撮影・文:松本清次郎)より。撮影場所は第三京浜・玉川料金所でしょうか。
★今井科学(イマイ) 1/21ポルシェ912 プラモデル
箱サイズ:横28×縦20×厚さ6cm。車両本体全長20cm。当時定価450円。今井科学KIT №3305。モーターライズ(高低2速・RE-14モーター単三電池2本別売)。発売時期1968年(昭和43年)?月。今井科学株式会社の本社は静岡県清水市西久保305。1960年代、ポルシェの国産プラモは904・906・910といったレーシングカーについては各社より怒涛のようにリリースされたが、ロードカーのプラモは全く存在せず、恐らくこの今井製が日本で最初に出た911/912系のプラモデル。ワイパーが右側停止、リアエンジンフードの912バッチが水平に付いた1967年型をモデル化。ボックスアートでは標準のデュラントミラーを左運転席側のみに付けた姿が描かれているが、プラモはタルボミラーをフェンダー左右上に付ける形で組み上がる。1960年代後半の今井科学のプラモデルは今井倒産後にバンダイで再販されたものが多い中で、この912は何故かバンダイでは再販されていない。
完成写真
走行ギミック
実車解説
良好なプロポーション
リアエンジンフード周辺のシャープなモールド
組立説明書
部品図
★今井科学(イマイ) 1/21ポルシェ912パトカー プラモデル
箱サイズ:横35.3×縦20.7×厚さ6cm。車両本体全長20cm。当時定価500円。今井科学KIT №663。モーターライズ(8の字走行・警告灯点滅・RE-14モーター単三電池2本別売)。発売時期1969年(昭和43年)?月。上掲のノーマル912が発売された後に出たバリエーション。愛知県警と京都府警の2種のデカール付。ノーマルが絶版となった後も暫く売られていた。1980年代半ばに都内某ショップで1ダース程度、このパトカーのデットストックが出たことがあり、これはその時に入手したもの。
完成写真
白黒塗装済のボディ
愛知県警と京都府警のデカール入り
組立説明書・・・1/12はミスプリ
赤色灯は豆球で点灯
部品図
★カネヨシ1/32ポルシェ912 プラモデル
箱サイズ:横20×縦12.8×厚さ3.3cm。車両本体全長12.5cm。当時定価150円。このカネヨシ=金吉?金善?というメーカーについては情報がなく本社所在地等も全く不詳。ゼンマイ動力。箱にポルシェ912、組立説明書にはポルシェの印字があるものの、銀メッキされたボディはジャガーEタイプもどきのような造形でまるで912には見えないというC級プラモ。ポルシェコレクションとしては箱だけが命という一品。1/32で150円という販売価格からするとオイルショック後の1970年代半ばあたりの製品でしょうか。
カネヨシの謎のメーカーロゴ
中身は全くポルシェに見えない。
★オマケ: トミカリミテッド・ヴィンテージ1/64スケール ポルシェ912各種
1960年代、リアルタイムに出た912の日本製立体造形物は今井のプラモと青眞商店(アオシン)のブリキがありましたが、それから40年以上を経て旧車として出たポルシェ912の日本のメーカーによる立体造形物。ノーマルは赤が1965年式、緑が1967年式。実車通りにリアエンジンフードの912バッチの書体や位置を変えるなどされています。パトカーはTLV発売5周年の神奈川県警仕様や1/43スケールのレイズ製も出ています。TLVの中で911/912は何故か高人気。買い逃すとプレミアが付きやすいので注意。
TLVらしい年式違いのキッチリした造り分け
★今井科学1/21ポルシェ912 日本初の911系プラモ ~プラモデル・コレクションから 003
★1975年カラヤンのポルシェ911ターボRS ~ ポルシェを愛したカラヤン
★もう今日で9月も終わりですね。今年も4分の3が過ぎて残り3ヵ月だなんて早いですよね。実はこの週末は都内某所でライブがあり、時間が取れず記事の更新が難しい状況です。でも週末1回更新のペースをなるべく崩したくないので、つい先日カラヤン特注ポルシェの1/43ミニカーが手元に届いたことから、カラヤンのポルシェについてサクっとアップしておきますNE☆☆
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★ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日-1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。生年の1908年は和暦では明治41年、没年の1989年は昭和64年=平成元年である。
1955年(昭和30年)より亡くなった1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界においては最も著名な人物の1人である。
★日本でもカラヤンの人気は高く、指揮者の代名詞としてクラシック・ファンのみならずクラシック音楽に無縁の一般大衆にまでその名が知られるところとなった。
中でもカラヤンの「運命」と「未完成」をカップリングしたアナログLPレコードは日本のクラシック・レコードとしては異例の約150万枚を売り上げた。
カラヤンはスピード狂としても知られ、自動車の運転はF1ドライバーのニキ・ラウダ直伝、スキーでは直滑降の名手としてアルプスのとある山小屋の主人から「アルプスで1番早く滑るダンナ」と呼ばれていた。
★カラヤンは自動車の世界に於いてはポルシェをこよなく愛した。
1950年代よりポルシェ356、550スパイダー、歴代911(カレラRS・ターボを含む)、80歳を過ぎた晩年まで愛用した赤い959に至るまで、妥協を許さない完璧主義という点に於いて、音楽に取り組む姿勢が完璧であったことでも有名なカラヤンとポルシェのクルマ造りの在り方とがピタリと合い、またポルシェ特有の丸味を帯びた柔らかく美しいデザインが音楽の美を知り尽くしたカラヤンの琴線に触れたであろうことは想像に難くはない。カラヤンは同時並行で複数のポルシェを所有し、また同時にポルシェ以外にメルセデス300SL、フェラーリ275GTB、ランチアストラトス、アウディクワトロ、ミニクーパー、ロールスやメルセデスのリムジン等も所有していた。リムジンは言うまでもなく、カラヤン自身は運転をせずショーファー・ドリブンでコンサートホールに乗り付ける用途に使用されたようである。
●カラヤンと1955年ポルシェ356Aスピードスター
(以下、実車画像は全てポルシェAG保管)
●カラヤンとポルシェ550スパイダー
●カラヤン晩年の愛車 赤いポルシェ959
★カラヤン特注 1975年ポルシェ911ターボRS
1974年にカラヤンが発注し、ポルシェAGが初期の911ターボをベースにカレラRSRのレーシング・シャシー、レーシング・サスペンション、ビッグバンパータイプのカレラ RSボディを纏ったワンオフの特注モデル。カラーリングは1974 年のル・マン 24 時間で 2 位に入賞した 911 カレラ RSR ターボ 2.1 のマルティニ・レーシング・デザインを採用した派手なもので、カラヤンの 1 台のためだけにポルシェは意匠の特別使用許可を採ったという。しかし、カラヤンは1975年から1980年までの5年間で僅か3000キロしか走らせず、現在は6代目のオーナーがあたかも美術品のように大切に保管しているという。
リヤエンジンフードにはカラヤン(Karajan) のネームバッチが付く。
●スパーク1/43スケール 1975年 ポルシェ911ターボRSヘルベルト・フォン・カラヤン特注車
全長10㎝。レジン製。ポルシェミュージアム特注品。品番MAP 020 613 14。未輸入品ながら幾つかのミニカーショップが独自に極く少数を輸入している。独自輸入された際の国内販売価格は11000円~13000円前後。一緒に写っているライトグリーンの911ターボはミニチャンプス製。
パッケージは白
★オマケ(その1): ベルリンフィル カラヤン指揮ベートーベン ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61
1984年02月18日・ベルリンフィルハーモニーホールにて。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮・ベルリンフィルハーモニー管弦楽団・アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
この曲、実は今年3月に亡くなった父の愛聴曲で、私が子供の頃、休日にはいつも家でレコードをかけていたので私もこの曲は耳タコになる程聴いています。
★オマケ(その2): 永大グリップテクニカ12番 1/28スケール ポルシェ930ターボ
全長15.3cm。ダイキャスト製。1976年12月発売。当時定価1600円。ノーマルには画像の赤・黒以外に黄緑がある他、レーシング仕様、ラリー仕様、パトカー仕様も出ています。フェアレディ240Z、初代シビックと共に最初に市場に出たグリップテクニカ。
フル開閉アクションが嬉しいです♪
★オマケ(その3): 有限会社アオシマ文化教材社 1/66スケール ポルシェ930ターボ プラモデル
全長6.5cm。当時定価80円。発売時期1977年頃。スーパーカーブームの時期に沢山出た930ターボ、911ターボの国産プラモの中でこれは最もチープな部類ながらドア開閉アクション付のスナップキット。ポルシェのプラモデルは1980年代後半にフジミが911、356のエンジン再現付1/24スケール精密キットを怒涛のようにリリースした際には殆ど全て購入したのですが、丸30年全く作らないまま倉庫に山積みになっています(大汗)。
箱の裏が組立説明。何故かケンメリのデカール付。
★1954年 三光製作所テルヤン 幻の国産軽自動車 ~ 自動車カタログ棚から 361
★時事話題(その1): 2017年10月9日でジョン・レノンが生きていたなら何と喜寿=77歳。
★時事話題(その2): 過労自殺で電通に罰金50万円というのは電通にとっては痛くも痒くもない金額のような気がするのは私だけ?
★時事話題(その3): ユリノミクス「12のゼロ」の中の花粉症ゼロとか満員電車ゼロというのがギャグに思えてしまうのは私だけ?
★時事話題(その4): メタボ率、独身男性は既婚男性の2倍という調査結果は、やっぱり栄養のバランスのとれた食事を毎日奥さんが作ってくれる人と私みたいに高カロリーの外食ばかりしてる頭の弱い大馬鹿独身者との差なのかもですNE(大汗)。
★時事話題(その5): 高齢者雇用安定法は65歳までの雇用確保を見据え企業等に定年廃止、定年延長、再雇用の3つの選択肢の何れかを選ぶことを求めている。 現在、官庁を含め60歳以降は給与を大幅に減らす再雇用を選択するケースが80%を占め、定年を65歳以上の年齢に引き上げているケースは16%、定年制自体を廃止しているのは3%程度とのことである。今年65歳のある知人はその100社に3社程度しかない定年なしの会社におり、本人が希望し心身共に健康で仕事が通常にこなせる限りは給与も落とされずにいつまででも(本人が希望すれば死ぬまで)働けるそうである。尤もその知人の会社は総勢10数人と規模が小さく仕事に慣れた社員が1人でも欠けたらすぐに業務に支障が出るという事情もあるようだ。知人のように小さな会社ではなくとも、その人にしか出来ない特殊なスキルを持った人などは定年でバッサリ首を切られて低賃金の再雇用になることは避けられるだろう。しかし、定年廃止は超高齢化社会の日本で数少ない現役世代が大勢の高齢者を支えるという図式を変える意味で良いことではないだろうか。早く悠々自適の生活をしたいという人はいつリタイヤするのも自由、元気な限りはいつまでもバリバリ働きたいという人は正当な賃金で長く働くのも自由という社会が理想的ではないだろうか。現在でも、雇われではない会社社長、飲食業店主・各種小売店主・農業・漁業・弁護士・会計士・医師・歯科医師・画家・彫刻家・音楽家などの自営業の場合には事実上定年はなく、実際、1927年(昭和2年)生まれの旧知の弁護士は90歳になった2017年現在もまだ現役で事務所を構えて仕事をしている。
私などはこのブログにも記している趣味の自動車史や音楽関係以外には特殊な知識やスキルは何もなく、不労所得を生むビルやマンションも持っていないので、ここだけの内緒の話ですが、あと僅か2年で低賃金の再雇用になってしまうとミニカー屋を開業してコレクションを切り売りするなどして副業で補うしか収入の道がないという厳しい状況にあります。しかし、現在、2019年より段階的に公務員の定年の年齢を引き上げることが検討されており、もし公務員が65歳定年になれば日本の企業等法人の定年も65歳に引き上げられるはずです。そうなれば正社員や正規職員の場合のみという限定付きながら年金が支給される65歳までは安心して働ける社会になるのではないでしょうか。
★閑話休題
今回は「自動車カタログ棚から」シリーズの第361回記事として黎明期の軽自動車「テルヤン」をご紹介します。前回記事はカラヤンでしたが、今回はヤン繋がりで?テルヤンです(笑)。今回の記事は、黎明期の軽自動車研究の第一人者である旧知のYI氏から御提供戴いた極めて貴重な情報と画像による内容となります。
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★1955年(昭和30年)10月発売のスズライトSF、1958年(昭和33年)3月発売のスバル360より早い時期に造られた軽自動車は何れも町工場の試作品的な製品であり生産台数も少なかったため、その全貌は謎に包まれているのが逆に大きな魅力でもある。即ち、1951年(昭和26年)から1955年までに誕生したオートサンダル、NJ号、ニッケイタロー、テルヤン、バンビ号・エンゼル号など、所謂、黎明期の軽自動車と言われる一群である。
●黎明期の国産軽自動車のセールスカタログ各種
別冊モーターファン「国産車100年の軌跡」(1978年10月22日 三栄書房発行)6頁カラーグラフより。所蔵:高岸 清氏・木村 浩氏。オートサンダルだけでもカタログが5種類も発行されていることに驚く。写真中央に見えるのが今回ご紹介するテルヤン(後期型)。何れも販売網などないに等しいメーカー達だったため、セールスカタログは残っておらず入手困難なものが多い。
★2017年9月、黎明期の国産軽自動車の1つ三光製作所の製作したテルヤンの謎のベールが少々剥がされた。
テルヤンを製作した三光製作所の創業者は榎本光男氏である。その光男氏の御子息・榎本光利氏と黎明期の国産軽自動車研究家YI氏らが面会し、以下のような貴重なお話を聞き出したのである。その際にはお話を伺うだけではなく極めて貴重な「TELLYAN」のロゴ入りピストン等のエンジン・パーツの現物やエンジン図面、後期のセールスカタログも快くお譲り戴いたという。
「榎本光男氏は先の大戦時には天皇を護衛する部隊(近衛師団)に所属し、戦争末期の1944年(昭和19年)頃には満州に渡った。大陸ではフォードのトラックなどに触れる任務に就いたが、戦後、本土へ帰還すると光男氏独自のアイデアで自動車用ホーン(クラクション)を製造した。それが大当たりして当時の紳士録に名前が出る程の財を成した。その資金を元に日本初の軽自動車用水冷4気筒エンジンなど独創的な技術を用いてテルヤンを試作し箱根でテストをするまでに至った。テルヤンという車名は光男氏の光=照る=テルから採られたニックネームであった。テルヤンのボディは図面から木型をつくり繋げては叩いて文字通り1台1台手造りで職人が仕上げた。そのため、テルヤンは全車のディテールが異なっていた。ボディカラーに赤茶が見られた話もあるがそれは錆止め塗装段階のもので、完成車は淡く渋いグリーンが大半であったという。東京・神奈川を中心に千葉・埼玉といった首都圏をメインに合計30台程度が市販された(現存車両は現物未確認ながら青梅に棲息する廃車体1台のみ?)。
光男氏はテルヤンの製作には熱心だったが販売には無頓着で独自の販売店もなく、販売先は縁故・口コミがメインだったようだ。初期は1枚物ペラ、後期は2つ折の簡素なセールスカタログも一応印刷されたが一般には殆ど配布はされなかった。モーターファンなどの自動車雑誌にも広告を出さなかった。初代クラウンRSとダットサン110セダンがデビューした記念すべき1955年(昭和30年)の第2回東京モーターショー(当時の正式名称は全日本自動車ショウ)には日比谷公園のショー会場の場外にテルヤンを停めて来場者にアピールしたが、これは正式参加が間に合わなかった故の苦肉の策であった。そして1956年(昭和31年)の初頭にはテルヤンの生産を中止した。負債が出来て会社が倒産したのではなく資本が尽き自然解散した感じだったという。工場の半分は売却されたものの光男氏はまた次に榎本紙工という会社を立ち上げ、不二家のヒット商品パラソルチョコレートの包み紙の独自生産を行い再び大きな資金を得た。その次には貸ビル業を手掛けたが1964年(昭和39年)の東京オリンピックを境に借り手がなくなりビルは中央発條に売却された。そのビルは現在は解体されマンションに建て変わり、第二京浜国道(通称:ニコク)沿いに嘗て存在した三光製作所の場所の特定は可能だが、その跡地に当時の面影は全く残っていない。
その後、1966年(昭和41年)4月には品川区西戸越から大田区池上に移転して榎本製作所を設立し自動巻取り式のホースリール「HOSER」の製造を始めた。2017年現在はいすゞ自動車やGM(ゼネラルモータース)で自動車の開発に参画された榎本光利氏が榎本製作所の代表を務めている。」
【主要スペック】 1954年 三光製作所 テルヤン SK-36型 (1954 SANKOUSEISAKUSYO TELLYAN Typ.SK-36)
全長2950㎜・全幅1260㎜・全高1254㎜・ホイールベース1715㎜・車両重量350kg・ボディタイプ:荷台付ロードスター(オープン2座トラック)・FR・水冷4サイクル直列4気筒OHV360cc・最高出力13.6hp/6000rpm・最大トルク2kgm・圧縮比8.0・変速機3速MT・乗車定員2名・貨物積載量200㎏・荷台寸法:610×945×高さ270㎜・電装系6V・前後独立懸架コイルスプリングサス・最小回転半径3500㎜・登坂能力30%・制動距離8m(初速35km/h時)・燃費25km/ℓ・最高速度70km/h・販売価格39万円
●1954年 テルヤン前期と榎本光男氏
●箱根でテストするテルヤン初期試作車
●三光製作所前のテルヤン試作車
寄り目のヘッドライトが何ともユニーク。
●三光製作所前のテルヤン2台
●スペアを背負った前期型のリア
前期型のテールライトは円形が1箇所のみに付く。
●第二京浜沿い三光製作所全景
●1955年5月7日~18日 第2回東京モーターショー会場・日比谷公園前に停められた後期型テルヤン
リアに積まれたスペアカバーには三光製作所・テルヤン・軽免許等の文字が読める。
●1954年 テルヤン セールスカタログ (縦21×横25cm・日本語表記・白黒印刷・表裏1枚)
前期型カタログ(コピー)。このカタログの現物は上述のYI氏と大盛屋フリクションシリーズ1番のスバル360セカンドモデルと1対1のトレードで手放し現在は手元にはない。裏面には「世界最高水準を行く軽四輪自動車」の文字。カタログに印字された三光製作所の住所は東京都品川区西戸越2丁目866番地。
TELLYAN(テルヤン)のロゴマーク。実車のフロントマスクにはこのエンブレムが付く。
裏面
スペック
特長「自家用・一般商用・往診用・その他小運送を兼ねた万能車」
三光製作所 住所等の印字
●1955年 テルヤン セールスカタログ (縦14.5×横18.2cm・日本語表記・白黒印刷・2つ折)
「国産車100年の軌跡」に掲載されたモノと同じ後期型カタログ。テルヤンは手叩きボディのため全車が微妙に異なるが、前期型とは全く異なるボディデザイン。前後左右にスモールライトやテールライトが付き大幅に近代化した。2017年9月、この後期型カタログのみ三光製作所の創業関係者の元より多数発掘された。元々はB5判程度の1枚の紙を上下で2つ折にして配布された。
中面
スペック
エンジン
前後ディテール
裏面
★オマケ: 伊マーキュリー 1/43スケール 1954年ランチアD50・1955年フェラーリ555スーパースクァーロ
テルヤンのミニチュアは存在せず。しかし、オマケにミニカーの画像がないのは少々寂しいということでテルヤンと同時代のイタリア製F1マシーンのミニカーを2台。どちらもハンドルさえ付かない非常に素朴な造りのビンテージ・ミニカー。箱なしを安価で入手したため市場価値は不詳ながらダイキャストの冷たい質感、造形や凝縮感がとても魅力的です。1967年発行・中島 登著・保育社カラーブックス127「世界のミニカー」にもこの2台の写真が載っています。ランチアD50は1952年・1953年のF1チャンピオンとなったアルベルト・アスカリ(Alberto Ascari;1918年7月13日~1955年5月26日)のドライブで1954年の最終戦スペインGPでデビューしたマシン(最高速280km/h以上)。水中翼船のような奇異なボディ左右の張り出しは燃料タンクで前後輪間の空流を整えるエアロパーツの役割も担っていたようです。ゼッケン92のフェラーリが品番53、ゼッケン66のランチアが品番54と連番のため同時期に市場に出たミニカーと思われます。ダイキャスト製。全長はフェラーリ9.2cm、ランチア8.6cm程度。
1970年代のトミカ・タイレルF1との大きさ比較
★1975年日野KFダンプトラック ブログ6周年 ~ 自動車カタログ棚から 362
★★東日本大震災の起きた2011年(平成23年)の10月15日に始めた本ブログがお蔭様で6周年となりました☆
漸く6年というべきか?もう6年というべきか?既に10数年もブログを続けていて、しかも毎日1度は欠かさず長文の記事を更新しているといったブロ友さんに比べれば、まだまだ駆け出しですが、6年というのは生まれた子供が幼稚園の年長となり来年は小学校に上がる歳月と考えると案外長いようでもあります。その間に現実には子供も作れず(→定年が迫ったその歳で子供を作るのか?頭がおかしくなったんじゃないのか?というツッコミはなしでw)、全く無駄&無為な人生を送っている大馬鹿者ではありますが、まだまだ本ブログは細々と続けていきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします☆
★それにしても数日前までエアコンをつける暑さだったのが今日10月15日(日)の東京は最高16度、明日10月16日(月)の最高気温は13度の予報ですから、寒暖の差が猛烈ですね。数日前は半袖で過ごせたのが明日はコートを着ないと寒い位になりそうです。薄着をして風邪など引かないように気を付けたいですね☆
★閑話休題
今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第362回記事としてトミカやトミカダンディのミニカーでよく知られる1970年代の日野ダンプのカタログをご紹介します。何とか週末1更新のペースを崩さないようにアップしたいと思います☆
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★昔からミニカーコレクターで実車のカタログも集めているという人達からよく聞くのは、「ミニカーになっているクルマのカタログをメインに集める」という話です。
ミニカーマニアでも自動車の運転免許さえ持っておらず純粋にミニチュアが好きで集めていて実車にはあまり興味がないといった人も中にはいますが、大抵のミニカーマニアは実車が好きでミニカーを集めているだろうと思います。ミニカーにも実車にも独自の世界があるので、実車よりもミニカー寄り、あるいはミニカーよりも実車寄りといった個人差はあると思いますが、ミニカーマニアで実車カタログを1冊も持っていないという人は少ないのではないでしょうか。極端な場合、例えばポルシェが好きでポルシェ以外には目もくれずにポルシェのカタログとミニカーだけ集めている、スカイラインが好きでスカイラインのカタログとミニカーだけ集めている、あるいはバスが好きでバスのカタログとミニカーだけを集めているといった人もいるだろうと思います。
★私の場合、ご承知の通り一番好きなメイクスはポルシェなのですが、子供の頃(1960年代)にリアルタイムで見た自動車(主に国産車)には強烈なノスタルジーを感じて旧い国産車のミニカーやカタログは個人的にはどうしても外せないコレクション・アイテムとなっています。
1972年(昭和47年)秋のケンメリ・デビュー以降はリアルタイムでディーラーにカタログを貰いに行っていますので、1970年代以降の日本車はあまり懐かしいという感覚がなく、そのためトミーテックが1970年代以降の自動車をモデルとした「トミカリミテッド・ヴィンテージ・ネオ(以下、TLV-N)」として発売している1/64スケールのミニカーはトラック・バスを例外として購入して手元に置きたいという気持ちがあまり起こらないのです。トラック・バスは何故例外でTLV-Nのミニカーを買うのかというと、一つには1970年代以降でもトラック・バスについてはカタログをリアルタイムで貰っていないこと、もう一つには模型化された場合に大型車は迫力があって魅力的なことが要因だろうと思います。トラック・バスのカタログを私がリアルタイムに集め始めたのは1990年代以降のことで、それ以前のカタログは完全なる後追いで自動車カタログ専門店、骨董市、古書店などで入手しています。今回ご紹介するような1970年代の国産大型トラックのカタログというのは21世紀に入る頃までは市場に出ても1部精々1000円前後までで入手出来る状況だったのですが、現在はモノが出にくい上に下手をするとゼロを一つ増やした金額にまで高騰しています。安価だった頃には1970年代のトラックより1960年代以前のトラックのカタログの収集をメインとしていたため1970年代モノには目もくれなかったことを少々後悔しています。勿論、現在でもあまり市場の情勢を知らない古書店などで安価で入手出来る可能性もありますが、1970年代の国産大型車のカタログは元々リアルタイムで貰っているマニアが少ないのでモノが出にくいというのが現状だろうと思います。
★日野のキャブオーバートラックは1959年(昭和34年)3月に初代が登場し、その後10年を経た1969年(昭和44年)9月に第2世代が登場した。
この第2世代は1981年(昭和56年)5月にスーパードルフィンにフルチェンジするまで約12年のモデルライフであった。今回ご紹介するカタログは第2世代の半ばに当る1975年のKFダンプ専用。1970年代の日野大型トラック系の主なアルファベットの意味は以下の通り。
KB=後輪1軸
KF=後輪2軸
TC=前輪2軸
ZM=後輪2軸ツーデフ
HE=トラクタ・シングルデフ
HH=トラクタ・ツーデフ
KS=低床4軸
【主要スペック】 1975年日野KF301Dダンプトラック (1975 Hino KF301D dump truck)
全長7500㎜・全幅2490㎜・全高2820㎜・ホイールベース3465+1270=4735㎜・荷台長5100㎜・車重8975kg・FR(シングルデフ)・EK100型ディーゼル4サイクル直列6気筒13267cc・最高出力270ps/2300rpm・最大トルク95.0kgm/1400rpm・乗車定員3名・最大積載量10740kg・ボールナット式パワーステアリング・変速機6速MT・燃料タンク容量115ℓ・最小回転半径6900㎜・タイヤサイズ10.00-20-14PR・最高速度90km/h
●1975年7月 日野KF301D ダンプトラック 専用カタログ (A4判・日本語・8頁)
日野カタログNo.T326A。フロントグリルが大幅に変更され型式バッチがグリル向かって右上に付いた。トミカ52-1ダンプ、53-1ミキサー車、54-1タンクローリー、99-1空調車の通称「後期グリル」として有名な顔。トミカも後輪2軸のKF(またはZM)をモデル化していた。
【中頁から】
ゆとりの大物ダンプ。
EK100型赤いエンジン
インテリア
男の仕事場
ダッシュボード図解
シャシー
ティルトキャブ
外観図面
シャシー図面
裏面: スペック
●1979年2月 日野KB304D ダンプトラック 8トン積 専用カタログ (A4判・日本語2つ折4面)
日野カタログNo.T369。1976年4月の内装変更で「悠々キャビン」と称するドライバーを囲むインパネとなったタイプ。
【中面から】
ドライバーを囲む悠々キャビンに変更
スペック・図面
★オマケ(その1): トミカ52-1番 1/102スケール 1975年日野KFダンプトラック
全長7.5cm。ダイキャスト製。1stモデルは実車MC前の1973年5月発売。当時定価180~320円。画像のダンプは全てMC後の2ndモデルで紫はスーパーギフト専用色。2台の緑メタは同じに見えるが緑ウインドと黄ウインドのバリエーション。ダンプアクションとキャブティルトアクション付。
★オマケ(その2): トミカダンディ28-1番 1/70スケール 1974年日野KFダンプトラック
全長11cm。ダイキャスト製。1975年4月発売。当時定価850円。トミカ同様にダンプアクションとキャブティルトアクション付。トミカの拡大スケール版。トミカと異なり2ndグリルは造られなかった。ミキサー車、タンクローリー、セメント運搬車などバリエーション多数あり。
★オマケ(その3): 米澤玩具 1/23スケール 1975年日野KBタンクローリー
全長31㎝。プラ製。米澤コンピュータ管理番号No.127-11142。1988年発売。当時定価1400円。実車が絶版になった後に売られたプラ製玩具。ハンドルを回すとホースが伸縮するアクション付。
オマケ1・2との並び。米澤製タンクローリーが巨大であることが判ります。
★オマケ(その4): 1956年 三井精機オリエント三輪トラックTR-2型
雨の2017年10月15日(日)、第21回 クラシックカーフェスティバルin所沢の出展車。オリエントの生き残りは稀少です。
滋賀ナンバー。「滋6」の「6」は車両区分三輪を示すもの。
★オマケ(その5): 1957年 日本造機株式会社 日造NM-1型 三輪消防車
これも2017年10月15日、第21回 クラシックカーフェスティバルin所沢の出展車。長野県小諸鉄工所製。日産自動車製の水冷6気筒SVエンジン搭載。どうやら町工場が製作したワンオフに近いモデルのようです。消防車は長期使用されることが多く、一般の商用車に比べて古い車両が残りやすい環境にあります。
バーハンドル
★1925年 国産ウーズレーCP型バス・トラック ~ 自動車カタログ棚から 363
★台風21号の影響でざんざん降りの東京です。明日10月23日(月)中には日本列島を通過しそうですが、大きな災害などなければいいですよね。台風が過ぎた明日の東京は25度まで気温が上がる予報ですので寒暖の差にも要注意ですね。
★さて、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第363回記事として、こんなに古い時代の自動車には興味がないという人が多いとは思いますが、いすゞ自動車のルーツである戦前1920年代国産ウーズレーの非常に珍しいカタログをご紹介しますNE☆
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★1853年(嘉永6年)、江戸幕府が水戸藩に命じ江戸隅田川河口の石川島(現在の東京都中央区佃二丁目)に造船所を創業し西洋式軍艦「旭日丸」「千代田形」などの建造を始めたのが、現在のIHIやいすゞ自動車のルーツである。
1893年(明治26年)、東京石川島造船所株式会社に組織/商号変更した。1916年(大正5年)から1918年(大正7年)にかけての第一次世界大戦における船舶特需により巨万の利を得たことから自動車製造にも投資することを決めた。しかし、機械製造の経験はあってもいきなり自動車は造れなかったため外国メーカーとの提携の道を選ぶこととした。1910年代の東京ではフィアットとウーズレー(WOLSELEY)が最も売れていたことから、両社に提携条件について打診し、フィアット100万円、ウーズレー80万円という見積もりが出たことから安価なウーズレーとの提携を結んだ。80万円は10年賦で年英貨8000ポンドずつ毎年返済するというものであった(現在の貨幣価値に換算すると大雑把に現在は1000倍の金額)。
★東京市深川区富川町に石川島造船所自動車工場が新設され、1920年(大正9年)よりウーズレーA9型乗用車の組立てが開始された。
木型は英国、工作機械類は米国から調達し、ウーズレー社からは技術指導のためペニオール技師が1年契約で日本に派遣されてきたが、精密機械工業の技術レベルの低かった当時の日本では組立ては困難を極め、A9型の1号車の完成は1922年(大正11年)の暮れも押し迫った12月31日のことであった。ところが、1台当たりの製造原価は15000~16000円となり、当時、梁瀬が完成車として輸入していた米車ビュイックが6000~7000円で売られていたため、石川島製のウーズレーは売れる道理もなかった。石川島造船所ではとても太刀打ち出来ないと判断しA9型乗用車生産の中止を決断した。
★大正10年代、陸軍省は軍用自動車補助法による保護自動車への補助金として毎年1000万円もの予算を大蔵省から貰っていた。石川島はこの補助金の出る保護自動車としての認定を受ければ安価に販売できることを考え、ウーズレー社とCP型トラックの製造販売契約を結んだ。
ウーズレー社からCP型の実車サンプルや図面が届いたのが1923年(大正12年)3月のことであった。ところが、この年の9月1日に関東大震災が起こり深川区富川町の石川島造船所自動車工場は甚大な被害を受け、A9型乗用車の売れ残り50台とサンプルのCP型トラック1台が全て失われた。幸いにして青バスにサンプルとして貸してあった1台が無事生き残っていたことから、この1台により何とか生産に向けて再出発をした。翌1924年(大正13年)3月20日に漸く日本製のウーズレーCP型トラック2台が完成し陸軍省の保護自動車認定試験を受ける運びとなった。試験はまず代々木練兵場での定地検査、7日間の北関東地域への路上運行試験を経て、最後に赤坂の江戸見坂で登坂テストを受け、2台共に試験検定証書が下付された。ウーズレーとの提携契約を解除した1927年(昭和2年)までにCP型は240台以上が生産された。
【主要スペック】 1924年ウーズレーCP型トラック (1924 Wolseley Type.CP Truck)
全長5410㎜・全幅1830㎜・全高2250㎜・ホイールベース3660㎜・シャシー重量1672kg・FR・水冷直列4気筒SV3100cc・最高出力26hp・変速機4速MT・乗車定員2名・最大積載量1500kg・燃料タンク容量75ℓ・最高速度45km/h・販売価格7500円
●1925年 東京石川島造船所自動車工場 ウーズレーCP型 総合カタログ (縦24.5×横18.5cm・日本語3つ折6面)
非常に珍しい石川島製ウーズレーCP型のカタログ。実際に使用されている車両の写真が多数掲載されていることから、生産を開始した1924年ではなく1925年乃至1926年の発行と推定。CP型よりホイールベースの短いCG型も掲載されています。石川島では早くからクレーン(起重機)を製作していただけに、クレーン車が特に力を入れて紹介されています。カタログに印字されている内容も貴重な国産車史料と思われることから、画像だけでなく文字部分も出来るだけ記載することとします。ボデーに関する説明文の横に「御申込み次第、型録呈上」との印字があることから、ボデーメーカー発行(脇田自動車と汽車製造の2社)のCP型(及びCG型)シャシーに架装した車体のカタログも発行されているものと思われます。
秀逸な表紙画。表裏両面が表紙にも見える。バスが描かれた面のみ東京石川島造船所自動車工場の印字。
◎トラックとバスシャシーは最早や外国品を輸入する必要はありません!!
我社が毎年数百輌製作して居りますウーズレー型自動車は東京は元より各地に活動して居りますが、その成績は寧ろ外国車を凌駕する優秀なことは一般御使用者に依って証明されて居ります。然しまだまだ外国車の輸入数の方が我社の製作台数より遥かに多いのは舶来という言葉に惑わされている結果で決して国産品が劣っている証拠とはなりません。一般に国産車が多数使用されれば自然その知識も発達して、我国の工業も発達し、年々多額の金を外国に流出する事も防御されて所謂自給自足の路も開け価格も低下して来なければなりません。我社の状態を観ましても創業時代からみますと現今使用材料の如きも殆ど内地製品で、電気品とその他数種の外国部品を使用するのみで立派に製作出来るのであります。価格も既に2,3回の値下げを断行致しまして、研究も毎日のように続けて行っております。故に1輌でも多く皆様がウーズレー型自動車を御使用下さいますならば、それだけ国産品の奨励となって富国の基となり国防の礎となるのであります。何故かと申しますに、ウーズレー型自動車は我国陸軍保護自動車の資格を持って居りまして、政府はウーズレー型自動車を民間で使用する人に対しては多額の補助金を下附せられて使用車の保護をせられる規定があります。
◎ボデーは如何様にも御相談に応じられます!!
車室の製作は東京市内で最も信用あり又経験ある我社の特約、脇田自動車 車室工場及び汽車製造株式会社に命じて、御要求に応じ新たな設計も製作もし、値段も出来るだけ経済的な高級車室を製作致させます。
◎ウーズレー型保護自動車の特徴!!
1.陸軍保護自動車である故に機能完全で耐久力に富む。
1.保護自動車には多額の補助金を下附せらるる特典がある。
1.保護期間は5ヶ年の長期に亘る。
1.瓦斯倫(ガソリン)及び滑油類(オイル)の消費量少なく経済なる点。
1.工作方法厳重で狭範式リミットゲージ・システムを採用せり。
1.故に同種の車輛に対しては完全に部品の交換が出来る。
1.部品の貯蔵豊富で迅速に且つ価格低廉な事。
1.国産奨励を実行しつつ国防の充実を計り得る事。
1.車体の設計自由でその応用範囲広き事。
(株)東京石川島造船所自動車工場の住所は東京市京橋区新佃西町3の5
・ウーズレーCP型18人乗り乗合自動車「東京市電気局」
シティーバス(市街乗合)として乗心地よく経営上の利益多大な陸軍己種保護特殊自動車で東京市電気局、大阪市電及び東京乗合自動車に納入し好成績を挙げて居ります。
・ウーズレーCP型20人乗り乗合自動車
シティーバスのみならずパーラーカー(遊覧自動車=観光バス)等にも非常に有利で甲府市山梨開発協会では収容力も大きく己種保護自動車の補助金とに依って多大の効果を収めて居られます。
・ウーズレーCP型1屯半保護自動車 「東京市電気局」
東京市電気局の「架線修理自動車」は従来外国車を使用せられて居たのが今般我社製作丙種保護自動車を採用せられ、櫓昇降用のホイストも三菱製を応用した国産車で益々この種の応用範囲を広めて来ました。
・ウーズレーCG型14人乗り乗合自動車
市外地及び地方新開地方面には成るべく小型で収容力の大きい軽快な高級車を要するので玉川電気、伊那電鉄、横須賀等に採用せられて外国車に優る成績を挙げて居ります。保護自動車の種類は戉種に属して居ります。
・ウーズレーCP型1屯半起重機自動車(クレーン車)
我社の起重機製作は既に20有余年の歴史と経験を以て、これを自動車に応用した我国最初の試みであります。大蔵省、海軍省に数輌上納致しましたが外国製品に優る好成績を挙げて居ります。
余程自信があったのか、このクレーン車のみスペックが記載されている。
・ウーズレーCP型重油輸送自動車「日本石油タンクローリー」
日本石油株式会社の御用命を蒙って製作した車で拾石の油類を輸送する事が出来て特殊保温装置を施してあります。車体が丙種の保護を受けて居ります。
・ウーズレーCG型1屯貨物自動車「汐留駅運送(株)」
鉄道荷物の小口運送等には是非必要な車で汐留駅運送株式会社では我社の1屯半車と共に10数輌一時に御採用になり、所謂戸口から戸口迄のモットーに適はしく盛んに市内を活動して居ります。
・ウーズレーCP型1屯半貨物自動車「日本染繊(株)」
丙種保護自動車に属し一般的な貨物自動車でありますが日本染繊株式会社では特に荷框を深くしまして繊物等の運搬に便利な設計を採られました。三越呉服店へは総箱型が納入してあります。
・ウーズレーCP型1屯半貨物自動車「鉄道省」
鉄道省その他官省に上納した場合は保護自動車の適用は受けませんが、これが民間用ならば丙種に属するのであります。この車は鉄骨鉄板張で非常に丈夫な貨物車であります。
●1924年石川島造船所自動車工場ウーズレーCP型トラック 保存車両
2013年第43回東京モーターショー会場にて。国立科学博物館に保存されていた生産第1号車を1991年(平成3年)にいすゞが譲り受けた車両で現在は藤沢のいすゞプラザに展示。
運転席
●1925年ウーズレーCP型「東京市営バス」の実働写真
戦前の日本で車輪に装着が義務付けられていた泥はね防止器が付いています。
★オマケ(その1): 津川洋行モデルプランニング 1/80スケール いすゞTX41トラック
ウーズレーのミニカーはないため、いすゞ車のミニカーをオマケに。全長9cm。ホワイトメタル製。定価5800円(税抜)。後ろに写っているのは遠藤商店製キハ02限定色。
●この16番スケールの津川製をベースにした極めて秀逸な「PINE CONE PRODUCTS」(アメブロネーム幌歌内様) 製作の日通仕様、トラック、ダンプを配したHOj 1/87スケール軌間12mmの鉄道ジオラマ。日本型鉄道模型の究極の世界という感じがします。
★オマケ(その2): 津川洋行モデルプランニング 1/150スケール いすゞTX日通トラック幌付
全長5cm。ホワイトメタル製。定価は2000円前後?津川のNサイズTX日通はなかなか良い雰囲気です。後ろに写っているのは初期トミックスの香港製キハ02。
★オマケ(その3): トミカ20-?番 2017年1/136スケール いすゞエルガ都営バス
全長7.7cm。ダイキャスト製。定価450円(税抜)。2017年10月21日(土)発売新製品。タンポ印刷ではなく付属のシールを貼りつけて完成させる形ですが、錦糸町駅の行先表示がなかなか良い感じです。
★オマケ(その4): 1950~1960年代の英国ウーズレー乗用車カタログ
今回の記事に際してウーズレーのカタログを探してみたところ戦後BMC時代のバッヂエンジニアリング全盛期のウーズレーのカタログ20部程度が手許にありました。しかし、ウーズレーは日本ではマイナーで人気がなくカタログはヤフオクなどの中古カタログ市場に出てきても入手したいという人もいないのか半世紀以上の時を経ていても安価なのがちょっと可哀相です。
★第45回東京モーターショー2017 ~ 1955年ポルシェ356スピードスター
★実はワタシ、今日10月25日は誕生日なんです。ここだけの話なんですが、ちょっと人には言えないような高齢独身者となってしまいまして、定年退職までもう残り2年しかありません(大汗)。しかし、誰もが等しく歳をとるとはいえ歳をとるのは嫌なものですよね~。自分では18歳位の時と心の中は殆ど変っていない気がするのに、どんどん歳をとってしまうという(汗)。もし自分に子供がいて子供の成長と共に自分も歳をとるのだったら、自分が歳をとることが逆に嬉しくなるのかもしれませんね。
★さて今日は東京モーターショーを見てきましたので、簡単に気になったクルマをご紹介することとしますNE!
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★第1回の開催が1954年(昭和29年)で既に63年前にも関わらず、今年2017年が第63回にはならずに第45回なのは、オイルショック後の1975年(昭和50年)の第21回から隔年開催となったため(途中33回から39回までは乗用車と商用車を交互に開催した期間もあり)。
私が最初に東京モーターショーに行ったのは1962年(昭和37年)の第9回の晴海で今も写真が残っています。その後は殆ど毎回、行っています。子供の頃は家族で、1971年(昭和46年)小6の時からはクルマ好きのクラスメートと一緒に。現在は大抵一人で行っています(汗)。
★1960年代後半、来場者が毎年のように150万人を超えていた東京モーターショーも前回2015年の第44回は81万人だったそうです。
何と全盛期の半分近くまで減っていることになります。若者のクルマ離れだけでなく、昔のようにクルマが日本人にとってワクワクするような、ときめくシロモノではなく、身近過ぎてつまらない夢を持ちにくいモノになってしまったことも原因なのでしょうね。
★今回の東京モーターショーは前回より更に出展メーカーが減り、米国メーカーはついに1社も参加がなく会場のスペースも減っているように思います。
自動車カタログの蒐集分野の一つに「モーターショーカタログ」というものがあります。モーターショーカタログは大量に配布されることが多いため残っている数が多く蒐集はしやすいと思いますが、その紙に印刷したモーターショーで配布するために制作されるカタログも明らかに減ってきています。紙に印刷したカタログ愛好家の1人としては寂しい限りですが、紙に印刷したモーターショーカタログも何れは消える時が来るのかもしれません。
●1955年ポルシェ356スピードスター
ポルシェ・ミュージアム保存車。1955年秋に356Aとなる直前の1500ccスピードスター。今回のショーにこの356を展示した意図は何なのかブースで聞き忘れましたが、東京モーターショーに旧いポルシェが展示されるのは初めてのことではないでしょうか。






