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★1955年 川崎車両 英文カタログC62・EF58・EH10 ~鉄道車輛カタログ棚から 007

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石田純一さんが野党統一候補となれるのなら都知事選に出馬すると表明している。石田さんから意思表示を求められた形の肝心の野党は、民進党の岡田さんは石田さんの昨年9月17日の安保法が強行採決された夜の国会前でのスピーチは高く評価すると発言し、共産党の志位さんも歓迎するとは発言しているものの候補とするか否かの明言は避けており、候補者選びの協議は7月10日(日)の参院選の結果をみてからとなる模様だ。都知事選公示日が7月14日(木)、投票日が7月31日(日)と決まっているため極めてタイトなスケジュールだ。
石田さんは1954年(昭和29年) 1月14日生まれ、安倍晋三サンが同じ1954年の9月21日であるから、石田さんは安倍さんと同年生まれながら約8ヶ月早く学年では1級上である。日本国憲法の改正(=改悪)を悲願とし安保法を成立させた安倍さんの狙いは、必ずしもよく言われる軍需産業からの莫大な利益のバックであるということだけでもなく、本当の狙いはどこか宗教的な安倍さんの祖父の代からの謂わば血筋的なモノを感じるのは私だけではないだろう。そこには日本国憲法は世界遺産にも相当する極めて優れたものであるという認識が綺麗に欠けている。


ネット上では石田さんの都知事選出馬については反対とする意見も多数見られるが、野党が分裂しては共倒れとなることは目に見えており、石田さん以外で一般にある程度知名度の高い統一候補を選び出すことは難航が予想される。今後、安保法による自衛隊の戦力増強に伴い戦地に赴く人間が大幅に足りずに徴兵制が敷かれた場合であっても、石田さんが東京都知事であれば都民を守り反対してくれることだけは間違いないように思える。山本太郎さんの例を引くまでもなく、芸能界で生きてきた石田さんの出馬については素人が何を言ってるのかと反対する意見も多い。しかし、芸能界では触らぬ神には祟りなし、芸能界を干されて仕事が減ったら大変とばかりに政治的な発言を控えている人が大多数の中で、石田さんには勇気があり基本的に純粋な人なのだと思う。日本の芸能界で政治的な発言を厭わなかったのは、東日本大震災の遥か以前から反原発を掲げた故 忌野清志郎さんなど数える程しかいない。小池百合子さん(1952~)や増田寛也さん(1951~)よりは護憲派という只1点のみでも石田さんの方が都知事としては余程良い。例え政治にはズブの素人であっても優秀なブレーンが付けば知事の仕事は充分こなせる。ここだけの話、実は私は以前、東京都に勤めていた経験があるのだが、基本的に特別区を含む巨大な東京都のシステムは例え知事不在であっても日々動くように出来ている。大きな特別な判断を要する時に知事の力が必要なのだ。石田さんと同じく護憲派で元日本弁護士連合会会長 の宇都宮健児さん(1946~)は何と今回3度目の出馬となるが、無所属もしくは社民・共産が押すだけでは当選はなかなか難しいだろう。

閑話休題
今回は久々の「鉄道車輛カタログ棚から」の記事です。1955年(昭和30年)の川崎車輛のカタログをご紹介します。ウィキ君をベースにサクッとご紹介します。1955年という年は、日本の芸能界では明石家さんまさん、所ジョージさん、郷ひろみさん、佐野史郎さん等の生まれた年に当り、上記の石田さんや安倍さんの生まれた1954年の1年後ということになります。



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●EF58-63号機 青大将「つばめ」
1960年(昭和35年)5月1日、宮松金次郎氏撮影。ポプラ社の写真図鑑「機関車」(1961年9月10日発行)より。EF58-63は1953年7月1日に 川崎車両が製造した電気機関車。1960年6月に151系による電車特急つばめに置換される前月の撮影。
青大将



川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー; Kawasaki Heavy Industries Rolling Stock Company)は、川崎造船所時代の20世紀初頭1906年(明治39年)に鉄道車両の生産を始め、現在に至るまで9万両以上の鉄道車両を製造している車両メーカーである。
生産拠点は主力工場である神戸市兵庫区の兵庫工場。客車の他に蒸気機関車の製造を早期から手掛け、大型蒸気機関車の国産化では、後年、同社と合併した汽車製造と並び日本の民間メーカーの中で歴史的・先駆的な役割を果たした。大正末期から昭和初期にかけて、電車の車体が木造から安全性の高い鋼鉄製に切り替わり始めた時代には、阪神急行電鉄510として内装まで鋼鉄製とした全鋼製車両を日本で初めて製造した。その後「川造形」と呼ばれる独特な形態の私鉄向け全鋼製電車を製造し各社に供給している。
1928年(昭和3年)に鉄道車両部門を川崎造船所から「川崎車輛」として分社化し、国鉄や私鉄、地下鉄向けに各種の鉄道車両を生産したが、戦後、1969年(昭和44年)に再び川崎重工業本体に吸収合併され現在の「川崎重工業 車両カンパニー」となった。特に新幹線車両や特急形電車、公営事業者向け車両などに強く、鋼製、ステンレス鋼製、アルミ合金製等、多様な材質の鉄道車両製造が対応可能なメーカーである。




【川崎重工業/川崎車両の歴史】

•1878年(明治11年)・・・・・川崎正蔵(鹿児島出身: 1836年8月10日-1912年12月2日)が鹿児島特産物の輸送で巨利を得て「川崎築地造船所」を設立。

•1887年(明治20年)・・・・・神戸の官営兵庫造船所の払い下げを受ける。

•1896年(明治29年)10月15日・・・・・株式会社川崎造船所を設立(資本金200万円)。松方幸次郎(1866年1月17日-1950年6月24日)が初代社長に就任。

•1906年(明治39年)5月・・・・・運河分工場(後の兵庫工場)を開設。製鉄事業に進出し、鉄道車輛(機関車、貨客車)、橋桁の製作を開始。

•1911年(明治44年)・・・・・国産化第1号蒸気機関車「1B1形タンク機関車=鉄道院180形」完成

•1918年(大正7年)・・・・・兵庫工場に飛行機科を設置。

•1919年(大正8年)・・・・・船舶部を分離し、川崎汽船株式会社を設立。

•1921年(大正10年)・・・・・蒸気機関車の中国向け輸出開始。

•1924年(大正13年)・・・・・電気機関車の製造を開始。

•1928年(昭和3年)・・・・・鉄道車両部門を分離し、川崎車輛株式会社を設立。

•1937年(昭和12年)・・・・・飛行機部門を分離し、川崎航空機工業株式会社を設立。

•1939年(昭和14年)12月1日・・・・・川崎重工業株式会社に社名変更。

•1949年(昭和24年)5月・・・・・東京証券取引所・大阪証券取引所・名古屋証券取引所に上場。

•1950年(昭和25年)8月・・・・・製鉄部門を分離し、川崎製鉄株式会社(現・JFEスチール株式会社)を設立。

•1958年(昭和33年)・・・・・二輪車(オートバイ)メイハツを製造開始。

•1964年(昭和39年)・・・・・二輪メーカー「メグロ」を吸収合併。

•1966年(昭和41年)・・・・・ボイラー、破砕機、運搬機械などのメーカーであった横山工業株式会社を合併。

•1969年(昭和44年)・・・・・川崎車輛、川崎航空機工業を合併。

•1972年(昭和47年)・・・・・汽車製造株式会社を合併。




★1955年 川崎車両 総合カタログ (縦28×横21cm・リング綴じ・英文84頁)
1928年(昭和3年)に川崎造船所から独立・分離し、1969年(昭和44年)までの41年に亘り社名が「川崎車両」であった時代の英文カタログ。昔のアルバムのような表紙に厚紙を使いリング綴じされた体裁。1955年版だが本文中の従業員数その他の数値は1954年10月現在となっている。表紙には川崎の社紋と車輪のイラストに「KAWASAKI ROLLING STOCK CATALOGUE」の印字。中頁には1955年の時点では既に製造されていない車輛も掲載されている。頁数が多いため、個人的な視点から抜粋して掲載することとしたい。
(1)表紙


【中頁から】

●神戸工場全景
(2)工場全景


●目次・・・・・左上に社紋と発行年を示す1955の印字。コンテンツは、概略・工場・機関車・客車・電車・気動車・貨車・その他(MISCELLNEOUS)の順。
(3)目次


●会社略史
(4)略史


●会社概要・・・・・1906年設立、資本金2億円、会長:下田文吾氏等の記載。
(5)概要


●車両製造数 (1911年~1954年)
・蒸気機関車 3163輌 (国内向け2306輌、海外向け857輌)
・電気機関車 170輌 (国内向け142輌、海外向け28輌)
・客車、電車、気動車 4474輌 (国内向け3995輌、海外向け479輌)
・貨車 17692輌 (国内向け16102輌、海外向け1590輌)
(6)生産数


●2-8-2 南朝鮮内米軍貨物用 蒸気機関車
製造時期1927年~1945年。軌間1435㎜。朝鮮総督府鉄道ミカサ形蒸気機関車ミカサ1形。
(7)朝鮮ミカサ


●4-6-2タイ国鉄旅客用 蒸気機関車
製造時期:不明。軌間1000㎜。
(8)タイSL


●4-6-4日本国有鉄道 旅客用蒸気機関車C62形
製造時期1948年~1949年。49両製造された内の15両が川崎製。軌間1067㎜。
(9)C62形


●2-8-2インド国鉄向け貨物用蒸気機関車ZE形
製造時期1954年。製造数10両。軌間762㎜。川崎車両が製造した最後の蒸機。
(10)インドZE形


●B-B+B-B日本国有鉄道 貨物用電気機関車EH10形
製造時期1954年~1957年。軌間1067㎜。試作4両の内の1両と量産形56両の内の12両が川崎製。
(11)EH10外観

EH10形の各部
(12)EH10内部


●2C+C2日本国有鉄道 旅客用電気機関車EF58形
製造時期1946年(旧型)~1958年。軌間1067㎜。製造台数172両の内、川崎製は?両。最高速度95km/h。
(13)EF58形


●1C+C1日本国有鉄道 貨物用電気機関車EF15形
製造時期1947年~1958年。軌間1067㎜。製造台数202両の内、川崎製は?両。最高速度65km/h。
(14)EF15形


●倉敷市交通局 C型ディーゼル機関車DC501
製造時期1953年。軌間1067㎜。最高速度45km/h。
(15)DCディーゼル


●日本鋼管株式会社 B型ディーゼル機関車
製造時期:不明。軌間1067㎜。最高速度34km/h。
(16)DBディーゼル


●日本国有鉄道 1等寝台客車マイネ41形
製造時期1950年。軌間1067㎜。製造数12両。乗車定員48名。
(17)マイネ41


●日本国有鉄道 リクライニングシート付特別2等客車スロ51形
製造時期1950年。軌間1067㎜。製造数60両。乗車定員52名。
(18)スロ51形


●日本国有鉄道3等客車スハ43形0番台
製造時期1951年~1955年。軌間1067㎜。製造数698両。乗車定員88名。
(19)スハ43標準


●日本国有鉄道 食堂車マシ36形
製造時期1951年。軌間1067㎜。製造数2両。乗車定員:食堂30名+喫煙室6名。この時代に既に分煙だったことに注意。
(20)マシ36食堂車


●日本国有鉄道 80系湘南電車
製造時期1950年~1957年。軌間1067㎜。製造数652両。
(21)80系


●日本国有鉄道70系3扉通勤電車
製造時期1951年~1958年。軌間1067㎜。製造数282両。
(22)70系


●小田急電鉄2200形2両固定編成電車
製造時期1954年。軌間1067㎜。
(23)小田急外観

小田急2200形の各部
(24)小田急内部


●帝都高速度交通営団・地下鉄丸の内線300形両運転台電車
製造時期1954年。軌間1435㎜。
(25)丸の内外観

丸ノ内線用300形の各部
(26)丸の内内部


●西日本鉄道1000形2車体連接 路面電車
製造時期1953年。軌間1435㎜。
(27)西日本鉄道


●大阪市交通局3000形電車
製造時期1953年10月。大阪市電創業50周年のメモリアルイヤーに1両だけ製造された和製PCCカー。
(38)神戸市電


●日本国有鉄道キハ44000形 電気式気動車
製造時期1952年~1953年。軌間1067㎜。8気筒150psエンジン。最高速度90km/h。
(28)キハ44000形


●日本国有鉄道キハ45000形(新形式名称キハ17) 電気式気動車
製造時期1953年~1954年。軌間1067㎜。8気筒160psエンジン。最高速度95km/h。製造数402両。
(29)キハ45000形


●日本国有鉄道 有蓋貨車ワキ1000形・ワム90000形
製造時期はワキ1000形が1949年~1956年、ワム90000形が1953年~1969年。
(30)ワキ・ワム


●日本国有鉄道 家畜運搬用有蓋貨車カ3000形・野菜等運搬用通風有蓋貨車ツム1形
製造時期はカ3000形が1954年~1955年、ツム1形が1950年~1953年。
(31)カ・ツム


●日本国有鉄道 冷凍貨車レキ1形・レ10000形
製造時期はレキ1形が1948年、レ10000形が1950年~1953年。
(35)レキ・レ


●トロリーバス
上は事業者不詳、下は都営トロリーバス200形(1954年~1957年に39両製造)。
(36)トロリーバス


●ケーブルカー
上は高尾登山電鉄40名乗り「もみじ号」、下は別府国際観光の24人乗り車両。高尾山のケーブルカーは1927年(昭和2年)1月運行開始、別府のケーブルカーは別府市の立石山中腹にある遊園地「ラクテンチ」への入園者輸送のためのもので1929年(昭和4年)運行開始と何れも長い歴史がある。
(37)ケーブルカー





★オマケ(その1): マルサン商店 1/45スケール程度 国鉄C62形蒸気機関車
全長47cm。ブリキ製。当時定価:不明。1953年頃発売。フリクション動力入り。マルサン製品番号3270。夥しい種類が造られたSLのブリキ玩具の中で実物に比較的忠実に造られたのはこのマルサン製のみかもしれない。マルサンが名作1951年キャデラックを出した時期の製品で、国産ブリキSL玩具の王者的な存在。艶消し黒以外にニューヨークセントラルのカラフルなプリントが施されたバリエーションあり。一緒に写っているのはミニカーショップコジマのルビコン501番1/43スケール1954年日野ルノー4CV(ホワイトメタル製)。
マルサン(1)

マルサン(2)

マルサン(3)



★オマケ(その2): 米澤玩具 1/64スケール程度 国鉄EF58形電気機関車ブルトレ色
全長23cm。ブリキ製。当時定価:不明。1962年頃発売。EF58を名打ったブリキ製玩具が多種あった中で最も実物に近い造りのモデル。ブルトレ客車2両とレールとのセットで販売されたもので、単1電池2本で電動走行する。一緒に写っているのはTLVの1/64スケール1964年マツダ・ファミリア・ワゴン。
米澤(1)

米澤(2)



★オマケ(その3): 鉄道模型社1/80スケール 国鉄EF58形電気機関車ブルトレ色
全長27cm。真鍮製。1960年代のHOゲージ(日本型16番)鉄道模型。当時定価6600円(完成品)。JMACの故 中島 登会長が嘗てそのミニチュアカーに関する著書で、細密画のように本物そっくりに造られたモデルは人をあっと驚かせることは出来ても特徴をデフォルメされた素朴なモデルのような感動を人に与えはしないという趣旨のことを書かれていたが、ビンテージミニカーと同様に1960年代以前あたりの古い鉄道模型にも最新の鉄道模型にはないデフォルメの味がある。これは私が真鍮製の天賞堂の最新製品あたりが高価で買えない負け惜しみという訳でもなく、古い模型には時を経た味わいというお金には換え難い価値を感じるのである。一緒に写っているミニカーは、仏ノレブの1/87スケール・ルノー4CVと独シュコーピッコロのポルシェ356A。
鉄道模型社(1)

鉄道模型社(2)



★オマケ(その4): カワイモデル1/80スケール国鉄EH10形電気機関車
全長29m。ホワイトメタル製。当時定価:完成品5150円・塗装済キット4675円・未塗装キット4050円(何れも1968年時点の価格)。これも1960年代のHOゲージ(日本型16番)鉄道模型。HO16番のEH10は当時物では、つぼみ堂からも完成品5900円で真鍮製モデルが出ていた。ミニカーはオマケ3と同じ。
カワイ(1)

カワイ(2)



★オマケ(その5): 国鉄EH10形電気機関車 実物動画
撮影はEH10形の外観デザインをされた萩原政男氏。写っている車両は東芝製。


★1978年フォルクスワーゲン ラスト・ビートル ヤナセ日本語版 ~自動車カタログ棚から321

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ジョン・レノンとも親交が深かったミック・ジャガー(Sir Michael Philip Jagger;1943年7月26日生れ、もうすぐ73歳)の44歳下の恋人、アメリカ人のバレリーナ・メラニー ハムリック(Melanie Hamrick:29歳)が妊娠し、来年2017年1月に出産予定だという。既に曾孫もいるミックだが、73歳にして8人目の子供が出来ることは世界中の中高年男性の「希望の星」だとしてニュースになっている。ストーンズでは、ギタリストのロン・ウッド(Ronald "Ron" David Wood, 1947年6月1日生れ、69歳)にも今年5月末、双子の子が誕生してニュースとなっており、70歳=古希を超え「老いて益々盛ん」を絵に描いたような状況となっている。まだまだ、ミックには9人目、10人目の子供も期待したい。
しかし、日本でも加山雄三さんの父で俳優の上原 謙さんは71歳で38歳下の2番目の奥さんとの間に子供をつくっているので、まあ男は健康であれば基本生涯現役なのだ。しかし、世間一般には健康でその能力があっても高齢男性で子供を持つ例が稀なのは、子供を産める年齢層の歳の大きく離れた女性と愛情関係になることが通常なかなか困難であることに加えて経済的な理由にもよるものだと言われる。

実際、ワタシが「ミックを見倣って是非これからでも子供を持ちたいYO!」などと言うと、「ポルシェさん、あなた頭のネジがぶっ飛んでるみたいだNE!定年退職も迫ったフツーのサラリーマンのポルシェさんの場合は幾ら体が元気でも無理無理、スターじゃないんだから絶対無理!だって、ミックは日本円にしたら500億オーバー位の資産を持った超お金持ち(ミリオネア)だからこそ出来ることであって、お金がなけりゃ子供が産めるような歳の女性は絶対寄りつかないYO!あの45歳差結婚したカトちゃんだって大金持ちでしょ?お金持ちでなけりゃ、その歳でこれから、やれ結婚だ、やれ子供だ、なんて絶対無理なのYO!」などと言われる。
でも、しかし、果たしてそうだろうか。世の中、お金に惹かれる女性は確かに多いかもしれないけれど、例えお金がなくても女性の気持ちを掴むことは不可能ではないはず、と思うのはワタシだけの純愛妄想だろうKA。


ところが、30歳前後までに結婚するという真っ当な人生のスタートを切っても、5年、10年経ってもさっぱり子供が出来ずに保険のきかない不妊治療に500万以上かけたが子供がなかなか出来ないと嘆いているような夫婦がワタシの周りには何組かおり、子供をつくるためだけに精神的にも経済的にもそんなに苦労をする位なら、世の中、出来ちゃった婚をするのが一番良い、付き合ってみて子供が出来なければ結婚しないでおくのが一番良いのだという意見もある。しかし、子供が出来ないからといって離縁されたなんて話は日本では既に戦前の話であって、子供が出来ないという理由で離婚する夫婦は現在では少数派だろう。例え子供がいなくとも夫婦円満に死ぬまで暮らしたといったケースは実際世の中には幾らでもある。しかし、カスガイとなる子供なしで夫婦の愛情を長い年月に亘り維持することは一般にはなかなか難しいことだとする意見もある。その一方で、子供がいるのに愛情を維持できずに離婚する夫婦も世の中には多数あり、戸籍真っ白、人生お先真っ暗のワタシからすれば人間と言うのはなかなかにやっかいで勝手なものだと思うYO。

閑話休題
今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第321回記事として西独製ビートル末期の日本語版カタログをご紹介します。
 




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★1933年(昭和8年)、ベルリン・オートショー開催に際してドイツの首相就任間もないアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler;1889年4月20日-1945年4月30日)は、大衆の誰もが自動車を持つための「国民車構想」をぶち上げた。追って、優れた自動車設計者として有名であったフェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche、1875年9月3日-1951年1月30日)とヒトラーの2人がベルリンのカイザーホフ・ホテルで会談を行い、ヒトラーはポルシェに対して国民車として次の5つの条件を提示した。

(1) 最高時速100kmで走れること
(2) 燃費はリッター14km(100キロ走行当り7L)以上であること
(3) 4~5人乗り(大人2人+子供3人または大人4人)であること
(4) 始動の楽な空冷エンジンであること
(5) 価格は1000マルク以下であること

実はフェルディナント・ポルシェはアドルフ・ヒトラーからこの提案を受ける以前から小型大衆車製造の構想を抱いており、ヒトラーの強力な後押しによって夢を実行に移す形となった。即ちポルシェが四輪独立懸架サスペンションを始めとする基本設計を行い、後にポルシェ356のデザインも手がけたエルヴィン・コメンダがボディデザインをし、1936年(昭和11年)10月12日に試作車が完成した。フォルクスワーゲン・ビートル(タイプⅠ)の誕生である。試作車は60台生産され、各種テストを経た後、1938年(昭和13年)に最終生産型kdfが完成した。しかし、第二次世界大戦の勃発により民需向けの本格生産は行われず、終戦までは軍用車としてキューベルワーゲン(タイプ82)および水陸両用車(タイプ166)の派生型が計7万台生産された。民需向け乗用車として本格的に生産されたのは戦後1945年(昭和20年)以降であった。なお、フォルクスワーゲンとは「国民車」を意味するドイツ語である=VOLKS(=国民の)WAGEN(=自動車)。

★フォルクスワーゲン・ビートル(タイプⅠ)は、T型フォード(1908‐1927年生産)の累計1500万台の生産記録を塗り替え、1938年から2003年(1979年以降はメキシコ、ブラジル等での生産)までの65年に及ぶ驚異的に長いモデルライフの間に累計2152万9464台を生産して、自動車の歴史上、単一モデルとして最多生産の記録をつくった。また、デビュー以来65年間という長い製品としての寿命を保った四輪乗用車は、これまでの歴史では他には存在しない。長寿を保てたのはフェルディナント・ポルシェによる時代に先んじた秀逸な基本設計によるところが大きい。


【フォルクスワーゲン・ビートル・タイプⅠの主な変遷】

・1936年(昭和11年) 10月12日・・・・・試作車完成

・1938年(昭和13年) 5月26日・・・・・ウォルフスブルグのVW工場落成、量産型国民車kdf完成(VW38型)

・1945年(昭和20年)・・・・・生産再開。戦後初年の生産台数1785台。1131cc・25ps。

・1947年(昭和22年)・・・・・海外輸出開始。

・1949年(昭和24年) 3月・・・・・メッキバンパーのエクスポート(Type-11:デラックス仕様)及びカブリオレ(Type-14:ミュラー社製造)デビュー。

・1949年(昭和24年) 7月・・・・・クランクホール廃止、メタリック塗装追加。

・1950年(昭和25年) 5月・・・・・機械式ブレーキを油圧式に変更、サンルーフ追加。

・1951年(昭和26年) 4月・・・・・フロントフードハンドルにVWマーク追加。

・1952年(昭和27年) 10月・・・・・三角窓追加、テールライトを中央1個から左右2個に変更、変速機2~4速シンクロ化等。

・1953年(昭和28年)3月・・・・・2分割リアウインド(スプリット・ウインド)を楕円形に変更。

・1954年(昭和29年) 1月・・・・・エンジンを1192cc/30psにパワーアップし、1200スタンダード、1200エキスポートの車名となる。

・1955年(昭和30年) 8月・・・・・ウインカーを前後ドア間の腕木式からフロントフェンダー下に変更、エグゾーストパイプを2本化、テールライトの位置変更。

・1957年(昭和32年) 8月・・・・・ウインカーをフロントフェンダー下から上に変更、リアウインドを楕円から四角に変更、フロントウインドを大型化。

・1959年(昭和34年) 8月・・・・・ドアハンドルをプッシュボタン式に変更。

・1960年(昭和35年) 8月・・・・・エンジンを34psにパワーアップ、変速機フルシンクロ化(エクスポートのみ)、ウインドウォッシャー追加。

・1961年(昭和36年) 6月・・・・・テールライトを赤1色から橙と赤の2色に変更。

・1961年(昭和36年) 8月・・・・・ガソリン予備タンクを廃止し燃料計を追加、ステアリングをウォームローラー式に変更。

・1963年(昭和38年) 8月・・・・・リアライセンスランプを大型化。

・1964年(昭和39年) 8月・・・・・各ウインドを大型化、スタンダードもフルシンクロに変更。

・1965年(昭和40年) 8月・・・・・エンジンを1285cc/40psとしたVW1300を追加。

・1966年(昭和41年) 8月・・・・・エンジンを1493cc/44psとしたVW1500を追加。

・1967年(昭和42年) 8月・・・・・電装系を6Vから12Vに変更。ヘッドライト下半分をフェンダー埋め込みに変更、バンパー位置の上昇、ガソリン給油口をフロントラゲッジスペースからリア右フェンダーへ移設。

・1969年(昭和44年) 8月・・・・・リアエンジンフードにエア導入用スリット2つを追加。

・1970年(昭和45年) 8月・・・・・ホイールベース20㎜延長及びサスペンションを変更し、1300cc44psの1302、1600cc50psの1302S、同左の1302Sカブリオレの3種を追加。リアサイドウインド後方に換気用ベンチレーター追加。

・1971年(昭和46年) 8月・・・・デラックスグレード「LS」追加。

・1972年(昭和47年) 8月・・・・・リアエンジンフードのエア導入用スリットを2つから4つに変更、フロント曲面ガラスに変更、テールライトの大型化、フロントフードパネルを膨張しラゲッジスペースを拡大した1303シリーズに変更。

・1974年(昭和49年) 8月・・・・・フロントウインカーをフェンダー上からバンパー埋め込みに変更し、フェンダーサイドにサイドマーカーを追加。

・1975年(昭和50年) 8月・・・・・排ガス対策のためソレックスキャブをKジェトロニック燃料噴射装置付に変更、エグゾーソトパイプを1本化。

・1977年(昭和52年)・・・・・ヘッドレスト付フルリクライニングシートを標準化(日本仕様のみ)。

・1978年(昭和53年)・・・・・AM/FMラジオを標準化し、最終輸入車には「西独製ラストモデル」を示すオーナメントを追加(日本仕様)。



【日本に上陸したビートル・タイプⅠ】
日本には1952年(昭和27年)から梁瀬(現ヤナセ)により輸入されたが、1970年代までの日本国内へのビートル輸入台数の推移は以下の通りとなっている。輸入開始当初のビートルは2ドアにも関わらず何とタクシーとしても使用されたという。外車輸入自由化となった1965年以降は輸入数が増え続け、1969年4030台、1970年4707台、1971年6819台と70年代に入る頃からは爆発的に増加した。ピークは1974年(昭和49年)の14260台で月1200台程度が上陸している。1975年(昭和50年)に新世代の初代ゴルフが上陸した影響で1976年(昭和51年)以降は大幅にビートルの輸入台数は減少した。



【西独製ビートル・タイプⅠ 日本国内輸入台数の経緯】

1952年(昭和27年): 2台・・・・・1台はVW社の社長自ら販売拡張戦略のため持ち込む。

1953年(昭和28年): 105台

1954年(昭和29年): 752台

1955年(昭和30年): 113台

1956年(昭和31年): 243台

1957年(昭和32年): 370台

1958年(昭和33年): 458台

1959年(昭和34年): 655台

1960年(昭和35年): 781台

1961年(昭和36年): 798台

1962年(昭和37年): 461台

1963年(昭和38年): 879台

1964年(昭和39年): 1090台

1965年(昭和40年): 2012台

1966年(昭和41年): 2016台

1967年(昭和42年): 2522台

1968年(昭和43年): 2922台

1969年(昭和44年): 4030台

1970年(昭和45年): 4707台

1971年(昭和46年): 6819台

1972年(昭和47年): 7855台

1973年(昭和48年): 11069台

1974年(昭和49年): 14260台

1975年(昭和50年): 12647台

1976年(昭和51年): 5711台・・・・・後年、秋篠宮文仁親王が76年式中古車を購入し、平成天皇も那須御用邸等で運転された。

1977年(昭和52年): 4722台

1978年(昭和52年): 1413台



【主要スペック】1978年 フォルクスワーゲン ビートル1200LE 日本仕様(タイプⅠ) Volkswagen Typ1 Beetle 1200LE Japan version
全長4090mm・全幅1550mm・全高1505mm・車重830kg・ホイールベース2400mm・RR・4サイクル空冷水平対向4気筒OHV1584cc・最高出力48ps/4000rpm・最大トルク10.2kgm/2800rpm・四輪独立サスペンション・4速MT・電装系12V・前後ドラムブレーキ・最低地上高145㎜・最小回転半径5300㎜・乗車定員5名・タイヤサイズ5.60-15-4PR・ヘッドレスト付フルリクライニングシート・熱線式リアウインド・AM/FMラジオ付・最高速度130km/h・ヤナセ国内輸入販売価格:165万8000円※(カブリオレ271万8000円)

西独製最終型ビートルタイプⅠの国内販売価格165万8000円は同時期の国産車ではクラウン、セドグロの中位グレードやスカGジャパンのトップグレード2000GT-E・Sに匹敵し、70~80万円程度だったカローラなら2台買ってお釣りがくる金額であった。ちなみに同時期に三和自動車が輸入していたポルシェ911SCは930万円、930ターボがビートルの約10台分に相当する1630万円であった。



●1978年 フォルクスワーゲン ビートル 本カタログ (A4判・日本語16頁)
ヤナセ・カタログNo.V137Y10CJ-2。初代ビートルのカタログについては1954年版カタログを本シリーズ第135回記事(2013年5月6日)で既にご紹介しているが、今回は1978年の西独製ビートル末期の珍しいヤナセ発行日本語版カタログをピックアップすることとしたい。ポップカルチャーの影響が色濃く表れた表紙を始め、日本でもビートルが単なる実用車ではなくファッショナブルなモノとして捉えられた時代のカタログである。この時期の輸入は1600cc48psエンジンを積んだ1200LEセダンと1303LEコンバーチブルの2種のみ。表紙のシールをベタベタ貼ったヒッピー風ワーゲンはカタログよりも5年以上古い年式のようだ。
(1)表紙


【中頁から】

西ドイツ フォルクワーゲン社(研究開発センター、エムデン工場、ウオルスフスブルグ本社及び工場)
(2)工場


≪Made in Germany≫ 今年も西ドイツ生まれ 生粋のかぶと虫をお届けします。
1952年、2台の奇妙な形の車が西ドイツから日本に上陸しました。かぶと虫です。まだ戦争の傷跡も生々しい荒れ果てた日本の道を、この奇妙な車は走り続けました。とても道路とは言えない、凄まじい凸凹道でした。日本列島は目ざましい勢いで建設が進みました。以来25年の歴史を、この奇妙な車はひたすら走り続けました。そして北は北海道から南は沖縄まで、日本の隅々に数えきれない程の仲間が増えました。これらのかぶと虫に混じって日本に来た最初の車も、今なお現役として活躍しています。高速道路を100km/h以上のスピードで巡航する実力もそのままに。古めかしいクラシックカーとしてでなく、いつも新鮮なニューモデルとして。かぶと虫の年式は、余程の「通」の方でない限り見分けがつきません。近頃の車は確かに耐久性が良くなってきました。けれども、このかぶと虫のタフネスぶりには、ちょっと歯が立ちません。タフなのはエンジンや足回りばかりではありません。ガタのこないボディ、ヘタらないシート、いつまでも新鮮さの変わらないスタイル・・・そして25年間、年と共に益々この車の真価が高まるのは、何と言ってもどこが故障しても何年式のモデルにも充分な部品が用意されていることです。本当に値打ちのあるものを、いつまでも大切に使う・・・・・こういう時代に一番相応しい車、それがかぶと虫です。ヤナセは、西ドイツ最大の自動車メーカー、フォルクスワーゲン社が40年の歳月をかけて磨き上げたかぶと虫を日本の皆様にお届けすることに誇りと喜びを持っています。これからも、誇り高いMade in Germany のかぶと虫への信頼にお応えするために西ドイツかぶと虫の生産が続く限り、この車を皆様にお届けします。今皆様がお乗りになっている数多くのかぶと虫、これからあなたがお乗りになるであろうかぶと虫が、今後、いつまでも、よく走り続けられるよう、ヤナセは見守ってまいります。いつでも充分なパーツと優れた技術を持つ専門メカニックと全国200ヵ所以上のサービスネットを通して。信頼の保証の付いているかぶと虫を安心していつまでもお乗りください。
(3)西ドイツ


(4)1500万台


「ビートル ザ・ワールド・チャンピオン」
(5)ワールドチャンプ


(6)バービー


「人生のよきパートナー かぶと虫 ~喜びと悲しみを知っている、ある生物の話」
映画「ラブ・バッグ」の主役ハービー君のタイヤ跡がモンローの手形等と共にハリウッドに残された話など。
(7)パートナー


フラット4搭載の軽飛行機、フォーミュラ、バギー他
(8)フォーミュラ


「ビートル ザ・ファンカー」
(10)ファンカー


6人の日本の著名アーティスト(山本寛斎、清家清作、小島 功、黒田征太郎、立木義浩、安達瞳子)がつくったファッショナブルビートル
(10)黒田・山本

(11)小島・立木

(12)清家・安達


水でも砂でも雪でも
(13)水砂雪


「行動派のパートナー かぶと虫 ~ 砂の中でも濁流でも、空気のあるところ、どこにでも棲みつきます。」
(14)行動派


1200LE 2ドアセダン。日本仕様セダンのフロントガラスは最後まで非曲面のまま。
(15)1200LE


「そして、今年も かぶと虫 ~ 胸を張ります。生粋の誇り高き西ドイツ生れです。」
(16)今年も


ヤナセ工場、横浜デポ、小牧デポ
(17)ヤナセ工場


「大きな安心を乗せて走る かぶと虫 ~ 全国のフォルクスワーゲン・サービスがあなたのかぶと虫を見守ります。」
(18)安心


裏面: スペック・装備一覧
(19)スペック





★オマケ(その1): 大盛屋チェリカフェニックス8番&米澤玩具ダイヤペット165番 1/40スケール フォルクスワーゲン・ビートル
全長10.5cm。アンチモニー製。緑色が大盛屋、薄青メタとクリームが大盛屋の金型を流用し前後フード開閉式としたダイヤペット。大盛屋はフォルクスワーゲン・エクスポートの商品名で1962年7月発売、ダイヤペットはフォルクスワーゲン1300セダンの商品名で1967年10月発売。大盛屋はタイヤが大きく腰高過ぎるのに対し、ダイヤペットはタイヤが小ぶりになり窓枠のメッキも追加されて良い印象のモデルとなった。
大盛屋(1)

大盛屋(2)



★オマケ(その2): 米澤玩具ダイヤペットG-51番 1/30スケール フォルクスワーゲン1302Sコンバーチブル
全長14cm。ダイキャスト製。1977年発売。当時定価1500円。ボンネット、ドア開閉の他、幌は取り外し式でオープンにした際に取り付ける折りたたんだ状態の幌パーツも付属。
ダイヤペット(1)

ダイヤペット(2)



★オマケ(その3): トミカ&トミカダンディ フォルクスワーゲン・ビートル
全長トミカ6.8cm・1/60スケール、ダンディ10cm・1/43スケール。ダイキャスト製。当時定価トミカ220~360円、ダンディ950円。トミカはF20-1として1977年6月に発売され、画像の赤箱中国製100番まで20年以上も造られたロングセラーだっただけに物凄い数のバリエーションあり。トミカではF23-2として1302Sコンバーチブルも1979年7月に発売された。ダンディもF11として発売された後、同品番でロールスグリル、フォードグリルも発売されバリエーションは多い。ダンディのスペアタイヤが良いムード。
トミカ(1)

トミカ(2)



★オマケ(その4): 朝日通商シグマ1/43スケール フォルクスワーゲン1303S
全長10cm。ダイキャスト製。前後フード、左右ドア開閉。当時定価1200円。「分解・組立てが出来る」をキャッチフレーズに1970年代末頃にかつてマッチボックスを輸入していた朝日通商が突如登場させたシリーズだが、完成品として出荷されたミニカーをわざわざ手間暇かけて分解して楽しむ人がいたのかどうかは疑問。
朝日(1)

朝日(2)

朝日(3)



★オマケ(その5): 英マッチボックス1970年代のVWビートル各種他
全長:各7cm前後。ダイキャスト製。品番15のモンテカルロラリー仕様は旧ホイール時代にリリースされた後、すぐにスピードホイール化され、一度絶版となった後の80年代初頭にも日本ではジョリーシリーズと名打って日本語表記の黒箱入りで再発売された。70年代の半ばあたりのマッチボックスのラインナップには同時期にビートルが3種もあった。深緑のカブリオレはマイスト、緑と赤のカブリオレと緑のセダンはマレーシア製ホットウィール。ビートルは本気で集め始めたら泥沼にハマってしまいます。
マッチボックス他



★オマケ(その6): 英ディンキー&バッジー フォルクスワーゲン・ビートル
全長ディンキー9cm・1/45スケール、バッジー5.6cm・1/72スケール。何れもオーバルウインド時代の実車をモデルとした、窓ガラスも付かない素朴なビンテージミニカー。
ディンキー(1)

ディンキー(2)



★オマケ(その7): 独ガマ&ミニチャンプス 1/43スケール フォルクスワーゲン1302&1954年式
何れも全長10.5cm。ダイキャスト製。GAMAは品番1104で1980年代のモデル。ミニチャンプスは品番052102で1990年代後半のモデルで1953~1957年式オーバルをモチーフとしている。何れも色違いは他に多数あり。
ガマ・ミニチャン



★オマケ(その8): 独シュコー 1/64スケール フォルクワーゲン・ビートル
全長6.2cm。ダイキャスト製。これは現在店頭で税抜1800円で入手出来る現行品だが、このシリーズは同じ1/64スケールのTLVより安価ながらもなかなか雰囲気が良い。一番下は同シリーズのポルシェ356カレラ2。
シュコー64



★オマケ(その9): 独WIKING 1/87スケール フォルクワーゲン1300
全長4.5cm。プラ製。貨車の上段3台がワーゲン、下段は同じWIKINGのポルシェ911。日本では銀座・天賞堂が専用の紙箱に「ヴァイキング」と表記したラベルを貼って売っていたミニカー。メルクリンの車載ボギー貨車にはヴァイキングのミニカーが元々セットになっている製品もあったが、天賞堂の店頭では貨車を買うついでにヴァイキングのミニカーも購入していくお客も多かったらしい。
バイキング(1)

バイキング(2)



★オマケ(その10): バンダイ 1/20スケール フォルクスワーゲン1303S プラモデル
全長20cm。当時定価1800円(1983年11月時点)。ロールスグリル・バージョンにも作り分け出来るキット。FLAT4のステッカーが付いていたりなど、つい最近のプラモに見えるが、これでも既に30年経っていることに驚く。プラモはとにかく嵩張るし、積んでおいても一生作らないならば、1960年代以前の一期一会的な稀少なモノを除き時期をみて処分した方が良いかなと最近感じている。フジミの1/24スケールのポルシェ911や356あたりは全種購入後、倉庫に山積みにしたまま早くも30年位が経っているYO(汗)。
バンダイ



★オマケ(その11): 書籍「フォルクスワーゲン・バイブル WAGEN BOOK」
1983年10月1日シンコーミュージック発行。208頁。今回の記事の参考書。実車の歴史からミニカーその他のグッズ類、はたまた日本のビートルの20代のオーナーカップルの写真&一言コメント一覧など現在見ても結構楽しめる内容。
バイブル本



★オマケ(その12): 森谷コレクション 動画
ワーゲンのミニチュア・コレクションで有名な群馬県・沢渡温泉「山水荘もりや」の御主人・森谷氏のコレクション動画。ワーゲンを集めるのも一生かかる。いや、フェラーリ、ポルシェ、ビートルあたりの名車のミニチュア・コレクションは新製品も続々と誕生するのでビンテージ物だけに絞るなどしない限りは、一生かけてもコンプリートにはならず、道半ばで終わってしまうだろう。


★1968年ダイハツ巨泉ハイゼット 大橋巨泉 逝く ~ 自動車カタログ棚から 322

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★大橋巨泉 逝く
1934年(昭和9年)3月22日 東京・両国生れの大橋巨泉さんが、 2016年(平成28年)7月12日に亡くなったことが公表された。巨泉さんというと、ある年代以上の日本人ならば、以下のような高視聴率を誇ったテレビ番組を思い出すはず。個人的には、小4~小5の頃に放送され、「アッと驚くタメゴロー」「ゲバゲバ・ピー」「うーしししし」が流行語となり、クラスで見ていないのは余程の馬鹿真面目な家庭の子だけという程の高視聴率を誇った、ショートコント連発番組「ゲバゲバ90分!」が一番衝撃的だった。ゲバゲバPのイラストもよくノートなどに描いて遊んだ。高校生になってからは11PMもよく見ていたが、巨泉さんの司会が楽しみで見ていた訳ではなく、10代の私は当然ながら基本オネエサンのハダカが見たくて見ていた。それと、11PMはどちらかというと巨泉さんよりも藤本義一さん(1933年1月26日-2012年10月30 日)の司会の方がダンディで好きなのだった。


【大橋巨泉 司会の人気番組】

1) 『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(1969年10月7日~1970年3月31日、1970年10月6日から1971年3月30日;日本テレビ系列)

2) 『11PM』 (巨泉司会は1966年4月~1985年9月;日本テレビ制作の月曜・金曜放送分)

3) 『お笑い頭の体操』 (1968年2月~1975年12月;TBS系列)

4) 『クイズダービー』 (1976年1月3日~1992年12月19日の全862回中、巨泉の司会は「セミリタイア宣言」に伴って降坂した1990年3月31日放送の第734回まで;TBS系列)

5) 『世界まるごとHOWマッチ』 (1983年4月7日~1990年4月5日;TBS系列)


11PMの司会者、大橋巨泉さん、藤本義一さん、愛川欣也さんは何れも昭和一桁終盤に生を受けた同世代であったが、巨泉さんの死でその3人全員が鬼籍に入られたことは残念としか言えない。平和、護憲、憲法九条を守る、戦争放棄、同じ過ちは絶対に繰り返してはいけないという強い思いは3人に共通していた。それは基本的には先の戦争を体験した同世代であったためだろう(同じ昭和一桁生まれでも改憲派や目には目を的な武力行使も良しとする保守層も存在するが、それは真の世界が見えない大馬鹿者というものであろう)。

巨泉さんが週刊現代(講談社)に長期間連載していた、コラム『最後の遺言』の最終回(2016年7月9日号)の内容は次の通りである。


今のボクにはこれ以上の体力も気力もありません。だが今も恐ろしい事や情けない事、恥知らずな事が連日報道されている。書きたい事や言いたい事は山ほどあるのだが、許して下さい。しかしこのままでは死んでも死にきれないので、最後の遺言として一つだけは書いておきたい。安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです。

テレビを始めとするメディアは、巨泉さんの死後にこの遺言についても一応紹介はしたが、あろうことか最後の「安倍晋三の野望は恐ろしいものです。~最後のお願いです」という部分は省いて紹介された。これはメディア側が与党・自民党の先生方に睨まれることを怖れたためだったのではあるまいか。


閑話休題
今回は大橋巨泉さんの逝去に因み、自動車カタログ棚からシリーズ第322回記事としてダイハツの軽商用車「巨泉ハイゼット」(通称)をご紹介します。



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★1960年(昭和35年)秋にボンネット型スタイルで初代L35型がデビューしたダイハツ・ハイゼットは、2016年現在で56年の歴史を誇る我が国の軽商用車の中では最も古い車名である(スバルサンバーは発売が1年遅い1961年で軽商用車の車名の歴史の長さでは2位)。
1964年(昭和39年)4月に2代目となるキャブオーバータイプのハイゼット・キャブが発売され(1966年秋にフェロー・ピックアップ/バンが登場するまで初代ハイゼットも併売)、4年のモデルライフを経て1968年(昭和43年)4月に登場したのが3代目S37系ハイゼットである。

★3代目ハイゼットは、「巨泉ハイゼット」のニックネームの由来となった大橋巨泉の黒縁メガネ顔を彷彿とさせる太い縁の付いた角型ヘッドライト周りのデザイン、大阪万博開催に向け電気自動車仕様のリリース、初期は前開きドアを採用、橙色リアウインカーの採用、トラックの荷台に2名分の座席を設け4名乗りとした客貨兼用車の設定等が特徴であった。
正確なモデルチェンジ時期は資料が見当たらず不明ながら、1968年春に登場後、1969年(昭和44年)秋にはドアが特徴的な前開きからより一般的な後ろ開きに変更され、更に翌1970年(昭和45年)秋には左右ヘッドライト間に太いバーが入り、より一層、巨泉のメガネのような顔つきとなった。1971年(昭和46年)秋の東京モーターショー前に4代目S33系にフルモデルチェンジ。3年強という短いモデルライフに終わった世代ながら強烈な個性を放つエクステリアがとても印象的である。エンジンはガソリンとオイルを別々に注入し、回転数に応じて自動的にオイルを供給するオイルマチック水冷2サイクル356ccで出力は最初の23psがマイナーチェンジ毎に若干引き上げられ最終型では26psを発した。デビュー時のラインナップは、バン・スーパーデラックス、バン・スタンダード、トラック低床1方開き、トラック平床3方開き、トラック客貨兼用車の5種であった(電気自動車を除く)。後にトラック低床3方開き、平床1方開き、パネルバンが追加された。



【主要スペック】 1968年 ダイハツ・ハイゼット・トラック平床3方開き S37T型(1968 Daihatsu HiJet Truck Type.S37T)
全長2990㎜・全幅1290㎜・全高1620㎜・荷台長1660㎜・ホイールベース1680㎜・車両重量525kg・FR・水冷2サイクル直列2気筒356cc・最高出力23ps/5000rpm・最大トルク3.5m-kg・乗車定員2名・最大積載量350kg・変速機4速コラムMT(2・3・4速シンクロ付)・最小回転半径3700㎜・平坦路定速燃費26km/ℓ・燃料タンク容量25ℓ・最高速度85km/h・東京店頭渡価格32万円



★1970年 ダイハツ・ハイゼット・バン電気自動車「ナショナル」
1970年10月の第17回東京モーターショーで配布されたダイハツ総合カタログ 乗用車編に掲載されていた写真。水色/白/赤のナショナル松下カラーと背景の青果店や「はきもの」の看板という昭和の風景がなかなか魅力的な1枚。このハイゼット電気自動車は初期型S37ベースだが、電気自動車仕様は後期型でも造られている。但し、電気自動車の専用カタログが存在するのか否かは不明。
松下電気自動車



★1968年 ダイハツ・ニューハイゼット 本カタログ (A4横開き・日本語20p)
1968年12月発行。初版は68年4月(?)で表紙右下に「新発売」の文字が入る。3代目S37系ハイゼットは毎年1回、モデルライフ中に2回マイナーチェンジをしているため、本カタログ、簡易カタログ共に3種ずつ出ているようです(残念ながら現在手元のカタログ棚にはこの1部しかありません)。くっきりした角型ヘッドライト、触角のような異様にステーの長いミラーが何とも印象的な顔です。
(1)表紙触覚

【中頁から】

実力№1の軽商用車・バン スーパーデラックス
(2)実力No1の軽商用

ニューハイゼットが颯爽と登場!
(3)文章アップ

バリエーション(バンstd・トラック低床1方開き・トラック平床3方開き)
(4)バンsd・トラック2種

バン スーパーデラックス
(5)バンスーパーDXバトン

外観ディテール
(6)外観ディテール

Bピラーに付く丸型サイドマーカー、角型ヘッドライト、橙赤2色テールライト
(7)ウインカーヘッドテール

クリーム/赤ツートンのバン スーパーデラックス室内
(8)バン運転席

バン スーパーデラックスの内装他。バンのリアゲート、サイドドアは共に横開き。
(9)バン内装ディテール横開き

バン スタンダード
(10)バンstd

バン スタンダードの室内。スペアはリア床下吊り下げ。
(11)バンstd各部スペア床下

トラック低床1方開き
(12)トラック低床1方開き

トラック低床1方開きの各部
(13)トラック低床各部

トラックのテールライトも橙赤の2色
(14)トラックのテールライト

トラック平床3方開き
(15)トラック平床3方開き

トラック平床3方開きの荷台。低床・平床の各積載例。
(16)トラック平床3方開き荷台

最小回転半径は3.7m。
(17)最小回転半径3.7m

狭い路地もスイスイ。
(18)狭い路地もスイスイ

サスペンション・ブレーキ・安全設計。
(19)サス・ブレーキ・安全設計

360cc23psエンジン
(20)エンジン

ジェットバルブ方式エンジン解説。右上:ガソリンスタンドにて。
(21)ガソリンスタンドにてジェット

荷台に2名分のシートを設けた客貨兼用車。
(22)客貨兼用車

ダイハツ池田工場全景・営業拠点・鰻登りの登録台数。
(23)ダイハツ池田工場他

裏面: 図面・スペック。左下は姉妹車のフェローバン/ピックアップ。
(24)裏面・図面スペック



★1969年 ダイハツ総合カタログ 商用車編 (縦20cm×横21cm・日本語8頁)
1968年10月の第15回東京モーターショーで配布されたと思われる商用車総合カタログ。表紙・裏表紙は初期型S37ハイゼットの正面。
69年(1)表紙

【中頁から】

バン スーパーデラックスとトラック低床1方開き
69年(2)中面



★1971年 ダイハツ総合カタログ 商用車編 (縦20cm×横21cm・日本語12頁)
1970年10月の第17回東京モーターショーで配布されたと思われる商用車総合カタログ。表紙は左右ヘッドライト間に太いバーの付いた最終型3代目ハイゼットとデルタ。
71年(1)表紙

【中頁から】

バン スーパーデラックスとバン スタンダード。ドアが後ろヒンジ前開きから一般的な後ろ開きとなり、左右ヘッドライト間に太い黒のバーが付いた。元々前開きで設計されていたため、後ろ開きにしたためにヒンジが外に露出した。この最終型ではサイドマーカーも丸型から縦長に変更され、上のスーパーデラックスではミラーが丸型から小判型に変えられた。
71年(2)バンスーパーDX&std

トラック平床3方開きスタンダード
71年(3)トラック平床3方開き

トラック低床1方開きデラックス(上)とスタンダード(下)。デラックスはホワイトリボンタイヤを履きミラーが小判型。
71年(4)トラック低床1方DXstd

トラック平床1方開きデラックス(上)とスタンダード(下)。DX・stdの相違点は低床と同じ。
71年(5)トラック平床1方DXstd

荷台に2名分の座席を設けた客貨兼用車
71年(6)客貨兼用車

パネルバン
71年(7)パネルバン






★オマケ(その1): 1969年~1971年 日本テレビ「ゲバゲバ90分!」
冴えたギャクセンスは現代でも通用しそうです。8分前後にトヨタ・ダンプも登場。




★オマケ(その2): 1969年 大橋巨泉 パイロット万年筆 テレビCM
そもそも芸名が「俳号」から来ている俳人「巨泉」。「みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」というアドリブ言葉遊びで大ヒットした名CM。 パイロットは1918年(大正7年)1月27日「株式会社並木製作所」を東京で創業、1938年(昭和13年)パイロット萬年筆株式会社、1989年(平成元年)株式会社パイロット、2003年(平成15年) 株式会社パイロットコーポレーションと名称を変えながら既に約1世紀存続している企業。




★オマケ(その3): 1979年? 大橋巨泉 ハウス食品「本中華」 テレビCM
この「ナンチュウカ、ホンチュウカ」もヒットした。「うまかラーメンうまかっちゃん」や「好きやねん」は現在も継続販売されているが、この本中華は生産中止に。でも、あれは美味しかったと再販を望む声も多いらしい。ハウス食品は、1913年(大正2年)に大阪・松屋町で創業とのことなので、既に1世紀を超える歴史を持つ食品会社。個人的には「ハウスバーモントカレーだよ~♪秀樹、感激!」のCMが大ヒットしたハウスバーモントカレーが思い出深い。




★オマケ(その4): 1980年代 大橋巨泉 ロート製薬「パンシロン」 テレビCM
時代はくだり、このCMは覚えている人も多いのでは。ロートの前身「信天堂山田安民薬房」は1899年(明治32年)に大阪・東心斎橋で創業、「ロート」の商標登録が1908年(明治41年)12月5日というから、製薬会社として1世紀を超える歴史を持つ。




★オマケ(その5): そんな本日のホットウィール 目
初代ハイゼットL35はバンダイ、2代目ハイゼットキャブS35は野村トーイからブリキ製の金属モデルがリアルタイムに出たが、残念ながら3代目・巨泉ハイゼットには現在に至るまで市販のミニチュアモデルが存在しない。でも、オマケにミニカーがないのは寂しいということで、これは先日ブラッと入った玩具店で税込み1台300円で買ったミニカー。007アストンマーチンDB5、007ムスタング・マッハ1、バットモービル。ブリバリ用と保存用で2台ずつ買っておこうか少々迷ったが、際限なく増えるのでそこはググっと堪えて1台だけ入手。ホットウィールの国内定価は300円(税抜)との情報があるが、トイザらスでは199円、通販サイトでは129円と更に安かったり、逆に500円、600円、1000円等で売られている店もあったりして人気度にもよって新品でも値段が変動するものなのか?どうもよく分からない。
ホットウィール

★2016年ポルシェ911ターボ 991後期型 ポルシェショー ~ 自動車カタログ棚から 323

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さて、今日は都知事選。東京電力の社外役員、岩手県知事時代に猛烈な公共事業投資で大赤字を出して辞めた官僚出身の増田氏や元防衛大臣の小池氏は何れも改憲(戦争賛成/武力行使容認)及び核兵器拡充及び原発推進派のため、良識を持った都内の知識層が投票することは120%有り得ない選択と言えるが、今回は保守候補が分裂して、危機感を募らせた自民党が億単位の金を出版社にバラまいて選挙中に発売中となるメジャーな週刊誌に多数の鳥越氏バッシング記事を掲載したと言われる事実は、実は1960年代に革新都知事の美濃部さんが当選する寸前の自民党が仕掛けた、あることないこと揚足取りに奔走した事実と酷似しているとの指摘があり、まあ自民党の考えることは半世紀たっても変わらず相変わらず卑劣ということなのだろう。前々から何度も言っている通り、私の場合は投票用紙には「ジョン・レノンと書く」ことを原則としてきたので選挙は傍観者的な立場でしかモノが言えないという体たらくではあるのだが(汗)、しかし、都知事が国政とは真逆の立場の人となれば戦前の暗黒の時代に逆戻りさせようという野望を持つ右翼的な安倍氏の国政にある程度の歯止めをかけられる可能性も否定はできず、ここは良識のある都民であればやはり鳥越氏支持に回るのが最良の選択と言えるのは確かであろう。鳥越氏よりずっと若く情熱的でもあり、真っ白な心で都政をイチから改革できる可能性を秘めた石田氏の方がむしろ良かったのではという意見も私の周りにはあるのだが、石田氏自身は野党統一候補が出れば自分でなくても良いと述べており、石田氏が出馬していない状況にある以上は石田氏の意向も十分に尊重し護憲(戦争反対/武力行使反対)、原発反対の鳥越氏支持に回るのが都民としては最も賢明な選択であろう


閑話休題
今回は自動車カタログ棚からシリーズ第323回記事として最新のポルシェ911ターボ日本語版カタログを今週パレスホテル東京で行われたポルシェショーと併せてご紹介します。




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★2016年夏 ポルシェショー in東京
三和自動車時代はホテルオークラ、ポルシェジャパンとなってからは恵比寿のウェスティンホテル東京で長年行われてきた、年1回の東京でのポルシェショーが今回は皇居お堀端のパレスホテル東京に場所を移して2016年7月28日(木)午前11時~午後9時に開催された。
入場時の招待状のチェックが厳重でポルシェを見たい一心で会場に駆けつけても中に入れず門前払いという悲惨な目に合う。尤も日時場所は公にされてはおらず、招待状が届かない場合はディーラーで訊かなければ開催自体が判らない。
ポルシェは安価でコンパクトなSUVマカンの投入もあり日本市場での販売は伸びていると言われるにも関わらず、恵比寿時代よりも会場は狭く感じられ、展示車も少ない少々寂しいショーであった。GT3RS、新型911ターボ、新型ケイマンの展示もなく、新型718ボクスターが展示されたのが目を引く程度、911はカレラクーペとカレラSカブリオレが各1台のみという、展示内容は普通のポルシェ・ディーラー以下とも思える少々首をかしげる内容のショーであった。ル・マンでウィナーとなった919ハイブリッドの姿もあったが、何と実物ではなくモックアップであった。パレスホテル1Fのクルマ寄せから希望者は新型ボクスターとマカンの試乗が出来るというのが目新しい趣向であったのだが、試乗はパレスホテルでなくともポルシェのディーラーであればどこでも出来るため、お堀端周辺の道を走るということに特段の興味がない限りはあまり意味がないように思えた。


919ハイブリッド(モックアップ)
ショー(2)919

918ボクスター
ショー(3)ボクスター

911カレラ。このブルーはPOPでなかなか魅力的なカラー。
ショー(4)青前

ツインターボとなった991型911の後期型はリアの縦グリルが外観上の識別ポイント
ショー(5)青縦グリル

パレスホテル車寄せの試乗コーナー
ショー(7)試乗コーナー

来場のお土産は美濃焼の白磁製ポルシェの絵皿4枚のセット(各12×12cm)。90年代終わりのポルシェショーではミニチャンプス911GT1ルマンカーの1/43ミニカーがお土産に貰えて狂喜したものだが、今回もこの絵皿よりは919ハイブリッド・ルマンカーのミニカーを貰える方が個人的には遥かに嬉しい。
ショー(8)絵皿