フロントフェンダー後ろに付いたボディメーカー・ロイター(Reutter)のバッチ。ロイターはポルシェのボディ製造を1963年に止めたあと、シートメーカーで有名な「レカロ」に転業しています。

●ポルシェ911GT3&GT3カップ
ノーマルGT3は4ℓ・500ps最高速318km/hで2115万円。

●ポルシェ・パナメーラ・スポーツツーリスモ
2018年発売予定。4枚ドアのポルシェは個人的には興味がないのですが、ワゴンとかシューティングブレークとか言わずスポーツツーリスモと言うところがポルシェらしい感じがします。

●新型ポルシェ・カイエン (3代目)
これも2018年発売予定。カイエンに乗ると国産SUVは走りのレベルが違い過ぎて乗れなくなるとよく聞きますが、個人的には全く興味のないポルシェ。

●新型センチュリー(3代目)
2018年発売予定。皇太子専用車、首相専用車などもこの3代目に移行するのでしょうね。


●新型クラウン・コンセプト(15代目)
2018年夏発売?マジェスタとクラウンシリーズは1本化されるのでしょうか。


●トヨタGRハイブリッド スポーツコンセプト
86ベースながら前後の印象は大きく異なります。ヨタハチやS660のようにルーフが外せるエアロトップ。


●ダイハツDNコンパーノ
1960年代のコンパーノ・ベルリーナをモチーフとした現代版。個人的には今回のショーではこのクルマが一番良いなと思いました。フロントエンレムまで往年のコンパーノと似たデザインとなっています。


●1964年ダイハツ・コンパーノ・ベルリーナ
DNコンパーノと一緒に展示された60年代のオリジナル。個人的には60年代のクルマの方が魅力的に見えます。

●メルセデス・AMG プロジェクトワン
1006ps最高速350km/hのスーパースポーツ。275台限定。国内販売価格約3億円で既に予約完売しているそうなので、例え宝くじが当たったとしても今からでは買えません。


●BMWコンセプトZ4
開発中の新型スープラの兄弟車。


●フォルクスワーゲン I.D.バズ
往年のタイプ2を現代的にアレンジしたコンセプトカー。電気自動車。


★オマケ(その1): ミニチャンプス1/43スケール1956年ポルシェ356Aスピードスター
全長8.7cm・ダイキャスト製。品番430 065532。今回のモーターショー展示車と同じく、丸型テールライトが片側に2個ずつ付いたモデル。カラバリ多数あり。奥のシルバーは1980年代初頭の日本製カドーNo.7.ポルシェ356Aレーシング(ホワイトメタル製)。


★オマケ(その2): モーターショー会場限定販売のミニカーなど
●トミカブースのトヨタ86レーシング
トミカブースでモーターショー限定やモーターショー先行発売のトミカを買うには、備え付けの商品一覧表に自分で買いたい数(1種類3台まで)を記入してレジへ持っていく形になっています。

●UDトラックス
ダンプなどアクション付でなかなか魅力的ですが、お値段はどれも5桁以上です。

●いすゞ自動車

●日野自動車

●マツダ
コスモスポーツは1/43スケールでエブロ等既存製品の金型ではないようです。

★オマケ(その3): トミカNo.27-?番 1/62スケール ニッサンNV200タクシー「日産交通」
全長7.2cm。ダイキャスト製。日産車体ブースのプレス向け来場記念品が前回・前々回のキャラバンから変更になっていました。



★1964年日本模型ニチモ1/2000スケール国立競技場 ~ プラモデル・コレクションから004
★東京でも昨日10月30日(月)は木枯らし1号が吹いて、朝晩は寒くなりましたね。もう明日から11月、今年も残り何と僅か2ヵ月ですね。
台風22号が通過して東京もざんざん降りの雨だった一昨日の日曜日に1記事アップするつもりが時間取れず出来ませんでした。本ブログは土日1回更新が原則ですが先週はイレギュラーに週半ばの平日に東京モーターショーの記事(コンパニオンの写真を追加しました!)をアップしたので、もう更新は止めておこうかとも思いましたが、10月の記事のアップ数が現在「4」=「死を意味する数」のためどうも縁起が悪いので、ヤッツケ記事になりますが10月最後の5回目の記事を簡単にアップしておきますNE☆
★2020年の東京オリンピックもつい先日、開会式まで1000日となり、カウントダウンが始まりましたが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで思い出すのは、何といってもマラソンのアベベです。1960年のローマ・オリンピックに続き2大会連続の世界記録で優勝しています。東京オリンピックでのアベベのタイムは2時間12分11秒でしたが、半世紀以上を経た現在の世界記録は2時間2分と何と10分も速くなっています。現在は2時間5分を切らなければ世界のトップクラスにはなれないそうですが、市民ランナーでは所謂サブスリーと言われる3時間の壁を破ることさえ相当にハードルが高いようです。アメブロ・ユーザーでサブスリーとなると初代セリカをこよなく愛するセリカさんなど極く一握りのアスリートだけだろうと思います。世界のトップクラスより1時間遅いサブスリーといっても42キロ以上を3時間で走りきるということは、1キロを4分程度で走る計算となります。サブスリーのスピードでも普通の人なら42キロを自転車で走っても疲れてしまいそうですので、2時間強で走りきるトップクラスが如何に速いかが判りますNE。
★東京オリンピックは前回の1964年から2020年まで56年のインターバルがありましたので、もし仮に2020年の次の東京オリンピックも同じインターバルで2020年から56年後の2076年に開催となると、もうワタシは117歳位となり不老不死の薬でも出来ない限り生きていませんが、現在20代以下位の世代の人は2020年の次の東京オリンピックも見られる可能性がありますNE ☆
★閑話休題
今回はプラモデル・コレクションの第4回として1964年の第18回東京オリンピックで使用された国立競技場の日本模型(ニチモ)製プラモデルを御紹介しますNE☆☆
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★栃木県佐野市久保町135に現存する日本模型株式会社(=Nichimo co.,ltd)は、1951年(昭和26年)に日本模型航空機工業として創業し、当初はゴム動力の飛行機の製造をメインとし、最初の国産プラモデルと云われるマルサン商店「ノーチラス号」が発売された翌年の1959年(昭和34年)にプラモデル業界に進出して外国製キットのコピーではない自社開発の自動浮沈装置付きのプラモデル「伊号潜水鑑」を発売した。
その後、自社オリジナルのSF戦車を始め、スケールモデルの1/20・1/12カーモデル、1/120~1/48飛行機モデル、1/30・1/35電動リモコン戦車モデル、1/8ミュージックシリーズ(ギターやドラムス等の楽器)など魅力ある製品を数多く世に送り出した。オイルショック前の1973年(昭和48年)当時、社内に設計開発、金型の製作、成形、出荷という一貫体制を整え、AFVブームや安定したスケールモデル、大きさを30cmに統一した「30㎝シリーズ」などの艦船模型の人気が継続し年間売り上げは約10億円に達してプラモデル業界で25%ものシェアーを得る大手プラモデル・メーカーに成長した。1980年代半ばから平成に入る頃までにはプラモデルの自社での新規商品開発を取りやめ、過去の金型による再販をメインとしていたが、2013年(平成25年)9月には惜しくもプラモデル製造業務からは撤退し、現在は模型以外の一般的なプラスチック成型製品の製造会社として存続している。しかし、2017年10月現在、日本模型株式会社のホームページはWeb上には見当たらず、現在の日本模型株式会社の詳細な状況は不明である。
(以上、ウィキペディアより抜粋して再構成)
★日本模型 1/2000スケール 第18回オリンピック東京大会メインスタジアム国立競技場 プラモデル
・発売時期: 1964年(昭和39年)
・販売当時価格: 250円
・箱サイズ: 縦20×横30.5×厚さ4cm
・本体ベースサイズ: 横約18.5×縦約18cm
★日本模型(ニチモ)のプラモデルの中でも異色のキット。
東京オリンピック人気に便乗したキットで生産期間が1964年の東京オリンピックの前後1~2年程度と短かかったと思われる割には戦車・飛行機・自動車等の乗物キットに比べ売れなかったためか、1960年代のプラモデルとしては比較的現存しています。国立競技場のプラモデルは三和模型もしくは東京プラモからも出ていたと思います(それも以前入手しましたが、どこに仕舞い込んだのか残念ながら現在行方不明です)。
1960年代、建築系プラモとしては東京タワー、霞が関ビル、国会議事堂、三和の灯台、三共の世界の家シリーズや風車、フジミ模型の姫路城等のお城シリーズもありましたが、超巨大な建造物の周辺を含めた箱庭的な国立競技場のキットは異色です。箱庭的なキットとしては1980年代末に出た童友社の東京ドーム「ビッグエッグ」のプラモデルなんていうのもありました。
このキットは1/2000スケールですから25m級の鉄道車両でも12ミリ位のサイズとなり、10両編成の国電なら12㎝程度となる計算です。4~5mの自動車なら2ミリ強位の豆粒サイズとなる計算です。
国産プラモデルは1960年代より輸出向けにはパッケージ・組立説明書共に英文に差し替えて別に作られたケースも多い中で、このキットでは国内向け・輸出向け双方に対応できるようパッケージ・組立説明書共に日本語と英語が併記されています。
英文サイド
日本語サイド
箱の日本語解説箇所
競技場中央のトラック部分や電光掲示板はデカール
組立説明書
★オマケ(その1): 1964年 東京オリンピック 国立競技場での開会式 入場行進
★オマケ(その2): 1964年 東京オリンピックに向けて変貌する東京
いすゞベレルなど当時のクルマも多数登場する必見映像。
★オマケ(その3): 米澤玩具 ダイヤペット134番 1/40スケール 1965年ニッサン・セドリック警視庁パトカー
オマケにミニカーなしは寂しいということで最後に1台。全長11.5㎝。アンチモニー製。1965年10月発売。当時定価380円。1964年の東京オリンピック開催直前の1964年9月にマイナーチェンジを受けた初代セドリック最終型をベースとしたパトカーのミニカー。大盛屋の金型を改修して1965年型グリルとしたモデル。大盛屋の1964年セドリック警視庁パトカーは以前オークションで150万円の高値を付けたことがありますが、このパトカーもダイヤペットの中では生産数が少なく入手困難な1台です。
★1961年田宮模型 ミゼットハウス 大和ハウス ~ プラモデル・コレクションから 005
★11月3日(金)・4日(土)・5日(日)と三連休という人も多いことと思います。ワタシも昨日は往復500km程度走ってきましたが、ワインディング・ロードを駆け抜けて標高の高い場所に行くとジャンパーを着ても寒い位で自家用車の車内では暖房を付けていたのが、東京へ戻ると半袖でないと暑い位の陽気で今度は自家用車の車内では冷房を付けるという驚天動地の1日であったりもしましたYO☆
★サイバーエージェント(藤田 晋社長:1973年福井生れ)の運営するアメーバ・ブログ(アメブロ)の中の「なう」の利用が2017年11月6日(月)午前11時で出来なくなり過去の投稿も全て消えるそうです。ワタシはブログ記事の方は週1程度のアップでも「なう」には1日10回以上、出張中など時には写真も付けてアップしてきましたので、全て削除になるというのはビックリです。何の予告もなしに「なう」を見たり投稿するためのリンクは消されており11月4日現在、既に「なう」の使用は難しい状況です。「なう」の中止は恐らく利用者が少ない所為だろうと思いますが、「なう」なんて消えてもアメブロの記事が削除にならなければ全然問題なしという人が多いでしょうね。寧ろ、そんなに頻回に「なう」をアップしたいのなら「シンプログ」(Simplog)としてアメブロ記事をガンガンアップしてくださいと言われそうですよNE☆
★閑話休題
今回はまた簡単なやっつけ記事となりますが、「プラモデル・コレクションから」シリーズ第5回として田宮模型(現タミヤ)の珍品「ミゼットハウス」をご紹介します。ダイハツ・ミゼットではなく家のミゼットです。このキット、既にプラモマニアで作詞家のエンドケイプさんが公式ブログで紹介されており、本ブログでアップしても二番煎じとなってしまうためアップする価値は薄いとも言えますが、多少なりともエンドケイプさんとは切り口を変えてアップすることとしますNE☆☆
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★「ミゼットハウス」とは、大和ハウス工業が1959年(昭和34年)10月に発売したプレハブ住宅の商品名である。
1955年(昭和30年)4月5日に大和ハウス工業株式会社(DAIWA HOUSE INDUSTRY CO., LTD.)を設立した石橋信夫氏(1921年9月9日-2003年2月21日)がアユ釣りに出かけた際に川原で日が暮れても遊んでいる子供達から「家に帰っても自分の部屋もないんだ」という言葉を聞き、安く庭に独立して建てられる子供部屋を作ろうと思いつき、坪単価4万円以下、3時間以内で建てられることを条件として開発に取り掛かり誕生したのが「ミゼットハウス」である。これが本邦初の一戸建てプレハブ住宅となった。当初のミゼットハウスは基礎がコンクリートで4畳半(販売価格が10万8000円)と6畳(同11万8000円)の2種があり、全国27カ所のデパートにて展示販売するなどして大ヒット商品となった。その後、「トイレを付けてほしい、台所がほしい」といった要望を受け、新婚世帯向けの「スーパー・ミゼットハウス」が開発され、1962年(昭和37年)には本格的な1戸建てプレハブ住宅として住宅金融公庫融資対象住宅としての認定も受けた「ダイワハウスA型」が発売された。
★田宮模型 ミゼットハウス 発砲スチロール製 組立キット
木製キットからプラモデルに移行する過程で生まれた2ミリ厚の発砲スチロールで成形されたパーツを組み立てるキット。あのタミヤのプラモ以前のキットということで歴史的な価値はあるとしても、模型としての魅力は「?」と思います。田宮俊作氏によれば全く売れなかったキットとのことで、パッケージには「ハウス モデル シリーズ」の印字があるものの、このキット以外は発売されていないようです。「予備材が入っていますから家具などを作りましょう」、「庭の花壇には、小石や砂を撒いて適当に小枝や草を(拾ってきて)差します」といった説明書の記載が笑いを誘います。模型素材としての2ミリ厚の発砲スチロールは、あまりにも弱く少し力を加えただけでもポキポキと折れてしまいます。もし完成させても誤って踏んづけたら一発で家屋全壊、展示ケースなどに入れないで長期間保存することは容易ではなかったと思われます。
・発売時期: 1961年(昭和36年)
・箱サイズ:縦13.2×横20.5×高さ3.6cm
・縮尺: 1/43程度
・素材: 発砲スチロール2ミリ厚
・当時定価: 不明
・購入価格: 300円
・購入場所: 吉祥寺ハモニカ横丁 歌川模型
・購入時期: 1990年(平成2年)頃
・2017年現在の市場評価価格: 3万2500円(オークファンで調べたところ過去10年でヤフオク出品は1回のみ)
塩化ビニール透明板のガラスパーツを除き、パーツは全て発砲スチロール製
組立説明図
工作の注意
部品表
完成写真
●季刊誌「プレハブ」第3号 1964年秋 (縦20×横20.5cm・74頁)
発行元は株式会社プレハブ研究社(大阪市南区西清水町)との記載があり、裏表紙には定価100円の印字があるが、恐らく実質的には大和ハウスの販促用広報誌。この1964年秋が第3号で季刊なので、第1号は64年春と思われる(何号まで続いたのかは不明)。自動車メーカーの一般向け広報誌は収集しているマニアもいて市場価値があるため捨てられずに残る例も多いが、こうした住宅メーカーの旧い広報誌を集めている人はまずいないと思われるため後世に残らないのではないだろうか(国立国会図書館に納本されているか否かは未調査)。記事の内容は、プレハブ標準プラン特集、プレハブ住宅の間取りの研究、子供のしつけ座談会、家と土地購入のための資金作りの心構え、1964年東京オリンピック日本のメダル獲得予想、人生50年の時代が終わり伸びた日本人の平均寿命(と言っても1964年当時は2017年現在より10~15歳若い、男性68歳、女性72歳)等と盛り沢山。
【中頁から】
大和ハウス標準プラン: 24.12坪:A型207万円・B型184万円、28.94坪:A型236万円・B型209万円 (註: A型はアルミ屋根、B型は亜鉛屋根)
マルサンの救急車等のブリキ玩具で遊ぶ子どもと美人で若いお母さん。しかし、このお母さんもこの冊子が発行された1964年時点では25歳だったとしても53年の時を経た2017年現在では78歳となられている計算です。
初代310ブルーバードに乗って一家でピクニック。またまた綺麗なお母さん登場。
★オマケ(その1): 東京シャープ模型社 2台入り戦車「デストロイヤー・M-42」プラモデル
ミゼットハウスのキットだけではどうにも寂しいということで、乗物系のB級プラモを最後に2つ。箱サイズは、縦15.5×横22.2×厚さ3.2cm。戦車全長:約10cm。スケールは1/48程度でしょうか。当時定価150円。東京シャープ模型社の所在地は東京都足立区千住緑町2-29と組立説明書に印字。箱絵(Box Art)はなかなか良い雰囲気です。モーターでもゼンマイでもなく、ゴム動力。まともに動くように作るだけでもハードルは高そうです。東京シャープは2個入りとしてお買い得感で子供を釣ったと思われるキットを飛行機モデルでも出していました。2台の戦車は何れも全くモールドが異なります。M42ダスター自走高射機関砲(M42 40mm SPAAG 「Duster」)はアメリカ製で日本の陸上自衛隊でも1960年(昭和35年)から1994年(平成6年)まで22両が使用されたようです。
左右に1両ずつ入ったキット中味
組立説明図
★オマケ(その2): 東京シャープ模型社 ヤマハ305サイドカー プラモデル
これもオマケ1と同様に東京シャープのB級プラモ。箱サイズは、縦15.5×横22.3×厚さ3.6cm。バイクの全長12cm程度(スケール1/16程度)。当時定価150円。サイドカーレースシリーズNo.2。No.1はホンダ450サイドカー。ヤマハ305というのは、全然似ていない気がしますが1965年のヤマハYM1がモデルなのでしょうか。空色と赤のケバいモールド色がB級感を増幅させています。
空色と赤のパーツ
組立説明図
★1967年510ブルーバードSSS 栄光への5000キロ ~ 自動車カタログ棚から 364
★東京電力の退職金支給額は平均4000万円とのことで、これは世の中の標準からすると相当恵まれているように思います。還暦で霞が関の中央官庁を退職した知人が、「ボクは退職金が4000万円にはちょっと届かなかった。なのにさ、次官にまでなった同期は2倍位貰っているからね。世の中、全く格差社会だよね~。」などと話していましたが、それは上ばかり見ているからであって、退職金が4000万近く出るという知人は十分恵まれている方だろうと思います。世の中、自営業であればそもそも退職金なんてない訳ですし、退職金制度もないといった中小企業に勤めていて退職金はなしという人、あるいは退職金を貰えても数千万といった金額には程遠いといった人だって大勢いる訳なのですよね。
で、そういうポルシェさんは退職金幾ら貰える見込みなの?って話になる訳ですが、貰えないよりはマシ程度のレベルで人に胸を張って言えるような金額ではありません(大汗)
★企業の預貯金残高がこの2017年3月末(2016年度末)で3年前から30%も増えて過去最高の211兆円に増えているのにも関わらず人件費はほぼ横ばいだそうです。収益を経営側が働き手に還元せずにバンバン貯めこんでいるという判りやすい構図となっています。ここは労働組合にも頑張って貰って給与3割アップを要求しないといけませんね。ところが、日本の企業では労働組合そのものがなかったり、組合があっても所謂「御用組合」で会社の方針には逆らえないといったところも多いようです。そうなると、残る手段は「企業は儲けを貯めこんでばかりいないで従業員にも回すべきだ」という世論を盛り上げることでしょうか。
★殺したい程、憎たらしい相手がいて殺してしまったというのなら殺人の動機として犯罪心理学の専門家でなくとも誰もが納得できる気もしますが、今回の座間の9人殺しは全くそうした怨恨の線はなく異常者による快楽殺人と言えるのでしょうね。私など血を見るのも怖い口ですので、職場で毎日私に「ウゼー、キメー」などと言ってみえる方などは、ここだけの内緒の話ですが、いっそのこと一思いに殺してしまいたいという衝動に駆られることがあります(現実には監獄暮らしは絶対避けたいので殺せないのですが・・・)。まあ、北朝鮮じゃないですが理不尽な行動をとる相手とは平和的に会話で解決したいところですよね。しかし、もし私が完全犯罪を企ててあの方を殺したとしても、警察にバレないように死体に錘を付けて海の底に沈めるとか、交通量の少ない林道から更に数十メートル降りた深い山の中に2m位の穴を掘って埋めるとかといった清張の推理小説などによくある手を使うことは思いつきますが、バラバラに切り刻んでしまうなんてことはどんなに憎い相手であっても怖くて私には出来ない気がしますYO。
★閑話休題
何かとやるべきことが多くゆっくり記事を書く時間が取れませんので、また、簡単なやっつけ記事となりますが、トミーテックから510ブル栄光への5000キロ仕様が発売されたことに因んで、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第364回記事として510ブルーバードSSSをご紹介しますNE☆☆
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★1967年(昭和42年)はビートルズがサージェントペパーをリリースした特別な年です。自動車の世界でもポルシェが911にスポーツグレードの911S、レーシンググレードの911Rを出し、日本車の世界でもトヨタ2000GT、マツダコスモスポーツ、ホンダN360、フェアレディ2000(SR311)そして今回ご紹介する日産の510ブルーバードといった誰もが知る名車が続々と発売された記念すべき年に当ります。
日本車史上の所謂ビンテージイヤー(vintage year)は、間違いなく1967年であるといえるでしょう。1967年は2017年で既に半世紀の歳月を経ていますので、現在50歳以下の人はこの世に生まれる以前のクルマということになります。私自身は1967年の4月に小2に進級したのですが、1967年4月2日からフジテレビ系列で放映されたタツノコプロ制作のマッハGoGoGoや10月1日よりTBS系列で放映された円谷プロ制作のウルトラセブンが1967年という年を個人的には殊更特別なものとしています。夢中になって見ていたマッハGoGoGoやウルトラセブンの主題歌を私は死ぬまでソラで歌えるだろうと思います。
★510ブルーバードというと、個人的には1975年(昭和50年)、高1の時の担任の先生が乗っていたことが一番に思い出されます。よく学校の帰り道に「乗ってくかい?」と声をかけられ最寄駅まで乗せてもらったりしたものです。
1967年、私の実家では510デビュー前の2代目411最終型を自家用車として購入した関係でブルーバードは何といっても2代目が懐かしく、3代目510は高校生の頃の思い出としては残っていても現在の目で見ても左程古臭くはないデザインも手伝い、あまり懐かしいクルマという感覚がありません。
510の特徴は日産初の四輪独立懸架と三角窓を取り去ったことにありますが、北米輸出が好調で1970年の第18回サファリ・ラリーでは総合優勝を成し遂げ、国内だけでなく世界的にも評価が高かったことが名車として語り継がれる所以だろうと思います。
★神戸で自動車趣味専門店「車楽」を主宰していた故 草村泰仁氏が1996年(平成8年)10月に出版した自動車カタログガイドブックⅢ「日産・プリンス編1955~1995年」(定価1800円)によれば、510ブルーバードの国内向けの本カタログは1300専用、SSS専用、クーペ専用などを含めて計18種類あります。
更に草村氏のガイドブックには掲載されていない簡易カタログ、営業車(タクシー)専用、バン専用のカタログも出されている上に北米等への輸出向けカタログが沢山あり、510のカタログ全てを揃えることはかなりハードルが高いと言えます。
★名車510ブルーバードの営業車(タクシー)については、既に2012年6月15日の本シリーズ第8回記事で御紹介していますが、今回は「栄光への5000キロ」のミニカー発売に因んで510SSS(=スーパースポーツセダン)のカタログをご紹介します。
カタログの整理が悪く、全て蒐集したはずの510SSSのカタログがすぐに全種類は出て来ませんでしたので、見つからなかったカタログは見つかり次第追加でアップすることとします。
【主要スペック】 1967年 日産ブルーバード・スーパースポーツセダン P510TK (1967 Nissan Bluebird Super Sports Sedan Type.P510TK)
全長4120㎜・全幅1560㎜・全高1400㎜・ホイールベース2420㎜・最小回転半径4600mm・最低地上高190㎜・車重915kg・FR・L16型4サイクル水冷4気筒OHC1595cc・圧縮比9.5:1・最高出力100ps/6000rpm・最大トルク13.5kgm/4000rpm・SU型ツインキャブ・電装系12V・変速機4速フロアMTフルシンクロ・前輪ディスクブレーキ・四輪独立懸架(前ストラット/後セミトレーリング)・乗車定員5名・燃料タンク容量46ℓ・平坦路燃費16.5km/ℓ・タイヤ5.60-13-4P・ボディカラー8色・0→400m:17.7秒・最高速度165km/h・東海道統一価格75万5000円
●1967年8月 ブルーバード スーパースポーツセダン 専用カタログ (縦30×横25cm・日本語14頁)
初期型510SSS専用カタログ。初期型の特徴は、左右ワイパーが中央止まり(所謂、喧嘩ワイパー)、フロントにSSSのエンブレムが付かないことなど。
【中頁から】
シンプルなデザイン
前後
ディテール
室内:ヘッドレストはまだ付かない。
4連メーター:速度180km、回転8000までの表示。
1600cc100psエンジン
ブレーキ、サスペンション
ボディカラー8色+図面
スペック
裏表紙
●1968年12月ブルーバード スーパースポーツセダン 専用カタログ (縦30×横25cm・日本語?頁)
最初のMCでフロントグリルが変り、上下中央に2本のメッキバーが入りSSSのエンブレムも加わった。ワイパーは左右共に左側停止に変更。ハザード、前席シートベルト標準となり、前席シートにはヘッドレストも付いた。この時期のSSS専用カタログが行方不明のため、510総合カタログから画像を掲載します。
当時流行のレザートップはオプション
●1969年8月ブルーバード スーパースポーツセダン 専用カタログ (縦30×横25cm・日本語12頁)
2度目のMC。フロントグリル上下に太めのメッキバーが入り、ダッシュボードを北米安全基準に合わせてパッド入りに変更し意匠も変更。ラジオ・アンテナはボンネット左前から右Aピラーに移された。
【中頁から】
ダッシュボードの意匠を変更
●1970年9月ブルーバード 1800SSS・1600SSS 専用カタログ (縦30×横25cm・日本語20頁)
510スポーツ系最後のカタログ。SSSにはL18型115psを積んだ最高速175km/hの1800SSSが加えられた。このカタログはセダン1600SSSとセダン1800SSS以外にクーペ1600SSS、クーペ1800SSS、更に大人しい92psエンジン搭載の1600クーペを掲載。この時期の国産乗用車のカタログは各社雰囲気が似ているが、これも70年代らしいPOPな味わいのカタログ。510はブルーバードUのデビュー後も1972年末まで継続生産されたが、SSS系及びクーペは1971年9月に生産を終了。
【中頁から】
1800SSSにのみオートマを追加設定
★オマケ(その1): トミカリミテッドヴィンテージ 1/64スケール 1969年ダットサン・ブルーバード1600SSS「栄光への5000キロ」
全長6cm。ダイキャスト製。定価:税抜5800円。2017年11月新製品。2018年3月には1970年サファリの総合優勝車カーナンバー4が税抜3800円で発売予定。同じようなミニカーで2000円もの差は石原プロへの版権料なのでしょうか。税込6000円を超える価格は開閉ギミックも付かない小スケールミニカー1台の値段としては既に限界を超えており高価過ぎる気がします。2017年11月にプレミアムXの新製品として発売予定の1/43スケール・フォードマスタング・マッハ1栃木県警パトカー仕様が税抜3600円であることなどと比較すると法外に高い気がするのは私だけでしょうか。赤とシルバーのノーマル車は先に発売された69年式SSSセダン。
トミーテックの動画
★オマケ(その2): 1969年 映画「栄光への5000キロ」 パンフレット(A4判・日本語44頁)
石原プロモーション製作、松竹映配株式会社配給の映画公開時のパンフレット。この映画、私はリアルタイムでは見れなかったのですが現在はDVDも出ています。1934年(昭和9年)12月生まれの石原裕次郎氏が52歳の若さで肝細胞癌のため1987年7月に逝ってから早いもので今年で丸30年。もし生きていたら今年の誕生日で83歳ということになりますね。この映画パンフレットは1980年頃に近所の古本屋さんで200~300円位で買ったものですが、35年以上を経た現在でも古書市場で沢山流通しています。ちなみに先日立ち寄った古本屋さんでは500円で売られていました。
【中頁から】
レーシングスーツにはNISSANのロゴ
キリマンジャロをバックに
★オマケ(その3): 1969年 映画「栄光への5000キロ」オープニング映像
★オマケ(その4): 永大 1/24スケール 1969年ブルーバード1600SSS「栄光への5000キロ」 プラモデル
全長17cm。箱サイズ:縦18×横29.5×厚さ4.5cm。永大キットNo.401。マブチFA-130モーター付。1970年発売。当時定価300円。箱絵(Box Art)の90号車が実車の赤ボディではなく白ボディとして描かれているのは謎。キャンピング仕様の510も同時発売。
★オマケ(その5): 日産名車コレクション 1/43スケール 1964年ブルーバード・サファリラリー仕様
全長9cm。ダイキャスト製。書店売り日産名車コレクション購読者プレゼント用の非売品。個人的には510よりもこの410の方がそそられます。
★1964年ミニ・クーパー 小さな巨人 トミカ新車 ~ 自動車カタログ棚から 365
★何だか東京も寒くなってきました。この時期に困るのは、家から駅まではコートを着ていても寒いのが、満員の中央線快速電車に乗ると今度は暑くて汗が噴き出ることだったりします。最近の鉄道車輛は車内の自動温度調節機能もあるようですが、それでも異様に暑くて大汗をかくことがあります。
しかし、つい先日まで日中の気温が20度を超えていたせいか、朝の気温が5度位まで下がっても、まだYシャツにスーツだけで出勤というサラリーマンさんは多いですね。バスや電車やオフィスの中は暖かいので、徒歩での移動時間だけちょっと我慢すれば薄着でも大丈夫ということなのでしょう。例え雪が降っているような日でも、昼休みなどオフィスから上着も着ないでYシャツ1枚で腕組みしながら定食屋にやってくるサラリーマンさんは意外に多いので寒さに弱いワタシなどビックリンコしたりもしますYO☆
★閑話休題
何かとやるべきことが多くて相変わらず時間が取れませんので、また簡単なやっつけ記事となりますが、今日はトミカでミニが発売されたことに因んで、「自動車カタログ棚から」シリーズ第365回記事として初代のミニをピックアップしますNE☆☆
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●1967年 サイケデリックペイントのミニに乗るジョン・レノン
サイケデリックペイントのロールスとジョンの写真は数多いがミニに乗るジョンの写真はレア。
★ミニ (=ADO15)は自動車の世界で「小さな巨人」の別名を持つ。ギリシャ系英国人技術者アレック・イシゴニス(1906年11月18日-1988年10月2日)の設計によるミニは、全長3m5cmと360cc時代の日本の軽自動車と殆ど同じ全長の四隅に10インチの小さなタイヤを履き、短いノーズに横置きしたエンジンで前輪を駆動、驚異的に広い室内空間と卓越した走行性能を備えた小型乗用車史上の革命児であった。
1959年(昭和34年)8月にデビューし、激変する自動車界にあって2000年(平成12年)10月まで41年を超える驚異的な長寿を保った(総生産台数は約538万台)。ミニがデビューした1959年8月と言えば日本では初代310ブルーバードが誕生した時期に当り、ミニが終焉を迎えた2000年秋と言えば日本のブルーバードは10代目U14系もモデル末期となっていたのである。
★1959年の夏に最初に登場した際の車名は、オースティン・セブン850とモーリス・ミニマイナー850であった。
BMC(ブリテッシュ・モーター・コーポレーション)のバッヂエンジニアリングによる双生児である。オースティン版の車名がミニとなるのは1962年からである。それと前後して1961年秋には小さな独立したトランクを持つライレー版ミニ「エルフ」とウーズレー版ミニ「ホーネット」がデビューした。F1マシンの製造で高名であったジョン・クーパー(1923年7月17日-2000年12月24日)のチューンした、有名なミニ・クーパーは1961年秋に997cc56psエンジンで登場し、その後、1071cc70ps、1275cc77psとパワーアップが図られ、1964・1965・1967年のモンテカルロ・ラリー優勝というモータースポーツ史上に輝かしい戦績を残した(レギュレーション上の些細な理由で理不尽な失格とされた1966年のモンテも事実上はミニの優勝であった)。
★ミニ(=ADO15)のカタログに関しては当摩節夫氏が著した「ミニ 1959-2000」(三樹書房:書籍コードISBN978-4-89522-596-0)が自動車カタログ・コレクターのためのガイドブックとなることも視野に入れた完璧に近い内容で出版されており、その他、ミニについて趣味的な立場等から書かれた本が数多くある。
私自身はミニについて謂わば門外漢の立場であり、あまり熱心にカタログの蒐集もしてこなかったのだが、今回は手元のカタログ棚から3部だけ出てきた1960年代前半以前のオースチン版ミニのカタログをご紹介することとします。
【主要スペック】 1964年 オースティン ミニ・クーパー1275S (1964 Austin Mini Cooper 1275S)