パレスホテル2Fショー会場入り口
ショー(1)入口

会場風景
ショー(6)会場風景

パレスホテル全景。1泊1名5万円前後以上の高級ホテル。東京に住んでいる限りあえて泊まることは私は一生ないかもしれない。ホテルのロビーではアジア系、中東系と思われる外国人の姿を多数見かけた。
ショー(9)パレスホテル全景

夕闇迫るパレスホテル近くの内掘通り皇居前交差点
ショー(10)夕暮れの御堀端


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【2016年 新型ポルシェ911ターボ】

★現行のポルシェ911(991型)はツインターボ化されたリア縦グリルの後期型にモデルチェンジしたが、911ターボも出力を20ps引き上げ、同時に燃料消費量とCO2排出量を低減させた後期型(ABA991H2型)に進化した。
内外観も小変更され、外観ではホイールデザイン、フロント及びリア下部のデザイン、リアエンジンルーバーが左右分割に変ったことなどが目を引く。エンジンは前期型と同じ水平対向6気筒3799ccツインターボながら最高出力はターボが520psから540psに、ターボSが560psから580psに各々20ps引き上げられ、最高速度はターボが315km/hから320km/h、ターボSでは318km/hから330km/hへと大幅にアップした。911ターボに乗って燃費を気にする人は少ないと思われるが、燃費もターボの10km/ℓが11.1km/ℓ等と全ての車種が概ね1km程度伸びている。日本国内販売価格はターボの2128万円が2236万円に、ターボSカブリオレの2813万円が2865万円に等、各々引き上げられた。もし去年、2015年に911ターボを買った人は、僅か1年で総合性能が大きくアップした新型がデビューしたことになり、ポルシェは刻々と進化するので、新車の場合には買い時を決めることが難しい。新車で911ターボを買うような財布の重い人なら毎年、買い替えるようなことも可能なのかもしれないが、常に最新(=デザインや心情的なものを除いて機械としては最良)のポルシェに乗っていたいという人はどうしても頻繁に買い替えなくてはならないのである。それが、1959年の356Aカレラだとか1967年の911Sだとか1973年の911カレラRSといった歴史的な評価が定まったビンテージカー(旧車)の場合には資産価値が上がることはあってもまず大きく価値が下がることはないという点では余程の稀少車等でなければ買った瞬間から値落ちする新車より寧ろ良い買い物だと言えるだろう。私のように心情的に新車よりもオールドポルシェに底知れぬ魅力と味わいを感じるような場合では尚更のことである。


【主要スペック】 2016年 ポルシェ911ターボS 車両型式ABA-991H2 (2016 Porsche 911 Turbo S)
全長4510㎜・全幅1910㎜・全高1295㎜・ホイールベース2450㎜・車重1610kg・リアエンジン4輪駆動・水冷水平対向6気筒4バルブ ツインターボ3799cc・最高出力580ps/6750rpm・最大トルク700N・m(2100‐4250rpm)・変速機7速PDK・最小回転半径4900㎜・乗車定員4名(2+2)・ラゲッジコンパートメント容量115ℓ・燃費10.8km/ℓ・0-100km加速2.9秒・最高速度330km/h・日本国内販売価格2599万円(車両本体)



●2016年 ポルシェ911ターボ 専用カタログ (縦16.9×横24.5cm・日本語64頁)
911ターボは販売台数の少ない車両だがポルシェジャパンでは専用の日本語版カタログを発行している。基本的には商談客にのみ渡す形を採っているためクルマを買わずにカタログのみを入手するのは結構ハードルが高い。最近話題の限定車911Rについては、独語版と英語版のみがヤフオクでは1部2万円前後という高額で流通しているが、現在のところ日本語版カタログは発行されていない模様である。
(1)表紙


【中頁から】

ターボSフロント
(2)ターボS前

ターボSリア
(3)ターボS後ろ

ターボSカブリオレ
(4)ターボSカブリオレ

外観解説
(5)外観解説

各部解説
(6)各部解説1フロント

(7)各部解説2リア

新型では左右に分割されたリアグリル
(8)左右に分かれたグリル

運転席。スピードメーターは350kmスケール。タコメーターは7000rpmからレッドゾーン。
(9)運転席350キロメーター

インテリア解説
(10)インテリア解説

3799ccフラットシックス
(11)エンジン

エンジン解説
(12)エンジン解説

サイドビュー
(13)サイドビュー

ターボ
(14)ターボ

ターボS
(15)ターボS

カブリオレ
(16)カブリオレ

運転席ドアを開けたターボS
(17)さあ乗りましょう(ターボS)

スペック
(18)スペック






★オマケ(その1): ポルシェノベルティ 1/43スケール 2016年ポルシェ911ターボS
全長10cm。991のデビュー時よりイベントの際に配布されているクロームメッキの置物で、これまでにノーマル911カレラ、タルガ4も出ている。車輪が回転しないため文鎮として使用できそうな単なる「置物」ながら、ほぼ1/43スケールのため同一スケールのミニチュアカーと並べられるのが良い。
メタルカー(1)

メタルカー(2)



★オマケ(その2): ヘルパ1/43スケール 2016年ポルシェ911ターボSカブリオレ&ミニチャンプス2010年ポルシェ911スピードスター(997後期)
全長各10.5cm。ダイキャスト製。これは7月28日のポルシェショーのグッズ販売コーナーで入手してきたミニカー。ターボSはクーペの白も出ているが人気があり品切とのことであった。911ターボはイメージカラーのシルバーが出たら入手したい。997スピードスターは青と赤の2台を入手して白は未入手だったので今回バーゲンプライスで購入。何れも通常定価は税抜8500~11000円前後。ポルシェショーではミニカーは全て通常価格より1割程度安く販売され、997などの旧型では40%OFF前後の1台5000円前後以下のバーゲン品もあった。但し、ミニチャンプスは全般にかつてのような人気は失われたと言われて久しく、ポルシェでも中古品になると売値で600円~2500円前後、専門店での買取価格はよくても1000円、996あたりの実車の世界で不人気の車種は買取価格200円、売値で600円~800円程度と極めて市場評価は低いようだ。水冷911の第一世代である996も定価の4000円前後で当時、ディーラー等でターボ、クーペ、カブリオレ等各車種のミニカーを大量に入手しているため売りたいと思っても、1台4000円で買ったものが買取1台200円ではあまりに勿体なくて売れないというのが現状ではある。尤も996のミニカーは新品で買った後、ダンボール箱に入れて倉庫に仕舞ってしまったため、自分のモノでありながら既に15年位は全く見ていないのだが(汗)。
白2台(1)

白2台(2)

白2台(3)



★オマケ(その3): 青箱トミカ №F1-2番&№81-?番 1/61スケール ポルシェ930ターボ 
全長7cm。ダイキャスト製。1979年7月発売。当時定価240円。赤箱に移行して81番に品番を変え中国製となってからも生産・販売が続いた長寿モデル。シルバー、赤、黄、黒、白、茶、黄緑等カラーバリエーションは多数。フロントに大きなポルシェマークの入った白は中国製となってからの欧州輸出向けモデル(品番9201)。
トミカ



★オマケ(その4): 永大グリップテクニカ12番 1/28スケール ポルシェ930ターボ
全長15.5cm。ダイキャスト製。1977年発売。ユーザーが自分で貼りつけるサイドデカール付。当時定価1500円。ノーマルは他に黄緑と黒、更にラリー仕様とレーシング仕様のバリエーションもあった(当時、全種類買ったことを覚えていますが倉庫に仕舞ってしまい行方不明のため、今回はたまたま手元にあったノーマルの赤のみアップします)。
永大(1)

永大(2)

永大(3)



★オマケ(その5): そんな本日のホットウィール 「ポルシェ917」 目
全長7cm。ダイキャスト製。裏板には「porsche917 1969 Matel INC USA」の刻印。リアがガバッと大きく開き12気筒エンジンが現われる。HWは知識がなく分からないのだが、初期のレッドラインと言われるモデルなのでそこそこレアかも(?)。
HW(1)

HW(2)

HW(3)



★オマケ(その6): 2016年 ポルシェ911ターボ 画像集
映像には2017とあるが、2016年1月のデトロイトショーでデビューしているので、昔流に言うならば2016年後期型というべき最新モデル。

★1974年 ポルシェ911RSRイェーガーマイスター ~ 広報誌クリストフォーラス375号から

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さて、もう今日から8月ですね。お盆休みは郷里に帰省、あるいは円高でお得な海外旅行に行くという人なども大勢いらっしゃることと思います。某大手企業に勤める私の知合いにはお盆休みが連続12日だなんて人もいますが、私はそんなに長期の休みは取れないのでなるべく甲信越などの近場で楽しみたいと思いますYO♪


ところで、あなたはお酒を飲まれますか?
えーっ!毎晩飲まないとどうにも眠れない?
それってちょっとアル中入ってませんか??
まあ、適度なアルコールは体にいいとも言いますが、実は、私は一滴も飲まないんです。高校生の頃にコークハイを沢山飲んで倒れ病院に運ばれて以来、40年飲んでいません。エリック・クラプトンのように以前は酒に溺れていたのが今はきっぱり止めたというのではなく元々飲まないのです。いや、飲めないのです。高校生の頃、同じようにコークハイを飲んでいた悪友達が何ともなかったことからすると、どうも私はアルコールを摂取できない体質のようなのです。それでも、宴会で乾杯の時にはビール一口二口位は無理矢理飲むこともあるのですが、若い頃は上司から、今は年配の方から、「独身の上に酒が飲めなくて人生の楽しみを何も知らないでいるなんて本当に君は気の毒な人だね。第一、男が酒も飲めなくてどうする?恥ずかしいとは思わないのかい?俺が鍛えてやるから付いてきなさい!」などと飲みに誘われることが多く、何十年も同じようなことを言う人が新たに現われることに内心閉口しつつ、いつもヤンワリ断ってきたというのが実情だったりもします。実は先日も銀座・資生堂パーラーのイタリアンの店で高価なコース料理の接待があり、「お酒はお好きな物を何でもご注文ください」と言われて、「私は飲まないのでノンアルコールか水で」と言うと相手が呆気にとられて「ポルシェさんが飲まれない方だったとは驚きました」などと言われ、男は飲むのが当然、酒を飲まないのは男ではないというような顔をされたのには、またまた内心閉口したものでした(汗)。



閑話休題
さて、今回はいつもとちょっと趣向を変えてお酒に纏わるポルシェの話題ですYO♪ 




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★雄大な山々。スキーシューズの紐を結ぶ黄色に縞のセーターの1人の女性。傍らの木には彼女のスキーのストックが立てかけられている。彼女のうしろには、シルバーのポルシェ 356クーペ が映っている。
この極めて魅力的な表紙のポルシェのオフィシャル広報誌、「クリストフォーラス」( Christophorus=旅人の守護聖人にちなんで命名)の創刊号1952年No.1が発行されたのは1952 年 7 月のこと。現在では10か国語、各号58万5000部が印刷され、世界のポルシェユーザー、ディーラーを訪れるポルシェファンに広く配布されている。
この創刊号を含め1950年代末の356Aの時代までの広報誌クリストフォーラスは稀少なコレクターズアイテムであり、私は過去に一度だけ、「創刊~50号までの揃いが日本円150万円程度のプライスで市場に売りに出されているが買わないか?」と持ちかけられたものの1冊当り3万円というプライスが少々高価に思えて手を引いてしまったことがある。しかし、第一級のポルシェ研究史料として考えれば値段はあってないような貴重なシロモノではある。日本国内では1960年代半ば以降の911登場以後のクリストフォーラスは比較的流通しているが、356の時代のクリストフォーラスが市場に出ることは稀で、例え揃いでなくとも入手することはなかなか難しい。
創刊号



★創刊から64年の時を経た今年2016年1号となった 375 号の表紙は、ワイドで低重心、贅肉を極限まで削ぎ落とし鮮やかなオレンジが眩しいゼッケン54のポルシェ911RSRイェーガーマイスターであった。
この号では、かつてこの車をドライブした男、エッカート・シンプフ(Eckhard Schimpf ;1938年7月1日-:ジャーナリスト兼レーシングドライバー)を特集。無数の皺が刻まれた彼の顔、そして穏やかながらも時に鋭く光る眼光には彼の過去と現在、そして未来への情熱が宿っているようでもある。今回はポルシェ広報誌クリストフォーラス375号のイェーガーマイスターの記事をメインに御紹介することとします。
(1)表紙


★ポルシェとモータースポーツと言えば、数々のレーシング・ポルシェを彩ったスポンサーとして最も有名なのはイタリアのお酒「マルティーニ」(Martini & Rossi)。そして次はイェーガーマイスターであろう。
イェーガーマイスター(Jägermeister)は、ドイツ産のリキュール銘柄である。アニスや甘草など実に56種類ものハーブが使われ、アルコール度数は35度、エキス分は15.7%、濃い赤色をしている。日本語表記では、イェーガーマイスター、イエーガマイスター、イェーガマイスター、イエガーマイスターなどとも書かれる。イェーガーマイスターは、ドイツのブラウンシュヴァイク市から13km南のヴォルフェンビュッテル(Wolfenbüttel)に本社を置く、マースト・イェーガーマイスター社(Mast-Jägermeister SE)が製造する。同社は1878年に創業したが、現在のリキュールのレシピを確立したのは1934年(昭和9年)で実際に販売されたのは翌1935年(昭和10年)のことであったという。ドイツ本国での販売は勿論、多数の国に輸出もされ世界各地で飲まれている。特に、アメリカでの人気が高い。アメリカでは元々ニューオリンズで評判になり、やがてアメリカ全土でイェーガーマイスター人気に火が付いたという。
イエガーマイスター



★エッカート・シンプフは、1972年から2000年までグラハム・ヒル、ニキ・ラウダ、シュテファン・ベロフ、ロニー・ピーターソン、ジャッキー・イクスといった錚々たるドライバー達が所属した名門レーシングチーム「イェーガーマイスター・レーシング」をマネージメントしていた。
そして彼は、最近、アメリカから嘗ての盟友であり今や伝説的なマシーン「1974年ポルシェ911カレラRSR」を取り戻すことに成功した。
夢見るような彼の表情は彼の記憶が完全に1970年代に戻っていることを示していた。夢見がちの表情のあと、世界一幸せだというような笑顔をみせた。「それは、旧友との再会でした」と彼は言った。エッカート・シンプフ(78)がドライブしてから、もう随分と長い時間が流れていた。しかし、彼の記憶は当時のサーキットを鮮やかに甦らせた。見る者を釘付けにする鮮やかなオレンジ色の1974年ポルシェ911 RSR。既に伝説的なレーシングカー。しかし、今も尚、真新しい香りがする。「我々は、まだまだ終っていません」と、シンプフは言う。彼は嘗てそのクルマを所有するイェーガー・チームのマネージャー兼ドライバーであったのだ。


★シンプフは、もう今や人生のゴールが見えてくるような年齢である。彼が26歳の時に出来た息子オリバー(51=現在はとある技術企業のCEO)と彼が共に力を合わせてこのクルマを取り戻すことに成功した。
「我々は何とか全ての重要なクルマを集めることができました」と彼は満足げに言う。イェーガーマイスター社の経済的な援助を受け、父と息子とで力を合せて、世界中から1ダースもの往年の伝説的なイェーガーマシーン達を買い戻した。
コレクションのハイライトは、言うまでもなくポルシェ911RSR 3.0。シンプフ自身、84回もこのクルマをドライブした。そのうち優勝回数は何と39回を数えた。そのクルマは、つい最近になってフランクフルト空港に空輸されて来た。
(2)フランクフルト

(3)フランクフルト2


実は彼は元々プロのレーシング・ドライバーではなかった。彼は、レーシングチームの監督と地方紙(香料入りソーセージ「Zeitung」)のジャーナリストとして活動していたため、自らレース参戦するためには他の仕事とのバランスを取らなければならなかった。寛容な出版社と文筆業に対する情熱により、彼はサーキットと編集の両方の仕事にバランスよく時間を割くことができたのだ。そして彼は、両方の世界で成功した。
彼と彼の息子はイェーガーのオレンジ色のマシーンを探し出す作業を2007年に開始した。1980年代初頭にポルシェRSRを買い集めたジョン・バーンが、「君は車を取り戻すことが必ず出来ると話しました。」とシンプフは言う。「しかし、私と同様に古いポルシェを集める大変裕福な中国人のライバルが現れ、いつしかポーカー・ゲームが始まったのです。」しかし、コレクター達からマシーンを取り戻すまでの過程で、最終的には単に札束を積み上げる中国人より元々のオーナーでもあり情熱でも勝るシンプフ達に譲ることが相応しいとの決断が為されたのである。
(4)シンプフと1

(5)シンプフと2

(6)シンプフヘルメット


★1970年代の古いレース・ポスターを広げてスキムフは過去を回想する。感傷的にはならないように努めながらも、「あの車は私の人生の一部でした。」「私はまだ人生のレースを終わらせたくはありません。しかし、あの頃が本当に激しくも楽しい時代だったのは確かなのです。」と言った。
「私は当時、イェーガー・レーシングのチーム監督としての報酬は貰っていませんでした。」と彼は回想した。「私には監督以外にレースに出る愉しみがあったので、それだけでもう十分だったのです。」そして、彼は逆説的な話をした。「私はあまり野心のないレーシング・ドライバーだったのです。」シンプフは異様に静かに語る男だ。「私は最高のドライバー達と同じレースに参加しました。 そして、私の結果はそんなに悪くもありませんでした。」と彼は言う。そう、彼には確かにレーシングドライバーとしての才能もあったのだ。
「私は、レーシング・ドライバーであることを楽しみました。イェーガー・チームの一員となって十分に楽しんだのです。」そう話す彼の目は輝いていた。ドライバー同士は、堅く結びついたコミュニティ(共同体)のようでした。みんなで各地のレースの前夜に集まる。「我々の16人ないし18人が一緒に食事に行き、翌日にはレースで共に戦ったのです。」「レースにドライバーとして参戦することには、傍観しているだけでは体験することができない魔力があります。」
しかし、1982年、44歳でスキムフはレースへの参戦からリタイアした。けっして彼のパフォーマンスが悪かった訳ではなく、その最後のレースでも彼は第4位に入ったのだった。彼はレースを終えて、妻のハイジに静かに言った。「これでもう十分だ。」実に潔い引き際だった。


(8)サーキット1

(9)サーキット2

(10)サーキット3

コクピット。ステアリングの赤いテープはタイヤ位置がニュートラルであることを瞬時に確認するため当時巻かれたもの。
(7)コクピット赤テープ


★そして今、彼は買い戻したポルシェで独マクデブルク近郊のオッシャースレーベンの新しいサーキットを走る。
そのコースは全長3.5キロに14のコーナーがある。「私は車に乗り込みギアを入れアクセルを一杯に踏みました。マシーンのコンディションは当時とほぼ同じでシフトアップもダウンもスムーズです。私の知るポルシェ911RSRの特質が40年を経て、つい昨日のことのように鮮やかに蘇ったのです」旧友との再会。そして鮮やかな運転感覚の復活。それこそが人生の英知というものであろう。彼の体一杯に911RSRの運転感覚が蘇った。フラットシックス330馬力が咆哮する。雄鹿は今も尚生きている。
(11)サーキット4シンプフ






★オマケ(その1): ミニチャンプス1/43スケール ポルシェ911カレラRSR3.0 ADAC1000km 1975年GTウィナー「イェーガーマイスター」 #54
全長10cm。ダイキャスト製。ミニチャンプス品番430 756954。限定3312台。クリストフォーラスの記事に登場した車両のミニカー。
ミニチャン54(1)

ミニチャン54(2)



★オマケ(その2): ミニチャンプス1/43スケール ポルシェ911カレラRSR3.0 ニュルブルクリンク1975年GTレース「イェーガーマイスター」 #4
全長10cm。ダイキャスト製。ミニチャンプス品番430 756904。限定6000台。最近のミニチャンプスのポルシェでは通常品でも生産数が3桁(250台程度)といった少量生産品も多くなっている中で、このモデルの6000台生産というのはかなり多い印象。1970年代までのダイキャストミニカーと異なり、現代のミニチャンプスは完全に大人のコレクター向けとして造られ基本子供の玩具としては消費されないため、生産された数の殆どが後世に残る可能性が高い。
ミニチャン4(1)

ミニチャン4(2)



★オマケ(その3): 仏ソリド改造 1/43スケール 1973年ポルシェ911RSR 「イェーガーマイスター」 #4
全長10cm。ダイキャスト製。1970年代の名作ソリドRSの素人改造品。
ソリド(1)

ソリド(2)



★オマケ(その4): サクラ1/43スケール 1977年ポルシェ935ターボ 「イエーガーマイスター」
全長11cm。ダイキャスト製。サクラ世界の名車シリーズNo.5。1978年発売。フル開閉アクション付。
サクラ(1)

サクラ(2)

フル開閉アクションが嬉しい(>_<)
サクラ(3)全開閉



★オマケ(その5): トミカF31-6番 1976年ポルシェ935ターボ「イェーガーマイスター」 #7
全長7.3cm。ダイキャスト製。トミカのイェーガーマイスターは1978年2月発売の4台入りギフトセット「サーキットシリーズ1」に入っていた。当時定価960円。イェガーマイスター・カラーの当時物ポルシェの日本製ミニチュアは他にも多数あり、最も有名かつ出来も良いのは田宮模型の1/12スケール934だろう。タミヤの934は初の電動ラジコンとしてヴァリアントカラーでリリースされたのが1976年12月ということなので、もう2016年で発売から40年になるというから驚きです。
トミカ(1)

トミカ(2)

オマケ1~5の並び
トミカ(3)集合写真1~5



★オマケ(その6): そんな本日のホットウィール「1968年 ザ・ビートルズ イエローサブマリン」 目
全長7.5cm。ダイキャスト製。イエローサブマリンは当時物として英コーギーからダイキャストモデルが出ているが、これは2016年発売の新製品。定価300円程度のものが品薄で手に入らず、安くなるのを待とうかとも思ったがビートルズ物としては外せず早く欲しくなって止む無く送料込み2500円位で購入。トホホ。最近の初回限定トミカといい、マスプロの小スケールミニカーがショートし入手困難なのは少々不思議。定価以下で買って10倍で売って儲けるというような転売屋さんが増えているのでしょうかNE。
サブマリン



★オマケ(その7): All You Need Is Love (邦題: 愛こそはすべて)  1967年 The Beatles 
アニメ映画「イエローサブマリン」の挿入曲としても使用された言わずと知れた名曲。世界中継されたこの動画はビートルズの4人以外にミック・ジャガーやエリック・クラプトンの姿も映っている。

★1927年 大丸ペダルカーカタログ 昭和のペダルカー達 ~ 玩具・模型カタログ棚から 027

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今日は広島原爆「ピカドンの日」ですね。
あの1945年(昭和20年)の夏からもう71年が経つとは時の経つのは実に早いものです。ご承知の通り、1945年の時点ではワタシは生まれてはいなかった訳なのですが、ワタシが1959年に生れる僅か14年前だと考えると、オバマ大統領も先日の広島訪問の際に「そう遠くはない過去に・・・」とスピーチしたように、つい最近の出来事のようにも思えるのです。広島でオバマ大統領は核兵器がない世界を目指すと語りましたが、今回の内閣改造で新しく防衛大臣となった安倍首相と思想信条が非常に近いと言われるタカ派で有名な稲田朋美氏は何と日本独自の核保有を検討すべき旨を過去に発言しており、現在の内閣は非常に危険な路線を走っていると言えるでしょう。


★しかし、暑いですね(>_<)
まあ、今が1年で一番暑い時期ではありますが、真冬は「冬ってこんなに寒かったっけ?暑い夏の方がずっといいよね!」などと言い、真夏には「夏ってこんない暑かったっけ?幾ら寒くても重ね着すれば済む冬の方が余程いいよね!」などと毎年勝手なことを言っているワタシだったしりますYO。まあ、しかし、本当に「この蒸し暑さよりは真冬の寒さの方が100倍いい」などと今は正直思いますが、冬になればなったで今度は「こんなに寒いよりは夏の暑さの方が100倍いい」だなんて言ってるんでしょうね(爆)
この記事をアップしてからちょっとアンティークのイベントに行き、そのあと、ちょっと涼しい夏の高原に小旅行に出ます(>_<)



アメーバニュースに「こんな男は彼氏としてNG!お金にだらしない男性の特徴4選」というちょっと興味深い記事が出ていたので抜粋しておきますNE。

「最初の頃は太っ腹だな~と思っていた彼氏も、実はただ単にお金にだらしないだけだった!なんて男性と付き合った経験のある女性もいらっしゃるのではないでしょうか。いくら彼氏でも、いや彼氏だからこそ、お金にはクリーンでいてほしいと思うものですよね。そこで今回は、身近に実際に経験した、お金にだらしない男性について、働く女性(主に20代)のみなさんに教えてもらいました。」

(1) ギャンブル(パチンコ・競馬・競輪・競艇・賭けマージャン・宝くじetc)
・「彼氏はギャンブルで借金がどんどん膨れ上がっていた」
・「彼氏が物凄いギャンブル好きで常にお金がないお金がないみたいな話をしていた」
・「前の彼氏はパチンコで給料のほとんどを使い、パチンコの赤を補填するため友人に借金をしまくっていた」

●ギャンブル好きの男性は、お金にだらしなさそうなイメージですよね。頭に血が上ってしまい、つい給料全部つぎ込んでしまっただなんて話を聞くこともあります。それで現金がなく、普段の買い物にはカード払いを続け、しかしカードの引き落とし日に預金残高がゼロで引落しが出来ずカードの使用も携帯電話の使用も止められたなどという笑えない実話もあります。

(2) 借金がある(友人・知人・同僚・親兄弟・親戚・カードローン・消費者金融etc)
・「彼氏が色んな人からお金を借りまくっている」
・「借金があるのに、彼氏はガンガンお金を使う。1週間で20万円分の買い物をしているのを見たとき、収入に対して、金欠なわけだな・・・・・と妙に納得した」
・「彼氏はかなり借金があった。ちょっとしたことの積み重ねの借金なんだよねと言って、悪びれる様子はまるでなかったが、飲み会などでも見栄を張って後輩に派手に奢ったりして満足そうにしていた」

●計画的な住宅ローンなどを除き、ローンの支払いが毎月給料の8割だとかになるような分不相応の高額なクルマの購入だとかとなると話は別です。最近はカードローンなどでも簡単にお金が借りられるため、借金だという感覚なしで、ついついお金を借りてしまう男性も少なくありません。カードローンで借りられる範囲までが、自分のお金だと勘違いしている人もいるようです。

(3) 把握できてない
・「彼氏は何にいくら使ったのか全く気にしていない。」
・「彼氏が支出したお金の把握を全くしていない」
・「常にお金がないのに、彼氏は何に幾ら使ったのか、まるで把握していない」

●自分の給料に対して、出て行くお金がまったく把握できていない男性もいるようです。何にどれだけ使ったのかがわかっていないため、どこを節約すればいいかもわからないことなり、雪だるま式にお金がなくなり預金残高がゼロに近づいているようです。

(4) 貯金できない
・「彼氏の通帳をみたら貯金残高が120円だった」
・「彼氏は普通に働いているのに、あまりにも貯金ができていない。基本だらしないんだと思う」
・「彼氏は自分の貯金残額を全く見てもいない。殆どないということだけは判っていても具体的な金額は把握しておらず、人生のパートナーとしてはあまりにも頼りないので嫌気がさした」

●貯金がない男性というのは、やはりお金にだらしないように感じますよね。金銭管理がまったくできていないようにも思えます。親や兄弟の生活費を沢山出しているとか、きちんとした理由があって貯金が出来ない場合もあるので、彼に確認してみたほうがいいかもしれません。


【総論】
お金にだらしない男性というのは、ほかのことに関してもすべてだらしないように思われがちです。特にお金にだらしないのと同様にだらしない人が多いのが女性関係ではないでしょうか。お金は持ってないのに何故かモテるというケースは世の中多いようです。「優男(やさおとこ)、金と力はなかりけり」 という諺(ことわざ)通りというケースはどうも世の中多いようなのです。付き合ってみると優しいから、例え一文無しでも結構モテる。お金がない=可哀そう=母性本能をくすぐるという図式でしょうか。しかし生活を考えれば、普通は後先かまわず無制限にお金は使えないものです。デートで泊まるのがいつも超高級ホテルの1泊50万円のスイートだとか、100万200万レベルのブランド物を次々にゴールドカードで買ってくれるとか、本当にお金持ちの彼氏の場合は別として、そんなに高収入でもなさそうなのに、いつもデートでは豪華な食事をしたり不自然に太っ腹な男性がいたら少し疑ってみてもいいかもしれません。そして、もし彼氏がお金に物凄くルーズだと分かっても、貴女に堪らなく愛しくて一緒にいたいという気持ちが強いならば、それも一つの愛の形なのでしょう。