全長3050㎜・全幅1410㎜・全高1340㎜・ホイールベース2030㎜・車重635kg・FF・水冷直列4気筒OHV1275ccフロント横置・ツインキャブ・最高出力77ps/6000rpm・最大トルク11.0mkg/3000rpm・変速機4速フロアMT・乗車定員4名・燃料タンク容量25ℓ・最高速度160km/h
●1959年8月 オースティン・セブン カタログ(縦28×横21cm・英文6つ折12面)
カタログNo.1792 。最初期のオースティン版ミニ。848cc34.5psながら車重は僅か570kgで最高速115km/hをマーク。
【中面から】
レイアウト
横置きエンジン
シンプルで広い室内
スペック
●1961年 オースティン ミニ・クーパー マークⅠ カタログ(縦21×横28cm・英文2つ折4面)
カタログNo.2049C。最初のミニクーパーのカタログ。クーパーF1を背後にした表紙写真。997cc56ps・最高速140km/h。
【中面から】
●1964年 オースティン ミニ・クーパーS 1000/1275 カタログ(縦21×横28cm・英文2つ折4面)
カタログNo.2230。究極のスーパー・ミニ、クーパーS専用カタログ。1275cc77ps最高速160km/hの1275Sと1リッタークラスのレース参戦のための970cc65psの1000Sの2タイプを掲載。970ccタイプは僅か963台で1965年に生産中止となり、1275Sのみが1971年まで4万台以上も生産された。
【中面から】
★オマケ(その1): 赤箱トミカ88-2番 1/50スケール 初代ミニクーパー
全長6cm。ダイキャスト製。当時定価360円。1998年、末期の中国製。トミカの初代ミニは平成の初め頃に新潟・三条市のクリヤマ模型に旧いアンチモニー製ダイヤペットや三線式Oゲージの在庫があるとの話を聞いて訪ねた際にクリヤマ模型の特注品を何台か戴いたのですが現在行方不明。初代ミニは初代ビートルと並んでミニカーの世界でも人気が高く、そのコンプリート・コレクションは非常にハードルが高い(というより不可能に近い)。例えばこの初代ミニのトミカ「BLMCミニクーパーSマークⅢ」は青箱F8として1979年(昭和54年)7月に発売され、1987年7月発行のトミカコレクションのバイブル「ミニカー大百科~トミカコレクションのすべて」(講談社)によれば、その時点でバリエーションは59種、その後、青箱が赤箱に統合されてミニは88-2となり、2007年4月発行の「トミカバリエーションノート」(ミニカーショップイケダ)によれば何と特注品を中心に赤箱ミニのバリエーションは1990年代後半以降の中国製に至るまで303種も出ている。私の場合、青箱トミカ(=外車のトミカ)も最初の頃は出るもの全てを買っていたのが車種が増えるにつれて当時高校生だった私のお小遣いでは到底全ては買い切れなくなり、ミニが発売された1979年頃には基本トミカは国産車とポルシェに絞って集めることにした関係で、トミカのミニは数える程しか買っていない。これから後追いでミニのバリエーションを揃えることは例え時間とお金をかけても難しいだろう。トミカのミニをコンプリートに集めた人からそっくり譲って貰うといった幸運でもない限り、何のコレクションであってもある程度は同じことが言えるけれども、長い年月をかけて集められたモノを後追いで集めることは困難を極める。しかし、そのハードルの高さがコレクター魂を燃えさせるものなのかもしれません。
★オマケ(その2): トミカ37-?番 1/57スケール ミニ ジョン・クーパー・ワークス
全長6.5cm。ダイキャスト製。税抜450円。2017年11月18日(土)発売新製品。赤いコンバーチブルが通常品で緑に白いストライプの屋根付が初回特別仕様。3代目BMWミニ。トミカでは最初のBMWミニも43番で出していたので、これで3台目。肥大化したボディは初代ミニの愛らしさには到底敵わない。設計は独BMWとなった現在も英国の工場で生産されている。国内輸入車は右ハンドルなのにトミカが左ハンドルで作られたのは謎。
オマケ1との新旧比較
●2017年 ミニ ジョン・クーパー・ワークスの日本語版カタログ
トミカでモデル化されたジョン・クーパー・ワークスには2ドア、コンバーチブル、クラブマン、クロスオーバー(4WD)の4種のボディがあり、カタログもボディタイプ毎等に沢山発行されている。サイズ21×21cmと23×23cm。車両本体価格は418~562万円。231ps・最高速245km/h。全て右ハンドルで2ドアのみマニュアルも選べる。
★オマケ(その3): そんな本日のホットウィール 1967年オースティンミニ・バン「サージェントペパー」
全長6.5cm。ダイキャスト製。2016年発売。HWビートルズシリーズの1台。ビートルズの4人が描かれたボディもカラフルな台紙もナイスな1台。
★オマケ(その4): 1969年 英国映画「ミニミニ大作戦」
原題:The Italian Job。この映画、低予算のB級映画と言われながらもカーチェイスシーンも登場キャラも秀逸で同時代のチキチキバンバンあたりより面白い。2003年のリメイク版あり。
オマケ(その5): Honey Pie (arranged by porsche356A)
最後のオマケは最近の私の演奏から。1968年ビートルズ「ホワイトアルバム」収録曲。日本語ロックの先駆けとなったバンド「はちみつぱい」(後のムーンライダーズ)は、この曲のタイトルにインスパイアされて、あがた森魚が名付けた(らしい)。この演奏はアレンジとはいっても左手のコード分散に右手のメロディを被せただけという最低レベルながら、プロではないので自分で気持ちよく弾ければOK。華やかさが欲しい曲なのに残念ながらあまり華のない地味な演奏で、しかも、往年のロック系ぼったくりブートビデオ並みの低画質・低音質で観る(聴く)価値は殆どないと思いますが一応載せておきますね。動画の最後に少しだけショパンの曲が入ってしまっています。
★1964年 多田製作所 鉄腕アトムのブリキのオモチャ ~ 玩具・模型カタログ棚から 032
★ワタシのような歳で独り者の場合、人様から「その歳でバツもなしの独身だなんて、なんて君は気の毒な人なんだろう・・・」といったことを言われることがありますが、同じことはお酒を飲まないことについても、「君はお酒という人生の楽しみを知らないだなんて、なんて気の毒な人なんだろう・・・」といった趣旨のことを言われることが多いのです。でもね、独り者であることについては実際不幸で悲しいことだと感じることが多く、「名声も財力もない一般人のキミにはこれから結婚だなんて無理・無理・絶対無理!」と言われながらも50代半ばを過ぎて32歳年下の現在の奥さんと結婚したエリック・クラプトンにあやかりたいと思ったりもするのです。売れないアングラ劇団をやっている知人が50代半ばを過ぎて本当に30歳以上も年下の女性と結婚したという例があり、まあ人生どこでどう転ぶか分らないし9回裏2アウト逆転満塁ホームランの可能性はまだまだある!と結構前向きに思ったりもするのですが、お酒については実は、飲めなくて自分は世にも不幸な人間だとか、お酒を飲めるようになるよう努力をしないとなどとは思わないのです。これからの季節に多くなる、忘年会・新年会などのお酒の席に出るのも特段嫌いではなく、むしろバヤリス・オレンジしか飲んでいないのに根が目立ちたがり屋の所為か余興で歌など進んで歌いたい方だったりもします。ただ、宴席ではあまりに陽気に大声で馬鹿騒ぎする人が多かったりすると正直冷静な自分が浮いてしまっているような心持ちになることはありますYO☆
★今日11月23日は「勤労感謝の日」ですね。勤労感謝の日で祝日なのに仕事だよなんて人も昨今は多いと思いますが、GHQが押しつけた勤労感謝の日というネーミングを戦前の新嘗祭に戻すべきだとの右翼の人を中心とした議論が高まる時期でもありますよね。日本国憲法と同じく長い歳月を経て既に定着した良いものを悪く変えようと目論む右翼的な人がこの国には数多くおられることは実に悲しむべきことであり誰しも閉口しますよNE☆☆
★閑話休題
さて今回は「玩具・模型カタログ棚から」シリーズ第32回記事として、1960年代に鉄腕アトムの玩具を多数発売した多田製作所のカタログを簡単にご紹介しますNE☆☆
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★東京オリンピック前年の1963年(昭和38年)の元旦にフジテレビ系列で放送が始まった手塚治虫(1928年11月3日-1989年2月9日)原作の『鉄腕アトム』は、週1回放送の30分番組という後のテレビアニメの基本形態を形作った、日本におけるテレビアニメ・シリーズ物の嚆矢と位置付けられている。
この初代・鉄腕アトムは1966年の大晦日まで丸4年に亘り全193話が放送された。この最初のアトムの初放映に間に合ったのは、当時概ね3歳以上でないと例え見ていても記憶はないとして、1966年末の最終回であっても1963年(昭和38年)乃至1964年(昭和39年)生まれ以上の世代ではないだろうか。勿論、後年、再放送で観たというケースは別である。私の場合は、最初のアトムの放送開始時に3才2ヵ月、放送終了位に満7歳であったので文字通り夢中になって観ていた。しかし、ウルトラQ/ウルトラマンといった円谷特撮物などが放送された1966年以降はアトムへの興味は殆ど失われてしまっていた気がする。
★鉄腕アトムというと日本初のアニメシリーズのイメージが大きいが、実はアニメ放送の前に1957年(昭和32年)4月13日~9月18日までTBS系列で全25回放映された鉄腕アトム人形劇シリーズ(フィルムは破棄処分され現存しない模様)と比較的有名な1959年(昭和34年)3月7日~1960年(昭和35年)5月28日まで全65話が放映された鉄腕アトム実写版シリーズ(フィルムが現存しない7話を除く58話はDVD化されている)が存在する。
人形劇版を観た記憶がある世代は1954年(昭和29年)生まれ以上、実写版のリアルタイムの記憶があるのは1957年(昭和32年)生まれ以上の世代ではないだろうか。尤も1950年代の日本ではテレビの普及率は3割にも満たなかったため、特に放送された期間も短かった人形劇版を観たという人はかなり裕福な家で育った人に限られるだろう。1959年(昭和34年)4月の皇太子殿下(現天皇)御成婚パレードの際に白黒テレビの普及率は一気に上がったため、実写版アトムを観たという人は少なからず存在するだろう。私自身は、実写版アトムの最終回放送時でもまだ生後7ヵ月であったため残念ながらアニメ版以外をリアルタイムで観ることは叶わなかった。
★アトムのおもちゃ
1960年代の日本の玩具の主流はブリキ製品であったが、1963年(昭和38年)にアトムのテレビアニメがヒットしたことにより国内の玩具メーカーはこぞって虫プロに版権料を払いアトム物をリリースした。
ブリキで出来たアトム、自動車・ヘリコプター・モーターボート・戦車などの乗物にソフビのアトムが乗った玩具、バス・機関車・潜水艦などの乗物にアトムがプリントされた玩具、鉛筆削り・弁当箱・お茶碗・クレヨン・運動靴などにアトムがプリントされたモノなど、ありとあらゆるモノがアトム人気に便乗した。虫プロには日に数百万単位の版権料が入ったという。それだからこそ実際には150万かかるテレビシリーズ1話の制作費を50万円にまでダンピングできたという。アトムの前例に倣った後のテレビアニメ制作が低予算に泣いたのは、版権料で赤字をカバーしたアトムの数少ない負の遺産といえるようだ。
●1964年 多田製作所 カタログ「アトムのオモチャ」 (B5判・日本語24頁)
多田定治氏が終戦後1947年(昭和22年)に玩具研究所を立ち上げ、1953年(昭和28年)に東京都墨田区寺島町4-39で法人組織として玩具製造事業を開始した株式会社多田製作所は、主に子供向け銃のオモチャの生産で知られていたが、1963年(昭和38年)にテレビアニメ「鉄腕アトム」がヒットすると既存の銃玩具にアトムをプリントしたものに加え、自動車、オートバイ、スクーター、戦車、ロケット、ヘリコプターなどの乗物にソフビのアトムを乗せた製品や電車、ボートなどにアトムをプリントした製品を怒涛の勢いでリリースした。こうしたアトムのブリキ玩具達の99%以上は幼児・子供の玩具としての使命を全うして消滅するか現存していてもジャンク状態が多いため、もし箱付の未使用デッドストックが市場に出れば極めて高価。アトムのブリキ玩具はバンダイ、米澤玩具(ヨネザワ)、浅草玩具、増田屋齋藤貿易(マスダヤ)、三浦トーイなどでもリリースしているが、その種類の多さでは多田製作所が群を抜いていた。このカタログでは、8割以上がアトム物に頁が割かれている。表紙に昭和39年3月30日を示すスタンプ。多田製作所がアトムブームが去った後の1968年(昭和43年)に英ロンスターのダイキャスト製鉄道モデルとタイアップして0系新幹線やC58蒸気機関車といった日本型Nゲージモデルをリリースしたことは黎明期のNゲージ研究家の間ではつとに有名。本記事ではカタログの中からアトムの乗物系玩具を中心に抜粋して掲載いたします。
【中頁から】
本社・工場全景
品番3800 「ロケット ジュピター」 売価330円
品番6400 「スーパーロケット」 売価220円
品番3600 「ジェット旅客機707」 売価180円
品番3400 「ゼロ戦」 売価150円・全長20cm
品番2500 「アトムカー」 売価220円・全長19cm・・・・・1958年フォード・コンバーチブルにアトムを乗せた「鉄腕アトム号」
品番6600 「アトムスーパータンク」 売価440円・全長22.5cm
品番6000 「アトムタンク」 売価220円・全長18cm
品番3500 「円盤」 売価220円
品番6200 「スクーター」 売価240円
富士重工ラビットに乗ったアトム。これは箱付デッドなら軽く7桁(100万)以上かも。
品番2800 「アトムロケット」 売価110円
品番3900 「ウランチャン」 売価110円
品番3200 「ジェットレーサー」 売価110円
ジェットレーサーのアップ・・・・・ジャガーDタイプ風のマシンに乗るアトム
品番2600 「アトムトレイン」 売価180円・全長38cm・・・・・機関車中央に内蔵されたアトムの胴体がフリクションに連動して動くギミック付
品番5900 「アトムダンプ」 売価420円・全長32cm
品番4100 「アトムバンク」 売価220円・・・・・アトムが飛び出す貯金箱
品番4000 「電車レールセット」 売価330円
品番5500 「ヘリコプター」 売価260円・全長28cm
品番6500 「スカイベビーアトム号」 売価280円
品番5000 「オーシャンペット・ボート」 売価220円・全長26cm
品番5100 「ミサイル快速艇」 売価130円・全長18cm
品番6600 「ベビーボート」 売価100円
品番5200 「スイミングアトム」 売価200円・・・・・東京オリンピックに因んでアトムの自由形クロール水泳、実際に両腕を回転しながら前進する様は感動的
裏表紙: アトムのイラストに多田製作所の商標、そして「世界を結ぶアトムのオモチャ」の印字
●1965年10月 多田製作所 企業情報
1965年10月19~22日に東京都立産業会館で開催された「第4回日本玩具国際見本市」のパンフレットに掲載された多田製作所の企業情報。本社所在地は墨田区寺島町4-39から京島町1-17-3に変更されている。営業品目は金属製とプラスチック製(の玩具)、取引販路は国内と中近東やアフリカを含む海外、取引銀行は富士銀行と記載されている。
★オマケ(その1): 手塚治虫の絵本「鉄腕アトム」サーカスのまき (B5判・16頁)
ブリキ玩具は自動車や鉄道物をメインに集めてきたことと、アトムのようなメジャーなキャラクター玩具のビンテージ物は総じて高価なため、手元にブリキの1960年代物アトムは一つもありません。そこで、手元にある安価で流通している当時物アトムの紙物をオマケに少し。これは鈴木出版発行の絵本。当時定価100円。1964年発行(?)。
★オマケ(その2): 朝日ソノラマ「鉄腕アトム」 (縦19.3×横20.3cm・16頁+ソノシート)
1965年8月2日発行。これは子供がいればどこの家にもあったソノシート。数が沢山残っているので現在でも安価で流通しています。
裏表紙のアトムシール付き明治のマーブルチョコレートの広告が懐かしいです(2011年に復刻版が出ています)。マーブルちゃん=上原ゆかりさんです。
★オマケ(その3): 同文書院 アトムのおもちゃ
1994年12月21日発行。当時定価:税抜1456円。アトム・コレクター井澤 豊氏のビンテージ・アトムコレクションをカラーで紹介した本。製品のサイズや当時の定価が可能な限り記載されており資料価値は高いです。今回ご紹介したカタログに掲載されているオモチャもその実物写真を多数見ることが出来ます。アトムコレクターならずとも楽しめる内容と思います。版元品切ながらアマゾンなどでは現在も安価で入手可能です。
★オマケ(その4): エムテックMS-20A番 1/43スケール 1997年トヨタ・プリウス
全長10cm。当時定価:税抜1800円。アトムがイメージキャラクターとなった初代プリウスのミニカー。アトムの人形付。箱にもアトムキャラ。この最初のプリウスが出てから2017年でもう丸20年です。
●1998年1月トヨタ・プリウス簡易カタログ「ハイブリッド読本」 (B5判・日本語20頁)
カタログNo.TA4764。最初のプリウスには通常サイズ30頁の本カタログもありますが、これはお茶の水博士などによるハイブリッドについての解説とボディカラーやスペックが掲載された簡易カタログ的な印刷物。「21世紀に間にあいました」の名コピーとアトムを中心にジャングル大帝レオやリボンの騎士も描かれた手塚キャラの表紙がなかなか魅力的です。
★オマケ(その5): 1959年 実写版 鉄腕アトム
アトムを演じたのは、瀬川雅人氏。瀬川氏は後年、吉田拓郎のバンドに参加していたらしい。
★オマケ(その6): 1963年 アニメ 鉄腕アトム
誰もが知っている主題歌。
★1937年 トヨタDA型バス 戦前型トヨタ大型車 ~ 自動車カタログ棚から 366
★早いものでもう11月も残すところ数日ですね。師走に入ると何かと忙しくてブログを書くどころではないという人も多いと思います。ワタシの場合は何とか週1更新のペースを崩さないように頑張りたいと思いますが、しかし、よく考えてみれば本当に時間がない時は、例えば「今日のミニカー」とか「今日のプラモデル」とか「今日の鉄道模型」とか「今日の絵本」といったタイトルで極く簡単な説明を付けて数枚写真を載せるとか、「今日のビートルズ」とか「今日のアニソン」とか「今日の映画」というようなタイトルで極く簡単な説明を付けて動画を1枚だけ貼るなんて手もありますよね。
そう言えば、今、幾つか見たい新作映画もあるので何とか時間を作って観に行きたいなあと思っています。観たいと思っているのは全て邦画で、「最低。」「覆面系ノイズ」「火花」の3つ。もし、もう観たよ~という人がいましたら感想を聞かせてくださいね~☆
★さて、今回はまたこんなに古いクルマには興味がないという人が大半とは思いますが、「自動車カタログ棚から」シリーズ第366回記事として、戦前のトヨタバス・トラックのカタログをご紹介しますNE☆☆
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★トヨタ最初の自動車というと乗用車であるトヨダAA型(本シリーズ第94回記事参照)を思い浮かべる。しかし、実はトヨタが初めに世に出したのは乗用車ではなくトラックであった。戦前の日本では乗用車に比べてトラックの方が確実に需要が見込めたこと以上にボディの製作が容易だったことが先にトラックを世に出した理由と言われる。
トヨタ最初の市販車となったトヨダG1型トラックは1934年型フォードトラックを参考に設計され、AA型乗用車より1年近く早い1935年(昭和10年)11月18日に東京の芝浦ガレージで発表会が行われた。G1型トラックは379台を生産した後、翌1936年(昭和11年)9月14日のAA型発表の際にGA型トラックに切り替えられた。その後、1939年(昭和14年)1月にGB型トラック、1942年(昭和17年)3月に戦時型のKB型トラック、終戦前年の1944年(昭和19年)6月にKC型トラックへと変遷した。戦後は終戦前のKC型が暫くそのまま生産された後、1947年(昭和22年)3月にKC型を大幅に改良したBM型トラックとなり、このBM型は朝鮮戦争特需もあり1951年(昭和26年)7月21日に純戦後型トラックBX型に切り替わるまでの4年強の期間に実に26347台が生産された。
★一方、最初のトヨタ製バスは、G1型トラック発表の丁度2ヵ月後の1936年(昭和11年)1月18日にデビューしたトヨタDA型低床式バスである。
厳密には豊田式織機自動車部が前年の1935年(昭和10年)5月にエンジン等の機関パーツには外国製を使用して20台を製造し名古屋市営バスに納入された「キソコーチ」(=木曾コーチ?)という名称のバスが存在するが、このキソコーチについては写真が見当たらない上にトヨタ75年史などのトヨタの社史では、トヨタのルーツは、トヨタグループの始祖である豊田佐吉の考案した製品を作ってはいたが佐吉が短期間で去った1906年(明治39年)12月創業の豊田式織機(現 豊和工業)ではなく、1926年(大正15年)11月18日に創業した豊田自動織機製作所にあるという立場からか全く記載がないため詳細は不明である。しかし、中京デトロイト化計画と称して豊田式織機・日本車輛・大隅鉄工所・岡本自転車自動車製作所・愛知時計電機の5社合同で1932年(昭和7年)の夏に20~30台を米車ナッシュ8気筒車をコピーして生産した乗用車「アツタ号」(=熱田号)についてはトヨタの社史にも記載されている。
【戦前・戦後初期のトヨタトラックの変遷】
(1) 1935年(昭和10年) 11月: G1型トラック
(2) 1936年(昭和11年) 9月: GA型トラック
(3) 1939年(昭和14年) 1月: GB型トラック
(4) 1942年(昭和17年) 3月: KB型トラック(戦時型)
(5) 1944年(昭和19年) 6月: KC型トラック
(6) 1947年(昭和22年) 3月: BM型トラック
(7) 1951年(昭和26年) 7月: BX型トラック(純戦後型)
【戦前・戦後初期のトヨタ バスの変遷】
(1) 1936年(昭和11年) 1月~1940年(昭和15年) 9月: DA型バス
(2) 1939年(昭和14年) 6月~1941年(昭和16年) 9月: DB型バス
(3) 1942年(昭和17年) 9月~1944年(昭和19年) 6月: KB型バス(トラックシャシー)
(4) 1944年(昭和19年) 6月~1945年(昭和20年) 4月: KC型バス(トラックシャシー)
(5) 1947年(昭和22年)3月~1949年(昭和24年) 9月: BM型バス(トラックシャシー)
(6) 1949年(昭和24年) 9月~1951年(昭和26年) 5月: FL型バス
(7) 1949年(昭和24年) 10月~1951年(昭和26年) 5月: BL型バス
(8) 1951年(昭和26年) 6月~1954年(昭和29年) 3月: BY型バス(純戦後型)
(9) 1951年(昭和26年) 8月~1954年(昭和29年) 3月: FY型バス(純戦後型)
【トヨタ自動車製造元名称の変遷】
(1)1933年(昭和8年) 9月1日~ 株式会社豊田自動織機製作所自動車部
(2)1937年(昭和12年) 8月28日~ トヨタ自動車工業株式会社(豊田自動織機製作所自動車部が分離独立)
(3)1982年(昭和57年) 7月1日~ トヨタ自動車株式会社 (トヨタ自動車工業と1950年4月3日設立のトヨタ自動車販売を合併)
※トヨタ車製造元の正式な社名は上記の変遷を辿っているが、今回ご紹介する戦前のトヨタ自動車工業となる以前のカタログに於いては正式名称に依らず「トヨタ自動車工場」と印字されている。
★トヨタ最初の生産車である記念すべき1935年のG1型トラックの小判横長厚口カタログは時折、絶版カタログ市場に現れます。
しかし、法外に高価だったり酷く状態が悪かったりといった理由で残念ながら現在まで縁がなく未入手のため、これまでトヨタの戦前型トラック・バスについては記事の掲載を見送ってきたのですが、1935年のカタログというと2017年現在で既に82年の時を経ているため今後必ず入手出来るとも限りませんので、もし最初のG1型トラックのカタログが入手出来た際には追加で掲載することとして、今回は取り敢えず手元に少しだけある戦前トヨタのカタログを駆け足でご紹介したいと思います。
既に戦前型の改良版である終戦後のトヨタバスについては「自動車カタログ棚から」シリーズ第202回記事「1948年トヨタBM型バス 刈谷車体」にて御紹介していますので、今回の記事ではトヨタの戦前型トラック・バスに加えて純戦後型トラックBXデビュー以前の終戦後のトラックについても簡単に御紹介することとします。
【主要スペック】 1937年 トヨタDA型バス (1937 Toyota Bus Typ.DA)
全長6700㎜・全幅2100㎜・全高2590㎜・ホイールベース3594㎜・車重1630kg(シャシー)・A型水冷直列6気筒OHV3389cc・圧縮比5.42:1・最高出力65ps/3000rpm・最大トルク19.3m-kg/2400rpm・変速機ノンシンクロ4速MT・最小回転半径7000㎜・燃料タンク容量62ℓ・始動装置:手押しボタン式・ステアリング:ウォーム&セクター 14:1・ステアリング径432mm・インストルメントパネル:速度計、オイル計、水温計、燃料計、電気計装備・最高速度:不明
●1937年? トヨタDA型バス カタログ (縦22.5×横26.2cm・日本語4つ折8面)
発行時期を示す印字はなし。裏面のクレジットが愛知県刈谷町「トヨタ自動車工場」となっていることから、1937年8月のトヨタ自動車工業発足前のもので、かつ、トヨタのバスを使用している事業者紹介の写真も多数掲載されていることから、1936年のDA型初期ではなく発売2年目の1937年発行と推定。ホイールベース3.3mと3.594mの2種掲載。表紙写真の長大な橋はどこでしょうか。
【中頁から】
長短2種のシャシー
エンジン、トランスミッション
ブレーキ、デフ
【各地で使用されているトヨタバス】
大阪バス
東京市営バス
京都市営バス
名古屋市営バス
新京交通公司バス
東横バス
裏面: スペック。トヨタ自動車工場の印字。
●1937年? 国産トヨタシャシー3.3mシャシー専用カタログ (B5判・日本語3つ折6面)
日本の狭隘路を考慮して追加されたショート・ホイールベース版トラック/バス用シャシーの専用カタログ。このカタログも裏面のクレジットは愛知県刈谷町「トヨタ自動車工場」。
ショートWBシャシー新発売のカタログであることから、上掲のショート・ロング両者が掲載されたDA型バスのカタログより発行時期は少し先と思われますが、トヨタ広報誌「流線型」によればフロントグリル向かって右上に円形のトヨタのバッチが付くのは1937年春以降のため、殆ど同時期の発行と推定。トヨタのX型クロスメンバーは頑丈で如何なる衝撃にも剛性を保ちシャシーもボディも永持ちすることが強調されています。
【中面から】
「トヨタシャシーの特徴」・・・・トラックにもバスにも適合他
裏面: スペック
●1940年 トヨタGB型トラック 専用カタログ (縦26.1×横20.7cm・日本語4つ折8面)
A型エンジンを改良したB型エンジンに換装されたGB型トラックのカタログ。表紙右下のナンバー2600は皇紀2600年=昭和15年=1940年を示します。日本国内では皇紀2600年を祝す様々なイベントが行われた年ですが、1940年と言えばジョン・レノンの生年です。このカタログでは裏面のクレジットは愛知県挙母「トヨタ自動車工業株式会社」となっています。排気量は3390ccで出力は75psに上がり、ロングのホイールベースが15㎜伸びて3609mmになっています。外観ではフロントグリルが従来の縦縞に2本の太目の横バーが入る意匠から中央に1本の太いバーと横縞に変更されています。
【中面から】
シャシー
エンジン
ラジエター
フロントバンパー上に始動時の便を考慮してクランクシャフトガイドを新設、フロントスプリング
「皇紀2600年を迎えて」スペック
●1949年 トヨタBM型トラック 専用カタログ (縦25.7 ×横18.8cm・日本語4つ折8面)
カタログNo.BMC-4。戦時型KC型トラックをベースにキャブを木製から鋼板製としてフロント・アクスルを強化したBM型のカタログ。シャシーフレームは戦前のX字型クロスメンバーではなく、コ型断面のオーソドックスな梯子型に替わっている。WB4000㎜・B型3386cc/82ps。
【中面から】
シャシー画、スペック
フレーム
82hpエンジン
ダンプ、タンクローリー等各種架装例
●1950年 トヨタBM型トラック 専用カタログ (B5判・日本語8頁)
カタログNo.:印字なし。BM型トラック最終型。B型エンジンは82psまで出力が上がり、より強力なF型95psエンジンが用意され、外観ではフロントグリルの横縞と中央の縦線がクロームメッキされた。
【中頁から】
改良点解説
B型、F型2種となったエンジン
スペック
図面
●1950年トヨタBMトラック 実車画像
2017年11月25日(土)・明治神宮外苑 聖徳記念絵画館前で開催された、毎年恒例のトヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバルに展示された実車。この車両はガソリンが不足していた時代の薪ガス発生装置を搭載しています。
★オマケ(その1): トミカNo.21-?番 1/57スケール 2017年アバルト124ラリー
今回の記事に因んだミニカーはないため、今回のオマケは記事とは全く関係のないミニカーです。全長7cm。ダイキャスト製。FCAジャパン特注品。1期目の抽選に外れてmonkinさんやかる吉さんには大変ご心配をお掛けしましたが、2期目で無事当選しました!早速、最寄りのディーラーに行ってカタログと一緒に貰ってきました!2期目のWeb抽選が終わったあとも、2017年12月24日まではアバルト124スパイダーの実車を購入すると先着100名がこのミニカーを貰えるとのことですが、特注トミカは最低6000台生産とのことですから、まだ沢山このトミカの在庫はありそうです。
★オマケ(その2): 忌野清志郎 「傘がない」
最後のオマケに1曲。1972年の井上陽水のオリジナルより個人的にはいいと思います。スローでシンプルな歌故に清志郎の唄の上手さが際立ちます。このライブでは清志郎のボーカルに高中正義のギターも完全に力負けしているように感じます。
★戦前いすゞ自動車 絵葉書 「いすゞプラザ」訪問記 ~ 自動車カタログ棚から 367
★しかし、再来年2019年の5月には元号が変るようですが、やはり年度替わりの4月1日付で変わって欲しいと思う人が多いでしょうね。新年度の1ヵ月だけが平成で5月からの11か月が新元号というのは何かと不便だし判りにくいので困るという人も多いことと思います。2019年4月に行う学校の入学式などは、31年度は1ヵ月だけになってしまうので、平成31年度入学式とせず新元号の元年の入学式とするという風に一定の決まりが作られれば問題はないかもしれませんね。そもそも元号でなく西暦表記ならば何も問題は起こらないとも言えますよNE☆
★しかし、もう今年も12月ですね。忙しくて大変だよという人が多いことと思います。ワタシも忙しくあまり時間が取れませんので、今日は極く簡単に戦前のいすゞのポストカードと藤沢の「いすゞプラザ」についてご紹介します。今回はカタログではなくポストカードの御紹介のため「自動車カタログ棚から」シリーズではおかしいという話になりますが、並のカタログ以上に貴重な印刷物と思われ、スペックも掲載されていることから、自動車カタログ「戦前」のカテゴリーでアップすることとします。また今回は本文で沢山ミニチュアを掲載しますのでオマケはなしとしますNE☆