閑話休題
さて、今回は古いペダルカー(子供用乗用自動車)のカタログをご紹介します。ペダルカーは子供が乗って遊ぶ自動車の形をした乗用玩具です。「自動車カタログ棚からシリーズ」の番外編とすべきか少々迷ったのですが、ペダルカーには実車を忠実に模した製品も数多いことから乗用玩具であると同時に実物の模型であるという側面もあるため、「玩具・模型カタログ棚からシリーズ」の記事としてアップすることといたします。
 




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★ペダルカーの起源については諸説あり、自動車の誕生と殆ど同時期に王侯貴族がその子供達のために特別注文し、追って一般向け製品も作られるようになったとするもの、工業製品としての普及は世界的にみれば1920年代(日本では大正期)に入ってからであったとするものなどがある。
ペダルカーはその大きさから住宅事情の縛りが大きい日本国内では専門のコレクターは少数と言われるものの、西欧では古くからかなりの数のコレクターが存在する。また、ペダルカーには自動車メーカーが販促グッズとして自社製品を模して出しているものが古今東西に存在することから、実車のコレクターが実車と一緒にそのクルマのペダルカーを蒐集しているといったケースも見られる。実車のコレクターではなくとも、例えばポルシェのディーラーに行けば、子供用のボクスターが置いてあったりする。ボクスターの実車と共に我が子用にペダルカーを購入するといったケースの方が、実車は買わずペダルカーのみを集めるというペダルカー専門のコアなコレクターよりも圧倒的に数は多いだろう。



●1931年(昭和6年)8月19日 都下・井の頭恩賜公園にて撮られた写真
ペダルカーに乗っているのは、1928年(昭和3年)生まれで今年88歳になる私の父。後ろは1921年(大正10年)生まれで今年残念ながら95歳で鬼籍に入った父の7つ上の姉(私の叔母)。2016年現在で既に85年経っているが、2人共、大人になってからの顔と口元などのパーツが同じで、この写真には面影が十分ある。この伯母さんに私は1960年代にスポットオンのバーゲン品「ロイヤル・ロールスロイス」や「ジャガーSタイプ」のミニカーを買って貰ったことがあった。また伯母さんは21世紀に入って彼女の世にも数奇な人生を纏めた自叙伝を某出版社から出して、その本は2回版を重ね、第3刷まで出ている。2016年現在で既に85年も前の写真だが、背景に写っている井の頭公園内の橋は今も同じ位置に同じような形で存在しており、写真を撮った場所もある程度特定出来そうである。なお、ペダルカーは父の記憶では当時乗って遊んでいた自分の物ではなく、写真館が用意したか撮影用にどこかから借りたものではないかとの由である。
井の頭



●東洋レーヨン 東レ トヨラック 1965年トヨペット・コロナ ペダルカー カタログ (A4判・片面印刷・日本語1枚)
ボディカラーはレッド(赤)・ブルー(青)・グレー(灰色)・ブラウン(茶色)と4色もある。スチール製のペダルカーとは異なりABS樹脂製で錆びない利点はあるが、割れてしまえば治せない。稀にジャンク品を見かけるが未使用の完品は恐らく現存しないだろう。バックにはコロナの実車が写されている。フェンダー・ミラーは実車よりスポーティーな砲弾型が付いている。
コロナ



●朝日通商発売サカエ 1965年 プリンス グロリア ペダルカー 広告
東京玩具商報1966年1月号(国立国会図書館 所蔵)に掲載の広告。「安いお値段」として定価8800円と記載されているが、現在の貨幣価値では少なくとも5倍の4,5万位にはなるだろう。このグロリアは1960年代の日本製のペダルカーでは最も魅力的な製品だが現存する個体は未確認。これもボディカラーは赤・黒・青と3色もあり、ジャンクでさえアンティーク市場で見かけないため、未使用美品でカラバリ3色まで全て揃えることは最早100%不可能だろう。それにしても、このグロリアの黒のペダルカーなんていうのは最高に魅力的だったことだろう。この広告もバックにはグロリアの実車が写されている。発売元の朝日通商はこの年あたりから日本に小スケールミニカー「マッチボックス」の輸入を始めたことで有名。
グロリア



●蔵万(卸問屋) 1966年 チャイルド・ジャガーEタイプ、東レ コロナ号、クラウンエイト号 ペダルカー 広告
東京玩具商報1966年1月号(国立国会図書館蔵)に掲載の広告。コロナ号は上掲のカタログと同一製品。クラウンエイト号はフロントグリル中央に実車同様のオーナメントが付き、親が押して乳母車的にも使えるタイプ。
ジャガー



●馬頭製作所 キンバ 1968年 マツダ コスモスポーツ ペダルカー 広告
玩具商報1968年12月15日号(国立国会図書館蔵)に掲載の広告。キンバは古くからペダルカーを手がけた大阪市生野区のメーカー。コスモスポーツ・マニアであれば喉から手が出るような1台だが、現存する個体は数台程度と思われる。
コスモスポーツ



●コスガ 1969年 三菱ベビーコルト1200 ペダルカー 広告
玩具商報1969年2月20日号(国立国会図書館蔵)に掲載の広告。1963年にデビューした三菱コルト1000はその後のギャランに比べ非常に地味な乗用車で、MCを繰り返した後の最終型・角目ライトのコルト1200がペダルカーとして存在していた事実には驚くほかない。
コルト1200




★1927年? 大丸心斎橋店 通販部 ペダルカー等乗用乗り物カタログ「乗物の栞」 (縦23×横15.2cm・日本語36頁)
今回ご紹介するカタログは大阪心斎橋の大丸・通信販売部が1920年代後半ないし1930年代初頭あたりに出したと思われるペダルカーを中心とした子供用乗用製品カタログである。年代を特定できる記載はどこにもないので、1927年(昭和2年)はあくまで推定である。冒頭の1931年の井の頭公園で撮られた写真と同時代と思われるペダルカーが多数掲載されている。ペダルカー以外にペダルカー兼押し手付の乳母車、乳母車、子供用自転車、三輪車、スケーター、木馬、ブランコといったものまでが36頁に亘り定価・通販送料と共に掲載されているが、各製品のサイズ(全長等)の記載がないのが資料としては惜しい。
(1)表紙


【中面から】

上: 特K號・・・・・定価40円。電気ヘッドライト電池付。シートは物入付レザー張り。リムは鉄板製赤塗り。ボディ塗色は黒・赤・青と3色記載有。
下: S號・・・・・定価24円。電気ヘッドライト電池式。シートは鉄板製レザー張り。リムは鉄板製赤塗り。塗色は黒・赤・青の3色。
(2)K&S


上: A號・・・・・定価16円。ヘッドライト及びシートライト付。シート鉄板製レザー張り。塗色は黒・赤・青の3色。
下: B號・・・・・定価12.50円。ヘッドライト及びシートライト付。シート鉄板製レザー張り。塗色は黒。赤・青の3色。
(3)A&B


上: T號・・・・・定価9.8円
下: O號・・・・・定価6.9円
(4)T&O


【二人乗り自動車】
定価27円。タンデムに子供2人が乗車できるもの。上の写真は後部シートをスライドさせた状態、下の写真は後部シートを収納した状態。
(5)二人乗り


【乳母車兼用自動車】
A: 押手附き。定価15.50円。「この押手を押しながら方向転換が出来ますから乳母車として御使用が出来ます。この押し手を抜いて下図の様に前へ差し込めば「風よけ」となり自動車として御使用が出来ます」
(6)兼用A


上: B: 押手附き。定価11.50円。使用方法は上掲のAと同様に押手を引抜けいてフロントウインドにも出来るタイプ。
下: 新型押手附き。定価10.50円。これも押手は取り外し式ながら、その形状からフロントウインドとしては使えないようだ。
(7)兼用B


「スケート」と記載があるが、現在でも売られている足で地面を蹴って走るキックスケーターの先祖。5・6才用 玉入り3.6円(左上)、大型赤塗り2.20円(右上)、ゴム輪0.90円・金輪0.55円(右下)、4才用ゴム輪0.90円・金輪0.55円(右下)
(8)スケート





★オマケ(その1): 日本一のペダルカーコレクター 中根丈彦さんのサイト  (→クリックでリンクします)
ペダルカーに興味がある向きは一見の価値ありです。



★オマケ(その2): 1953年シボレーとマレー社製3輪トラクター・ペダルカー 
自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924年-2000年)が1954年(昭和29年)4月、帰国間際のアメリカ進駐軍シビリアン(非戦闘員)の横浜山手の家(当時の360円のレートで月の家賃が25万円もしたという)に招かれた折のスナップ。シボレーの前に写りこんでいる米マレー社(MURRAY)製3輪トラクター「TURBO DRIVE」は左下の丸囲いの中の10歳位の女の子の持ち物で五十嵐氏が「(ターボなんて)戦闘機みたいだね」と話しかけると彼女は「速いよ」と言って笑っていたという。当時10歳だったとしても、2016年で既に62年の時が流れているので現在彼女は70歳を越えていることだろう。マレイ・オハイオ社(The Murray Ohio Manufacturing Company)は1910年にJ. W.マレイがデトロイトで創業したペダルカーの老舗メーカーで、イーベイ(eBay)のサイトなどを見ると、この写真に写っているものと同じ3輪トラクターも含めて現在でも多数が中古市場で流通している。
3輪ペダルカー



★オマケ(その3): トミカリミテッドヴィンテージ 1/64スケール 1966年ニッサン プレジデントD仕様 
残念ながらペダルカーのミニチュアが手元になく、しかし、オマケにミニカーがないのは少々寂しいということで、2016年8月に発売されたばかりのTLVの新製品・初代プレジデントを載せておきます。全長7.7cm。ダイキャスト製。品番は黒がLV-158a、イメージカラーだった金茶がLV-158b。定価税抜2800円。現行8%の消費税を加えると税込定価では3000円オーバーとなり、小スケールミニカーとしては少々高額。しかし、トミカ81-1のH150試作品が市場に出れば7桁のプライスが付くことを思えば高くはないともいえるかも。独特な形状のミラーが別パーツで付きユーザーが取り付ける形となっているが、取付穴もないため一般ユーザーが上手く付けるのは難しい気がする。一緒に写っているのは往年のダイヤペット150番1/40スケール初代プレジデント(全長12.5cm)。私は子供の頃に遊んだ半世紀前のダイヤペットの方がフロントグリルに彫られたV8のレタリングや4ドアフル開閉アクションもあり現代のTLVより遥かに魅力的に感じる。初代プレジデントの実車カタログについては自動車カタログ棚からシリーズ第71回記事をご参照ください。
プレジ(1)

プレジ(2)

プレジ(3)

★イチコー試作コンテッサタクシー&縦目セドリックタクシー ~ ブリキ自動車コレクションから001

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お盆休みですね。故郷に帰郷される方や国内・海外旅行にお出かけの方も多いことと思います。故郷が東京のワタシの場合は、帰るべき田舎がないので地方出身の人がこの時期ばかりはちょっと羨ましかったりもします。しかし、帰郷するにも高速道路は大渋滞なので、私がもし地方出身で故郷に帰郷するとしたなら、所要時間の読めないクルマでの移動は極力避けて座席指定の取れる鉄道か飛行機を使うでしょうね。それでも、家族が多かったり荷物が多いような場合にはクルマ移動以外に選択肢がないというケースもあろうかと思います。

閑話休題
これまで「自動車カタログ棚からシリーズ」のオマケとしてかなりの数のブリキ自動車の画像をアップしていますが、今回は新たなシリーズとして実車カタログではなくブリキ自動車をメインとする「ブリキ自動車コレクションから」をアップすることといたします。これまでは原則として紹介したカタログ等の市場価格について触れることはしていませんでしたが、今回は初の試みとして、恐らく多くの人が興味を持つであろう「鑑定額」を私見ながら記載することとします。金額を書くなんてテレビの「開運!なんでも鑑定団」じゃあるまいし下世話な話だと眉をひそめる向きもおられるかもしれませんが、ご紹介するモノにどの程度の市場価値があるかは重要な情報の一つだろうと思います。
 



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●1964年(昭和39年) 東京駅丸の内口のタクシー乗り場 写真
1965年(昭和40年)6月25日誠文堂新光社発行 玉川こども百科4「自動車」改訂第1版(五十嵐平達著)より。自動車文化史研究の第一人者 五十嵐平達氏が編纂した玉川こども百科は1952年(昭和27年)2月に初版が出た後、時代に合わせた内容の小変更を加えつつ第9版まで刷られた後、1965年6月に改訂版となった。これは、その際にタクシー・ハイヤーの解説頁に加えられた写真で、右下に1963年秋にMCを受けた後の1964年式2代目クラウン40系タクシー、その後ろに縦目のセドリック2台(恐らく1962年式)と初代観音クラウン最終型30系の黄色に青帯の東京駅構内タクシー、1台目の縦目セドリックの駅寄り隣にはS4プリンスグロリアのタクシー、最後尾にはいすゞベレルの白いタクシーが写されている。背景には現在も変わらない東京ステーションホテルの入り口が写っている。構内タクシーのカラーは捜してみると意外に少なく貴重な1枚。写っている車両と本の発行時期から、撮影は東京オリンピックの開催された1964年と推定。
東京駅風景



★現在、私の手元には500台を超える1950年代~1970年代に製造された日本車をメインとする日本製ブリキ自動車のコレクションがあります。
1977年(昭和52年)、私が高3の頃からコツコツ集めてきたものです。資産価値的には東京23区内に1戸建てが買える位のものと言えば大凡の見当がつくでしょうか。その手元にあるブリキ自動車コレクションの中には火事や天災あるいは盗難にあって失われてしまったら二度と取り戻すことが出来ない、所謂、幻の逸品も含まれています。


★今回ご紹介するイチコー(一宏工業)の1961年日野コンテッサ900と1962年ニッサン縦目のセドリックの2台の構内タクシーのブリキは、何れもイチコーの工場・倉庫から発掘された市販はされなかった試作品です。
市販はされていない1点モノのため、ブリキ玩具のコレクションでは世界的に著名な横浜の北原照久さんの手元にも他のコレクターの手元にもない大変貴重な品物です。一期一会という言葉がありますが、良い出会いがあり、今、私の手元にあることに心から感謝しなければなりません。



【試作品の評価について】

(1) 通常に市販されたブリキ自動車の場合には箱の有無やボディカラーの人気度、箱と本体のコンディション等により、ある程度、現在の市場価値や評価をすることも可能ですが、今回ご紹介するような試作品の場合には世界中に他に同じものが全く存在しない、所謂1点モノのため評価は少々難しいものです。生産ラインで作られた市販品ではない半ば手造りの試作品は、モデリングのプロに依頼してそっくり同じコピーを造って貰っても価値は同じではないのか?あるいは、絵画や手塚治虫や宮﨑 駿さんのアニメの原画などと似たような性格の作家モノの一種であって工業製品とは全く異なるモノではないのか?との意見もあります。逆にメーカー試作品は金額を決めようがないほど市場価値が高いとの意見もあります。例えば、有名なところでは7桁越えの市場評価が見込まれるトミカ81-1番プレジデント試作品のように、です。

(2) 今回ご紹介する2台は、玩具メーカー「イチコー」の工場・倉庫から出てきた古い時代のモノであること、2台共に非常に凝ったギミックが付いていることなどから、試作品とはいえメーカーオリジナルの逸品として高い評価が出来るものと思われます。コンテッサ900構内タクシーの場合には、イチコーの1963年版カタログに掲載されながらも発売には至らなかった、カタログに掲載された写真の現物であることから、120~150万円程度の評価は出来るでしょう。カタログに掲載もされなかったセドリック構内タクシーでも80~100万円程度の価値評価は可能と思います。

(3) 日本車のブリキ玩具では今年2016年2月10日の「まんだらけ」のオークションで米澤玩具の市販製品1963年トヨペットクラウン「バットマン」箱付が237万6000円で落札されており、それとのバランスでも上記の評価額は妥当もしくはやや控え目ではないでしょうか。但し、あくまでモノの価値評価=市場価格は買い手が付いて初めて出されるものです。私が貴重な品物だと思っても、欲しい人がいなければ限りなく価値はゼロに近づいてしまいます。今後、余程経済的に窮しない限り、この2台のタクシーは私の人生の最後まで手元に残るだろうと思います。いよいよ死期が近づいたと観念した時には、価値が判る方にお譲りすることになるでしょうけれども、私が元気なうちに市場に出ることは恐らくないので、実際のところ市場価値は私が死ぬまで判らないのです。私が死ぬ頃には(人間、明日死ぬかいつ死ぬかは判りませんが、まだ当分先の話とした場合)、1960年代の自動車にノスタルジーや価値を感じる人が世の中に殆どいなくなり、ブリキ製自動車玩具全般の評価も大幅に下がって、この試作品2台もタダ同然で見知らぬ誰かに引き取られるといったことになる可能性もゼロではありません。

(4) 現に1950年代や1960年代に郷愁を感じる世代が既に高齢化して、年金暮らしなどお金を自由に使える年齢層ではなくなったこともあって、1960年代の大盛屋の国産ミニカーやバンダイ等のブリキ自動車は一時期に比べて大きく値下がりし、逆に仮面ライダーやマジンガーZなど1970年代以降のモノ、場合によっては1980年代のモノの方が現在では市場評価は高いケースもあると言われます。
要するに、そのモノに需要がなくなれば市場価値は急落し場合によってはゼロとなり、需要が多いものは例え新しいモノであっても市場価値は上がるのです。2016年7月に発売されたばかりのトミカ初回限定シビック黒(定価税抜450円)が2000円で売られているのは高過ぎるのではと思って見ていたら、数日経って某ショップでは6000円で売られているのを見かけて正直腰を抜かしましたが、需要と供給のバランスでモノの価格が変動することだけは確かなのです。



●イチコー 1/16スケール 1961年日野コンテッサ構内タクシー 試作品
全長23cm。一宏工業 品番4762-T。サイドモールがリア半分までの実車のスタンダードを模した1stモデルを元に造られた構内タクシー仕様。ルーフ前端の行先表示は回転式で「東京駅」「上野駅」「池袋駅」「新宿駅」「渋谷駅」と変るギミック付。このギミックにコストがかかり、生産が見送られたのではないだろうか。これは1980年代後半にイチコーからアンティーク市場に流出した。

【2016年 鑑定額】 イチコーの1963年版カタログに掲載されながらも発売には至らなかった、カタログに掲載されたモノの現物であることから、私見では120~150万円程度の評価。
コンテッサ(1)

コンテッサ(2)

コンテッサ(3)

コンテッサ(4)

ルーフの行燈上面には「STATION TAXI」の青文字と「交通安全」の赤文字。「イチコーのすばらしい玩具」のシールは市販製品と同じものが貼られている。
コンテッサ(6)ルーフ文字

実車通りにプリントされた運転席
コンテッサ(7)運転席


ルーフの行燈は回転式で、東京駅→上野駅→池袋駅→新宿駅→渋谷駅と変化する。試作品のためレタリングは全てプリントではなく手書きされている。

東京駅
コンテッサ(8)東京駅

上野駅
コンテッサ(9)上野駅

池袋駅
コンテッサ(9)池袋駅

新宿駅
コンテッサ10新宿駅

渋谷駅
コンテッサ11渋谷駅


1963年版イチコーカタログより。コンテッサタクシーとして品番やサイズは記載されているが価格の記載はないまま市販されずに終わった。
カタログ



●イチコー1/18スケール 1962年ニッサン セドリック構内タクシー 試作品
全長25cm。1961年秋にフロントグリルの意匠変更を受けた1962年型モデルをベースに造られた構内タクシー仕様。市販されたノーマルであっても1962年型は殆ど見かけず極く少ない。シャシー裏に単一電池を入れフロントウインド手前のスリットに硬貨を入れると走り出すギミック付。投入した硬貨はシャシー裏に落下し専用の蓋を開けると取り出せる。前輪も左右にステアする。これもギミックにコストがかかり過ぎて生産は見送られたのではないだろうか。このタクシーはイチコーが倒産した2000年前後にアンティーク市場に流出した。入手時にイチコー開発部の土屋氏という方が当時製作したものである旨の情報を得た。このセドリックもレタリングは全て手書き。

【2016年 鑑定額】 カタログにも掲載されなかったメーカー試作品ながら凝ったギミックもあり、私見では80~100万円程度の評価。
セドリック(1)

セドリック(2)

セドリック(3)


イチコー・コンテッサタクシーとセドリックタクシー試作品2台の並び
2台



●1960年代初頭の国産ブリキ構内タクシー4台
米澤製の大きな縦目のセドリック東京駅構内タクシー(左端)とバンダイ製の1961年初代観音クラウン最終型RS31東京駅構内タクシー(右端)の2台は通常に市販された製品だが、箱付ミント・コンディションは滅多に見かけない。特に米澤製の箱付は稀少。箱付ミントの評価額は米澤セドリックで50~70万円、バンダイ・クラウンで35~50万円程度。個人的には構内タクシーの黄色に青帯のカラーリングは何とも懐かしく感じる。この時代(1960年前後)のブリキの国産タクシーとしては他に光球商会がオースチンA50ケンブリッジの金型流用でリリースした初代310ブルーバード日本交通タクシーがある。もう少し時代を遡れば、萬代屋(現バンダイ)がトヨペットマスターのタクシー仕様を出していた。
4台(1)

4台(2)



●米澤玩具1/12スケール 1963年トヨペット クラウン 「バットマン」
まんだらけZENBU73号より。全長40cm。2016年2月10日のまんだらけオークションにて237万6000円で落札されたモデル。このクラウン オープンのバットマン仕様には出品された赤以外に青、黒のボディもあり、もし同じ価格でカラーバリエーション赤青黒の3色を揃えるとなると712万円となる計算。この米澤のクラウン オープンにはバットマン以外に黄金バット仕様もあるが、それも殆どアンティーク市場に現れない激レアもの。
バットマン





※イチコー(一宏工業)の1960年代のブリキ自動車玩具の製品についてはこちらの記事をご参照ください。

★2016年トミカ博in横浜 いすゞボンネットバス ~ 1977年トミカスーパーカーセット

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そう言えば、スマップが解散するって全国紙の1面にまで記事が出てますけれども、ビートルズは4人中、ジョンとジョージの2人が他界して もはや再結成不可能であってもスマップは全員が元気でその気になればいつでも再結成は可能な訳なので騒ぐほどのことはない気もしますYO。
解散云々よりも、むしろキムタクさん以外のメンバーさんがみんなワタスと同じ独り者で不幸のドン底にいることの方が気になりますNE。まあ、しかし、独り者でもワタスのように不幸のドン底にいるとは微塵も感じてはいない可能性も大いにありますNE汗あせる
しかし、まあ、キンキ キッズのお二人あたりもそろそろ独身からオサラバしないとワタスみたいな悲惨な人生ダウンになりかねませんよNE!!

えっ、えっ、えーっ!!!えっ
誰もが知ってるような売れてる芸能人は死ぬまで遊んで暮らせる程のお金もあるし、あなたとは住む世界が違うんだから余計なお世話だよっTE???
ガーン



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★8月11日(祝)~21日(日)までの11日間 パシフィコ横浜展示ホールBで開催中のトミカ博2016 in Yokohamaに行ってきましたYO!!JR東日本E233系 のっぺらぼう 地下鉄


●会場看板
看板


★今回のトミカ博は2車種のうちから選べる入場記念トミカさんの1台がダイハツミゼットMPさん、そして、組立工場3車種のうちの1車種がいすゞボンネットバスBXさんと私の芸風にピッタリンコのミニカーが入っていたので、ついフラっと行ってきたのですYO。
まあ、しかし、人が多いこと。まず入場するまでが長蛇の列で30~45分待ち、組立工場も長蛇の列で1~2時間待ち、レジもまたまた30分待ちという具合なのでSU。ワタスも耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、ミニカー捕獲大作戦を決行してきたのでしTA~。会場をざっと見渡すと小さな子供のいる家族連れが9割、コレクターもしくはトミカ転売屋さんらしき大人は人数的には精々1割位でしょうKA。それにしても家族連れで子供も一緒に長時間並んで待っている姿にはタマゲますYO。ニッポン人は基本皆さん頑張り屋さんで忍耐強いのですNE。ビックリンコDESU!!目


●トミカ組立工場3車種
(R32スカイラインGT-R・いすゞボンネットバスBX・現行ハイエース 各ボディ3色・シート3色 計27種類)
組立工場3種


●トミカ組立工場 R32GT-R「待ち時間130分」!!
ギョエー!!130分ってことは2時間10分!!なんだこりゃー叫び・・・・と思いつつ行列に並んだのだった(汗)。やっぱりワタスも我慢強いニッポン人なのだった。
R32(130分)


●トミカ組立工場 いすゞボンネットバスBX「待ち時間70分」!
ボンネットバスさんも1時間以上とは(汗)。・・・と思いつつ、またもや行列に並んだのだった。
いすゞBX(70分)


●トミカ組立工場 いすゞボンネットバスBX風景
来場者がボディ、シャーシ、ウインド、シートの4つのパーツを組み合わせ、最後のカシメだけカシメマン!にやってもらうのDA。
組立工場 風景

カシメ機
組立工場カシメ


●のれるトミカ (1回200円)
トミカのいすゞBXではなく、日野BH風なのは謎?というか、組立工場で同じボンネットバスが作れるよという看板は誤ってるのDA。
のれるトミカ看板

乗れるトミカBH


●実車展示
トヨタ86レーシング。
実車展示



●人の海
人の海

レジも30分待ちの行列DA
レジも30分待ち

●とにかく、人、人、人・・・凄い人出ですYO。トミカ博の来場者は幼児を連れた家族連れが大半なので、いい歳をしたオヤジが一人で行くと場違いな感じがしてちょっと恥ずかしいですYO(汗)。
エリック・クラプトンは50代半ばで再婚して子供をつくっていますが、私のような一般人では定年退職まで僅か3年2ヵ月となったこの歳で未婚では家族連れでトミカ博へ行くことは、もうまず一生叶わぬ夢なのでしょうNEしょぼん
大体、サラリーマンが僅かな年金暮らしを目前として結婚したいだなんて望むことは頭がイカれたキチガイか大馬鹿というのが世間の常識でしょうからNE~。でもでもで~も、実際のところもうワタスのような崖っぷちではなく既に崖から落ちてしまった年齢では、ワタスを本気で好いてくださる心根の優しい人であれば誰でもいいから結婚したいなっ!という気持ちがありますYO。まあ、逆にワタスも相手のことが死ぬほど好きでないとダメだとは思いますがNE。
ワタスより5歳以上は上の還暦を過ぎた知合いで先祖代々の土地に建てた入居世帯100戸以上のマンションを持っていて不労所得が月1000万以上あるなんて恵まれた人もいますが、何とその人は現在の奥さんが5人目だそうですYO。私は5回も結婚しなくていいので、夢としては1回だけ結婚して一生添い遂げたいのですYO。実際、誰しも戸籍真っ白なままで孤独死したくはないですからNE叫び



●入場記念トミカ ダイハツミゼットMPさん
ブルメタのカラーリングがなかなかイケテます(>_<)
ミゼット



●トミカ組立工場 ニッサン スカイラインGT-R(R32)さん
税込1台600円。でも1000円のチケットを買うと100円券11枚綴りの1100円分のチケットを貰えるので、1000円の11枚綴りチケット3枚と100円券のバラ3枚の計3300円で組立工場は6台出来る(1台当り550円)。ボディカラー3色。シートは黒・青・赤が選べるうちの、全て一番派手に映えそうな赤シートにしたのDA。シャシーには「No.20」と「1989」の刻印があるのに、ボディの金型は当時物とは全く違う。1回130分並んで作れるのは1人3台まで。
32(1)

32(2)



●トミカ組立工場 いすゞボンネットバスBXさん
税込1台600円。これもボディ3色。シートはこれも黒・青・赤が選べる。このバスのシートは外からはあまり見えず、どの色にしても大して変わらない感じだったけんど、これも一番シートが映えそうな赤にしたのDA。長時間並んで2車種でもう疲れたのでハイエースの組立はパス。
BX(1)

BX(2)



●2016年8月発売イベント限定トミカ(7種)
1台税込648円。会場ではこの7種以外にも在庫のあるイベント限定モデルを多数販売。
イベントモデル7種



●2016年4月発売イベント限定プラレール「地下鉄丸ノ内線500形」
税込2160円。大いにそそられたが、プラレール・コレクターではないからと冷静になって捕獲しなかったのDA。
プラレール



●捕獲したイベント限定トミカさん達 (各税込648円)

21-2ハコスカ・レーシングさん
ハコ(1)

ハコ(2)


ランボルギーニ・カウンタックLP400さん
カウンタック(1)

カウンタック(2)


スバルサンバー カレー移動屋台さん
サンバー(1)

よく見ると暖簾の中に「ポークカレー500円・ビーフカレー550円・大盛り+50円」のメニューが書いてあります♪屋台の開閉アクションも楽しいし、今回捕獲したミニカーの中で一番のお気に入り!
サンバー(2)


S13シルビアさん
シルビア(1)

シルビア(2)


クラウン・アスリートさん ・・・・・これは去年のトミカ博では完売で買えなかったから嬉しス♪クラウンはやはりピンクや空色よりも重厚な黒が似合いますNE♪
クラウン(1)

クラウン(2)


アルファード・タクシーさん
タクシー(1)

タクシー(2)



●捕獲したトミカさん大集合
全員集合





★オマケ(その1): トミカG-25 スーパーカーAセットさん
1977年11月発売。ワタスが高校生の頃のトミカなのDA。もう来年で40年モノ!
Aセット(1)

Aセット(2)



★オマケ(その2): トミカG-27 スーパーカーBセットさん
1977年11月発売。オマケ1と同時期に発売されたセット。ポルシェ911もトヨタ2000GTも240ZGも入っていて、このセットもなかなか魅力的ですYO。
Bセット(1)

Bセット(2)



★オマケ(その3): ジョエフ・エボリューション 1/43スケール フォードGT40さん
セリカさんがGT40のことを書かれていたので最後に1台。1999年2月発売。ダイキャスト製。当時定価7800円(税抜)。フル開閉アクション付。フル開閉の同シリーズでは73カレラも出ていた。しかし、これ、専門店で買取価格を訊いたら500円。どんなに頑張っても700円とのこと(T_T)曰く、「1990年代のミニカーはトミカ以外は基本人気がないので買い取ってもなかなか売れない!ミニチャンプスの996や初代ボクスターあたりになると買取は100~300円、箱なしなどモノによっては買い取りは出来ないので値段が付くだけマシです」とのことショック!
定価の10分の1以下ではさすがに売るのは勿体ない!!ワタスはヤフオク永久出品禁止ってことだし、仕方がないので自分でショップでも開くまで持ってましょうかNE~。小さい白いのはワタスが子供の頃に遊んだマッチボックスのGT40さん。
フォードGT40


★2016年 トヨタ86 MC後期型 トミカ86番発売 ~ 自動車カタログ棚から 324

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さて、今日8月20日(土)の東京は雨。カンカン照りの方が夏らしくていいnaだなんて勝手なことを感じたりもしまふ。ワタスが現行国産車をピックアップするのは極めて異例でヤッツケ記事でもあるのですが(大汗)、トミカの後期型86が発売されたことに因んで自動車カタログ棚からシリーズ第324回記事として今回はホントにサクっと86記事をアップしまふNE。
昨日8月19日(金)の夜にアップするつもりで書いていたのれすけんども、1週間の疲れでアップしないままうっかり寝てしまいますta(大汗)。なので、日付は当初予定していた19日のままでアップしまふ。この歳で独り者のワタスは文字通り不幸のドン底にいるとはいえ、実はミニカーなどを買う時は存外幸せna心持ちだったりもしまふYO。 




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トヨタ86(ハチロク)は、トヨタ自動車が富士重工業(スバル)と共同開発し、2009年(平成21年)の第41回東京モーターショーに出展されたコンセプトカー「FT-86/FT-86 II」を発展させたFRの市販スポーツカーで、富士重工業が製造事業者、トヨタ自動車が2012年(平成24年)春から販売しているFRレイアウトのスポーツカーの名称である。富士重工業からはスバルBRZの名称で兄弟車(双子車)が販売されている。
発売から4年強を経た2016年(平成28年)8月1日、マイナーチェンジを受け、外観細部の変更と併せて若干のパワーアップも図られた後期型に移行した。



★AE86との関係性
86は、1980年代前半に登場したAE86カローラレビン/スプリンタートレノ(通称:ハチロク)と同じように、「日本人に強く愛されユーザーにカスタマイズなど自由に育んでいただきたい」というトヨタの想いから命名され、AE86のように走りのフットワークが軽快で、かつユーザーが「育てる楽しみ」を味わえるような車にしたい、という思いが込められている。また開発コードとして86番(086A)を採るために採番時期のタイミングを図ってコード番号の申請が行われた。AE86の現代版というコンセプトやリバイバルとも言われるが、決してAE86のコピー的な発想で開発はされておらず、ボディの寸法や排気量はAE86よりも大幅にサイズアップしている新たな自動車である。AE86が持っていた「若者にも手が届く低価格でスポーツドライビングを楽しめるクルマ」「そこそこのパワーで、クルマ本来の運転する楽しさがある」「ハイテクや制御に頼らないクルマ本来の気持ちよさを持つ」といった考え方を取り入れて開発されており、その点を考慮して「ハチロク復活」「新ハチロク」といった表現が為された。


★1965年トヨタ・スポーツ800との関係性
開発主査の多田氏が安価で小型なスポーツカーの開発を命じられて最初に参考としたのは、水平対向エンジン搭載の小型FRスポーツカーの1965年トヨタ・スポーツ800(通称:ヨタハチ)であり、同車の設計図が収蔵されている関東自動車工業(現・トヨタ自動車東日本)にまで出向いて研究を重ねた。そこで「水平対向エンジンとFR駆動」というパッケージングを採用することを決定した。つまりトヨタ・86のコンセプトのルーツは、車名の由来ともなった1980年代のAE86型「カローラ・レビン&スプリンター・トレノ」ではなく、1960年代半ばのトヨタ・スポーツ800にある。


★1967年トヨタ・2000GTとの関係性
86のクレイモデルを製作するに当たっては、トヨタ・2000GTの実車をデザイン部門の部屋に置いて作業を行った。サイドから見た86のウインドウラインや前後フェンダー形状、前面投影面積を減らし、空気抵抗の低減とボディ剛性を考慮したパゴダルーフの形状は2000GTをある程度モチーフとしたデザインとなっているものの、永遠の名車トヨタ2000GTのようなシンプルでピュアな美しさには遠く及ばない「残念なデザインレベル」に終わっている。しかし、これは現代のポルシェ911が往年の356やナロー911の美しさを超えられない、あるいは、ホンダS660が往年のエスロク・エスハチの美しさを超えられないのと同じ次元の話であり、現代の86も2016年現在のスポーツカーとしては一応熟成されたレベルにはあると言うべきだろう。


【主要スペック】 2016年 トヨタ86GTリミテッド 車両型式DBA-ZN6-E2L7 (2016 TOYOTA 86 GT Limited)
全長4240㎜・全幅1775㎜・全高1320㎜(アンテナ含む)・ホイールベース2570㎜・車重1260kg・FR・FA20型水平対向4気筒直噴DOHC1998cc・最高出力200ps/7000rpm・最大トルク20.9kgf-m/6400~6600rpm・変速機6速SPDS/ATパドルシフト・最小回転半径5400㎜・乗車定員4名・前後ブレーキ:ベンチレーテッドディスク・燃料タンク容量50ℓ・JC08モード燃費12.8km/ℓ・最高速度230km/h前後(国内仕様は180km/hでリミッター作動)・販売価格325万800円(車両本体)



●2016年7月 トヨタ86 本カタログ (A4判ヨコ開き・日本語52頁)
オレンジ地に文字の表紙だった前期型カタログより判型が小さく表紙は白地に黒文字となった。映画のパンフレットのような比較的粗悪な印象の紙質となり、売れているクルマなら少しコストがかかってもコーティング紙を使用した方が良い。カタログの前半はイメージフォト集、後半はメカニズム等の解説となっている。裏表紙には「TOYOTA GAZOO Racing」の印字。
(1)表紙

【中頁から】
走れメロスならぬ、「走れ、86。」
(2)走れメロス

86はどこにいるでしょう。
(3)俯瞰写真

(4)流し撮り

夜の街で
(5)夜の渋谷?

夜のスタンドにて
(6)夜のGSにて

日本生れ、ニュル育ち。
(7)日本生れニュル育ち

フロントビュー
(8)白フロントビュー

サイドビュー
(9)サイドビュー

透視図
(10)透視図

イメージスケッチ
(11)イメージスケッチ

上位グレード「GTリミテッド」のみリヤスポイラーが標準
(12)GTリミテッド

中位グレード「GT」
(13)GT

ベースグレード「G」
(14)Gベースグレード

ワンメイクレースへの御招待
(15)ワンメイクレース

ボディカラーは7色
(16)ボディカラー1(7色)

(17)ボディカラーその2

スペック
(18)スペック



●2016年7月 トヨタ86 オプションパーツカタログ (A4判・日本語24頁)
新車を買うなら、これとこれを付けてと想像してみたり、オプションカタログを見るのも存外楽しいもの。2016年10月発売の86レーシングも掲載されている。
オプション(1)表紙

【中頁から】
「それぞれのスタイルを。それぞれの86と。」
オプション(2)それぞれの・・

2016年10月発売の競技用車両「86レーシング」
オプション(3)レーシング






★オマケ(その1): トミカNo.86-?番 1/60スケール 2016年 トヨタ86GTリミテッドさん
全長7cm。ダイキャスト製。消費税8%込み定価486円。車名と品番が共に86なのは、あえて狙ったのでしょうNE。2016年8月20日(土)発売のトミカさんのトヨタ86後期型(No.86―?番=トミカさんの知識がなく1stモデルから数えてこれが何世代目なのか不明です)が都内のワタスの立ち寄るホビー系の大型店では発売日の前日19日(金)午前中に入荷しお昼には店頭に並びまSU。その店では定価の約25%off(360円)でヨドバシよりは割引き率が低く若干高いのだけんど、ヨドバシのように1人2台までというような台数制限もなく、望めば未開封の1カートンでも売って貰えますYO。
7月発売のシビックが通常品の白でさえ完売していて入手困難となっているのは、その理由が不明で摩訶不思議であるのだけんど、86もスポーツカーということですぐに完売する恐れがあり(?)、先月のシビックはついに白も黒も1台も入手することが出来なかったのでシビックを入手できた誰かがシビックと交換して下さることも視野に入れて初回の86オレンジは、1カートンではさすがにちょいと多いので、取り敢えず7台買ってきたのDA。そして通常品は2台だけ買ってきた。こりゃ、86だけ計9台で3000円ちょいとは買い過ぎますたwww・・・というか、実は86はトイザらスオリジナル?のオートバックス仕様とかも欲しいのだけんど、専門店では既に3000円とかのプレミアが付いていて、出た時にすぐに定価で買わないと後から集めるのは少々厳しいでSU。
しかし、今回の86後期型さんのようにトミカの通常品で実車のMC前後で金型を修正し品番を変えてリリースされた例は珍しいのではないでしょうKA。赤ボディは前期型の品番46(絶版)、白とオレンジメタが今回登場した後期型。後期型ではルーフ後端のアンテナが表現され、2本出しマフラーも前期よりカッコ良くなっていまSU。白/黒のトミカプレミアムは前期型ベースの「86GRMN」。このトミカプレミアムは近年始まった、かつてのトミカリミテッドのようなシリーズのようですがワタスは殆ど買ってませんYO(汗)。この白黒86GRMNはリサ店では300円だったけんど(買取は多分100円位でしょう・・大汗)、定価では1台800円位?とTLV程ではないにしても、ちょっとお高いトミカのようでSU。
ミニカー(1)全体

右の赤が前期、白とオレンジメタが後期
ミニカー(2)3台前

ミニカー(3)3台後

トミカ5-1トヨタ2000GT赤と。プロポーションは86よりトヨタ2000GTの方が遥かに美しいと思うのは私だけ?
ミニカー(4)5-1と

ミニカー(5)5-1とその2



★オマケ(その2): トヨタノベルティ 1/24スケール トヨタ86前期型ペーパークラフトさん
ディーラーで戴いた販促グッズ。あえて自動車プラモ標準の1/24スケールというのが面白いでSU。
ペーパー(1)

ペーパー(2)



★2016年8月 トヨタ86後期型 テレビCM

★1960年 フォード ファルコン/スヌーピー/マルサンタクシー ~ 自動車カタログ棚から325

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今日の東京は台風9号の影響で猛烈な風雨となりました。外回りの仕事や不要不急の外出を控えた人も多かったことと思います。こんな日に午後1時から博多の日航福岡で会議ともなると、通常であれば10時に羽田を出ても間に合うところが飛行機が飛ばないのでは、新幹線では会議開始時刻には間に合わず博多行きは取りやめるしかありません。尤も台風情報を見て昨晩の内に福岡に到着していたという人もいましたので、先の読みが甘いとお叱りを受けるのも止むを得ないことかもしれません。まあ、今は実際に顔を合わさなくとも意志疎通を図る手段は幾らでもあるので、その場に居なければ成り立たないというケース以外は大問題でもないような気がします。本当に深刻なのは親兄弟だとか親しい人が危篤だとかいう時にすぐに駆けつけたいのに飛行機が飛ばずに行かれないといったケースではないでしょうか。
しかし、台風で大荒れの東日本とは対照的に和歌山・大分・高知・三重あたりは何と最高気温が38度と体温を超える炎暑となっており日本列島も様々のようです。



閑話休題
昨日8月21日(日)夜にアップする予定が時間が取れずまた1日遅くなりましたが、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズの第325回記事として、日本ではスヌーピーの名で非常に有名なアメコミ「ピーナッツ」をマスコットキャラクターとして世に出た、アメリカのコンパクトカー「フォード・ファルコン」を自動車史/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924-2000年)の著作(1971年二玄社・世界の自動車46巻「フォード2」)を引用しながらご紹介したいと思います。
    




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★VWビートルを始めとする欧州製小型車の対米輸出が好調であったことから、アメリカのビッグスリーは当時恐竜のように巨大だったアメリカ車をサイズダウンしたコンパクトカーを1960年(昭和35年)型として1959年(昭和34年)秋までに一斉にデビューさせた。
即ち、フォード・ファルコン、シボレー・コルベア、プリムス・バリアントの3車である。コルベアはVWビートルやポルシェ356のような空冷水平対向のリアエンジン・リアドライブでデザイン的にも独特な個性と美しさを持ち(本シリーズ第138回記事参照)、バリアントは常識的な設計ながらデザイン的な冒険が見られたのに対し、フォードが市場に出したファルコンはフルサイズカーをサイズダウンしただけのようなデザイン的な冒険を極力避けた極めて凡庸なクルマであった。


★1960年型としてデビューしたフォード・ファルコンは、当時のフォード・ラインナップの如何なるクルマとも全くサイズの異なる新しいフォードであり、戦後型フラッシュサイド1949年型フォードより一回り小さく、概ね戦前1930年代のフォードと同じボディ・サイズとエンジン出力を持っていた。
これは1949年型以来、高性能化、大型化された戦後フォードの歩みを、ここで白紙に戻して合理化の方向へ進ませた新シリーズであり、フレームレスのボディシェルは全く従来とは別物を用い、エンジンも90psのファルコン・シックスを新開発したものであったが、同時期に発表されたGMのコルベア、クライスラーのバリアントと比較すれば、全ての点で平凡で当たり前の設計であるのが、いかにもフォードらしく、あえて冒険を避けたファルコンが売れ行きでは3車中で最も良い成績で、何と発売初年度(1960年型)に43万5,676台、発売2年目(1961年型)には月販4万台に迫る47万4,241台を売り上げる大ヒットとなった。



●スヌーピー (ピーナッツ) との関連

1)2016年4月23日、『スヌーピーミュージアム』が東京・六本木(東京都港区六本木5-6-20)にオープンした(2018年9月までの期間限定での開館予定)。
日本ではスヌーピーの名で知られるコミック「ピーナッツ」(Peanuts=「困った人たち」の意味)は、チャールズ・モンロー・シュルツ(Charles Monroe Schulz: 1922年11月26日-2000年2月12日)の筆により、1950年(昭和25年)10月2日より全米8紙に連載が始まった。私が中高生だった1970年代にスヌーピー・ファンの同級生の女の子が多かったことから、私はてっきり1970年代登場のキャラクターとの思い込みがあったのだが、実は戦後5年目には登場したキャラだったのである。日本のコミックで言えば、1946年(昭和21年)連載開始の「サザエさん」が日本人で知らない人はいないというポピュラリティーの面ではアメリカの「ピーナッツ」に最も近い存在と言える。

2)「スヌーピー」はピーナッツに登場するキャラクターの一つで今や世界中の誰もが知っていて、あまりにも身近な存在のビーグル犬である。
最初は4本足で駆け回る子犬だったが、次第に犬であることに飽き足らなくなり、二本足で歩いたり、他の動物の真似をしたり、犬小屋の上で小説を執筆し始めたりし、ついには犬でも人間でもない独自のキャラクターを確立させて、「世界で最も有名なビーグル犬」として世界中で愛され続けている。なお、スヌーピーの原型は1935年(昭和10年)、作者のシュルツが13歳の時に飼っていた雑種の犬「スパイク」にあり、「スパイク」は人間の言葉を理解しているとしか思えないような行動をとったり、カミソリを食べてしまうといった個性的かつ変ちくりんな犬であったという。

3)スヌーピーに代表されるピーナッツに登場するキャラクターはフォードやコダックといった商業製品のマスコットキャラクターとなり、ついにはアメリカ航空宇宙局(NASA)の有人飛行計画アポロ10号のマスコットキャラにまで採用される人気者となった。
フォードでは1960年型コンパクトカー「ファルコン」のマスコットキャラクターとして当時既に全米的な人気を博していたピーナッツのキャラ達を採用した。1961年型までのテレビCMがピーナッツの馴染み深いキャラ達とファルコンが登場するアニメーションとして制作された他、1961年型以降のセールス・カタログや販促グッズにもキャラ達が多数登場した。



●1963年8月 豊島園のファルコン ハードトップ「スプリント・スポーツ」スタントカー仕様3台
撮影:五十嵐平達氏。1963年(昭和38年)の夏休み、豊島園で開催されたスタントカーショーに現れた、デビューして間もない新車のファルコン・ハードトップの白3台。背後にはフォード系デザインと言われた2代目40系クラウンが映っている。五十嵐氏によれば、ファルコン3台は全てジャンプ専用車として使用され、ルーフの軽さとスピード感が極めて印象的で、また、発表されたばかりの新車を泥だらけにして無造作に乗り回すのが、いかにもフォードらしく魅力的にみえたという。
スタント(1)

泥まみれのリア周り
スタント(2)



【主要スペック】 1960年 フォード ファルコン4ドア・セダン (1960 Ford Falcon 4door sedan)
全長4600㎜・全幅1780㎜・全高1380㎜・ホイールベース2780㎜・車重1082kg・FR・水冷直列6気筒OHV2364cc・圧縮比8.7:1・最高出力91ps/4200rpm・最大トルク19.1mkg/2000rpm・変速機2速AT・前輪独立懸架・前後ドラムブレーキ・燃料タンク容量53ℓ・乗車定員6名・最高速度130km/h・米国内販売価格$1,974



●1960年 フォード ファルコン 本カタログ? (縦17.8×横30.3cm・英文12頁)
1959年9月発行。カタログNo.FD-C-6017-F-1。アメ車のカタログとしては判型が小さく頁数も少な目で簡易カタログにも見えるが、コンパクトカーの為、案外これが本カタログなのかもしれない。最初のファルコンは4ドアと2ドアのセダンのみ。ボディカラー8色。このカタログにはピーナッツ・キャラは登場しない。
60(1)表紙

【中頁から】

運転しやすく、すぐ自分のものにできる。女性2人の乗った赤の2ドア。解説は1927年のフォードモデルAについても触れられている。
60(2)2ドア女性2人

6人フル乗車の黒の2ドア。ファルコンは2代目40系クラウンとほぼ同じ全長ながら、全幅はクラウンより85mm広い1780mmあったので、クラウンに6人乗るよりも遥かに楽だっただろう。
60(3)2ドア黒

白の4ドアセダン
60(4)4ドアセダン

4ドアセダン、ダッシュボード。スピードメーターは100マイルまで表示。
60(5)4ドア&ダッシュ

フルサイズとの比較図
60(6)フルサイズとの比較

ボディカラー8色、インテリアカラー4色
60(7)ボデイインテリアカラー

裏面: スペック&図面
60(8)裏スペック図面



●1961年 フォード ファルコン 本カタログ (縦19.3×横27.2cm・英文16頁)
1960年8月発行。カタログNo.FD-C-6132。1961年型では4ドアワゴン・2ドアワゴンが加わり、デラックス・トリムと称してボディサイドからリアにかけてのキャラクターラインにクローム・メッキを付けるオプションが設定された。フロントグリルは60年型の凹型から反転させた凸型に変更された。ボディカラーは12色に増加。このカタログ以降はスヌーピー等のピーナッツキャラが多数登場する。この年のファルコンは売れに売れ、コンパクト3車の中で突出して売れた理由は、一言で言えば昔ながらの安くて丈夫で使いやすいフォードの再現であったことだが、同じフォードの上級のフルサイズから乗り換える客が多いというジレンマも生じた。
61(1)表紙

【中頁から】

オプションのデラックス・トリム付2ドア
61(2)トリム付2ドア

4ドアセダン
61(4)4ドアセダン

新車種2ドアワゴン
61(5)2ドアワゴン

新車種4ドアワゴン
61(6)2ドアワゴン

61(7)4ドアワゴン

ファルコンなら全てがもっといい!
61(8)もっといい

モノコックボデイ・ブレーキ・サスペンション
61(9)モノコックサスブレーキ

裏表紙: ピーナッツキャラ
61(10)裏面ピーナッツ



●1962年 フォード ファルコン 本カタログ (縦20.8×横28.3cm・英文20頁)
1961年8月発行。カタログNo.FD-C-6214。3年目の1962年型では好評のファルコンは同じフォードのフェアレーンの顧客を明らかに食い出したが、フォードとしてはギャラクシーに次ぐ量産銘柄として重要な存在となった。この年も同じボディシェルだが、左右で跳ね上がっていた特徴的なフロントバンパーが真っ直ぐ太い平凡なものとなりスモールライトが埋め込まれた。セダン系には装備を充実させた上級のフーチュラ(FUTURA)が加わり、ワゴンには木目トリムを付けたスクワイア(SQUIRE)が加えられ、更に販売好調のフォルクスワーゲン・タイプ2(ワーゲンバス)をライバルとするキャブオーバータイプの「ファルコン・ステーションバス」「ファルコン・クラブワゴン」「ファルコン・デラックスクラブワゴン」が戦列に加わった。また、スタンダードとデラックスを区別しワイドセレクション化するなど年産100万台を視野に入れた車としての地盤が築かれた。ボディカラーは16色。
62(1)表紙

【中頁から】
2ドア・フーチュラ
62(2)2ドアフーチュラ

4ドアセダン
62(3)4ドアセダン

木目トリム付のワゴン新グレード「スクワイア」
62(4)木目ワゴンスクワイア

VWタイプⅡ的なファルコン・デラックス クラブ ワゴン
62(5)タイプⅡDXクラブワゴン

裏表紙: ピーナッツキャラ
62(6)裏面ピーナッツキャラ





●1963年 フォード ファルコン 本カタログ (縦21×横28cm・英文24頁)
1962年8月発行。カタログNo.FD-C-6303。初代最終型4年目のファルコンには新たに表紙に写された2ドア・コンバーチブルが加わり、追って1963年春にはコンバーチブルのルーフを鋼板化した魅力的な2ドア・ハードトップ「スプリント・スポーツ」が戦列に加えられた。その他、2ドアスポーツセダンも加わった。このカタログにはハードトップはまだ収載されていない。ボディカラーは12色に戻された。
63(1)表紙

【中頁から】

表紙をめくると、ピーナッツキャラによる解説
63(2)扉ピーナッツ解説

63(3)ピーナッツ解説2

新グレードのフーチュラ・スポーツセダン。日本車では5年後の1968年あたりから流行したレザートップを早くも採用している。
63(4)フーチュラスポーツセダン

コンバーチブル
63(5)コンバチ

木目トリム付のワゴン「スクワイア」もフェイスリフト
63(6)木目ワゴンスクワイア

ピーナッツキャラによる1963年型のアピール
63(7)ピーナッツ解説1

63(8)ピーナッツ解説2

疾走するコンバーチブル、右下にはピアノの天才シュローダー。
63(9)コンバチ・ピアノ

裏面: スペック&図面
63(10)裏スペック図面





★オマケ(その1): マルサン商店 1/21スケール 1960年フォード・ファルコン2ドア 東京駅構内タクシー
全長22cm。当時定価:不明。ブリキ製。マルサン商店製品番号No.3003。日本製ブリキ製金属玩具のファルコンは萬代屋(現バンダイ)、アルプス、マルサン商店と3社競作された中で最も駄玩的な造りでプロポーションを含めて出来の悪いのがマルサン製であった。そのマルサン製には何と東京駅構内タクシー仕様のバリエーションが日本国内向け専用商品として存在した。2ドアのタクシーというのは珍妙だが、このファルコンより10年以上後のダイヤペットでも見られた。ワイパー、ドアノブ、アンテナ等の小パーツを当時新しかったプラ系素材で造り分けているところが面白いチャームポイント。ワイパーは任意の位置に動かすことが出来る。ハンドルまでプリントで表現された室内は何と右ハンドル。メッキパーツは元々のメッキが薄かったらしく、半世紀以上の時を経た現在では残念ながら劣化し黒ずんできているが、箱付・箱無を問わずこのタクシーの現存個体は非常に少なく、市場評価は別として入手難易度は10段階評価で9以上のレベルにある一期一会的な珍品。
マルサン(1)

マルサン(2)

室内は右ハンドルのプリント、ルーフには東京駅の三角行燈のプリント
マルサン(3)右ハンドル

ホイルキャップにはFORDロゴ
マルサン(4)ホイルキャップFORD

マルサン(5)サイド

マルサン(6)フロント



★オマケ(その2): 大盛屋チェリカフェニックス・フラッシュライトシリーズFL-2番 1/43スケール 1960年フォード・ファルコン4ドアセダン
全長10.5cm。当時定価:調査中。アンチモニー製。大盛屋のファルコンはフリクション・シリーズ12番(F-12)として1961年8月に市場に出た後、同年10月にフリクション・シリーズ16番(F-16)としてハイウェイ・パト仕様が追加され、翌1962年7月にフリクションを外しシート等の内装を付けたチェリカフェニックス7番(PHE-7)となり、更に1963年10月には電池でヘッドライトを点灯させるギミックを付けたこのフラッシュライト・シリーズ2番として市場に出た。ルーフのチェッカー柄シールはノンオリジナル。保育社のカラーブックス「日本のミニカー」(中島 登JMAC会長 著)ではビュイック・エレクトラと共にファルコンは1/50スケールまたは1/52の記載があるが、それはどうもビュイックのスケールのようで実際にはこのファルコンは概ね1/43スケールである。一緒に写っている白/茶赤ツートンは同じ大盛屋チェリカフェニックスシリーズ6番の1960年ビュイック・エレクトラ。
大盛屋(1)

大盛屋(2)

大盛屋(3)



★オマケ(その3): 1960年フォード ファルコン テレビCM
ピーナッツ・キャラ登場のアニメーションCM。この時代のアメリカのCMが白黒とは考えにくく、オリジナルはカラーかもしれない。




★オマケ(その4): 1961年フォード ファルコン テレビCM
これもピーナッツ・キャラ登場のアニメCM。




★オマケ(その5): 1960年フォード 総合版 テレビCM
サンダーバードやギャラクシーといった他のフォード車と共に初期のファルコンがフューチャーされたフォード総合版カラーCM。

★武蔵小金井 昭和の文具を販売する「中村文具店」 ~ コーリン小松崎 茂の色鉛筆

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★2016年8月26日(金)発売の旧車雑誌「オールド・タイマー」通巻150号(八重洲出版発行)に昭和の佇まいのまま昭和の文具の販売を続ける国鉄(現JR)「武蔵小金井駅」南口徒歩5分程に位置する「中村文具店」(住所:東京都小金井市中町4-5-31)の見開き記事が載っていた。
武蔵小金井と言えば、私は1980年代にジャノメミシンの工員として油まみれになって組立ラインで働いていて毎日通った馴染深い駅なのだが、この文具店のことは全く知らなかった。それもそのはず、元々は小金井市内の別の場所で普通の文具店として営業していたのを区画整理で店舗を縮小することとなり学校等の大口顧客への業販に絞り無店舗化した際に現店長の1960年代のロックスター風の容貌を持つ3代目中村研一氏が、自店の倉庫から大量の古い文具を発掘し、それらを無駄にせず後世に引き継いで貰える人に受け渡すことを目的に、昨年、ガレージだった家屋を改造して土日のみ営業(12時~18時:イベント時は休業の為、Webサイトか電話で営業日であるか確認が必要)を始めた新しいお店なのである。しかし、既にモノ系雑誌やテレビでも取材され、昭和の香りのする文具店として今や一部では知られる存在になっているそうである。3代目店主の中村氏は左ハンドル510ワゴンのオーナーでもあり、平日は地域の学校等へ510ワゴンで文具類の納品に廻っているそうである。