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★戦前いすゞ車ポストカード (サイズ: 各 縦8.7×横13.5cm)
並のカタログより遥かに貴重かつ史料価値も高いと思われる戦前いすゞ車のポストカード(戦前のいすゞのカタログについては第239回記事「1939年いすゞTX/BX」参照)。
いすゞの社名が現在の「いすゞ自動車株式会社」となったのは戦後4年目の1949年(昭和24年)のこと。戦前は紆余曲折を経て1941年(昭和16年)から1949年に「いすゞ自動車」となるまでは「ヂーゼル自動車工業株式会社」と呼称されていました。今回のポストカードはこのヂーゼル自動車工業時代に発行された戦前物4枚です。全てのポストカードにスペックが印字されています。しかし、カタログではなく、あくまで裏に切手を貼って投函できるポストカードのため、工場見学の折などにセットで配布されたものだったのかもしれません。
●ポストカード(1) 1941年 いすゞBX60型デーゼルバス
戦後まで続く名車BXは1933年(昭和8年)に登場し、BX35・BX40・BX45・BX50、そしてこのBX60を経て、戦後はBX80、BX91と進化した中型バス。
【主要スペック】
全長7455㎜・全幅2170㎜・DA42型5Lヂーゼルエンジン・最高出力85馬力/2500回転・乗車定員:横向き(ロングシート)42名、前向き(ロマンスシート)32名・最高速度70km/h
●ポストカード(2) 1942年 いすゞBB60型デーゼルバス
8リッターDA60型デーゼルエンジンを搭載した大型バス。このBB60と同じエンジンを搭載したTB60型トラックは何れも十字型グリルが特徴。
【主要スペック】
全長8450㎜・全幅2300㎜・DA60型8Lヂーゼルエンジン・最高出力110馬力/2200回転・乗車定員:横向き(ロングシート)54名、前向き(ロマンスシート)45名・最高速度80km/h
●ポストカード(3) 1942年 いすゞTB60型デーゼルトラック
上掲のBB60型バスと同じ8リッターDA60型デーゼルエンジンを搭載した大型トラック。BB60型バスと同じ十字型グリル。
【主要スペック】
全長7810㎜・全幅2300㎜・DA60型8Lヂーゼルエンジン・最高出力110馬力/2200回転・最大積載量7トン・最高速度70km/h
●ポストカード(4) 1943年 いすゞ大型乗用自動車PA10型
欧米からの自動車輸入が途絶え上層部用の自動車を必要とした 陸軍省及び商工省の命令により製作され1943年(昭和18年)9月に2台が完成した大型乗用車。量産されていないためカタログは存在せずスペックの掲載された一般に配布された印刷物はこのポストカードのみかもしれない。いすゞを名乗る戦前の乗用車はこのPA10が有名だが、最初のいすゞ名の乗用車はPA10ではなく、1940年(昭和15年)9月のPK10型四輪駆動乗用車(スミダJC型の改良型:4.4L6気筒ガソリンエンジン搭載98式)と1941年(昭和16年)11月のPK50型四輪駆動乗用車(5.1Lディーゼルエンジン搭載:98式)が存在した。このポストカードには裏面にヂーゼル自動車工業株式会社の他に昭和19年4月を示す印字。この大型乗用車から19年後の1962年(昭和37年)にデビューした、英ヒルマン・ノックダウンを除く最初のいすゞ製乗用車「ベレル」も型式名称はPA10型。
【主要スペック】
全長5500㎜・全幅1800㎜・GA60型4.4L水冷6気筒ガソリンエンジン・最高出力95馬力/3000回転・乗車定員7名・最高速度124km/h
★いすゞプラザ ISUZU PLAZA
今年2017年4月にいすゞ藤沢工場の隣接地に開館した「いすゞプラザ」に行ってきました。現代のいすゞ車から過去のいすゞ車まで展示された施設ですが、過去のいすゞ車については、個人的には、セダンで15万3295台、GTで1万7439台も世に出たベレットが1台もないのが残念です。いすゞプラザで印象的なのは、実車展示よりむしろ1/20スケールの生産工程模型、1/43スケールの歴代車両展示、1/87スケールの自動車も実感的に自走する大ジオラマといったミニチュア群です。1/43スケールの歴代車両展示は、ワンオフのフルスクラッチビルドモデルが多数あり、まだ展示スペースが空いていることから今後も追加されるものと思われます。
【住所】 神奈川県藤沢市土棚8
【電話番号】 0466-41-5811(電話受付は平日10時~17時のみ)
【アクセス】 藤沢・湘南台駅は新宿から小田急の快速急行に乗って48分。湘南台駅東口ロータリーから毎時20分と50分に出ているガーラの無料送迎バスに乗って5分程(湘南台駅西口から歩いても15分程度)。自家用車の場合は圏央道海老名ICまたは横浜新道戸塚料金所から10キロ程度。
【開館日時】 月~金(完全予約制)の9時~17時と土曜・祝日(自由入館日)の10時~17時。日曜日と年末年始・ゴールデンウィーク・お盆期間は休館。
【入場料】 無料。
【ミュージアムショップ】 有。ミニカー、ポストカード、ミュージアムガイド本「メイキングシーン・オブ・いすゞプラザ」(但し初版1000部限定)等を販売。
【トイレ/喫煙所】 有
【館内での写真撮影】 可
【宿泊/飲食施設】有。 いすゞプラザに隣接したプラザ・アネックスにて可能。
●いすゞプラザ外観
ガーラは湘南台駅とを結ぶ見学者用の無料送迎バス
●1/43スケール 歴代いすゞ車の展示
初代エルフ、117クーペ、ベレット1600GT、ベレルなどはエブロやノレブの既製品も含まれますが、大多数はワンオフのスクラッチモデル。これを見るだけでもミニカーやプラモデルなどのモデルカーやいすゞ車に興味がある人なら行く価値はあります。スクラッチモデルは、実車・カタログ・写真・図面等の残っている資料により3Dデータを作成し、エポキシ樹脂を使った光造形法で製作されています。
1922年ウーズレーA9型
1924年ウーズレーCP型トラック
1929年スミダL型トラック
1932年いすゞTX40型トラック
1929年スミダM型バス
1930年スミダLB型バス
1931年スミダTA型92式5トン牽引車
1933年スミダK型乗用車
1935年スミダUH型トラック
1937年スミダJC型乗用車
1943年いすゞ大型乗用車PA10型
1943年いすゞTH10型20トン鉱石ダンプ・・・戦前にオフロードダンプがあったとは驚きです。
1947年いすゞTX61型トラック
1948年いすゞBX91型バス
1953年いすゞヒルマンミンクスPH10型マークⅥ
1954年いすゞTX34A型トラクタ木材運搬車(後ろは1951年いすゞTX11型トラック)
1959年いすゞTD151型トラック
1959年いすゞBC151型バス
1963年いすゞBLD10型ライトバス
1963年いすゞBU30P型バス「オバQ」
1962年いすゞBXD30型バス
1961年いすゞエルフィン
1963年いすゞベレット1800ディーゼル・・・綺麗なブルーメタリックは初期のベレットには存在しないカラーと思います。
1963年いすゞワスプ
1964年いすゞベレット・エキスプレス
●1/87スケール 「いすゞミニチュア・ワールド」
HOスケールの巨大ジオラマに配置された650台の自動車のうち、45台が自走。右左折時にウインカーを点滅させたり、バックしたりする様は見物です。見た目には判りませんが、道路の下に鉄線が張り巡らされており、その鉄線を車体下前部に装着したトレーサーが辿る仕組みになっています。自走車両内部には集積回路(どこをどう走るかという走行プログラムや信号に合わせて停車・発車する動作プログラム)が搭載されています。ウインカーの点滅は信号部近辺の主要ポイントにマグネットが埋め込まれており、そこを通過すると点滅または消灯するよう磁気センサーが作動する仕組みです。フィギュアは3300体も配置されており、物語を感じさせる見せ場も山盛りです。走行する鉄道車両は16番の既製品のようです。ジオラマ全体の出来は素晴らしいのですが、ウェザリングがなく清潔過ぎることと海など水面の表現が鉄道模型のレイアウト(TMS誌等)で見られるレベルに比べると実感に乏しいのがウィークポイントです。
大橋
いすゞプラザ駅
寺社・・・フィギュアの配置も物凄いです。
温泉旅館・・・男湯と女湯に分かれた露天風呂も造り込まれています。
いすゞラリー表彰式
街の遊撃手・・・名CMの再現
●1/87スケール 「いすゞミニチュア・ワールド」 動画
1時間に1回(約15分)、ミニチュアの1日を見られます。
★2017年 超プレミア トミカ狂想曲2 ~ 大動脈瘤 死の恐怖 ~ 遺言の下書きメモ
★1967年の心臓手術と現在の大動脈瘤のこと
(1)1966年(昭和41年)春、小学校に入学した際の就学児対象集団レントゲン検診で私は重篤な先天性心疾患を持っていることが発覚した。トヨタ2000GT市販の約1年前、ビートルズ来日公演を3ヵ月後に控えた頃、両親は医者から「気の毒ですが12歳までは生きられません」「しかし、唯一助かる可能性のある心臓手術は大変難しく成功率は5割以下で失敗すれば命はありません」と言われて悩みに悩んだそうだ。トヨタ2000GTが5月に発売され、7月にはビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発売された翌1967年(昭和42年)の秋、テレビでウルトラセブンの放映が始まった10月のよく晴れた日に小2の私は東大病院胸部外科に入院した。両親は苦渋の思いで手術を選択し、成功に賭けたのである。病室は大部屋で私と同じような先天性心疾患の子供が大勢入院していた。隣のベッドは4年生位のお姉さん、向かいのベッドは私と同年位の男の子、その隣には5年生位のお兄さんが入院していた。入院に際して、もしかするともう家には帰ってこられないとの思いからか、両親は私が欲しがるモノは何でも買ってくれた。そうして買ってもらった高価なカツミのHOゲージの鉄道模型や沢山のミニカーやレゴ・ブロックやらを山のように病室に持ち込んで、私は毎日遊んで過ごした。ある日、隣のベッドのお姉さんの周りに大勢の人が来て(親戚の人だとかだったのだろう)、ストレッチャーで運ばれていったきり、2度とお姉さんは戻ってこなかった。お姉さんは「ポルちゃん、ポルちゃん」と言っていつも私と仲良くしてくれていたのに、その日を境に2度と会うことはなかった。向かいのベッドの男の子とはよく鉄道模型で遊んだことを覚えているのだが、その子もある日、ストレッチャーで運ばれていったきり、2度と病室に戻ってくることはなかった。不思議に思った私は「お姉さんは?」「あの子は?」と母に聞くと、母は涙ぐんで「遠くに行ったのよ」と言うだけだった。私が入院した当時は1956年(昭和31年)に人工心肺装置が初めて臨床に使用されてから未だ10年と日が浅く現在では高い確率で助かる命もなかなか容易には助からない時代だった。手術中に患者の心臓を止めて機械が代わりを務めることで漸く心臓にメスが入るようになったばかりの時代だった。
(2)私が8歳の誕生日を迎えて間もないある日、両親、兄弟、父方母方双方の祖父母が朝から集まって見守られる中、私は手術室に向かった。手術室に入って全身麻酔のためのガスマスクをして意識が遠のいていく時の感覚を今でもボンヤリと覚えている。そして、運がよかったとしか言いようがないのだけれども、成功率50%以下、失敗すれば命はないと言われていた難手術が成功した。当時の心臓血管外科の権威 木本誠二先生(1907-1995:東大胸部外科初代教授)の執刀による長時間の手術が予想以上に上手くいったとの話だった。もし私が10年早く生まれていたならば、手術中に心臓を止めて心臓の代りをする人工心肺装置が未だこの世にはなく手術自体が不可能だったのだから、12歳(=1971年)までには死んでいたことだろう。今の私は大勢の人のお蔭で生かされているのだという思いがある。今では医者からフルマラソンにいきなり出るとかいうことでもしない限り普通に何でもしてよいと言われる体になった。
※以上、(1)(2)は2012年12月21日の「自動車カタログ棚から」シリーズ第99回トヨタ2000GT記事より再録。
(3) ところが、上記の1967年秋の手術から丸50年=半世紀を経た2017年(平成29年)、心エコーで太さ53ミリの大動脈瘤が発見された。瘤が出来ているのは非常にやっかいな場所で、もし破裂すれば私は間違いなく即死するそうである。AEDを使うというような助かる可能性が残されるものではなく破裂=即死だそうである。心臓の胸部大動脈瘤は、大体50ミリを超えれば手術の適応を考えるが、手術の難易度(人口心肺装置を使用しながら脳へ血液を送る血管を一度切断し元通り再建するなど)と予後の悪さ(もし成功しても重篤な後遺症が残る確率の高さ)と現在の生命の危険度を天秤にかけて手術をするかどうかを決めるようである。手術のリスクの高い高齢者の場合などは60ミリ以上を手術適応の基準としているそうである。瘤の肥大を遅らせるには過去の事例から血圧を下げることが有効とのことから、現在、上が120台の血圧を下げる内科的治療をしながら少し様子をみましょうとの話になっているのだが、瘤は縮むことはなく段々大きくなるのが通常であるため、突然破裂して死ぬか、瘤を切除する危険な手術を受けるかどちらが先になるのか判らないという正に恐怖の状況にある。
【遺言のための下書きメモ】
●このアメーバブログが1ヵ月以上、更新されなかった際には私は大動脈瘤破裂で死んでいます(もし手術のため入院した場合でも頭が廻り手指が動けば一言、「入院したよー!手術怖いよー!」などと記事をアップしますので、1ヵ月以上更新しないことは有り得ません)。
なお、アメブロにこれまでアップした記事は私が死んでも、故意に削除されない限り、このまま残ると思います。
●私が死んだ場合、自動車カタログ、ブリキのオモチャ、ミニカー、プラモデルなどは、じゅんいちさんやmaroさんなど信頼のおける人にヤフオクの適切なカテゴリーでの委託販売をして戴くのが希望です。
・正確な数は数えていないのですが、ミニカーは概ね8000台以上(内ブリキ800台程度)、カタログは簡易カタログや限定車のものまで含めると、ミニカー同様に8000~10000部程度あると思います。
・委託手数料は売れた金額の40%位でと考えています。買取りに出した場合、良心的な業者さんでも上代(売値)の半額=50%がいいところですので、売る側にとって買取りに出すよりは少し良いかな程度の条件です。100万売れれば40万となり、しかしヤフーから7%の手数料と出品時の手数料を取られますので約33万弱位になるだろうと思います。いやいや待てよ、そんな手数料が何%だとかケチ臭いことを言わずに信頼できる人には全て無償でお譲りするべきか?
・ミニカーはダイヤペット151番クラウン救急車など同じものが沢山あるものは、必要であれば1台差し上げます。
・自動車カタログも1980年代以降を中心にダブリが多数ありますので必要なものがあれば差し上げます。
・その他、どうしても欲しいモノは差し上げます。
・自動車カタログは、例えば「くじらクラウン10部セット」だとか、「初代セリカ10部セット」だとか、「初代エスクード10部セット」だとかというように、1部ずつ出品するのは大変手間ですので1世代のカタログを纏めて出品して戴いて構いません。
・戦前の自動車カタログも沢山ありますが、「戦前」のキーワードで検索しているコレクターさんが多いため、ヤフオクへ出品する場合のタイトルには「戦前」の言葉を入れて戴くと良いと思います。
・仕事をしながらの出品は大変ですので時間がある時に少しずつということで全く構いません。売却の期限は設定しません。
●他のコレクターさんが亡くなった時の例で廃品回収業者が来て、ミニカー5000台以上が纏めて3万で引き取られたなんて話もあり、そのような悲惨な事態を避けたいのです。某有名ミニカーショップがJMACの重鎮・須永 実氏が亡くなった際にコレクションをそっくり市場価格より遥かに安く纏めて引き取り大儲けしたという有名な話もあります。
●もし私が独り者ではなく結婚して子供もいたなら、術後50年、忌野清志郎やジョージ・ハリスンが亡くなったのと同じこの歳まで生きればもう十分、いつ死んでもいいと諦めもつくだろうと思うのですが、恋女房や子供もなく、そもそも根が欲深い所為か、まだまだ生きたい、誰かに愛されてみたい、まだ死にたくはないといった欲があるのです。よく考えれば私の場合は死んで悲しむ人がいない分、死んでも周りにあまり迷惑をかけないで済むとも言えるのですがNE(大汗)。
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★高額トミカ
高額トミカについては2017年2月25日にもピックアップしていますので、今年2回目となりますが、今回は極く最近のネットオークション(主にヤフオク)で高額となったトミカを記録として残しておくこととします(トミカの高額モデルについては2013年11月初めにも記事としています)。普通のサラリーマンの財布の中身が重く、ついつい気も大きくなるボーナス時期ということも手伝って高額落札となっている面もありそうですが、出品する方もわざとボーナス時期を狙って出品しているような気がします。輸出向けやギフトセットのバラであっても、より高値が付きやすく売りやすいように通常品の箱がわざと付けられています。落札する方も、このレアトミカだけは絶対ボーナスでGETしておこうという気持ちで落札していそうですよNE☆☆
●88-2-148 ミニクーパーS MKⅢ 1962年モンテカルロラリー 英トラフィック特注 10万2000円
トミカのミニ1台で10万超えとはビックリです。このトミカは白箱がオリジナルのようです。
●F65-1-10 ランボルギーニ・チータ赤十字 輸出向け 10万2000円
6ケタ超えとはビックリです。
●82-1-12 ケンメリGT-R 緑メタ牽引フックなし 輸出向け 9万7350円
オバフェンを付けた後期金型の輸出仕様。
●85-1-6 230グロリア2ドアHT 薄青メタ/赤シート 5万2000円
最初に売られたクリームボディは赤シートでしたので、カシメを外してシートを入れ換えれば簡単にこれと同じものが作れそうです。
●F2-1-4 キャデラック・フリートウッド・ブローアム 紫 アメリカ輸出向け 7万1100円
この紫はUSトミカ専用。
●15-4-13 フェアレディ300ZX 空色 欧州輸出向け 5万1000円
空色/銀のツートンはギフトにありましたが、空色1色は輸出向けのみ。
●F8-1-1 ダッジコロネット・カスタム・ポリスカー 1Eホイール 2万3000円
青箱初期の旧ホイールは本当にあっという間に市場から消えたのでレアです。このコロネットのノーマル、タクシー、ファイヤーチーフの1Eも同時出品されてどれも高額でした。
●39-3-3 スズキキャリイ家畜運搬車「プレイセット動物園バラ」 11万3000円
相変わらず動物を載せたトミカの超高値が続いています。この金額を出すのなら、プレイセット動物園が出るのを待っていた方が良い気がします。
●G132 はたらくじどうしゃセット 11万2000円
魅力的なギフト。これは当時定価で買っていますが、こんなに高額なら売ってもいい気がします。
●G99 プレイセット ガソリンスタンド 8万1000円
これも430タクシーのバリエーションが欲しくて当時定価で買っていますが、これまたビックリ仰天の高値です。
★オマケ(その1): トミカ46-2番 1/58スケール 1978年 童夢-ゼロ のバリエーション
ヤフオクでお借りした画像ばかりではつまらないということで、手持ちのトミカからオマケに少しだけアップしておきます。全長7cm。1979年1月発売。当時物は大まかにはこの4色だったようです。21世紀に入りトミカリミテッドでも出ています。スーパーギフトに入っていたのも黄色でしたが、画像に写っているイエローは「DOME」の派手なタンポが入った輸出仕様です。1978年3月のジュネーブ・ショーでデビューしたハヤシレーシングの童夢ゼロは日産L28型145psエンジンを搭載し市販を計画したが、当時の運輸省が何故か認可どころか型式申請も受け付けず。生産台数1台のみ。実車は現存。大きなミニカーは1979年のル・マンに参戦した童夢-ゼロRL(コスワースDFVエンジン搭載)。永大グリップテクニカと同じ1/28スケールでカドー(可堂玩具)がリアルタイムで販売したK&M製作のダイキャストモデル。ズッシリと重い上になかなか良い出来です。カドーはこの流麗なスタイルのRLを1/43でも出していました。
カドー(K&M) 1/28スケール 童夢-ゼロRLフォード 1979年ル・マン
★オマケ(その2): #9 Dream(邦題:夢の夢) John Lennon 1974
最後は今日の気分で1曲。この曲、リアルタイムで聴いて以来ずっと好きなんです。
【Lyrics】
So long ago
was it in a dream
Was it just a dream?
I know, yes, I know,
seemed so very real
It seemed so real to me
ずいぶん前のことだけど
あれは夢だったのかな?
ただの夢だったのかな?
いや、そうじゃない 覚えてるよ
とってもリアルに感じたんだ
僕にはリアルに感じたんだ
Took a walk down the street
Through the heat whispered trees
I thought I could hear
Hear, hear, hear
通りを歩いていたんだ
暑さで木々たちもザワザワ囁いていた
そしたら聞こえたんだ
うん、たしかに聞こえたんだ
Somebody call out my name
“John…、John…”
As it started to rain
Two spirits dancing so strange
誰かが僕の名前を呼んだんだ
“ジョン…”
雨が降るのと同時にね
二つの魂がダンスを踊ってたんだ
とても不思議な感じだった…
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Dream, dream away,
magic in the air
Was magic in the air?
I believe, yes, I believe,
more I cannot say
What more can I say?
夢かな? ただの夢かな?
空に漂う魔法なのか
空に漂う魔法なんだろうか?
いや僕は信じる 本当のことだったんだ
それ以上は言えないよ
僕にはそれ以上言えないよ
On a river of sound
Through the mirror go 'round, 'round
I thought I could feel
Feel, feel, feel
音が川となって
鏡を抜けて輪を描いていたんだ
そのとき感じたんだ
そう 僕は確かに感じたんだ
Music touching my soul
Something warm, sudden cold
The spirit dance was unfolding
音楽が僕の魂に触れたんだ
何かこう暖かくなっては
すぐに冷たくなるような
魂のダンスが広がっていったんだ
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
Ah, bowakawa pousse, pousse
★米澤玩具(ヨネザワ) 1960年縦目のセドリック ~ ブリキ自動車コレクションから 007
★もう12月も半ばを過ぎて、今年も残り2週間ですね。正にあっという間に1年が終わるという感じがします☆しかし、仕事が忙しい上に大掃除やら正月を迎える準備やらで年末は何かとバタバタしますよNE☆
★アメブロのジャンル分けが今年2017年の春に変更となり、新しいアメーバの公式ジャンルではこれまでのように複数のカテゴリーを選択することは出来ず何れかのジャンル1つを選択することとなった際、私は取り敢えず、「クルマ好き」というジャンルを選びましたが、「クルマ好き」では鉄道関連の記事やクルマ以外の模型関係記事などで「クルマ」から話題が離れてしまうため、「コレクション」のジャンルに変更しました。「クルマ好き」ジャンルは参加者数が多いため2桁順位(100位以内)に入るハードルが高かったのですが、「コレクション」ジャンルは「クルマ好き」に比べると参加者数が少なく、ジャンル内で2桁以上の順位をキープしやすいようです。まあ、しかし、順位などに拘らずに自分の好きなことを書き綴ることが一番大切ですよね☆☆
★アメブロのマイページを開くと毎日、その日のアメブロユーザーの運勢が1~12位と表示されますが、実は私、占いが結構気になり、また信じやすいところがありまして(以前、カー&ドライバー誌に占い頁が出ていた頃はクルマの記事より真っ先に占い頁を見る程でしたw)、アメブロでも運勢が1位だと何だか気分爽快な1日になり、12位だとか悪い運勢だと気分の落ち込んだ1日になりがちです(←単純w)。みなさんはそんなことはないですか?占いを信じやすいというのは、催眠術などにも簡単にかかる性格ってことなのかもですよNE☆☆
★閑話休題
今日は久々にブリキ自動車の記事です。「ブリキ自動車コレクションから」シリーズの第7回記事として米澤玩具(ヨネザワ)のレアな初代縦目のセドリックをピックアップします。
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★国産高級車と言えば、かつてはクラウン・セドリック・グロリアが御三家だった。クラウンは初代が1955年(昭和30年)、グロリアは1959年(昭和34年)にデビューし、御三家の中で一番遅くデビューしたのは1960年(昭和35年)のセドリックであった。
日産自動車は戦中戦後の技術の立ち遅れを取り戻す目的から戦後1952年(昭和27年)に英国BMCと技術提携契約を結び当初はオースチンA40サマーセット、1955年(昭和30年)からはオースチンA50ケンブリッジをライセンス生産していたが、BMCとの契約期限であった1960年(昭和35年)3月にオースチンに代わる純国産中型車として「ニッサン セドリック」(G30型)を発表、翌4月1日付で発売した。タテ4灯の印象的なヘッドライトから所謂「縦目のセドリック」として親しまれた初代セドリックの前期型である。
★初代セドリック の構造的な特徴としては英オースチンのライセンス生産で学んだモノコック構造を採用してフレームレスとしていたことが挙げられるが、タテ4灯ヘッドライトと左右に大きく湾曲したパノラミック・フロントウインドウといったインパクトのあるデザインが最も大きな特徴であった。
そのデザインは当時のアメリカ車を参考にしつつも日産独自の独創的なものであり、それが現在も日本の名車として語り継がれる所以であろう。初代の社内デザインから一転してピニンファリーナへデザインが委託された2代目セドリック(130系)がセールス面で苦戦したのは、そのデザインが大きな要因であったと言われるのは皮肉な話である。
★最初のセドリック は当時の小型車規格内の1500ccのデラックスおよびスタンダードの2グレードみで、1960年(昭和35年)9月に小型車規格が排気量2000ccに引き上げられた際に1900ccのカスタムを追加発売、1961年9月に細部意匠をマイナーチェンジ、更に1962年10月のマイナーチェンジではヘッドライトが横4灯の所謂ヨコ目のセドリック(初代後期型)となった。
初代セドリックがデビューした1960年(昭和35年)はまだ大卒初任給1万2000円程度の時代であったため、最初のセドリック・デラックスの101万5000円という価格は現在の貨幣価値では1500万円前後に相当し一般大衆にとっては正に夢の存在であったと言える(縦目のセドリック・セダンの実車カタログについては2012年9月23日の「自動車カタログ棚から」シリーズ第59回記事、初代セドリック・バン/ワゴンの実車カタログについては2013年7月26日の同シリーズ第157回記事参照)。
★ミニチュア世界の縦目のセドリック
庶民にとって夢の存在であった最初のセドリックは模型・玩具のモチーフとして好んで採り上げられ、実車の販売とリアルタイムに各社から夥しい種類のミニチュアのセドリックがリリースされた。リアルタイムではなく往年の名車となってからも、カドー(可堂玩具)、エブロ、ノレブ/イクソ国産名車(1/43・1/24)、日産名車(1/43)、トミーテック「トミカリミテッドヴィンテージ」等がモデル化している。
【リアルタイムにリリースされたミニチュアの縦目のセドリック】
・木製ソリッドキット・・・・・田宮模型・日東文化教材社(NBK)・etc
・黎明期のプラモデル・・・・・山田模型(ヤマダ)・緑商会(ミドリ)・三和模型(サンワ)
・ミニカー・・・・・旭玩具製作所モデルペット10番・大盛屋酒井通玩具ミクロペットフリクションシリーズ5番
・ブリキ製品(金属玩具)・・・・・一宏工業(イチコー)・大中小3サイズもリリースしたSSSインターナショナル(サンエス商事)・米澤玩具(ヨネザワ)
・最初のセドリックの実車にはバン・ワゴンボディも存在したが、ミニチュアの世界では大盛屋がチェリカフェニックス2番のアンチモニー製ミニカー、旭玩具製作所(アサヒ)・高徳(タカトク)・米澤玩具(ヨネザワ)がブリキ製でバンボディの製品をリリースした。
★米澤玩具の1/15スケール初代セドリック・ブリキ玩具
・全長30cm(実車比:1/14.7スケール)
・全幅11cm(実車比:1/15.3スケール)
・ホイールベース16.3cm(実車比:15.5スケール)
・基本素材:ブリキ
・動力: 前輪フリクション・モーター
・発売時期(推定): 1961年(昭和36年)
・当時定価: 不明
プロポーション、細部ディテール、実車イメージの再現では一宏工業(イチコー)製品に劣るものの大柄なボディには存在感があり、独特にデフォルメされた造形が深い味わいと良い雰囲気を醸し出している。ノーマルセダンのボディカラーは青メタと茶メタ。東京駅構内タクシー、警視庁パトカー、セダンの金型を流用して製作されたバンのバリエーションあり。何れも現存する個体が少ないことから、恐らく販売期間は短かったものと思われる。この米澤製の初代セドリックは、箱付・箱なし・ジャンクといった状態の如何を問わずアンティーク玩具市場に現れることは稀で、玩具本来の天寿を全うしかけたような箱なしズタボロ・ジャンクの状態であっても殆ど見かけない。箱付美品の現存数は何れのバリエーションも恐らく一桁以下(?)。ノーマルセダンの箱付ミントは15年程前に売価50万円で、バンの箱付ミントは10年程前に売価100万円で、何れも一度だけアンティーク玩具市場に現れたのを見た。タクシーとパトカーは箱付が手元にあるが、箱なし本体のみは時たま見かけても箱については他で見たことが過去40年(1977年にブリキ自動車のコレクションを始めてから現在まで)で一度もなく箱の現存数は非常に少ないと思われる。
【2016年 評価額】
箱付ミント45~75万円程度。箱なし美品15~30万円程度。現存する個体が少ないため、上述の通りバンでは過去に箱付100万での取引例もあり、市場相場はあってないようなもので評価額はあくまで目安。この年代の自動車を懐かしいと思う世代の高齢化でビンテージモデル(ミニカー含む)の市場価格は下落傾向にあるが激レアモノに限っては比較的高値安定の傾向にある。
●1960年ニッサンセドリック東京駅構内タクシー
米澤玩具品番: 10977。小さなミニカーは大きさ比較用のトミカリミテッドヴィンテージ。