★中村文具店で購入してきたコーリン鉛筆の色鉛筆14色セット
人の顔をした三角のトレードマークも懐かしい1916年に創業し1997年に倒産したコーリン(その後、2009年に再建)の色鉛筆セット未使用新品。コーリン商品番号No.2080。これは何と言ってもブリキのカバーにプリントされた小松崎 茂画伯(1915年2月14日-2001年12月7日)のサインの入ったロータス・フォードの絵柄が泣かせる。恐らく1960年代モノであるので未使用の色鉛筆を使うのは少々勇気がいる。往年のコーリン鉛筆ファン、小松崎ファン、ロータスファンに何れもウケるシロモノではないだろうか。天地真理、山本リンダ、秀樹その他諸々の昭和のアイドル達の下敷きも大量にあって、おへそを出した全盛期のリンダにはかなりそそられたが、アイドルグッズコレクションの道に足を踏み入れては泥沼化が避けられないと判断し、この小松崎コーリン色鉛筆セット以外は我慢して何も買わずに帰ってきた。ちょっと懐かしい昭和の文房具を見て楽しむミュージアム的な面白さはあるものの、まあ、しかし、さすがの中村文具店もmaroさん行きつけのオバチャンの玩具店ほどのインパクトはない気がした。全国にはこのような昭和の在庫を沢山抱えた古くからの商店は、恐らく知られていないだけで、まだまだ山のようにあるはず。
ロータス(1)

中味
ロータス(2)中味

コーリンのロゴマークと小松崎サイン
ロータス(3)小松崎サイン




~中村文具店への道順~


★武蔵小金井駅南口
(1)駅


★松屋を左に見て、駅から真っ直ぐ南へ向かうバス通りを歩く。
(2)松屋


★すると、この道路標識(左:三鷹、右:国分寺)が現われる。
(3)標識


★「たましん」を通り過ぎたら、すぐに左折。
(4)たましん


★長いブロッグ塀の先の右側に中村文具店
(5)長い塀の先


★中村文具店 入口
(6)お店入口




~中村文具店内部 点景~

(7)店内その1

(8)店内その2


★天地真理の下敷きに月光仮面のノート
(9)天地真理


★昭和中期の小学生用ノート各種
(10)昔のノート


★万年筆
(11)万年筆


★インク
(12)インク


★鉛筆
(13)鉛筆1

(14)鉛筆2


★ウルトラマンタロウ鉛筆、ケロヨンパチモノ鉛筆 各1ダース未使用
(15)ウルトラマンタロウ


★パンチ、ハサミ
(16)パンチ、ハサミ


★鉛筆削り
(17)鉛筆削り




★2016年8月27日 中村文具店 内部の様子(動画)
店内にジョン・レノンのAcross The Universeが流れているのが泣かせる。




★中村文具店のWebSite : http://nakamura-bungu.com/





★オマケ: 天地真理 「ひとりじゃないの」 1972年
中村文具店で真理ちゃんの下敷きを見て久々に真理ちゃんを思い出したので1曲。1972年(昭和47年)5月21日発売。天地真理通算3枚目のシングル。発売元:CBS・ソニーレコード。売上げ110万枚。1951年(昭和26年)11月5日生まれの天地真理さんは今年65歳になられるが、娘さんからの週6000円の仕送りとファンの支えとで何とか食い繋ぐ極貧暮らしとの噂は信じ難い。私が小学生の頃、真理ちゃんのような美人と結婚するのが夢だったことを思い出す。天地真理のヒット曲はどれも覚えやすく、当時、同級生の誰もが知っていた気がする。

★1967年ランボルギーニ・マルツァル&エスパーダ 4座ランボ ~ 自動車カタログ棚から326

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もう8月もあと3日。夏休みの宿題の追い込み時期ですね。今年の夏休みは如何でしたか??私は可もなく不可もなく、まずまずといったところでした。えーっ!夏休みは9月の連休時期に1週間以上休むからまだこれからですって??確かに今年のカレンダーでは、9月20日(火)・21日(水)・23日(金)の平日3日を休めば9連休にすることが出来ますね。近頃では7月~9月の3ヵ月間に仕事の都合をつけて好きな時期に1週間休んでよい、あるいは労働組合の強いところでは連続1週間以上は休むことを強く推奨するといった法人さんもあるようです。そういった場合、特段の趣味などもなく普段から仕事が命あるいは仕事=趣味のような生活をしていると、そんなに休めと言われても休んでもやることが何もない、そんなに休んだら頭も体もナマってしまうなどと休みを与えられるとかえって困ってしまい、結局、夏休みは1日もとらないで終わってしまったなどという方も世の中にはおられるようです。その点、工場のラインなどでお盆期間などに丸1週間一斉に操業がストップして幾ら仕事をしたくとも仕事が出来ないという状況になる方が、誰もが等しく休めて良いような気がします。


そう言えば、2~3年前?に草ヒロ愛好家コロニー様(1998年7月20日生れ)から教えて戴いて取り付けた、ブログ訪問者数をカウントする忍者カウンター?が数日前に累計50万人を超えました。現在、このブログは1日400~500人前後の方にご訪問戴いており、「お気に入り」に入れて戴いている方も大勢みえるようで有難い限りです。アクセス状況をみると、どうもアメーバ・ユーザーの方はどちらかというと少なく、記事をみても「いいね」が出来ない、アメーバ・ユーザー以外の方のアクセスが多いことが特徴のようです。もし今後も1日平均400~500アクセスを維持したとしたなら、3年以内位に累計100万人を突破できる計算です。まあ、あまり気合いを入れてダウンしないようにユルユル出来る範囲で頑張ろうかと思いますので、これからもよろしくお願いします。


閑話休題
このところの東京は台風が来たり雨模様のぐずついたお天気が続いていますが、猛烈な暑さが和らいでいるのは助かります。近々ライブもあったりしてブログをゆっくり書いている場合でもないのですが(汗)、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第326回記事として、1960年代のランボルギーニ・フル4シーター・マルツァル&エスパーダをピックアップします。
 




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1967年 ランボルギーニ・マルツァル2000
1967年(昭和42年)3月9日~19日に開催された「1967年ジュネーヴ・ショー」のハイライトはベルトーネ・ブースに出展された、ランボルギーニ2000「マルツァル」であった。
ミウラとよく似た造型のリアエンドに「Marzal」のバッチが付いたその車は、ミウラのシャシーを120㎜延長しフル4シーター化を狙ったものであった。しかし、4シーターではミウラのようなミッドシップ・レイアウトには出来ず、かと言ってV12をリアに置くのでは極端なテールヘビーとなるため、打開策としてミウラのエンジンの片バンクを流用したV6・1965cc175psがリアに横置きされた。エクステリア・デザインは半世紀近い時を経た現在の目で見ても尚、斬新かつ未来的であり、ウェストライン下部までガラスとし前後シートをフルにカバーし開閉する巨大なガルウィング式ドア、インテリアに至るまでの六角形デザインの多用、後年シトロエンSMに見られたような角型片側3連6灯ヘッドライト等を特徴とした。このマルツァルは完全なワンオフのショーモデルながら人気は高く、ダイキャスト・ミニカーとして多数製品化され世界中の子供たちに遊ばれ広く知られるところとなった。
2011年5月21・22日にイタリア・コモ湖畔で開催された、コンクールド・エレガンス・ヴィラデステ(Concorso d’Eleganza Villa d’Este)の中で行われたオークションにこのマルツァルが出品され、151万2000ユーロ(日本円1億7200万円前後)で落札されたのは、2016年夏に予約完売した新車ラ フェラーリ・スパイダーの日本国内価格が2億円前後ということを考えれば、ワンオフで世界に1台のみ、歴史的な価値も高いマルツァルの落札額はむしろ割安にも思える。



●1967年 ジュネーブ・ショーのマルツァル (CG誌1967年5月号より)
675(1)

室内
675(2)室内

675(3)サイド

ミウラと近似したリアエンド
675(4)リアミウラ似

ヌッチオ・ベルトーネ(Bertone、"Nuccio":1914年7月4日-1997年2月26日)御大と
675(5)ベルトーネ御大と



●1967年 ランボルギーニ・マルツァル 広報写真
マルツァルはショーカーで終わったため、プレス用資料のみで所謂カタログは存在しない模様。
M広報写真


●1967年 ランボルギーニ・マルツァルと美女
美女と

六角形を多用した室内
M室内




1968年 ランボルギーニ・エスパーダ400GT
マルツァルから1年後の「1968年ジュネーブ・ショー」でエキゾチックカー初のフル4座席の市販車ランボルギーニ・エスパーダ(=日本語では剣の意)がデビューした。
マルツァルのデザインをベースに4座スーパースポーツとして市販化するための現実的な対応が採られた。即ち、マルツァルではミウラの4リッターを2リッターと半分に縮小してリアに置かれたエンジンは、エスパーダでは基本的にミウラと同じ4リーターDOHCのままフロントに置かれ、更に極端に前寄りにレイアウトされた。リアシート後方には広い荷物スペースと巨大なリアハッチが設けられ、4人乗って荷物も積み高速巡航も可能なスーパーツポーツが誕生した。
エスパーダは車重1480kgの車体をミウラより若干出力を落とした325psエンジンによりカタログ値で245km/hまで引っ張った。ボディ外寸は4738×1860×1185㎜と長く幅広く、そして地を這うように低い。そのため、着座位置は後席でもレーシングカー並に寝そべるようなポジションとなった。現代の4座GTと言えるポルシェ・パナメーラは全高が1418㎜あり、エスパーダはパナメーラより233㎜も背が低かったのである。
日本には1969年の初夏にランボルギーニの輸入代理店であった三和自動車により青のエスパーダが初輸入され、CARグラフィック誌1969年7月号に小林彰太郎編集長のロード・インプレッションが掲載された他、同年の東京オートショーにて一般公開された。
1968年に生産の開始されたエスパーダは、その後、10年に亘る生産期間に1,217台が生産された。モデルライフ中に2度のマイナーチェンジが行われ、エスパーダ・シリーズ1(S1・1968-1970年 生産台数186台)、同シリーズ2(S2・1970-1972年 生産台数575台)、同シリーズ3(S3・1972-1978年 生産台数456台)の3種に大別される。シリーズ毎にダッシュボード、グリル、ホイール、サイドマーカー等の意匠が変更された。ランボルギーニは元々エアコンのメーカーであったため、初期型からエアコンは標準装備され、パワステやオートマが後年オプションとして追加された。



【主要スペック】 1969年 ランボルギーニ・エスパーダ400GT (1969 Lamborghini Espada 400GT)
全長4738㎜・全幅1860㎜・全高1185㎜・ホイールベース2650㎜・車重1480kg・FR・水冷60度V型12気筒DOHC 3929ccフロント縦置・最高出力325ps/6500rpm・最大トルク37mkg/4500rpm・変速機5速フロアMT・乗車定員4名・前後ディスクブレーキ・燃料タンク容量95ℓ・最高速度245km/h・日本国内販売価格1300万円



●日本初上陸のランボルギーニ・エスパーダ (CG誌1969年7月号より)
この号には小林彰太郎編集長によるエスパーダで東名を走ったインプレッションが掲載されており、「クラッチやギアシフト等のコントロール類が軽くエンジンがフレキシブルで視界もすこぶる良い。いきなり運転してもロータス・ヨーロッパほどの戸惑いは感じない。運転しても他のどの席に乗せられても快適な4座高性能実用車」という旨が記載されている。
697(1)青

697(2)青前

697(3)青後ろ



●1969年? ランボルギーニ・エスパーダ 本カタログ (A4判・英独仏伊4ヵ国語併記・9頁)
これは残念ながらオリジナルではなく、エスパーダが5マイルバンパーを付けてまだ現役だった1976年に発行された縮刷り復刻版なのだが、復刻が出てからでも既に40年の時を経ている。
カタログ(1)表紙

【中頁から】

カタログ(2)

フロント
カタログ(3)前

リア
カタログ(4)リア

動く応接間のような室内
カタログ(5)室内

V12エンジン
カタログ(6)V12エンジン

透視図
カタログ(7)透視図

サスペンション・図面
カタログ(8)サス図面

スペック
カタログ(9)スペック



●1970年?ランボルギーニ・エスパーダ リーフレット (縦21×横20cm・日本語・表裏1枚)
ポルシェの輸入代理店として有名だった三和自動車発行のシングルレコードのようなサイズのリーフレット。裏面にはエスパーダ以外にミウラSとイスレロのスペックも記載されている。三和の日本語表記はエスパーダではなくエスパダとなっている。
リーフ(1)表

裏面
リーフ(2)裏



●1972年?ランボルギーニ・エスパーダ  オートショー展示中の写真
スーパーカーブーム時代のポストカードでCG1969年7月号掲載の車と一見同じ鮮やかなブルーながらサイドマーカーが丸型から長方形になりドライバー側にはフェンダーミラーが付けられている。背景の車名表示看板はこれもエスパダとなっている。
国内ショー





★オマケ(その1): 伊ポリトーイ568番 1/43スケール 1967年ランボルギーニ・マルツァル
全長10.5cm。ダイキャスト製。初版はガルウィングドア開閉アクション付。同一品番のままスピードホイール化された際にドア開閉アクションが省略されガラスルーフの形状も変更された。
ポリM(1)

ポリM(2)

ポリM(3)



★オマケ(その2): 英ディンキー189番 1/43スケール 1967年ランボルギーニ・マルツァル
全長10.5cm。ダイキャスト製。前後フード開閉アクション付。
ディンキー(1)

ディンキー(2)

ディンキー(3-1)

ディンキー(3)



★オマケ(その3): 英マッチボックス20番 1/58スケール 1967年ランボルギーニ・マルツァル
全長7cm。ダイキャスト製。当時定価170円。初版がエンジメタ、その後、箱も変りオレンジとピンクのカラバリが出た。
マッチ(1)

マッチ(2)

マッチ(3)



★オマケ(その4): 香港プレイアート B-29番 1/58スケール 1967年ランボルギーニ・マルツァル
全長7cm。ダイキャスト製。香港の妖しい宝石のようなプレイアートのミニカー。オマケ2のマッチボックスとほぼ同じサイズながら、こちらはガラスルーフが再現されている。カラバリは画像の赤、オレンジ以外にも多数。日本語の箱には車名が「マルザル」と印字されている。
香港(1)

香港(2)

香港(3)



★オマケ(その5): 伊ポリトーイ587番 1/43スケール 1968年ランボルギーニ・エスパーダ
全長10.7cm。ダイキャスト製。ボンネット、ドア開閉アクション付。エスパーダの当時物ミニカーは独sikuなどからも出ていた。
Pエスパーダ(1)

Pエスパーダ(2)

Pエスパーダ(3)



★オマケ(その6): 1967年ランボルギーニ・マルツァル 実車 動画
ドア下部までガラスのマルツァルの場合、ドライバーの全身が丸見えとなってしまうのは、あまり見ていてカッコよくはないような気がします。

★1957年ます美書房「のりもの 東京見物」都営トロバス初代クラウン ~乗物絵本棚から 006 

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1976年(昭和51年6月22日発売の集英社『週刊少年ジャンプ』で連載の始まった『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(通称:こち亀)が、2016年(平成28年)9月17日発売号で連載を終了し、コミックス(単行本)もキリの良い200巻で終わりとなることが決まったそうです。作者の秋本 治さん(1952年12月11日~)は現在63歳とまだお若く、こち亀とは別の作品を描きたいという意向から終了が決まったとのこと。初期からの読者である私としては、両さんの破天荒な姿が見られなくなるのは寂しい限りです。秋本さんの年齢からして、まだ15年か20年は連載を続けてコミックスも300巻位まで発行されることを楽しみにしていたのでとても残念です。しかし、秋本さんが23歳の時から1回の休載もなしに40年以上も毎回新鮮で面白く時として超マニアックなネタで連載を続けられたことは凄いとしか言いようがありません。こち亀の歴史は高2から現在までの私の人生とも重なるように、多くの読者の人生と共に歩んできた作品だったのではと思います。


さて、もう9月ですね。今日はピアノライブに出たりなどして慌ただしい1日でした。人目を気にするより、いい演奏をして人の心を動かしたいという衝動に駆られるせいか、幸い最近は人前で演奏しても過度にアガルようなことはなくなっています。今日の演奏は「良かったあ!」と言ってくれる人もいたのですが、全体の音楽の流れは崩れなかったものの細かなミスタッチは幾つかあり自己評価では85~90点位の出来だった気がします。もしレコーディングなら採り直しでしょうね。まあ、しかし、多少のミスがあっても気持ちが伝われば、それでもう十分成功なのかもですが。しっかり録画してあるので、そこそこ出来が良ければ、またYoutubeにもアップしますね。そんなことがあった今日はちょっとお疲れモードに入ってるのでサクっとアップしますね。


閑話休題
今日は暫くお休みしていた「乗物絵本棚からシリーズ」の第6回記事として、1950年代後半の
のりもの 東京見物という絵本をご紹介します☆☆




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★株式会社ます美書房は東京駅八重洲口に戦後1950年代初頭から1970年代初頭までの少なくとも20年間存在したと思われる児童書中心の出版社である。
試しにWeb上で「ます美書房」を検索してみても、昭和46年(1971年) 1月 5日付のます美労組による労働争議に関する命令書類以外の資料が見当らない。
今回ご紹介する絵本は、ます美書房が1950年代後半(昭和30年代前半)に発行した「キューピットえほん」第12巻の「のりもの 東京見物」である。戦後の乗物絵本を描いた画家としてはメジャーな1人である、秋吉 文夫(あきよし ふみお)画伯の筆により東京に纏わる乗物達が確かなデッサンにより描かれている。表紙の当時の花形国産乗用車トヨペット・クラウン・デラックス(型式RSD)に始まり、青大将塗装のEF58つばめ、地下鉄丸の内線、都営トロリーバス、日航プロペラ機等が描かれ、ある家族(お父さん・お母さん・坊や・お嬢ちゃんの4人)を反復して登場させることで家族が東京見物をしていく物語的な構成ともなっている。


●タイトル: キューピットえほん第12巻「のりもの 東京見物
●出版社: 株式会社ます美書房 (東京都中央区八重洲6-7)
●発行年: 1957年(推定)
●定価: 50円
●編集: ます美書房企画部
●発行者: 飯泉定男
●印刷所: 川口荷札株式会社
●監修: 松村康平(お茶の水女子大学助教授)
●絵: 秋吉 文夫
●文: 不詳
●判型/頁数: B5判・表裏共14頁
●入手時期: 2002年(平成14年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 1000円程度




●表紙: 国会議事堂前の1957年クラウンデラックス (型式RSD)
クラウンのナンバー「5 す-1957」は描かれた年、1957年を示していると思われる。戦後の本格的な国産乗用車としてクラウンとダットサン110がデビューしたのは、1955年(昭和30年)1月のことであった。

※初代クラウン前期型については、自動車カタログ棚からシリーズ第98回記事をご参照下さい。
(1)表紙



●東京駅と特急つばめ号
EF58形37号機牽引青大将の前で記念撮影をする家族。この絵本にはこの家族がほぼ全編に登場し東京見物をしていく体裁となっている。1956年(昭和31年)の東海道本線全線電化に際して特急「つばめ」「はと」の牽引機としてEF58が淡緑色(淡緑5号)に下部を黄色塗装として登場し、牽引する展望車を含む客車も同系色に統一された極めて美しい編成が青大将であったが、1958年(昭和33年)の151系による電車特急こだまの登場により国鉄の花形として活躍した時代は意外に短かかった。

さあ とうきょうにつきました つばめのおじさん ごくろうさん
(2)つばめ



●地下鉄電車
丸ノ内線300形323号と家族。丸ノ内線は1954年(昭和29年)1月20日にまず池袋~御茶ノ水間 (6.4 km)のみが開業し、翌々年1956年(昭和31年)3月20日に御茶ノ水から神田川を跨ぎ淡路町まで開通、追って同年7月20日にこの絵本に描かれた東京駅まで開通した。更に西銀座(現在の銀座)まで伸びるのは1957年(昭和32年)12月15日まで待たなければならなかった。新宿まで開通したのは1959年(昭和34年)3月15日のことであった。

とうきょうえきから いけぶくろ ちかてつでんしゃにのりました あかいきれいなちかてつは すごいはやさではしります
(3)丸の内線



●都営トロリーバス
東京都営トロリーバス102系統200形205号。話の流れから池袋でトロバスに乗り換え渋谷に向かう場面。都営トロリーはまず1952年(昭和27年) 5月20日に今井橋~上野公園間が開通。絵本に描かれた102系統(池袋~品川間)が開業したのは1956年(昭和31年)9月21日のことであった。

※都営トロリーバスについては、自動車カタログ棚からシリーズ第105回記事をご参照ください。

おや おや かわったかたちです でんしゃとばすのあいのこだ きれいなねおんの よるのまち とろりーばすがはしります
(4)トロリーバス



●銀座通り
都電PCCカー1系統5507と赤白ツートンの1955年ビュイック。現在も変わらない服部時計店。都電の背後には文明堂のカステラ、ビフテキ・スエヒロ、ワシントン靴店等の看板が描かれている。

※都電5500形については、鉄道車輛カタログ棚からシリーズ第3回記事をご参照ください。

とでんがとおる じどうしゃはしる ならんだおみせやでぱーとで ぎんざどおりはにぎやかだ
(5)銀座通り



●隅田川と勝鬨橋
モーターボート・すみだボート「ますみ号」で疾走する家族。お父さんは何と船舶免許も持っている。

たん たん たん はやいぞ はやい もーたーぼーと むこうにみえる かちどきばし おおきなふねがとおるとき ふたつにひらいて とおします
(6)勝鬨橋



●上野動物園のおサルの電車
アメリカ型ディーゼル風車両を自ら運転するお猿さん。通称「おサル電車」は、戦後3年目の1948年(昭和23年)9月23日に運転開始した。サルが気ままに電車を止めたりバックしたりするのもお客を楽しませるウリであったという。

おおきなぞうさん きりんさん どうぶつえんはたのしいな ごっとんがったん おさるのでんしゃ ぼくらをのせて はしります
(7)おサル電車



●東京国際空港
羽田の日航プロペラ機「阿蘇号」JA6006と「City of Tokyo」DC6B型機 JA6201。「City of Tokyo」は1953年~1968年7月まで日航に在籍し、その後、何と40年以上も生き延びて2010年に登録抹消になったという。家族は飛行機に搭乗。この時代に飛行機とは豪勢な家族旅行です。関西あたりから青大将で東京旅行に来た家族が今度は海外に旅立つという設定なのでしょうか。

※日航プロペラ機については、航空機カタログ棚からシリーズ第1回記事をご参照ください。

みんなをのせた ひこうきが とおいおくにへ とんでいく そらのげんかん ひこうじょう
(8)羽田



●裏表紙: 「この絵本の見かた」 (監修者:松村康平)
二重橋、東京駅丸の内口、「東京めぐり」の行先表示のいすゞリアエンジンバスが描かれ、定価各50円としてキューピットえほん全20巻の一覧も掲載されている。この第12巻は「のりもの東京見物」ではなく「のりもの東京めぐり」と記載されている。20巻中で乗物絵本は、第1巻「のりもの」、第2巻「たのしいのりもの」、第3巻「はたらくじどうしゃ」、第10巻「うれしいのりもの」、そしてこの第12巻の計5冊。

これは、乗物絵本です。この絵本では東京を中心に、色々の乗物がでてきます。東京駅についた子供たちは、これから何処へ行くでしょう。東京の子供たちは、これから何処へ案内するでしょう。この絵本では、「乗物」と「東京」とが組み合わされています。絵本を見ながら、乗物への興味にひかれて東京めぐりをする子供も、一度は行きたい東京の名所にひかれて次々と乗物に乗る子供もいるでしょう。絵本は子供たちの世界を広げてくれます。この絵本は、子供と大人の話し合う機会を増やしてくれるでしょう。大人の経験を上手にいかせば、この絵本から幾つもお話が生れるでしょう。
(9)裏表紙






★オマケ(その1): 萬代屋(現バンダイ) 1/19スケール 1956年トヨペット・クラウン・デラックス
全長21cm。ブリキ製。当時定価:200円。萬代屋品番300。バンダイの保証玩具第1号であったクラウンRSにフードオーナメントやサイドモールを追加してデラックスRSDに衣替えしたモデル。カラーバリエーションは黒・赤・薄茶色・水灰・淡青・ペパーミントグリーン等多数。リアにトヨペットデラックスのプレートがあるものとないもの、アンテナ違いなど細かなバリエーションも多い。ヒット商品だけに結構な数が現存しているが、箱付となると数十台に1台程度と少ない。
バンダイ(1)

バンダイ(2)

バンダイ(3)

ペパーミントグリーンはレアカラーだが、1950年代の「自動車と服飾のファッションショー」にも登場した実在したカラーリング。
バンダイ(4)




★オマケ(その2): 関水金属 1/80スケール EF58試験塗装機
全長25cm。プラスチック製。当時定価:税抜26000円。1990年(平成2年)7月、日本橋東急デパートで鉄道模型フェスティバルが開催された際の限定販売品。人気の高い4号機の試験塗装だが、車番は元製品62のままで異なる。ユーザーが取り付けるワイパー未装着の状態。展望車マイテ58はピノチオ製真鍮モデル。
EF58(1)

EF58(4)

つばめのヘッドマークを付けたピノチオ製 展望車マイテ58
EF58(2)

3軸の台車に注意
EF58(3)




★オマケ(その3): マルサン商店 1/32スケール程度 都営トロリーバス104系統
全長28cm、全幅8cm。ブリキ製。当時定価全国240円。マルサン品番123。浅草雷門行104系統の補助エンジンを持ちフロントグリルを付けた個性的な車両をモデルとしている。マルサンの都営トロバスは3種類もリリースされ、何れもヒット商品だった。しかし、オマケ1の実車を模したクラウンとは異なり、その大半が玩具本来の使命を全うして消滅しており、箱の有無や状態を問わず現存する個体は少ない。現在、この補助エンジン付バージョンは最初に手に入れた箱なし美品と後から嫁いできた箱付デッドストックの2台が手元にあり、箱なしの1台は出来ればトロバスが好きな方にお譲りしたいところ。しかし、私はヤフージャパンに「ヤフオク永久出品禁止処分」(但し、何故か買うのは無制限に可)とされているので売るに売れない(汗)。ダブって手元にあるモノや手放しても良いと思えるモノはブリキもミニカーも実車カタログも山程あり、やはり、定年退職したら自分でショップをやるしかないかも(大汗)。
マルサン(1)

マルサン(2)

マルサン(3)




★オマケ(その4): ビートルズ「Long Tall Sally」(邦題:のっぽのサリー)
ビートルズアメリカ上陸前の1963年(昭和38年)スウェーデンライブより。リトル・リチャードのオリジナルは、今回ご紹介の絵本の発行時期に近い1956年3月だが、ポールのボーカルによる60年代のビートルズ・バージョンはオリジナルを遥かに超えている気がします。

★戦前1937年 講談社「乗物づくし」 C53/C55/あじあ號 ~ 乗物絵本棚から 007

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ブロ友さんの職場で吐き気がするほど嫌な人は、やはり私のようにいい歳をして一度のバツもない独身の男性だそうです。「人間なら誰しも人生最大の目標は愛の暮らしをすることにある」と思いますが、私のように定年退職まで僅か3年、法令による65才までの再雇用期間を含めても残り僅か8年という年齢でいまだに独身となると、もし運よくこれから所帯を持てたとしても子供が小学校に上がる頃には年金暮らしということになり、ここはやはり一つ何らかの事業を始めなければ経済的な問題から愛の暮らしは一生もう出来ないということになります(大汗)。
しかし、必ずしもお金持ちでなくとも結婚することは不可能ではないんじゃないかなと言う知人もおり、しかし、別の知人の経験では惚れた美女に取り敢えず結納金として1000万円の札束をドンと積み上げて土下座しても頑として結婚どころか付き合ってもくれないというケースは案外多いとの話もあり(愛はお金では買えないw)、お金があってもなくても人間を磨き、人として愛されるだけの魅力がないうちは愛の暮らしは出来ないのでしょうね。私も取り敢えずは、ピアノやギターなどの演奏の腕をもっと磨くなどして、他人様からみて魅力的な人間になりたいものだと心から思います。



例えば、「愛妻弁当」!!!
何と素晴らしい言葉の響きなのでしょうか!私も勤めているうちに、例えおにぎりでもいいので愛妻弁当を持って通勤するなどという幸せの絶頂を味わいたいと夢見ておりますYO。愛妻弁当って一口食べる度に彼女の笑顔が思い浮かんだりして、あんまり嬉しくて幸せでニヤけてしまいそうですよNE。
しかし、黒柳徹子さん(1933年8月9日-)や志村けんさん(1950年2月20日-)やアルフィーの高見沢さん(1954年4月17日-)といった還暦を過ぎた独身者が人間としての魅力がないからいつまでも結婚できないのか?と言うと、必ずしもそういう訳でもないように思えたりもします。何より独身で愛の暮らしができていないことを私のようにあたかも地の底にいるような「不幸のドン底」だとは微塵も感じてはいないようにも思えたりもします。人生観は人それぞれ、俄かには信じがたいことではあるのですが(汗)、世の中にはむしろ結婚しないことを自ら望んでいるというケースもあるのかもしれません。
先天的に四肢がなくとも25歳で結婚し3人もの子供に恵まれ、更に5人の女性と平行して不倫もしていると報道されている、乙武さん(1976年4月6日-)などは人間としての魅力が満ち溢れているためにモテモテで、謂わば湧水が溢れ出るかのように愛の暮らしが自然と出来ているということなのでしょうNE。



閑話休題
9月に入りましたが、まだまだ暑いですよね。最近は11月位でも半袖で過ごせるような日もあり、1年の中で寒い時期よりも暑い時期の方が長くなったような気がします。さて、今回は戦前1937年(昭和12年)に発行された乗物絵本の傑作「乗物づくし」をご紹介します。
 




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★株式会社 講談社(Kodansha Ltd.)というと、個人的には「少年マガジン」「モーニング」「なかよし」といった漫画雑誌を第一に思い浮かべる。
特に1960年代、私が子供の頃に少年マガジンに連載された梶原一騎 原作/川崎のぼる 画の「巨人の星」の単行本(KCコミックス全19巻)を持っていて読み耽っていたことがとても思い出深いのだが、講談社というと、江戸川乱歩全集や吉川英治全集、村上春樹の上下巻が鮮やかな赤と緑で装丁された小説「ノルウェイの森」あたりを連想する向きもおられるかもしれない。
講談社は、雑誌王と言われた野間清治(1878年12月17日-1938年10月16日)が1909年(明治42年)11月に「大日本雄辯會」(だいにっぽんゆうべんかい)として設立したことに遡り、既に1世紀を超える歴史を持つ出版社である。1925年(大正14年)に社名を大日本雄弁会講談社と改称し、1938年(昭和13年)に株式会社に組織変更され、現在の株式会社講談社となったのは1958年(昭和33年)のことであった。
講談社が児童向け絵本のシリーズを発行したのは、戦前1936年(昭和11年)のことで今回ご紹介する絵本「乗物づくし」は1937年3月に発行された初期の絵本の1冊である。2016年現在、既に発行から79年を経ており、この絵本を幼少時にリアルタイムで見ることが出来た人は現在80代以上と思われる。技量の伴わない絵師が適当に描いてお茶を濁したような乗物絵本は戦後も数多く出されているが、この絵本はどの頁を開いても絵の質が高く、子供向けだからと決して適当には作らず、逆に子供向けだからこそ質の高い絵本を真剣に作ろうという編集者サイドの意思・意図が感じられる戦前の傑作である。
頁数が多い絵本のため、鉄道及び自動車の頁に絞り抜粋して掲載することとしたい。



●タイトル: 子供が良くなる 講談社の絵本 第12巻「乗物づくし
●出版社: 大日本雄辯會講談社 (東京市小石川區音羽町3-19)
●発行年月日: 1937年(昭和12年)3月1日
●定価: 25銭
●編輯(編集)兼 発行者: 高木義賢(タカギ ギケン)
●印刷所: 大日本印刷株式会社 (東京市牛込區市ヶ谷加賀町1丁目12番地)
●絵: 安井小彌太・村上松次郎・飯塚羚兒・椛島勝一・布目紅夢・鈴木御水
●文: 不詳
●判型/頁数: B5判・表裏共60頁+メンコ型写真カード1シート(16枚)
●入手時期: 1997年(平成9年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 3000円程度




●表紙: 鉄道省 C53形82号機 蒸気機関車牽引 旅客列車
絵:安井小彌太 画伯。C53形は、1928年(昭和3年)~1929年(昭和4年)にかけて汽車製造、川崎車輛の2社により97両が量産された、国産唯一の3シリンダー蒸気機関車であったが、基本設計が悪く事故も多発した鉄道省の失敗作で、1950年(昭和25年)までに全機が廃車となった。しかし、1934年(昭和9年)11月に43号機は流線型に改造され、1937年(昭和12年)7月1日のダイヤ改正に至るまで、上り特急「つばめ」の神戸~名古屋駅間等で運用された。この絵本の表紙には何故か時代の花形であった流線形43号機ではなく、川崎製の82号機が描かれています。右下に「KOYATA」の赤いサイン。その上の「550」の白い標識は何を意味するものでしょうか。
(1)表紙



【以下、中頁より抜粋】


●鉄道省 EF55形84号機 電気機関車牽引旅客列車
絵:安井小彌太 画伯。東京~沼津間の風景。「ムーミン」の愛称を持つ流線形電気機関車EF55形は1~3号機の3両が、1936年(昭和11年)に日立製作所、日本車輌、川崎車両で各1両ずつ造られているので、この絵の車番84は誤り。

日本で一番新式の流線型電気機関車
(2)ムーミン



●鉄道省 C51形241号機 蒸気機関車牽引旅客列車
絵:安井小彌太 画伯。C51は1919年(大正8年)~1928年(昭和3年)にかけて、鉄道院(省)浜松工場、汽車製造、三菱造船所で計289両が製造された幹線用主力機で、1930年(昭和5年)~1934年(昭和9年)にかけては特急「つばめ」も牽引した。

ゴーゴー凄い音を立てて汽車は鉄橋渡ります。上り下りの帆掛け船 赤い鉄橋くぐります。続いて見える橋の台、数えてみましょ 幾つでしょ
(3)鉄橋C51



●鉄道省 C55形27号機 蒸気機関車牽引旅客列車
絵:安井小彌太 画伯。C55は、1935年(昭和10年)~1937年(昭和12年)にかけて、川崎車輛、汽車製造、三菱重工、日立製作所の4社で計62両が製造された、亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車。1936年製造の2次車20号~40号機の21両は流線形で登場したが、流線形は流麗でインパクトのある外観以外の実用上のメリットは何もなく整備性も悪いため、1951年(昭和26年)までに全機が1次車と同じ外観に戻された。名古屋機関区配属の 24~26号機は臨時特急「燕」も牽引した。

ゴーゴー進む この汽車は特別急行列車です。東京~神戸を8時間40分で走ります。ツバメのように速いから、付けた名前も「つばめ號」。日本一新しい流線型の機関車を日本一の富士山が見送ってます。万歳万歳。
(4)C55流線形



●東京市電 花電車
絵:飯塚羚兒 画伯。通常車両や無蓋電車などを飾りつけて祭事に際して運行された花電車。この絵は現在の国会議事堂が1936年(昭和11年)11月7日に竣工した記念に運行された風景。先頭の花電車には国会議事堂のミニチュアが載せられている。

ちんちんゴーゴー ちんゴーゴー 来ました来ました 花電車。色電燈の花模様 綺麗な色幕 飾り付け 運転手さんは青い服。あれ?お人形も乗ってます。帝国議事堂できたので お祝い記念日 ちんゴーゴー
(5)花電車



●自動車のいろいろ
絵:安井小彌太 画伯。左上から、装甲自動車、遊覧自動車、ラジオ自動車、フォード1937年型。中央上から、水撒き自動車、郵便自動車、トヨダAA型国産優秀車1937年型、シボレー1937年型スポーツ型、ダットソン1937年型。右上から、競争自動車、貨物自動車、乗合自動車、消防自動車。トヨタ最初の乗用車トヨダAA型が絵本に描かれている例は珍しい。
(6)自動車色々



●鉄道省 特急つばめ展望車
絵:布目紅夢 画伯。東京を出発した下り列車のダブルルーフ展望車。この絵のように走行中に展望デッキ部分に乗ることが許可されていたのかどうかは不明だが、1等展望車は現在の航空機のファーストクラス以上の存在で華族などの特権階級か大財閥の役員など余程のお金持ちだけが乗ることが出来るものであったという。この絵のように大勢の子供が展望車に乗車するようなことは、実際には有り得なかった夢の光景であろう。外注されず鉄道省で自製された展望車は全て3軸ボギー台車だったはずだが、この絵では2軸ボギー台車とされている。「つばめ」のヘッドマークから、スイテ37020形(後のスイテ48)もしくはスイテ37030形(後のスイテ47)だろうか。

スピード出して走ってる特別急行展望車。みんなニコニコ嬉しいな。ほら、飛行機も競争だ。走れよ走れ「つばめ號」。海のカモメも宙返り。
(7)展望車



●食堂車の車内風景
絵:布目紅夢 画伯。日本初の食堂車は、1899年(明治32年)5月25日に山陽鉄道(現・山陽本線)が運行した京都~防府間の列車に連結した食堂付1等車とのことなので、この絵本に描かれたのは食堂車登場から40年近くを経た姿である。かつての国鉄では急行や準急でさえも食堂車が連結された例もあったが、東海道新幹線から食堂車が消えてからも久しい現在では、食堂車は非日常のイベント的な利用を除き過去のものとなってしまった。個人的には出張の途中、食堂車で食べるものは何でも何故か妙に美味しく思えたことが懐かしい。

汽車の中にある食堂です。綺麗な景色を眺めながら美味しいご馳走を戴いています。
(8)食堂車



●消防自動車
絵:飯塚羚兒 画伯。描かれている消防車の車種は不詳ながら、前2台がポンプ車、最後尾が梯子車である。

それ火事だ。急げ急げ消防自動車。赤い旗を振ってサイレンを鳴らして飛ぶように走る消防自動車。早く行って消してちょうだい。
(9)消防車



●碓氷峠 めがね橋を登る旅客列車
絵:安井小彌太 画伯。現在も残る碓氷第三橋梁(1893年竣工)をアプト式電気機関車ED40の重連に押されて走る5両の客車。客車は殆どが三等車の青帯、中間の1両の半分のみが赤い帯の二等車として描かれている。既に1934年(昭和9年)にED42の製造が始まった後の絵本だが、機関車には側扉が見え独特なシルエットからEC40の増備車ED40が描かれているようです。

碓氷峠のトンネルをガッタンゴー 機関車に押されて汽車が出てきます。レンガの橋の高いこと。凄い坂道 レール道、音が谷間に響きます。橋の下にはくねくねと自動車道の七曲り。
(10)碓氷峠



●機関車の運転
絵:安井小彌太 画伯。大人向けの説明として、「複雑な機械、火を炊く夏の辛さ、窓を開いて、絶えず前方を見つめる機関士の冬の辛さなど、お子様にお話ください」と記載されている。この絵本が2016年現在で79年前の発行であるので、この絵本を子供に読み聞かせした親が当時例え二十歳だったとしても現在は100歳位になられているはず。

急な坂道を登る機関車。火はよく燃えています。機関士は蒸気の加減を計っています。
(11)機関車運転



●箱根遊覧バス
絵:布目紅夢 画伯。箱根のバスというと、自動車史/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏が1981年12月九段書房発行の「日本のバス1982」に寄稿された、箱根富士屋ホテル直営にて1919年6月1日より営業を開始したバス路線である通称「フジヤガレージ」(FUJIYA GARAGE)が著名であるが、この絵に描かれているバスの赤い帯には「HAKONE MOTOR BUS COMPANY」と記されている。方向幕は「あたみ」、車両ナンバーは「静3510」というクルマが実在の車両を描いたものであるか否かは不明である。少々バスのデッサンはバランスが悪いものの、左右で色の異なるルーフ前端の灯火、腕木式方向指示器、跳ね上げた泥までが丁寧に描き込まれている。

ふわふわ揺れる乗心地。遊覧バスは愉快だな。『煙を吐いてる大島がクジラのように見えてます』車掌さんの説明にどちらを見てもいい景色。遊覧バスは愉快だな。
(12)箱根バス



●鉄道省 大宮鉄道工場で整備中の蒸気機関車
絵:安井小彌太 画伯。大人向けの説明として、「機関車は3年に1度、必ず修繕することになっています。ここは大宮鉄道工場、今、直しの済んだ機関車を車の上に乗せるところです。」と記載されている。機関車はC51形でしょうか。大宮工場は、現在も大宮総合車両センターの名称で存続している(敷地の一部は鉄道博物館となっている)。

機関車の病院。機関車が古くなったり悪くなったりすると、ここで手入れをします。
(13)大宮工場



●タクシー
絵:布目紅夢 画伯。フロントウインドに「空車」の札を付けたクルマは中央部が下がったフロントバンパーとクロームメッキ3本のサイドルーバーから1936年型フォードのようです。タクシーに乗ってデパートに買い物へ出かけるお母さんと3人の子供たち。この時代のお母さんはまだ和装が一般的。左ハンドルの運転席にはネクタイに帽子の正装をした運転手さんが乗っています。

ぽかぽか お天気嬉しいな。みんなで揃ってお買物に 母さん自動車 来ましたよ。運転手さんお願いよ。ブーブー嬉しいお出かけね。ワンワン ポチがお見送り。
(14)タクシー



●特急あじあ號
絵:安井小彌太 画伯。1934年(昭和9年)~1943年(昭和18年)の間、中国を侵略した日本のコントロール下にあった南満州鉄道(満鉄)が大連駅~哈爾濱(ハルビン)駅間の約950kmを運行していた特急列車。内地の特急つばめが最高速度95kmだった時代に、1435mmの標準軌間を2400ps機関車牽引の展望車・食堂車付の7両編成で最高速度130kmを出し超特急とも呼ばれた。パシナ形と呼ばれる独特の流線形機関車は標準軌ならではの迫力と魅力を有していた。製造は満鉄沙河口工場及び川崎車輛。客車は世界初のエアコン完備とし展望車では当時の内地には存在しなかった二重窓・密閉式を採用した。食堂車では何とロシア系白人ウェイトレスが給仕をした。安井画伯の描いた「あじあ號」は実際のパシナ以上にスマートに描かれている。大人向けの説明として、「満鉄の流線型高速機関車、世界記録1時間に175キロ以上の速力を出すことが出来ます。石炭でなく重油が燃料、大連とハルビンの間を走っています。」と記載されているが、実際のパシナの軌道上の最高速度は135キロ程度が限界であったと言われ、アメリカの機関車が同時期に既に時速180キロを記録していたので、175キロとの記載はアメリカを多分に意識して国力誇示の見栄を張った数字だったのかもしれない。大草原の向こうに落ちる満州の夕日が美しい1枚。

世界で一番速い『あじあ號』。満州の広い野原を物凄い速さで走る汽車です。
(15)あじあ號



●大東京の交差点
絵:布目紅夢 画伯。大東京の交差点風景。木製扉のポール集電の市電、サイドカーに乗る軍人、出前の御蕎麦屋さんの自転車、交通整理の黒い服の警官、横断歩道を渡る大勢の人々。空には「講談社」のアドバルーン。実によく描き込まれています。出前持ちの自転車の後ろの黒い車は1936年型フォードのようです。大人への説明として、「信号を守ることの大切なこと、警官に対する感謝の気持ちなどをお話ください。」と記載されています。

止まれ、進め。お巡りさんが合図をしています。信号が赤になったり青になったり、人もクルマも信号を守って決まりよく通っています。
(16)大東京



●奥附
(17)奥付





★オマケ(その1): 1999年プラレール40周年「C53-4号機&マイテ39セット」
1998年発売。当時定価:税抜3000円。機関車全長22cm。ボディ:ブリキ製。1959年(昭和34年)に誕生したプラレールの生誕40周年記念製品。プラレールは私が子供の頃に遊んだ車両もレールも車庫やプラットホームなども1972年に中学に入った頃に親戚の子に全てプレゼントしてしまい既に手元になく、現在は基本収集対象外ながらも気になったものだけを時たま入手しています。今回、戦前の絵本ということでオマケになるものを探したところ、残念ながら戦前の蒸機等の鉄道模型が手元に1両もなくこれだけが出てきました(汗)。
プラレール(1)

プラレール(2)

プラレール(3)

プラレール(4)



★オマケ(その2): トミカリミテッドヴィンテージ 1/64スケール 1966年プレジデント警視庁パトカー&日本交通ハイヤー
全長8cm。定価:税抜3000円(1台)。2016年9月発売。ノーマルの黒と茶が出たばかりのH150プレジデントにパトカーとハイヤーのバリエーションが追加された。品番はパトカーがLV-159a、ハイヤーがLV-160a。トミカリミテッドヴィンテージもネオは時代的に基本私の芸風の範囲外のため買わず、しかし、60年代以前車の製品もあまりに種類が増えて有難味が薄れた感と本物のビンテージミニカーの流通価格と比較した場合の割高感もあって最近はコンプリートには買わなくなってきています。そんな中でプレジデントは外せない気持ちがあり一通り入手しています。しかし、まだまだバリエーションが出るとなったら少々入手を迷いそうです。
プレジ(1)

プレジ(2)

プレジ(3)

既発売の4種 (手前からパトカー、ハイヤー、ノーマル茶、ノーマル黒)
プレジ(4)



★オマケ(その3): 1930年代 満鉄・特急あじあ號 動画
当時の内地(日本国内)の鉄道に比べて桁違いに豪華だった様子が判ります。ジョイント通過音が何ともそそります。ロシア系白人のお姉さんが給仕している姿も映っています。タイムマシーンが出来たなら、これはかなり乗ってみたい列車ですよね(>_<)



★1974年 米レベル社 プラモデル・ホットロッド・こち亀 ~ 玩具・模型カタログ棚から 028

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9月も中旬になりましたね。暑さ寒さも彼岸までとも言いますが、今日の東京は蒸し蒸しして気温も30度前後ありエアコンなしでは過ごせない暑さです。今日から3連休という方も多いことと思います。来週は火・水・金の平日3日休んで9連休だという知合いもいますが、この連休の行楽地などは混みそうですよね。

こち亀が今日2016年9月17日(土)発売の週刊少年ジャンプ2016年42号で最終回となり、同時にコミックス200巻も発売されました(最終話はジャンプとコミックスではオチが異なります)。日本橋高島屋では「こち亀」のイベントも開催されていますが連休は混みそうですね。「こち亀」は本当に長年愛読してきただけに、連載終了はかなり残念です。作者の秋本 治さんが常に手を抜かずに物事(ネタ)を丁寧に調べ上げて、正確な絵を描き続けられてきたこと、ネタも途切れることなく続いたことは凄いです。特に昭和30年代が舞台の両さん子供時代セピア色・想い出シリーズなどでは涙なくして読めない話も多かったこと、床屋で寝ているうちに切られた髪が誰もがあっと驚く髪型になっているのに気付かず街を颯爽と歩く話など通勤電車の中で読んでいて「ぷっ」と思わず吹き出してしまったことは数知れず。1976年(当時、私は高2)から40年間楽しませてくれた「こち亀」、そして作者の秋本さんには「ありがとう」の言葉しかありません。


閑話休題
両さんがプラモ好きだったからという訳でもないのですが、今回は、「玩具・模型カタログ棚から」シリーズ第28回記事として1974年の米レベル社のプラモデル日本語版カタログをご紹介します。



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★一口にプラモデル(=プラスチックモデル:Plastic Model)が好きと言っても、飛行機のキットが好きな人、船舶のキットが好きな人、戦車のキットが好きな人、自動車のキットが好きな人、オートバイのキットが好きな人、鉄道車輛のキットが好きな人、ガンプラが好きな人、ビッグワンガムのオマケのようなスナップキットが好きな人、模型単体以上にジオラマ造りが好きな人など様々です。
更に、例えば、飛行機でも第二次世界大戦中の日本の戦闘機のキットが好きな人、自動車でもF-1のキットが好きな人などと様々に細かく好みは分かれそうです。
また、プラモ本来の作ることが第一の目的でプラモを買うモデラーと箱絵やインストを眺めたりして悦に入り作ることよりも集めることが楽しみであるコレクター、あるいは両方の中間派といった分類もできるでしょう。コレクターは絶版キットの値を引き上げているとして純粋なモデラーからは目の敵にされるといったケースもあるようです。私自身は1970年代以降あたりのプラモは作ってしまってもあまり惜しくはないのですが、1960年代以前の未組立キットで再販されていないような貴重品となるとさすがに作ってしまうのは惜しく、ランナーにパーツが付いたままの未組立よりむしろ「作りかけ」位のキットを入手する方が完成した姿も楽しめて嬉しいと思うこともあります。


★プラモデルの歴史
世界初のプラモデルは、1936年(昭和11年)に英国IMA社((International Model Aircraft Ltd.)が発売した1/72スケール飛行機機のフロッグ・ペンギンシリーズだそうなので、今年2016年はプラモが誕生して80周年ということになる。
アメリカでは終戦後にホーク、レンウォール等のメーカーがプラモデルの製造を始め、程なくして1950年代初頭にはレベル、モノグラム、オーロラ、リンドバーグといったメーカーが製造を始めたという。ここ日本では1956年(昭和31年)あたりから、新橋のステーションホビーで少量かつ高価ながらも外国製プラモデルの輸入販売が始められたとされる。
日本製のプラモデル第一号は1958年(昭和33年)12月のクリスマスシーズンにマルサン商店が発売したレベル製品をコピーした1/300原子力潜水艦ノーチラス号と言われるが、マルサンは1/25ダットサン1000(210型)、レベルコピーの1/100哨戒水雷艇PT212、オーロラコピーの1/200ボーイングB-47ストラトジェットを殆ど同時期に市販に移した。マルサンのプラモデルは提携番組のテレビCMもありヒット商品となり、マルサンのプラモ発売から1年程遅れて1960年代に入る頃には、木製ソリッド模型を製造販売していた三和模型、青島文化教材社、山田模型、今井科学といったメーカーが相次いでプラモデルの生産を開始した。

★個人的に思い入れのあるプラモデル
1966年(昭和41年)、小学校に上がった頃に発売されたマルサンのウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセンブンあたりの怪獣やメカのキットや今井科学のサンダーバードシリーズやマッハ号や怪奇大作戦トータス号あたりのキットが一番思い出深いのですが、1960年代のキャラプラモは懐かしい人が多く人気があること、大勢の子供に愛され日本中津々浦々で売れたキットであっても、生産・販売された数の99.9%は子供の手に渡って消滅していることから、例え未組立品でなくとも需要と供給のバランスから7桁超えといった高額なプレミアが付いてしまいがちでオイソレとは手が出ないのが現状です。


★日本におけるレベル製品
1950年代初頭に生産・販売を開始したレベル社の製品が日本に入った最初は恐らく進駐軍関係からであっただろう。その後、新橋のステーションホビーなどで細々と売られ、1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)にかけてはマルサン商店が輸入し、マルサン・ラベール提携品として日本独自のパッケージで販売していた。マルサン・ラベール提携品のインストはアメリカから輸入したままの英語のインストが封入され、箱もマルサンのロゴマークと「マルサン・ラベール提携品」の文字に国内定価の印字が入る以外はアメリカ版に準じていた。やがてマルサンの手を離れ、1964年(昭和39年)から1977年(昭和52年)までの14年間は郡是産業=グンゼ産業レベル部が輸入元となり国内販売を行った。グンゼ版ではインスト、パーケージに日本語表記がされた上、価格的にはマルサン時代に高額であったものが大幅に引き下げられ国産キットと価格面でも互角に戦えるものとなった。このグンゼ時代にレベルのキットは国内に広く普及した。またグンゼ時代にはプラモデル専用塗料を独自開発し、レベルカラーの名称で親しまれた。
1977年(昭和52年)途中からは郡是産業の手を離れタカラ(現:タカラトミー)が輸入元となった。一方、本家アメリカでは1986年(昭和61年)にレベルがモノグラムと同一企業となり、21世紀に入り日本では元々モノグラムの輸入を行なっていた1941年(昭和16年)創業の老舗模型メーカー・ハセガワ(旧:長谷川製作所)がレベル製品の国内販売も担うようになった。

今回ご紹介するカタログはレベル製品をグンゼ産業が輸入していた時代の1974年の日本語版カタログで、恐らく発行は1973年(昭和48年)の秋あたり。私が中2の頃のカタログで当時入手した現物のためカタログの存在自体が私にとってはひどく懐かしいモノとなってきています。カタログを見ているとプラスチックの手触りやタイヤのゴムの独特の匂いまでが蘇ってきます。



●レベル モデルキット カタログ1974年 日本語版 1974 Revell Plastic Model catalog Japanese Edition (A4判・日本語44頁)
発行:グンゼ産業㈱レベル部(東京都千代田区神田錦町3-17)。カタログNo.C-9741。当時定価:200円。デザイン・撮影:㈱ハイデザイン。印刷:光村原色版印刷所。頁数もたっぷりの日本でレベルのプラモが売れていた時代のカタログで写真もアメリカ版の使い回しでなく日本で独自に完成品を撮影したものがメインとなっている。各キットの品番は記載されているが、価格の変動を考慮してか国内定価は記載されていない。このカタログではレベルがプラモデル製造のパイオニアであると謳われている。表紙は、1/16スケールのドラッグスター・トニーナンシー「ザ・ロゥナー」(Tony Nancy THE LONER)。自動車、飛行機、船、帆船、オートバイ、塗料等の順に掲載。巻頭は6頁までがド派手なドラッグスター/ホットロッドに頁が割かれている。自動車の頁を中心に抜粋して掲載することとしたい。
(1)表紙

表紙と裏表紙で1枚の写真
(2)表裏続き

裏表紙
(3)裏表紙

扉頁: プラスチックモデルはレベル
(4)扉プラスチックモデルはレベル

【レベルはプラスチックモデルのパイオニアです】
レベル社は、今から20数年前の1950年代初めに、それまでの木や金属製の模型に代わって全く画期的なプラスチックモデルを世界で最初につくったパイオニアです。そして、今までに2億5500万個を超える飛行機や船、帆船、自動車などのプラスチック製の精密スケールモデルキットを世界中の模型ファンに楽しんでいただきました。現在のレベルは、260種以上のキットをアメリカのカリフォルニアにあるレベル本社を始め、イギリス、ドイツ、日本等の8ヵ国において製造し、世界の80ヵ国以上の国々で販売しているプラスチックモデルのトップメーカーです。
また、日本に最初にプラスチックモデルが入ってきたのは1958年のことで、やはりレベル製品でした。そして1963年からは、日本でのレベル製品の販売をグンゼ系列の総合商社 グンゼ産業株式会社のレベル部がおこなっております。最近では、レベルキットの輸入販売だけでなく、日本で製造もしております。特に当社では日本の有名機の開発を分担し、国内はもとより外国のレベルファンの皆さんにも日本機の素晴らしさを味わっていただいております。ますます充実し発展するレベルにご期待ください。

(5)概説


・品番H-1480 1/16ドラッグスター・トニーナンシー「ザ・ロゥナー」(Tony Nancy THE LONER) 完成時全長40cm
・品番H-1483 1/16ドラッグスター「カリフォルニア チャージャー」(CALIFORNIA CHARGER)  完成時全長42cm
・品番H-1484 1/16ドラッグスター・ジェブ アレン「プレーイング マンティス」(Job Allen’s PRAYING NANTIS) 
(6)16分の1ドラグ


【これがホット ロッドだ!!】 ~レベル・ホット ロッド・シリーズ
「HOT ROD」(ホット ロッド)とは、その名の示すとおり、ボディのコネクティング・ロッドが熱くなる程エンジン出力を上げることから、この名がつきました。また、市販の車に大馬力エンジンを換装した車を総称して「HOT ROD」と呼んでいます。この「HOT ROD」で行う直線1/4マイル(約402m)の発信加速を競うレースを「DRAG RACE」(ドラッグ レース)、「HOT ROD RACING」と云い、アメリカで最もポピュラーなモータースポーツです。このレースの歴史は古く、1948年にカリフォルニアで初めて行われて以来、あっという間に全米に拡がりました。と言うのも、直線1/4マイルを2台の車が単純に突っ走るだけの勝ち抜きトーナメント・レースではありますが、あっと言わせるカラフルなボディ、耳をつんざく爆音とタイヤから発するモウモウたる白煙のスタート、6秒そこそこの猛烈なスピード、パッと開く大きなブレーキ用パラシュートなど全て、危険と紙一重の華やかなマシーンの極限がアメリカ人の求めていたものだったからです。
現在、アメリカではNHRA((National Hot Rod Association)の組織の元でメインレースだけでも1年に200以上ものレースが行われています。「HOT ROD」マシーンは、大きく「グルプ1」(プロフェッショナル)と「グループ2」(スポーツレーシング)に分かれ、「グループ1」のトップフューエルは「ドラッグスター」(DRAGSTER)と呼ばれ、鋭く細長い車体に1500馬力以上のエンジンを載せ馬鹿でかいリヤタイヤが特徴の怪物マシーンです。
「グループ1」の「ファニーカー」は、市販車に近いFRPボディを載せたカラフルなマシーンです。ファニーカーの性能はドラッグスターに負けず劣らずで何れも燃料は「ニトロメタン」や「アルコール+ニトロメタン」を使うという物凄さです。このトップクラスのマシーンを始めとして、エンジン、車体、燃料などの違いから90以上のクラスに細かく分かれてアメリカのナショナルスポーツとして圧倒的な人気を博しています。日本でも1973年日本グランプリに於いてトニー・ナンシー氏の「ザ・ロゥナー」が特別出演して会場を興奮の渦に巻き込みました。
レベルでは、アメリカで最も人気の高いトップクラスのドラッグスター、ファニーカーとタイアップして、1/16のビッグスケールでモデル化しました。精密に再現したビッグパワー・エンジン、コクピット、ホイール、カラフルなボディペイントなど、これが「クルマ」かと思わせるほどの迫力です。しかも、ボディに描かれた各スポンサーのロゴマークや最高にキマッテいる塗装、どれをとってもヤングにピッタリです。さあ、感覚派、精密派を自負するモデラーの皆さん、NOWなレベル・ホットロッド・シリーズにアタックしましょう。