稀少な箱


シャシー裏はプリント表現

●1960年ニッサンセドリック警視庁パトカー
米澤玩具品番: 10986。






稀少な箱

●1960年ニッサンセドリック・デラックス(ノーマル)
ブルー・メタリック



室内プリントは比較的実車に忠実

ブラウンメタリック
これは珍しくルーフ上に貼られたオリジナルシールが綺麗に残っている個体。



工場出荷時のルーフシール

●1960年ニッサンセドリックバン
セダンの金型にアメ車のルーフパーツを組み付けて無理矢理バンに仕立てたと思われる製品。



●米澤玩具の縦目のセドリック全員集合



★オマケ(その1): 1964年トヨタパトロールFS40型 警視庁通訳パトカー
2017年12月16日(土)付け朝日新聞夕刊に掲載された、1964年の東京オリンピックの折に活躍した外国人通訳用の警視庁パトカーの写真。ボディサイドとフロントガラスには「INTERPRETER」の文字。2代目クラウンベースのパトカーは多数警視庁に納入されたが、オリンピック期間限定の外国人通訳用パトカーの写真は珍しい。撮影場所は国立代々木競技場前。パトカーの前に立っている人は当時37歳で警視庁の「通訳警察官」を務めた原田弘氏(1927~)。

★オマケ(その2): 1964年の東京駅丸の内口のタクシー乗り場
この写真は以前にも紹介していますが、縦目セドリック東京駅構内タクシーの貴重な実働中の画像として再掲載。自動車史/自動車文化史研究の第一人者・五十嵐平達氏が編集した玉川こども百科第4巻「自動車」(1965年6月改訂版・誠文堂新光社発行)より。恐らく撮影も五十嵐氏と思われます。右下に1963年秋にMC後の1964年式2代目クラウンRS40系タクシーが写っているので恐らく撮影は東京オリンピックの開催された1964年(昭和39年)。

★オマケ(その3): 銀座天賞堂の16番レイアウト「夏之海鉄道」 動画
山崎貴監督最新作、映画「DESTINY 鎌倉ものがたり」に天賞堂の鉄道模型が多数登場することで話題になっている銀座天賞堂を久々に覗いたら3Fの鉄道模型売り場に16番(日本型1/80スケール)のレイアウト(サイズ2500㎜×1400㎜)が設置されていました。レイアウトで列車が走行するリズミカルなジョイント音を聴くのは何とも楽しいものです♪
★1949年 日野トレーラーバス 終戦後の恐竜バス ~ 自動車カタログ棚から 368
★今日はクリスマスイヴですね♪今日の東京は夜遅くには雨が降り出すようですが、クリマスにはやはり雪が見たいですよね。イブは恋人さんとお手て繋いで街のイルミネーションを見てからホテルでディナー&お泊りなんていう人が世の中多いのでしょうか。恋人さんもなくイヴやクリスマスを一人で過ごすことを近頃は、「クリぼっち」(クリスマスと1人ぼっちの合成語)と言うそうです。ワタシはもう永いこと悲惨な「クリぼっち」でして、吉祥寺駅前の不二家でケーキを買ってきて一人で食べるなんていう例年のパターンになりそうです(爆悲)
★12月9日に公開された西岸良平原作/山崎貴監督の映画「DESTINY鎌倉ものがたり」を例によって1人で観てきました(爆悲)
勿論、個人的に邦画で一番好きな1985年に公開された大林宣彦監督の「さびしんぼう」には敵いませんが、時空を駆け巡るところは似ています。「鎌倉は霊力に覆われ人間と魔物や妖怪が共存しており、鎌倉警察署には心霊課と呼ばれる部署もあって魔物がらみの事件にも対応している。」という設定も鎌倉らしくて不自然な感じがしません。主人公の愛車が父親から受け継いだ1958年メルセデスベンツ220SEクーペ、鎌倉警察署の2代目・3代目クラウンパトカーや130後期セドリックパトカーなどの旧車も登場します。130後期が登場するということは時代設定は1960年代末あたりなのでしょうか。銀座・天賞堂の紙袋を下げて家に帰ってきた主人公が新妻にダイキャスト製の機関車は何十万もするブラス(真鍮)製では考えられない程安いんだと話をするところは、ブラス全盛でダイキャスト製品は存在せず16番の機関車も2万円前後で買えた時代設定とはズレていますが、鉄道模型に熱中する主人公をみて「子供みたい」と引いてしまう新妻というのは現在でもありそうな話ではあります。本物の江ノ電やVFXの鉄道車輛も随所に出てきます。洋画に比べてCGのレベルが低いとか話の詰めが甘いといった意見もありますが、テンポがよくグイグイ引き込まれます。泣ける上に子供と一緒に家族でも楽しめるファンタジー作品に仕上がっています。個人的には死神役の安藤サクラさんが一番いい味出してると思いましたYO☆
★閑話休題
さて今日は、1/43スケールの精巧なミニチュアなどと併せて終戦後に活躍した日野トレーラーバスのカタログをご紹介することとします。今回はカタログもオマケのミニチュアも大物揃いです☆☆
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★1942年(昭和17年)、ヂーゼル自動車工業株式会社(いすゞ自動車の前身)の日野製造所が独立して日野重工業株式会社となり軍用装軌車の生産を開始した。戦後、1946年(昭和21年)に軍需産業から民需産業へと転換し、日野産業株式会社に改称、幸いにも都下日野市の戦火を免れた生産設備を使用してセミトレーラートラック用トラクタT10型及びディーゼルエンジンの生産を開始した。
T10型トラクタに搭載されたエンジンは空冷DA54型10.85L115馬力で戦時中に一式装軌式兵員輸送車及び一式半装軌装甲兵車に搭載されていた統制型100式エンジン(国内の各メーカーでボア120㎜×ストローク160㎜に規格が統一されたエンジン)の一つであった。
★1947年(昭和22年): T11型/T11B型
最初のマイナーチェンジが行われ、セミトレーラートラックはT11型に進化すると共に同年8月に最初のトレーラーバスが誕生した。型式名はT11Bトラクタ(=Bはバスの意味)及び後輪2軸のT25トレーラーであった。このT11トレーラートラック用トラクタ及びT11Bトレーラーバス用トラクタでは、搭載エンジンが98式6トン牽引車に搭載されていた水冷6気筒DA54A型に変更された。
★1948年(昭和23年): T12型/T12B型
T12トレーラートラック用トラクタ及びT12Bトレーラーバス用トラクタにマイナーチェンジ。このMCは外観の変更を伴わないエンジンをメインとした小変更であった。同年12月1日付にて日野ヂーゼル工業株式会社に改称した。
★1949年(昭和24年): T13型/T13B型
T13トレーラートラック用トラクタ及びT13Bトレーラーバス用トラクタに最後のマイナーチェンジ。最後のMCはビッグマイナーと言えるもので、トラクタヘッドはT12/T12Bまでのホイールベース3700㎜が3450mmに250mmも短縮され市街地や狭隘路での取り回しを容易にし、外観もそれまでの無骨な角ばったフェンダーが丸味を帯びたスマートで近代的なものに変更された。またバスのトレーラーは従来の後輪2軸が1軸のT26型に変更された。それまで余裕をみて設計されたトレーラー後輪2軸は実用上1軸でも問題なしと検証されたための1軸化であった。エンジンも小変更を受けてDA55型に変更された。1951年(昭和26年)生産終了。
★日野の単車(TH型トラック及びBH型バス)のデビューは1950年(昭和25年)のことである。何故、日野は単車より先にセミトレーラーを製造したのか。それは終戦後の極度に車両が不足した状況の中で、1台で最大の荷物を積載し、1台で最大の乗客を乗せることを考えた結果であった。
同じ発想で造られたトレーラーバスは日野だけではなく、ほぼ同時期にダイヤモンドTのヘッドを使用した金剛トレーラーバスが東京都交通局や京成バスなどで運用された。セミトレーラーの旋回性能は優れていたとはいえ、14mに近い巨体は走る場所・路線を選ぶこととなり、大型バス(単車)の普及により、トレーラーバスは遅くまで運用が続いた地方都市であっても1960年代に入る頃までには絶滅したと思われる。
【主要スペック】 1949年日野トレーラーバスT13B/T26 (1949 Hino Trailer Bus Type.T13B/T26)
全長13850㎜・全幅2400㎜・全高3050㎜・ホイールベース3450㎜(トラクタ)/6000㎜(トレーラー)・車重11400kg(トラクタ4900kg/トレーラー6500kg)・DA55型水冷6気筒ディーゼル10850cc・最高出力115ps/1800rpm(標準馬力80ps/1200rpm)・左ハンドル・変速機5速フロアMT・乗車定員96名(座席41名・立席51名・その他4名)・電装系12V・燃料タンク容量120ℓ・ボディ製作:日國(京都)・最高速度52km/h(標準速度37km/h)
●1949年 日野ヂーゼル・トレーラーバス/トレーラートラック カタログ (A4判・日本語4つ折8面)
最終型T13トレーラートラック用トラクタ、T13Bトレーラーバス用トラクタのカタログ。このカタログの時点で単車TH/BHは未だデビューしておらず、日野の製品はトレーラー車だけであったため、日野ヂーゼルの沿革や工場設備の概要なども掲載された事実上の総合カタログ。トレーラーバスのトラクタヘッドに乗る女性が華を添えた魅力的な表紙。
【中面から】
日野トレーラーの特徴
DA55型エンジン、客室(ロマンスシート仕様)
図面
150人乗の印字
回転図
トレーラートラックも掲載
裏面: スペック
トレーラーバス・スペック
●1949年日野トレーラーバスT13B/T26 公式写真
●1947年 日野産業・トレーラーバス/トレーラートラック カタログ (B6判・日本語2つ折4面)
残念ながら、これは原本ではなく日野オートプラザで購入した復刻版。会社名が戦後2年強しか使用されなかった日野産業であることに注意。表紙には150人乗の文字、カタログ内面には最大250名位乗車可能の記載があるものの仕様欄には定員96名の印字。詰め込めば幾らでも乗れますという意味と推察。フェンダーが角ばり、トレーラー後輪が2軸のT11B(もしくはT12B)トラクタとT25トレーラー。「再建日本.唯一最大のトレーラーバス」「強力・経済・快適」のコピーが踊る。
【本車の特徴】
1)1台当たりの乗車人員の大なること
乗車定員は96名、最大250名位乗車出来ますから現下交通難打開に最も理想的であります。また普通バスの4台分に当ります故、諸経費キロ当たり普通バスの2分の1で済みます。
2)燃料僅少なること
使用燃料は軽油重油等の低級燃料ですからガソリンに比して安価にして消費量は定員積載時1キロ当たり0.35リットルで普通バスと大差ありません。従って定員1名当たりの燃料費は3分の1以下で済み燃料の入手も容易であります。
3)実働日数の大なること
トレーラーバスの連結器は型式、年式の如何を問わず共通して居りますから牽引車(=トラクタ)を余分に有する事に依り故障の場合も牽引車を交換し運転する事が出来、普通バスの如く車体を休車させることなく実働日数は増大し経費の節約を計ることが出来ます。
4)部品の豊富なること
部品は厳重なる検査の下、多量に製作をなし豊富に貯蔵してあります。サービスには万全を期して居ります。
5)その他
ブレーキは空気制動式でありますので確実安全であります。なお回転半径直角道路の通過等はセミトレーラー型式の為、運転に当っては普通バスと大差ありません。
裏面: DA54型水冷式ヂーゼルエンジン
●1947年日野トレーラーバスT11B/T25 公式写真
●1955年大井町駅前 五十嵐平達氏がカメラで捕えた東急の日野トレーラーバスT13B/T26
自動車史/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏は、巨大漢を見事一発で90度ターンさせて狭い路地に入れてしまうのは正に名人芸であった旨を記されている。狭い路地に日野のヘッドがぬっと顔を出した光景は正に恐竜を思わせ、魅力に溢れている。(ネコ・パブリッシング「カー・マガジン」№141・1990年8月号より)
珍しいリアビューの写真。ストップランプ兼ウインカーが左右に1個ずつ確認できる。
★オマケ(その1): モデル・カーズ限定販売 1/43スケール 1949年日野トレーラーバスTB13/T26 東京都交通局
全長32cm・全幅6cm。レジン製。ネコ・パブリッシング笹本健次社長の幼少期の思い出として残るトレーラーバスを1997年(平成9年)にキット・完成品併せて200台の限定でモデル・カーズ誌上で販売したもの。キット:税別2万1000円、完成品:税別8万5000円。モデル・カーズ第33号(1997年4月号)に五十嵐平達先生も貴重な原稿を寄せたトレーラーバスの小特集が組まれ、特集の最後に1/43モデルの販売が告知された。注文先は横浜市青葉区のジャパンオートパーツサプライとなっている。画像は当時の完成品ではなく、キットで入手しておいたものをプロモデラー・北澤志朗氏に最近仕上げて戴いたもの。素組ではなく各部に手が加えられている。東京都交通局にはトラクター/トレーラー計22セットの日野トレーラーバスが納入された。アイボリーの1950年式ポルシェ356クーペはミニチャンプス製。この年式の356は三和自動車の正規輸入開始前のため、駐留米軍人が日本に持ち込んだという設定としましょう。
矢印型方向指示器やバックライトは車両新製時には付かず後年付けられたもの。
トラクタの室内。見切りを良くするため日野トレーラーバスは左ハンドル。
後部窓から見た客室室内。トラクタとの接合部は円形のシートとなり床が高くなっている。
モデル・カーズ1997年4月号に掲載された発売記事
★オマケ(その2): DDF(Diorama Display Factory) 1/87スケール 1949年日野トレーラーバスTB13/T26 東京都交通局
全長17cm・全幅2.8cm。プラスチック製。2001年発売。定価:税別15000円。京王、東急、川崎市営等の事業者違いのバリエーション有。日野がノックダウン生産したルノー4CVは仏ノレブ製。
オマケ1との並び
★オマケ(その3): 日野ヂーゼル特製 1/25? 日野トレーラーバスTB13/T26 東京都交通局
これは2011年に江戸東京博物館で開催された、「東京の交通100年博」(都営交通100周年記念特別展)に展示された模型。画像ではサイズは判らないと思いますが、全長50cm位ある巨大な木製模型です。台座に日野ヂーゼル工業株式会社の記入があることから、当時、日野ヂーゼルが実車納入時に東京都交通局に寄贈したものなのでしょうか?経年の割に保存状態は良好です。
★オマケ(その4): TAICOTOY 1/50スケール程度 アメ車ヘッド・トレーラーバス
全長26cm・全幅5cm。ブリキ製。箱に「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の印字。GHQ占領下の1947年~1952年までに製造販売されたオキュパイド・ジャパンのブリキ玩具。トレーラーバスのブリキ玩具は数種類確認されていますが、何れも稀少で滅多にアンテーィク玩具市場に現れません。これは1950年あたりのビュイックのような顔のヘッドに吹き付け塗装を施したトレーラーを付けた箱付未使用の珍品。
オキュパイド・ジャパンの印字
★オマケ(その5): 絵本の表紙を飾った日野トレーラーバス
1) 京都・東山書房「じどうしゃ」 (B5判・12頁)
1950年2月10日発行。絵:安井小彌太画伯。大阪ナンバーの角ばったフロントフェンダーにトレーラー後輪2軸の1947~48年日野トレーラーバスT11~T12/T25型に乗って遠足に行く物語。全編にトレーラーバスが主役として登場する絵本。
中頁: 高架を走るEF58旧型と大阪ナンバーのトレーラーバス
2) 光洋社の保育絵本「乗物ずくし」 (B5判・12頁)
絵:梅本 洵画伯。発行年の印字なしながら、表紙絵のメインが1949年日野トレーラーバスT13/T26のため1950年代前半の発行と推定。トレーラーバスは表紙のみで残念ながら中の頁にはトレーラーバスは登場しない。
★オマケ(その6): 2017年映画「DESTINY鎌倉ものがたり」予告篇
2017年12月9日全国東宝系公開中。
★童友社1/32ジャガーXK120 ポルシェカレンダー ~プラモデル・コレクションから 006
★★さて、2017年も残り僅か。みなさんはどんな1年でしたかぁ~?
今年も拝ブログに御訪問いただき、本当に有難うございましたぁ~☆☆
★人として生まれたなら誰しも人生最大の夢というか人生最大の目標である結婚という大きな目標を達成した人も達成できなかった人も、あるいは、もう目標達成まで秒読み段階に入っているなんて人もいるだろうと思いますが、ワタシは今年も目標を達成出来ずに、また独り者のまま新年を迎えることは99%確実という悲惨な状況となっています(大汗)。まあ、しかし、世の中には20代前半位で結婚という人生の最終目標を達成してしまう人も大勢います。20代前半での目標達成というと、ビートルズが1964年に世界的な成功を収め巨万の富を得た時、メンバー全員がまだ20代前半だったことを思い起こしますが、そうした人は残りの60年位の人生がバラ色になる可能性も高いということになりますよね。ワタシのような歳になると、人から「その歳にもなると普通は何かと面倒だし御一人様の方が気楽って言う人が多いのに、まだ結婚したいだなんてキミも相当変わってるね~」などと言われますが、変ってても全然いいのです。まあ、しかし、ワタシのようなモテない高齢独身者が今更ジタバタしても始まらないですよね~(爆悲)。
★2017年は日本の交通事故死者数が、1948年(昭和23年)に統計を取り始めて以来最小の3700人を割込みそうな状況だそうです(12月27日現在3637人)。過去の最小は統計を取り始めた直後、1949年(昭和24年)の3790人で今年はその数字を下回ることが確実の情勢となっているようです。交通事故死者数が最も多かったのは、国内の自動車登録台数が飛躍的に増えた高度経済成長末期の1970年(昭和45年)の1万6765名で、1日当たり45人位が命を落としていた計算になります。当時の自動車の登録台数は1652万台。ところが、2017年(平成29年)の国内の自動車登録台数は8126万台と1970年の約5倍に増えています。事故死者数が過去最少だった1949年の自動車登録台数は32万台で現在は何と254倍に増えているにも関わらず、1949年と同レベル以下にまで交通事故死者数が減ったことは驚きです。事故死者数が激減したのは、道路の整備や自動車そのものの安全性能が飛躍的に上がったことに加えて、飲酒運転の厳罰化や日本人の運転モラルの向上、救急・医療技術の向上も要因として挙げられそうです。
自動車の安全性能では1969年春に生産車へのシートベルト装備が義務化されたことに始まり、エアバックなど種々の安全装備が追加され現在では衝突被害軽減ブレーキの装着も義務化される方向にあります。将来、自動運転が主流になれば、事故はシステムトラブルによるものに限られ、人間が引き起こすことはなくなる可能性もあるのではないでしょうか☆
★閑話休題
貧乏暇なしと言うべきか、年末年始も何かと忙しくて時間がありませんでして、今日は極く簡単に童友社のジャガーXK120ドロップヘッドクーペのプラモデルをご紹介しますNE☆☆
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★童友社は1951年(昭和26年)に有限会社として設立され、2017年現在も東京都荒川区荒川で存続しているプラモデル・メーカー。
1960年代、1/32スケールのマジックモーターカー・シリーズ(ダイハツP5・日野サムライ・コスモスポーツ・日産R380-Ⅱ・トヨタ2000GT)と共に今回ご紹介するリモコンのジャガーXK120が子供の頃の思い出に残っています。ジャガーについては、半世紀を経ても当時、組み立てた記憶が鮮明に残っていて個人的に猛烈に懐かしいプラモです。童友社が1960年代後半に当時の花形Eタイプではなく旧いXK120を模型化したのは、恐らく倒産したサンワ(三和模型)の金型を引き継いだためと思われます。
【童友社の歴史】 (同社ホームページより抜粋)
・1937年(昭和12年)・・・創業者内田一雄氏が、東京荒川区にて紙製玩具の製造を開始。
・1951年(昭和26年)・・・6月4日、資本金150万円にて、当時の荒川区三河島町に有限会社童友社を設立。
・1962年(昭和37年)・・・プラスチックモデルの生産を始める。
・1964年(昭和39年)・・・紙製玩具の生産を中止し、プラスチックモデル専業メーカーとなる。
・1965年(昭和40年)・・・レーシングカーブームにより、プラモデルメーカーとしての基礎を確立する。
・1971年(昭和46年)・・・埼玉県越谷市に工場兼倉庫を建設。
・1978年(昭和53年)・・・『日本の名城シリーズ』発売開始。
・1985年(昭和60年)・・・『1/12 ビッグスケールカーシリーズ』を発売開始。
・1992年(平成4年)・・・『ノスタルジックカーシリーズ』発売開始。
・1995年(平成7年)・・・資本金1000万円に増資。
・1996年(平成8年)・・・有限会社より株式会社童友社に改組。
★童友社 1/32スケール リモコン・ジャガーXK120
・発売時期: 1967年(昭和42年)?
・箱サイズ:縦14×横30.6×高さ4cm
・本体サイズ:全長13×全幅5cm
・縮尺: 1/32
・素材: プラスチック
・モーター: キットに附属
・ギミック: 遠隔(リモコン)操作による前進・後進・右左折
・当時定価: 250円
シャシー、メッキパーツ他
リモコンBOXパーツ他
組立説明書
初版はこのスロット仕様
★オマケ: 2018年ポルシェ・オフィシャルカレンダー
1980年代半ばの三和自動車の時代からもう30年以上も使い続けているポルシェの大判オフィシャル・カレンダー。縦55.5×横59cm。ポルシェ・ジャパン正規ディーラーの他、オンラインショップでも購入できます。実は過去のポルシェのカレンダーも30数年分、捨てずに全て保管してあります(汗)。基本的にカレンダーはその年の新車の写真がメインとなっているため、過去のカレンダーを見れば、911であれば930の時代から964、993、996、997、991と歴代の911をオフィシャルの美しい写真で楽しむことが出来ます。日本で過去30年以上もポルシェのカレンダーを大切に保管している人はそんなに多くはないかもしれません?カレンダーには金属製のメダルが付属し、このメダルだけを集めている人もいるようです。ポルシェのオフィシャル・カレンダーは1950年代の356の時代から作られており、1960年代以前のものは非常に入手が難しいです。
2018年表紙: 911GT2RS
1月: 919ハイブリッド
2月: 911GT3
4月: 911ターボS
6月: 911RSR
8月: 911タルガGTS
2018年のメダル: 911GT2RS
★1954年 MG TFミジェット モータースポーツ火付け役 ~ 自動車カタログ棚から 369
★2018年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます☆☆☆
★★さて、お正月ですNE。もう初詣には行かれましたか?幸せな1年となるようお祈りして来ましたか?お正月休みで海外旅行、国内旅行、あるいは故郷に帰省などで、出かけているよーという人も多いのでしょうね。一方、あまり遠くへは出かけずに家でまったり過ごす寝正月が一番という人もいるでしょうね。正月は雪に埋もれた温泉旅館などに泊まって露天風呂に入るなんていうのが私の夢なのですが、何しろ独り者ですと温泉旅館に正月に1人で泊まるというのは、いい歳して恋女房や子供といった家族もいない独り者では体裁が悪くこっ恥ずかしいものですから、やはり、いつか恋女房でも出来てから夢を叶えようかなあと思ったりしますYO☆☆
★2018年は東京オリンピックまで、あと2年となる年ですね。人生で2回も東京でオリンピックが開催されるとはビックリですが、私は1964年の東京オリンピックの時は5歳になるかならないかという年齢だったので、実は殆ど記憶がありません。当時、家にはテレビがありましたが、その頃に見た鉄腕アトムや鉄人28号の記憶はあっても東京オリンピックを観たという記憶はないのです。恐らく私より5歳くらい上の世代の人なら明確に記憶されている人もいるのではないでしょうか☆☆
★閑話休題
紅白観てたら「おお味噌か!」が過ぎてしまい~、あっという間に元旦になりまして、アメリカでの1954年のクルマの値段などを調べていたら、あっという間に日が暮れて仕舞いまして~、元旦にアップする予定が丸1日遅くなりましたが、新年1回目は本ブログメインの「自動車カタログ棚から」シリーズ第369回として、戦後1950年代前半のMGをご紹介しますNE!☆☆☆
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★1960年代、私が子供の頃、知っているスポーツカーの名前を挙げてみて?と聞かれたなら、ジャガー、ポルシェ、アストンマーチンなどと並んでMGは必ず名前が挙がるメジャーなメイクスだった。
個人的には1955年登場のMGA、1962年登場のMGB、1961年登場のMBミジェットといったあたりが懐かしのMGということになり、今回ご紹介する戦前スタイルのTF以前のMGは古すぎて正直なところリアルタイムの記憶はないのです。しかし、考えてみれば1954年のTFというのは私が生れた頃はまだ5年落ち位のクルマだったことに驚きます。同じことは国産車にも言えて、例えば1954年のトヨペットスーパーやダットサンデラックスセダンDB6あたりも私が生れた頃はまだ5年落ち位だった計算になるのですが、リアルタイムに見た記憶は全くないため物凄く古いクルマのように思えてしまうのです。
★MGの名称は、「Morris Garages」(=モーリス・ガレージ)のイニシャルから採られたものである。
その歴史は1910年(明治43年)のモーリス・ガレージの開業に遡り、その後、ガレージの総支配人となったセシル・キムバー(Cecil Kimber;1888年4月12日-1945年2月4日)という人物が1923年(大正12年)に最初のMGというべきクルマを世に出した。正式に広告等でMG名称が使用されるのは翌1924年(大正13年)のことであった。ざっくり言うなら、初期のMGはモーリス・モータース社製品のスポーツ志向のコンプリート・チューナーであった。
★MGミジェットの歴史
上述のセシル・キムバーは2輪のレースにも参加するスポーツマンであった。彼は2輪車のような豪快な加速感やオープンエア・モータリングの楽しさを四輪で味わえないか、しかも、財布の軽い若者にも手の届く低価格で作ることは出来ないかと考えていた。そうして誕生したのが、1928年(昭和3年)秋のオリンピア・モーターショーで公開された、モーリスマイナーをベースに小さくスポーティーな2座オープンとしたMタイプ・ミジェットであった。
・1928年(昭和3年)~1932年(昭和7年)・・・Mタイプ・ミジェット(4気筒SOHC847cc20HP/車重500kg/最高速度60mph以上≒100km/生産台数3200台)
・1931年(昭和6年)~1932年(昭和7年)・・・Cタイプ「モンレリ」ミジェット(レーシング仕様/4気筒746ccスーパーチャージャー52.4HP/最高速度88.44mph≒142km/生産台数44台)
・1932年(昭和7年)~1934年(昭和9年)・・・Jタイプ・ミジェット (4気筒SOHC847ccツインSU36HP/最高速度80.35mph≒129km)
・1934年(昭和9年)~1936年(昭和11年)・・・PAタイプ・ミジェット(4気筒SOHC847cc36HP)
・1935年(昭和10年)~1936年(昭和11年)・・・PBタイプ・ミジェット(4気筒SOHC939cc43HP/生産台数PA・PB併せて2500台)
・1936年(昭和11年)~1939年(昭和14年)・・・TAミジェット(4気筒OHV1292cc50HP/最高速度79mph≒126km)
・1939年(昭和14年)・・・TBミジェット(4気筒OHV1250cc54.4HP/生産台数TA・TB併せて3400台)
・1945年(昭和20年)~1949年(昭和24年)・・・TCミジェット(4気筒OHV1250cc54.4HP/最高速度77mph≒123km/右ハンドルのみ/生産台数10000台)
・1950年(昭和25年)1月~1952年(昭和27年)7月・・・TDミジェットMk.Ⅰ(4気筒OHV1250cc54.4HP)
・1952年(昭和27年)8月~1953年(昭和28年)9月・・・TDミジェットMk.Ⅱ(4気筒OHV1250cc57.5HP)
・1952年(昭和27年)8月~1953年(昭和28年)9月・・・TDミジェットMk.ⅡC(4気筒OHV1250cc60HP/最高速度85mph≒136km/生産台数TDミジェットMk.ⅠとⅡの合計29600台)
・1953年(昭和28年)10月~1954年(昭和29年)10月・・・TFミジェット(4気筒1250cc57.5HP/最高速度80mph≒129km)
・1954年(昭和29年)11月~1955年(昭和30年)9月・・・TFミジェット1500(4気筒1466cc63HP/最高速度86mph≒138km/生産台数TFとTF1500の合計9600台)
★TCシリーズに始まる戦後のミジェットは大西洋を渡り大量に北米へ輸出され、スポーツカー不毛の地であったアメリカ/カナダをモータースポーツの世界へと導く大きな役割を果たした。
GMが欧州製スポーツカーの台頭に触発されてC1コルベットを発売したのは、TFミジェット発売後の1954年のことである。自動車史研究/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924-2000年)の著作によれば、日本には1949年(昭和24年)にGI(アメリカ陸軍を中心とした連合国軍兵士)の手によりTCが上陸したが、極く初期から日本人所有のTCも存在したという。初めて見るTCのリアスタイルは氏がちょっと動けなくなる程に魅力的であったという。また、TDデビュー後は日英自動車が輸入したが、アメリカ人にとってMGミジェットはあくまでモータースポーツへの導火線であって、彼らの殆どは程なくしてジャガーXK120やオースチンヒーレー、アストンマーチン、ポルシェ356などへと上級志向を始めてしまい、英国の戦前からの時計が止まったかのようなカルチャーは綻びとジレンマが生じていた旨を記されている。
【1954年の米国内自動車販売価格一覧】
ここで、MG TFが現役だった1954年時点のアメリカ本国でのMGを始めとするクルマ達の販売価格を当時の自動車年鑑から抜粋し史料として記録しておきます(出典:ATLAS発行の年鑑「1954 World’s Cars」)。こうして抜粋してみると、当時のMG TFの価格はアメリカの大衆車と言えるフォード、シボレーと大差なく、アメリカ人が気楽に買える価格帯であったことが判る。フェラーリやマセラティは論外としてもジャガーXK120、ポルシェ356は最高級車キャデラックに迫る高価格であり、VWビートルはアメリカでのヒットが頷ける低価格であったことなどが判る。また、欧州車ブランドの価格の序列は60年以上の時を経た2018年現在でもあまり変わっていないことが興味深い。高価なクルマは今も昔も変わらず高価なのです。
・MG TF・・・$2335
・オースチン・ヒーレー100・・・$2985
・ジャガーXK120・・・$3975
・ポルシェ356・1500スーパー・・・$4584
・アストンマーチンDB2・・・$5950
・マセラティA-6・・・$8500
・フェラーリ250ヨーロッパ・・・$13890
・フォルクスワーゲン・ビートル・・・$1655
・サーブ92・・・$2250
・メルセデスベンツ180・・・$3285
・シボレーベルエア・・・$2363
・フォード・クレストライン4ドア・・・$2058
・ポンティアック・スターチーフ・・・$2394
・オールズモビル・スーパー88・・・$2476
・クライスラー・ニューヨーカー・・・$3193
・シボレーコルベット(C1)・・・$3490
・キャデラック60スペシャル・・・$4683
【主要スペック】 1954年 MG TF ミジェット (1954 MG TF Midget)
全長3740mm・全幅1518mm・全高1340㎜・WB2387mm・車重915kg・FR・水冷4気筒プッシュロッドOHV1250cc・最高出力57.5hp・最大トルク9kgf・m・変速機4速MT・乗車定員2名・燃料タンク容量54ℓ・電装系12V・タイヤサイズ5.50-15・最高速度129km/h・純正ボディーカラー5色(ブラック/レッド/グリーン/アイボリー/グレイ)・国内販売価格:不明
●1954年 MG TFミジェット 簡易カタログ (縦16×横20.9cm・英文2つ折4面)
カタログ裏面に当時の日本国内販売店であった溜池「日英自動車」の印字あり。恐らく日本語版は作られていない。カタログの表紙にはMGの伝統的なスローガンであった「Safety Fast!」の文字が入っている。TFは古典的なスタイルを持つ最後のミジェット。ラジエターとリアのガソリンタンクは傾斜を強め、ヘッドライトはついにフェンダーに埋め込まれた。シートはそれまで助手席側と一体だったバックレストが完全にセパレートのバケットとなり居住性は大幅に改善された。1955年秋のMGAデビューまでの2年間を繋いだ過渡期的なミジェット。MGというとワイアホイールのイメージがあるが、ディスクホイールが標準でワイアはオプション。
中面はスペックと図面のみ
裏面の日英自動車の印字
●1954年7月 MG TFミジェット 本カタログ (縦14×横21.4cm・英文20頁)
カタログNo.E549。上掲の簡易カタログと同じ封筒に入って出てきたため、当時、日英自動車が配ったものと思われます。このカタログにはMidgetの文字が見当りません。
【中頁から抜粋】
解説: 1923年に最初のMGが造られたことが記されている。
センターメーターとバケットシート
水冷4気筒1250ccエンジン
スーツケース2つが入る比較的広いラゲッジスペース(上)、リアに背負ったガソリンタンク(下)
サスペンション
スペック
図面
ボディカラーとシートカラーの組み合わせ
裏面: 左にBMCマーク
★オマケ(その1): 英スポットオン279番 1/42スケール 1935年MG PBミジェット
全長8.5cm。ダイキャスト製。当時国内定価480円。戦前のミジェットの中でSOHCエンジンを搭載し最も均整のとれたクラシカルな美しさを持つことで評価の高いPBミジェットを実車の発売から30年以上を経た1960年代後半にモデル化したもの。シャシー、フェンダー、ワイアホイールにプラパーツが使われ繊細な造りながら、スポットオンにしてはビンテージ感には欠けるモデル。MGのオーナーズクラブは1930年(昭和5年)発足と長い歴史があり、特に英国内には今尚戦前のMGが沢山生き残っている。
★オマケ(その2): 学研 1/16スケール 1948年MG TCミジェット プラモデル
箱サイズ:縦28×横41×厚さ6cm。本体サイズ:全長21cm。学研クラシックカーシリーズNo.6。クラシックカーブームに乗ってイスパノスイザ等と共に1972年(昭和47年)に学研が発売したプラモデル。組立説明書の中の実車解説はCG誌初代編集長の小林彰太郎氏。
★オマケ(その3): 東京プラモ 1/30スケール 1953年 MG TDミジェット プラモデル
箱サイズ:縦13.5×横20.5×厚さ3cm。本体サイズ:全長12.5cm。キットNo.218。1960年代のチープキット。1960年代にMGAやMG TFでなくTDをキット化した理由は謎。箱に「スポーツカーMG,」と印字。「,」の意味も謎のチープキット。
オマケ(その4): 萬代屋(現バンダイ) 1/14スケール 1953年MG TDミジェット
全長27cm。ブリキ製。当時定価300円。1954年夏頃発売。当時の玩具は輸出向けが大半であったため、MGミジェットはアメリカ人に人気があり売れると見込んだのであろう、当時、萬代屋を始めとする国内玩具メーカーはMGを沢山出した。その中でTDはこの萬代屋の大柄なモノだけ。全体に大味でスケールモデルとしての魅力には欠けるが、萬代屋のトヨペットクラウンRSを第1号とする有名な赤箱シリーズ以前の製品であり、あまり残っていない珍品。以前、出張で旭川に行った際に覗いた骨董品店にポツンと置いてあったものを激安価格で入手したもの。箱付で使用した形跡もないことから北海道内の玩具店か玩具問屋の倉庫に眠っていたものと推察。
リア: 右のナンバー54はこの玩具が発売された1954年を示すと思われます。中央にはBを図案化したバンダイのロゴ。
ホイルキャップ中央のMG文字は別パーツ
シートが寝過ぎているせいでプロポーションを大きく損ねています。
・東京玩具商報1954年8月号(国立国会図書館蔵) 萬代屋広告に登場したMG TD(最上段)
★オマケ(その5): 萬代屋(現バンダイ) 1/18スケール 1954年MG TFミジェット
全長21cm。ブリキ製。当時定価:不明(200円程度と推察)。1954年秋発売。萬代屋がTFのデビューから1年も経たないうちにリリースした。上掲の大柄なTDに比べて遥かにスケール感の良いモデル。カラーバリエーションは黒、赤、緑。販売期間が長く細かなパーツの有無やドライバ―が乗ったものなどバリエーション多数あり。左右ハンドルが容易に造れるようセンターメーターとなった実車の室内意匠も忠実に再現。五十嵐平達氏は当時、スケールの良いブリキ玩具としてこの萬代屋のTFを購入されている。
MGロゴの入ったラジエターキャップは別パーツ
ルームミラーや助手席のハンドグリップは別パーツ
・東京玩具商報1954年9・10月合併号(国立国会図書館蔵) 萬代屋1頁全面広告のMG TF。この広告にはカラーバリエーションまで記載されています。
オマケ4との並び
★オマケ(その6): 英ディンキー108番 1/43スケール MG TFミジェット
全長8.2cm。ダイキャスト製。味わい深い1950年代ビンテージ・ディンキーの1台。
★オマケ(その7): 英コーギー812番 1/32スケール 1953年MG TFミジェット
全長11.5cm。ダイキャスト製。1984年発売製品。まだ英国製だった頃のコーギー。
ボンネットが開閉し4気筒エンジンが現われる。
★1983年 トミニカ 食玩/珍品トミカ ~ ポルシェ928シルバー/5代目クラウン青メタ
★さて、今日は成人式ですね。みなさんは成人式に行きましたか?ワタシはジョン・レノンが亡くなった1980年(昭和55年)に成人式だった計算になるのですが、どうも記憶にないので行っていないような気がします。そもそも入学式とか卒業式とか「式」と名の付くものが苦手でして、でも、結婚式だけはこれからでも主役として参加したいと思っていたりもしますYO(爆)。
日本では成人年齢を20歳から18歳に引き下げることが検討されています。世界的には18歳を成人とする国が多いようです。民法の成人の規定が18歳になれば、これまで高校を卒業して2年後の同窓会的な意味合いもあって賑わっていた成人式が高校3年の1月に切り替わり受験シーズンとも重なるので参加者が大きく減ってしまい、振袖の需要も落ち込むのではと呉服業界などは危機感を抱いているようです。
★呉服業界と言えば、20代前半の頃、私はとある呉服店に勤めていました。そこには10歳年上の妖艶な独身の女性上司がいて、実は私は歳上ながらも色っぽい彼女に惚れていたのです。彼女とは勢いで結婚するといったことにはならずに別々の道を歩むこととなってしまいましたが、あの時、もし勢いででも結婚していたなら、今は子供も34~35歳となり孫も出来ていたかもしれない、今よりずっと幸せな人生だったかもしれないという思いが頭をよぎります。30代前半だった彼女も、35年を経た今は60代後半になっているはずです。今回の記事はそんな呉服業界にいた頃に入手したトミカの話題です。
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★1983年トミニカ12種
正月休みに倉庫を整理していたら珍しいトミカが出てきました。1983年(昭和58年)の夏、私が23歳の時に入手して以来、35年間未開封のまま保存しておいたトミカです。
●発売元: トミー工業株式会社キャンディー事業部
●発売時期: 1983年(昭和58年)7月
●販売期間: 1~2ヵ月程度?
●販売場所: 大手スーパー菓子売場、菓子店
●商品形態: 玩具菓子
●商品名: トミニカ
●商品内容: トミー・キャンディー事業部製フーセンガム3枚+ブリスターパック入りトミカ1台
●バリエーション: 12種類
●Tナンバー:T32: トミー工業第32期(1983年度・昭和58年度:1983年3月~1984年2月生産)
●12台貼り台紙サイズ: 縦60.5×横20cm
●販売価格: 320円(1台)


左側は専用の輸送用ダンボール

ダンボールには12個×2枚(24個詰め)の印字。残念ながら、1シート12個だけ入手し12個×2枚は手元にありません。

●トミニカ・バリーエーション12種類の内訳
通常品と同じと思われるのは12種中2種のみで、通常品とはボディカラーの異なる5代目クラウンとポルシェ928を始め通常品とは異なるものが10種。基本的に現行通常品の色違いを詰め合わせセットとしたトミカ・ギフトセットと似ています。不思議なのは、Tナンバーが32で明らかに1983年生産であるのに、トミニカ発売時点で既に通常品では絶版となった旧い金型のみを使用していることです。当時このセットを見た時は、絶版品?と思ったものでした。クラウンにしてもフェアレディZにしても既に実車もトミカも新型が出ていたにも関わらず、わざわざ旧い型を作ったのは金型代の償却が目的だったのでしょうか。このトミニカは時たま1台がバラでヤフオクなどの中古市場に出ることはあっても、台紙ごと全て未開封の状態で出ることは滅多にないようです。
1)3‐2‐7 いすずスクアート消防車 (通常品と同じ)・・・1980年7月絶版品

2)4‐3‐20 クラウン・パトロールカー (朱赤シート)・・・1981年5月絶版品

警視庁シール同封

3)9‐2‐6 小松パワーショベル15HT (通常品と同じ)・・・1981年7月絶版品

4)32‐2‐7 トヨタクラウン2600ロイヤルサルーン (メタブルー)・・・1979年7月絶版品。実車では既に2世代前となっていた5代目。


5)53‐1‐23 日野ミキサー車 (黄色ドラム)・・・1981年7月絶版品

6)54‐1‐19 日野タンクローリー「Esso」 (後ナンバー刻印なし)・・・1980年10月絶版品

7)54‐2‐7 ニッサンキャブオール・ルートトラック (緑ウインド、荷台ペプシマーク無)・・・1982年9月絶版品

8)57‐1‐9 トヨタRH18V型 救急車 (赤十字+救急文字:ギフト仕様)・・・1981年7月絶版品

9)58‐1‐24 ニッサンフェアレディ240ZG (濃水色、1Hホイール)・・・1980年9月絶版品。通常品の初版よりも濃い水色ボディ。

10)64‐1‐7 トヨタ・ハイラックス郵便車 (赤ボディ、「ふるさとへ便りを出そう」シール)・・・1978年1月絶版品

専用シール

11)青箱F37‐1‐9 ランボルギーニ・カウンタックLP400 (クリアウインド)・・・1980年1月絶版品

12)青箱F53‐1‐6 ポルシェ928 (シルバー)・・・1980年12月絶版品

★オマケ(その1): チュッパチャプス付トミカみんなのくるま ダイハツミゼット「キョロちゃんオート三輪」
トミニカの流れを汲むお菓子付トミカ。森永製菓とタイアップして1999年発売。当時定価490円。他にいすゞボンネットバスなど、これも種類が沢山ありました。食べずに保管していたら水アメが溶け出してきたので、止む無くブリスターを開封してアメは取り除いてあります。


★オマケ(その2):キョロちゃんアソートBOX
森永製菓。BOXサイズ:縦19×横28×厚さ9cm。チョコボールなど27種入り。定価税込1000円。年末に正月用と思って買っておいたお菓子ですが、まだ食べていません(汗)。私はキョロラーという訳ではありませんが、子供の頃からチョコボールは大好きなんです☆☆

詰め合わせ内容

★東京オートサロン2018に行く理由 ~ コンパニオン・エブロ特売・トミカ大行列
★2018年1月13日(土)、幕張メッセ全館使用にて開催の「東京オートサロン2018」に行ってきました。
ここ数年は毎年オートサロンに行っていますが、会場が広いにも関わらず混み方が尋常ではありません。その理由の一つは、2日強(今年は1月12日(金)午後2時~14日(日)午後5時)と東京モーターショーなどと比べて会期が非常に短いためのように思います。オートサロンに行く人の目的・理由は人それぞれと思いますが、アトランダムに思いつくまま書けば以下のようなことが挙げられるだろうと思います。
1) 実車メーカーやカスタムメーカーの実車展示
2) 実車カスタム・ドレスアップに関する情報収集
3) 綺麗&可愛い&SEXYなコンパニオン
4) カスタムパーツ等の購入
5) 限定トミカ購入
6) 有名ドライバーのトークショー(今年は星野一義、中嶋悟、片山右京、近藤真彦等)
7) 入場券で観られる有名歌手(今年はのりぴー等)のコンサート
8) エブロ・スパーク等ミニカーメーカーの割引き価格での販売
9) 絶版、新品ミニカーの販売
10) 実車メーカーのオフィシャルグッズ(ミニカー含む)の販売
11) 各ブースのカタログ蒐集
以上のような目的の一つもしくは幾つかが理由で幕張まで行くという人が多いと思いますが極端なケースでは、5)のトミカ購入だけが目的でトミカを購入したら会場内を全く見ずに帰ってしまう人、3)のコンパニオンだけが目的でコンパニオンの写真を撮るだけ撮ったら他は何も見ずに帰ってしまう人、7)の有名歌手のコンサートだけが目的でコンサートだけ観て帰ってしまう人などもいるだろうと思います。
★私がオートサロンに行く目的は、ここだけの内緒の話ですが、3)のコンパニオンが約7割、残り3割が 5)の限定トミカ、8)のエブロ・スパーク等のミニカー、11)のカタログ蒐集といった感じです。
コンパニオンが7割というのは、私自身の内面的/心情的な内訳なのですが、私は独り者の所為かクルマを見るよりもコンパニオンを見る方がワクワクすることだけは間違いはないのです。もし、私にゲロマブな恋女房でもいたなら、恐らくコンパニオンなど目には入らなくなることでしょう。と私は思うのですが、以前、オートサロンの記事をアップした際に結婚されている人からもコンパニオンについてのコメントが入ったところからすると、結婚する程に大好きな人がいても案外人間というものは目移りするものなのかもしれません。イベントのメインである自動車については、御承知の通り私は現代の自動車には左程関心がないため、旧車を例外として実車の展示はあまり真剣には見ないという感じです(大汗)。
●東京オートサロン2018 ガイドブック (B5判8つ折16面)
●相変わらずの人の海
【旧車展示】
・1960年トヨタランドクルーザーFJ28
・1996年スバルインプレッサ555「サンレモラリー出場車」
・1993年スバルレガシィRS「ニュージーランドラリー出場車」
・ハコスカGT-R
・ケンメリGT-R
・1984年ダイハツ・シャレード・デ・トマソ・ターボ
・1975年トヨタTOM’S スターレットKP47
【現行車・コンセプトカー】
・トヨタGRスーパースポーツ・コンセプト
なかなか美しいデザイン。フロントマスクがタッカー風。
・ホンダNSX GT3
・ニッサンGT-R ニスモ
【コンパニオン】
目に留まったコンパニオンを少しだけ。露出度が高いブースでは人垣が5重6重となり、そもそもコンパニオンを見ることが出来ません。一応順位を付けてみましたが皆さんの感想はどうでしょうか。
【第1位】 美人で賞
【第2位】 まあ美人で賞
【第3位】 カワユス賞
【第4位】 ボディコン賞
【第5位】 横顔が綺麗で賞
【第6位】 女豹で賞
【第7位】 綺麗な足で賞
【限定トミカ】
今回のオートサロン限定トミカはAE86スプリンタートレノ等4種。1人3台まで購入可。高い入場料(当日2500円)、東京23区内でも往復2000円前後はかかる交通費、長い待ち時間などを考慮すると、限定トミカだけが欲しい場合はヤフオクなどで買った方が確実に安上がりと言えます。
長蛇の列。待ち時間「210分」(3時間半)と掲示されてましたが、私は午前9時15分に列に並んで1時間30分後の10時45分にはトミカが買えました。
【エブロ・ブース】
左はエムエムピー代表の木谷真人氏。エブロは田宮模型で設計をしていた木谷氏が1998年に独立して立ち上げたミニカーブランド。ホンダ車やポルシェのモデル化が多いが、バスやトラックも含む非常にマニアックなラインナップ。今年で早くも20周年。
1/18スケール1967年日野サムライ・・・木谷氏に伺ったところ、2018年5月頃に3万円前後で発売予定との由。
激安アウトレット。1/43が1000円~2000円、1/24が3000円(税込)。訳あり品のシールが貼られているが、パーツ欠品といった大きな問題はないものばかり。木谷氏に伺っても、どうして訳ありなのか僕もよく判らないとのお話でした。
【スパーク・ブース】
1/8スケール1974年ポルシェ911RS。全長50cm以上の巨大なモデル。価格を伺ったところ、自分で持ち帰ることが条件で50万円との由。
【ホットウィール】
ブタケツ・ローレルとスカイライン・ジャパンは示し合せたようにどこのブースも1台1800円。トイザらスなどでの定価は知りませんが、高過ぎる気がして買いませんでした。
★オマケ(その1): エブロ1/24スケール 1973年ポルシェ911カレラRS
今回のオートサロンで購入。税込定価10584円が72%OFFの税込3000円。他に1/24フェアレディ240ZGのチョコレート色や白、2輪もホンダCB72などが激安で出ていましたが、少し購入を迷っているうちにあっという間に完売していました。
フル開閉アクション。エンジンも精密に造り込まれています。
★オマケ(その2): エブロ1/43スケール 1959年トヨペット・マスターライン・ピックアップ
これも今回のオートサロンで購入。税込定価4644円が79%OFFの税込1000円!
室内も実車に忠実に造り込まれています。
★オマケ(その3): オートサロン2018で入手したカタログ
基本、私は紙のカタログが好きなので無料で配られているモノは何でも貰ってきます。スバルのモノは富士重工の歴史やモータースポーツの歴史、インプレッサ限定車の歴史などが掲載されており資料価値が高いです。