(7)これがホットロッド


●1/16FUNNY CAR(ファニーカー)
・品番H-1481 1/16ファニーカー「スノーマン」(Gene Snow’s REVELL SNOWMAN) 完成時全長31cm
・品番H-1482 1/16ファニーカー「レベリューション」(REVELLUTION)  完成時全長30.5cm
・品番H-1485 1/16ファニーカー「レベリーダー」(Mickey Thompson’s REVELLEADER) 
・品番H-1486 1/16ファニーカー「レベル ジャングルジム」(REVELL’s JUNGLE JIM)
(8)16ファニーカー


●1/25ファニーカー 8種
(9)25ファニーカー


●ヤングをうならすドラグ セダン 6種
(10)ドラグセダン


●1/8ビッグパワーの怪物マシーン カスタムバイク3種
(11)怪物マシーン3輪


●1/25世界の名スポーツカー 6種
・品番H-1317 ポルシェ914
・品番H-1400 レーシング ポルシェ911
・品番H-1401 ダットサン240Z
・品番H-1402 ピートブロック・BRE/ダットサン240Z
・品番H-1403 リッチーギンサー ポルシェ914
・品番H-1404 ピートブロック・BRE/ダットサン510
(12)スポーツカー



●1/25 笑いとユーモアをモデルにした超えてるコレクション「ディールスホイール」 全17種
アメリカのデーブ・ディールがデザインした愉快な愉快なズッコケシリーズ。
※ディフォルメ・モーター系カートゥーンの祖、Dave Deal(デイブ・ディール)作の一連のキット達で、その後、1980年代に登場したチョロQも影響下にある。ポルシェ911を抱えたデイブ・ディールのお馴染みのイラストも登場。

・品番1365 SUPER SPURT TM他・・・・・ディールスホイール・シリーズは商品名の末尾に全て「TM」が付き、C3コルベットがSTINK RAY等名称も全て一捻り。
(13)ディールその1

(14)ディールその2

(15)ディールその3



●1/32大空をゆく日本の名戦闘機 (飛燕・雷電・零戦・隼の4種)
(16)日本機


●1/32世界の傑作高速戦闘機 (メッサーシュミット、サンダーボルト等5種)
(17)メッサー他


●1/32世界の第一線で活躍するジェット・ファイター(完成時全長55.2cmのF-4Jファントム等3種)
(18)ファントム


●世界を結ぶ海の女王(完成時全長52.5cmのクイーンメリー等7種)
(19)海の女王


●1/8世界の名車コレクション「2輪」17種

レベルBIG1/8スケールオートバイシリーズは、内外の傑作車を集め、そのメカニズムを余すことなく組込み、メカのプロフェッショナルをも十分に堪能させる、ベストセラーシリーズです。キットは、クロームメッキのエンジン類、ゴムタイヤ、風防、ライト、アクセサリーなど精密なこと、この上ありません。金属の重量感溢れるBIGスケール、これがこのシリーズの魅力です。また、レベルクリヤーカラーでメタリック塗装をすれば仕上がりの迫力は抜群です。

(20)バイク1

・品番H-1224 ハーレーダビッドソン エレクトラグライド 全長28cm
バイク(3)ハーレーノーマル

・品番H-1227 ハーレーダビッドソン エレクトラグライド ハイウェイパトロール 全長28cm
バイク(4)ハーレーハイウェイパト


・品番H-1237 ハーレー チョップド ホッグ 全長33cm
・品番H-1220 ヤマハ350スクランブラー 全長25.4cm
・品番H-1232 トライアンフ ドラグ 全長24.1cm
・品番H-1550 ハーレーダビッドソン #1ドラグ 全長30.4cm
・品番H-1225 ヤマハ グランプリ350 全長24.1cm
・品番H-1223 ホンダドリームCB-72スーパースポーツ250 全長24.1cm
・品番H-1240 L.A.ストリート チョッパー 全長41cm
・品番H-1226 ヤマハ モトクロッサー 全長25.4cm
・品番H-1234 ホンダCB72カスタムレーサー 全長24.1cm
・品番H-1228 カワサキ マッハⅢ 全長25.4cm
・品番H-1230 トライアンフ タイガー100 ショーバイク 全長21.1cm
・品番H-1235 ホンダCL72カスタム スクランブラー 全長24.1cm
・品番H-1275 カワサキ マッハⅢ ドラグバイク 全長25.4cm
・品番H-1231 トライアンフ タイガー100 全長24.1cm
・品番H-1236 ホンダCB72カスタム ドラグレーサー 全長28cm
(21)バイク2

ヤマハ2種
バイク(5)ヤマハ

カワサキ2種
バイク(6)カワサキ

ホンダ4種
バイク(7)ホンダその1

バイク(8)ホンダその2


●レベルカラー、セメント、薄め液、筆セット、塗料皿等
※1970年代、プラモ用塗料としてはパクトラタミヤよりもレベルカラーの方が国内のシェアは高かったようだ。塗料皿はよく使ったので懐かしい。
(22)レベルカラー他





★オマケ(その1): レベル社コピー復刻品 ジョン・レノン プラモデル
1964年米国レベル発売。品番H-1352。日本未輸入?米国レベルで絶版になった後の1970年代にブラジルレベルでも生産されたようだ。画像の手元にあるモノはオリジナルではなく1985年のコピー品。復刻はBox artの印刷がボヤけているのと状態が異様に良いのが特徴。復刻が出てからでも既に30年を経ている上、元々バラ売りだったためビートルズの4人を揃えるのは至難。箱絵は似ていないがプラモデルのジョンの顔は割合似ている気がする。
ジョンレノン



★オマケ(その2): 米レベル社 1/25スケール ポルシェ356Aカレラ・スピードスター
1960年米国レベル発売。品番H-1238:139。インストには1498cc110hp・200km/h(125mph)のスペックや1930年代からのポルシェ博士の業績などが記載されている。同時代に日本の三和模型(サンワ)も356スピードスターのキットを出しているが、レベル製の方が桁違いに精密。
ノーマル356カレラ



★オマケ(その3): 米レベル社 1/25スケール ポルシェ356Aスピードスター・レーシング モーターライズ版
1961年米国レベル発売。品番H-1247:249。オマケ2のレーシング・バージョン。
米レーシング



★オマケ(その4): マルサン/レベル 1/25スケール ポルシェ356Aスピードスター・レーシング 
品番H-1246:149。当時国内定価:720円。マルサンが1960年代前半に国内販売したのはオマケ3のモーター動力なしバージョン。インストは英文のまま。品番が1つ若いので米本国でもこれがモーターライズよりも先に発売されたものと思われる。国産1/24プラモは200円~250円位が主流の時代であり、当時定価720円は相当に高価だったと言える。
マルサン(1)

マルサンのロゴマーク入り
マルサン(2)ロゴ



★オマケ(その5): グンゼ/レベル 1/8スケール ホンダドリームCB-72スーパースポーツ 250cc
品番H-1233。当時定価1450円(=初版。以後、順次値下げ)。1966年初夏発売。米レベルのCP77スーパーホーク350ccモデルを日本国内向けに1965年型CB72に修整して販売された。米国仕様キットをベースとしたため、ウインカーとバックミラーのパーツが付かないものの実車を精密かつ的確に再現した名作。箱の大きさ:横34×縦24cm。
ドリーム(1)

グンゼ日本語箱
ドリーム(2)

●参考資料: グンゼ/レベル1/8ホンダドリームCB-72の新製品記事の掲載された月刊紙「プラホビー」1966年8月20日号
ドリーム(3)



★オマケ(その6): グンゼ/レベル 1/8スケール ハーレーダビッドソン エレクトラグライド
品番H-1224。当時定価1300円。パーツがギッシリ詰まったズッシリと重いキット。タミヤの1/6ハーレーやCB750の2500円の約半額という国内定価は割安感があった。箱の大きさ:横37.5×縦23.5cm。
ハーレー(1)

グンゼ日本語箱
ハーレー(2)



★オマケ(その7): グンゼ/レベル 1/16スケール プレーイング・マンティス ジェブ・アレン人形付
品番H-1484。当時定価2200円。1/16スケールで全長40cmということは、本物は全長6m40cmということになる。箱の大きさ:横46×縦22cm(手前のトミカ128番ドラッグカーは横16cm)。人形のモデルであるジェブ・アレン(JEB ALLEN)氏は1972年に弱冠17歳にしてトップフューエル「ドラッグスター」のチャンピオンとなったが、1980年代初頭には引退し現在は住宅建築関連業を営んでいるようだ。
ジェブアレン(1)

グンゼ日本語箱
ジェブアレン(2)

●参考資料: 月刊誌「ドラッグレーシングUSA 1972年7月号」
表紙は全米ドラッグスター・チャンピオンとなったジェブ・アレンと彼のマシーン。
雑誌



★オマケ(その8): 集英社「週刊少年ジャンプ2016年42号」&こち亀200巻
何れも2016年9月17日発売。ジャンプは今日のお昼に近くの本屋さんに行ったら完売しましたと言われて、ローソンで購入。200巻はキャラクターブック付の特装版(税抜900円)と通常版(税抜700円)の2種あり、200円の差なら特装版の方がお得。但し特装版は「200巻ありがとう」の帯が付かない。
こち亀



★オマケ(その9): 『そんな時』 1974 作詞/作曲: 財津和夫 
今回のレベルのカタログと同時代の1曲。1974年4月発売 チューリップの3rdアルバム「TAKE OFF(離陸)」に収録された隠れた名曲。私は高校時代の文化祭でギター1本で弾き語りしたことがありました(何とカセットテープの録音が今も残っており、デジタル化した奴を何れYoutubeにアップしようw)。



Ⅰ)木の葉は 風に身を任せ
青い空が 眩しかった
思いがけず 君と出会い
思いがけず 恋に落ちたら
過ぎた日は 過ぎた日さ
振り返る気は ないけれど
風が吹く そんな時
ふと思い出す 君の涙


Ⅱ)君はもう 見つけただろう
口癖だった 愛の暮らし
僕はずっと ずっと同じ
雲のように ただ浮かんでいる
幸せは 幸せさ
ほんのささやかなものだって
汽車を待つ そんな時
ふと思い出す 君の微笑み


★1976年タイレルP34フォード6輪 世を驚愕させたF-1マシン(Tyrrell P34)

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暑さ寒さも彼岸までの言葉通りに、このところの雨ですっかり東京も涼しくなっています。今年は何だか例年になく台風の上陸が多かった気がしますが、ワタシは気象には全く疎いので気のせいなのかもしれません?しかし、まだ9月ですから、天気予報ではこの先まだ30度近い最高気温の日が来ることもあるようです。
実はこのブログを始めてから来月で何と丸5年となるのですが、特にワタシのような悲惨な独り者の場合にはブログをアップしていて何より楽しみとなるのは、言うまでもなく人様から戴くコメントでしょう。芸能人・有名人であれば返信が不可能な程にコメントが入っても何の不思議もありませんが、一般人のブログでは人様からコメントが入って初めて記事の内容に共感してもらえたことなどを確認することも出来ます(アメブロでは「ペタ」や「いいね」もありますが、どちらかというと機械的にされているケースの方が多いでしょう)。謂わばブログはコメントが入ってナンボのものと言えるのではないでしょうか。尤もコメントが沢山入り過ぎて対応できない等の事情からコメントを受け入れない設定としているという方も比較的多くおられますが、ワタシからみればコメントが全く入らないブログは基本的には独り言になってしまいます。

そのコメントも5年近くブログを書いていても相変わらず数える程の人からしか戴けず、むしろ数年前より明らかに気軽にコメントを下さる方の人数は減ってきています(大汗)。
それは、ワタシが他の方にコメントをすればワタシに戴けるコメントも増えるというものでは決してなく、所謂ギブ&テイクではなくてコメントをしてもワタシにはコメントは殆どして下さらないという方も大勢おられて、それは取りも直さずワタシが嫌われ疎んじられていることの証左とも言えましょう(大汗)
それは一言で言えば、このブログが思わず気軽にコメントをしたくなるような人間的な魅力には決定的に欠けているためともいえるでしょう。また、ワタシのキャラは何かしら見えない壁のようなもの、何かしら敷居の高さを感じさせているのでは?とふと思ったりもします。ワタシにしてみれば、「今日は何だか涼しいね~!」とか「F1には興味ないから今回の記事は全然面白くなかったよ~」とか「今回の記事のタイレル6輪知ってる!ちょっと懐かしいと思ったよ~!」とか「6輪のF1なんて知らなかった!何だかオバケみたいだね~!」とか、例え一言だけであってもコメントを戴くと嬉しいものですが、それは、ワタシのように「同級生は孫もいる人もチラホラいるこの歳になってまだ愛妻弁当の夢も叶わず売れ残っている優しいだけが取り柄の世にも稀な超難物の独り者」という絵に描いたように悲惨な人生を送っている状況のままでは叶わぬ夢というものなのかもしれません(爆汗)


閑話休題
今日はこれからスタリハもあるので(実はこんなワタシでもバンドでギターを弾いたり歌ったりしている時は案外幸せを感じることもあるのです)、ウィキ君超多用で1976年(昭和51年)登場のF1カー「タイレル(ティレル)P34フォード6輪」の記事をサクッとアップしますね。実はワタシは中2でビートルズにハマる以前の夢はレーシングドライバーになることでした。スティーブ・マックイーンの映画「栄光のル・マン」などの影響も多分にあった気がします。ワタシが小6だった1971年(昭和46年)、その頃から月2回発行となった三栄書房の雑誌「オートスポーツ」(autosport)を欠かさず読んでいた程のモータースポーツ・ファンだったのです☆☆
 




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ティレル (タイレル:Tyrrell Racing Organization Ltd.)は、かつてF1に参戦していたイギリスを本拠地とするコンストラクターである。
ティレルは戦後、材木商を営む傍ら1951年(昭和26年)にレーシングドライバーとしてデビューした「ケン・ティレル」(Robert Kenneth "Ken" Tyrrell、1924年5月3日~2001年8月25日)が、1959年(昭和34年)にジュニア・フォーミュラチーム・ティレル(Tyrell Racing Organization Ltd.)を設立したことに始まる。1970年代までの日本ではタイレルと表記することが一般的で1976年の日本グランプリに出場した6輪マシンには「たいれる」と平仮名が書かれてもいたので、日本国内では今尚ティレルとは言わずタイレルと言う向きも多い。
タイレルはジャッキー・スチュワート(Sir John Young "Jackie" Stewart, OBE 1939年6月11日~;英スコットランド出身)により2度のタイトルを獲得し、F-1界の名門チームとして世界中に名を轟かせた。 若手ドライバーが所属するケースも多く、ジョディー・シェクター(Jody David Scheckter, 1950年1月29日~;南アフリカ出身)、ミケーレ・アルボレート(Michele Alboreto, 1956年12月23日~2001年4月25日;伊ミラノ出身)、ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日~;仏アヴィニョン出身)等錚々たるドライバーが初期のF1キャリアをタイレルで過ごした。 また、中嶋悟(1953年2月23日~;愛知県岡崎市出身)、片山右京(1963年5月29日~;神奈川県相模原市出身)、高木虎之介(1974年2月12日~;静岡市出身)といった日本人ドライバーが在籍するなど、タイレルは日本とは縁の深いチームでもあった。


★タイレルと言うと、個人的には1971年(昭和46年)にジャッキー・スチュワートが11戦中6勝を挙げてワールド・チャンピオンとなった年のマシン「タイレル・フォード003」が、タミヤの1/12スケールのプラモデルが発売されてすぐに作ったという思い出もあって最も懐かしいのだが、それは何れまたの機会にご紹介することとして、今回は2016年でデビュー40周年となる、1976年(昭和51年)第4戦のスペインGPで実戦デビューしたタイレルP34フォード6輪をご紹介することとしたい。


★6輪タイレルP34の開発の経緯
ティレル(タイレル)P34(Tyrrell P34)は、ティレルが開発し1976年と1977年の2年間のみF1世界選手権参戦に使用した世にも珍しい6輪のフォーミュラ1カーである。
P34はF1チーム・ティレル(タイレル)の創設時の最初のマシン001からワールドチャンピオンとなった1971年の003等の数々の名マシンを生み出した天才的な英国人技術者デレック・ガードナー(Derek Gardner;1931年9月19日-2011年1月7日)が設計した。1976年の第4戦から、1977年の最終戦まで実戦投入された。
ティレル(タイレル)の6輪は、日本ではエリック・クラプトンが初来日し武道館で1958年製エクスプローラーでの伝説のほろ酔いライヴを行なった年、あの1974年(昭和49年)の夏(8月頃)に開発プロジェクトが始動し、翌1975年(昭和50年)8月1日に設計図面が完成、同月中旬から3週間をかけてプロトタイプが製作され、翌9月22日にプレス(報道関係者)向けに発表された。デザイナーであるデレック・ガードナーは、空気抵抗の減少を狙い、フロントに小径タイヤを履き、それをスポーツカーノーズの陰に収めるレイアウトを考案。タイヤ接地面積の減少は、フロントタイヤを4輪に増やすことで補った。この奇抜なアイデアにはチーム・オーナーであるケン・ティレルも当惑し、シャーシ名をそれまでの連番となる「00×」ではなく全くの別プロジェクト名「P34」としてとりあえず開発にゴーサインを出したのであった。
ロンドン・ヒースロー空港ホテルでのP34のプレス発表時には、事前に内容が明らかにされていなかったため、タイレルへの仏ルノーのエンジン供給の発表ではないか、との噂などが報道関係者の間で囁かれていた。会場に用意されたマシンを隠すシートがリア側から徐々に剥がされ、エンジンが見慣れたDFVであることがわかると会場はため息に包まれたが、フロントの4輪が見えると、人々は息を呑んだ。会場は一転してシーンと静まりかえり、そのあまりに奇抜なスタイルに完全なるジョークと勘違いしたある一人の記者が「ワッハッハッハッハ~なんじゃこりゃ~人を笑わせたいのか?ワッハッハッハッハッハ~」と大声で笑い出したのをきっかけに、発表会の終了まで会場は大きなどよめきに包まれたままであったという。
P34の開発ドライバーは、主にフランスのパトリック・デパイユ(Patrick André Eugène Joseph Depailler;1944年8月9日 - 1980年8月1日)が勤めた。最終的には後輪が通常の径のままのため、当初期待された前影投影面積の低減は殆ど得られなかったが、運転してみると6輪のためにブレーキ性能が明らかに向上し、コーナーの奥深くでブレーキングできるというメリットはドライバーにとっては大きかったと言われる。


★6輪タイレルP34 1976年(昭和51年)の戦績
P34のデビューは第4戦のスペイン・グランプリであった。プロトタイプP34を実戦投入のため燃料タンクの拡大を含めたモノコックの刷新とカウリングの変更、新レギュレーションに対応したインダクションポッドの小型化、フロントタイヤのコンディションを確認するためのサイドミラー下の横長楕円形の小窓設置や、シフトノブの当たりを逃がすカウルのふくらみの追加等を行い、P34/2として1台のみデパイユのドライブで登場。次の第5戦ベルギーGPからシェクターもドライブし、第6戦モナコでは2・3位、続くスウェーデンGPにおいてデビュー4戦目にしてワンツーフィニッシュで何と優勝。このシーズンにチームはコンストラクターズ3位を獲得した。最終戦の富士スピードウェイで行われた伝説の日本グランプリでは、雨の中デパイユが一時トップを走行し最終的には2位でフィニッシュした。


★6輪タイレルP34  1977年(昭和52年)の戦績
ティレル(タイレル)チームはシーズンオフ中にエンジンまで覆うフルカウルを開発し、テスト並びにシーズン序盤の予選時には好成績を収めていたが、あくまで前年のモノコックの流用であること、フルカウルによる重量増加などにより次第に成績が低迷。また、グッドイヤーが新たにF1界に参入してきたミシュランとの競争に力を入れるため、タイレル用の特注の小径タイヤの開発に難色を示し、開発規模を縮小した。フロントタイヤが小径のためコンパウンドを通常より硬くしなければならないが、硬すぎると温まりにくくなるというようにP34のフロントタイヤの開発には通常のマシン以上にタイヤメーカーとの連携が不可欠でもあった。よって開発の進むリアタイヤと開発されないフロントタイヤとのグリップバランスに非常に苦しんだ。第5戦スペインGPでは前年型のカウルを装着したP34が持ち込まれたがあまり状況は改善されなかった。この頃、デザイナーのガードナーのティレルからの離脱が発表されるなど、チーム体制の不安定な状況も手伝ってチームのモチベーションも著しく低下していた。第9戦フランスGPからは、前輪のグリップを改善させるために前輪をワイドトレッド化、更にデパイユの車ではオイルクーラーをリヤからフロントノーズ先端に移動しフロント加重の増加によるハンドリングの改善を狙ったマシンを投入(ピーターソン車は第12戦オーストリアGPより同様の措置が採られた)。フロントタイヤをノーズの外側に広げたことで開発当初の空気抵抗の減少という利点を減少させ、オイルクーラーの移動や度重なる改造による車重の増加がマシンの俊敏性を損ねてしまっていた。シーズン後半は成績も多少好転したものの1977年の終了とともにP34は実戦から離脱することとなった。6輪タイレルは僅か2シーズン弱という短命に終わった。しかし、その個性的なスタイルから世の中に与えたインパクトは大きく、当時からミニカー等の関連グッズも大量に作られ、40年を経た現在でもファンの多いマシンの1台となっている。



●三栄書房「オートスポーツ」1976年7月1日号 表紙
タイレルP34がスペインGPにデビューした時の号。A4判。当時定価300円。この本を買った時の私は高2の1学期で16歳だったが、つい昨日のことのようでもある。ジャンプでこち亀の連載が始まったのも丁度この頃だった。当時、自動車雑誌はカーグラ、ドライバー、オートスポーツあたりを割合読んでいた。同時並行で鉄道ファンや鉄道模型趣味(TMS)、とれいんといった鉄道関係の雑誌やミュージックライフや音楽専科といった音楽関係の雑誌も読み耽るという変な高校生だった。そして、そのまま大人になって今があるという感じ(大汗)
オートスポーツ



●ジョー・ホンダ写真集 No.06 「 タイレル P34 1976 」
モデルファクトリーヒロ(MFH)、2011年6月21日発売。1976年のP34の179点の写真を収載した豪華写真集。A4変形判。80頁。定価税抜3143円。1939年(昭和14年)12月8日生まれのモータースポーツ・カメラマン「ジョー・ホンダ」(本名:定塚信行氏)の写真をモデルファクトリー ヒロの代表・廣 美佐男氏の情熱により書籍化したシリーズの第6弾。編集はネコ・パブリッシング「モデル・カーズ」編集部に在籍していた山田剛久氏。ディテール写真も多くモデラー向けの資料としても使える。表紙は日本グランプリのデパイユのドライブで2位となったP34でドライバー下に「たいれる」の文字が見える。
ジョーホンダ



●1976年10月 24日 悪天候の日本グランプリを中心としたタイレル P34画像集
日本グランプリ

(1)写真雨4番

(2)雨3番

(3)雨3番

(4)サイド

ピットイン
(5)ピットイン

ピットアウト
(6)ピットアウト

(7)前輪

(8)前輪

(9)サイドビュー





★オマケ(その1): トミカF32-1番 1/52スケール1976年タイレルP34フォード
全長7.7cm。ダイキャスト製。1977年10月発売。当時定価240円。ギフト専用を含めバリエーションは多数。6輪タイレルはミニチャンプス、トゥルースケール、京商の1/64等、現行品や近年の出来の良いミニカーも多数出ていますが、ここでは実車と同時代の空気を吸っている当時モノに絞ってご紹介することとします。
トミカ(1)

トミカ(2)

トミカ(3)



★オマケ(その2): 「そんな本日のホットウィール」1/50スケール程度 LICKETY SIX
全長7cm。ダイキャスト製。裏板に「MATEL INC.1977 HONG KONG」の刻印があることから、TYRRELLの刻印はないものの時代的に明らかにタイレル6輪にインスパイアされたモデル。傷有ながらフリマで50円。
ホットウィール(1)

ホットウィール(2)

裏板の刻印
ホットウィール(3)



★オマケ(その3): 永大グリップテクニカ10番 1/20スケール 1976年タイレルP34フォード
全長20.5cm。ダイキャスト製。1977年発売。当時定価1600円。日本製P34の傑作モデル。
永大(1)

永大(2)



★オマケ(その4): メーカー不明 1/22スケール程度 1976年タイレルP34/2フォード
全長19cm。プラスチック製。当時定価:不明。製造国:香港。フリクション駆動。この手のプラトイはまるで人気がないのか、リサ店で100円均一コーナーに転がっていることがあります。
プラ(1)

プラ(2)



★オマケ(その5): ニッコー 1/16スケール 1976年タイレルP34フォード
全長27cm。プラスチック製。当時定価:不明。前2輪がステアするちょっと感動的なラジコン。6輪タイレルファンなら見逃せないアイテムながら、この手の70年代あたりのプラ製ラジコンもまるで人気がないらしく、リサ店では当時定価よりも明らかに安い500円~1000円以下で売られていることが多いようです。
ラジコン(1)

ラジコン(2)

ラジコン(3)


●オマケ1~5の並び
ラジコン(4)1~5並び



★オマケ(その6): 1976年10月24日 F1 第16戦 日本グランプリ (毎日ニュース)
日本で初めて行われた富士スピードウェイでのF1サーカス。1:45位で傘をさして走行する6輪タイレルが登場。駐車場に集まった70年代の日本車達にも注目。

★1958年マーキュリー 米澤玩具・東京駅構内タクシーこち亀展 ~ 自動車カタログ棚から 327

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さて、雨に祟られたシルバーウィークも今日でお仕舞い。シルバーウィークは雨が多くて涼しくて良かったという向きもおられると思いますが、悪天候のために予定していたハイキング(←死語?)や山登りなどが出来なかったという向きもおられるかもしれません。一般には明日からまたいつもの忙しい日々がやって来ますから、休みで緩んだ気持ちを切り替えてガンバリンコしないとダメですよね☆
ワタシはこの休みに日本橋高島屋での「こち亀展」と9月22日から上映が始まったビートルズのワールドツアーの日々を追った映画「EIGHT DAYS A WEEK」( エイト・デイズ・ア・ウィーク)の2つを当初の予定通りに観ることが出来たので、まあまあ良いシルバーウィークだったかなあ?という感じです(今回の記事のオマケに少し載せておきます)。


閑話休題
もう9月も残すところ1週間なのに振り返れば今月は、「玩具・模型カタログ棚から」と「乗物絵本棚から」の記事などで、「自動車カタログ棚から」の記事を1回もアップしていませんでした。実は今年2016年の初めに「自動車カタログ棚から」シリーズ第300回記事をポルシェ356B/Cでアップした時には今年は350回目まで頑張ろうとも思っていたのですが、ライブなど休日はブログ以外に時間を割くことが沢山あり、これからも月に1記事程度のペースとなる可能性も高いので年内に330回目位が限度かもしれません(汗)
という訳で今回は久々に「自動車カタログ棚から」シリーズの記事です。第327回記事として1950年代のアメ車、1958年のマーキュリーをピックアップします☆



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★1930年代初頭、ヘンリー・フォードの持ち駒は実用大衆車フォードと高級車リンカーンという両極端の2車種しかなかった。
これに対してGMは中級車という持ち駒をビュイック、ポンティアック、オールズモビルの3車種も持っていた。ヘンリー・フォードはその事実の本当の意味に気付かぬまま歳月を重ねていたが、フォード2世エドセルが成人して経営に参画するようになると、GMのラサールに対抗する車種としてリンカーン・ゼファーを出して成功したが、GMのビュイック40型が大ヒットするとフォードとしても中級車市場の存在を無視できなくなっていた。こうした状況の中、1938年(昭和13年)6月にフォード・デラックスとリンカーン・ゼファーとの中間クラスとしてエドセルが登場させたのが最初のマーキュリー(MERCURY)であった(一般発売は1938年11月)。デビュー当初のマーキュリーの販売は好調で1938年11月・12月の僅か2ヵ月で16,632台が生産され、1939年(昭和14年)の登録台数は65,884台を記録した。マーキュリーのボディタイプは4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアクーペ、2ドアコンバーチブルと当初から4種類もあり、更に1939年7月には4ドアコンバーチブルも追加された。戦前のマーキュリーは第二次世界大戦の影響で1941年10月3日~1942年2月10日までの約4ヵ月間のみ生産された1942年型が最終となった(1943~1945年型は存在しない)。マーキュリーの発売は日本での外車輸入禁止とタイミングがピタリ合ってしまったため、アメリカ本国ではかなりの台数が生産販売されたにも係わらず戦前の日本で見る機会は極めて稀であり、自動車史研究/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924年-2000年)の著作によれば、日本フォードの正規ルート以外で入った車両が1台存在したのみであったという。


★ヘンリー・フォード(Henry Ford:1863年7月30日-1947年4月7日)の一人息子エドセルは、フォード社の社長職を1918年(大正7年)12月にヘンリーから譲り受けたが最終決定権は依然としてヘンリーが持ち続けていた。
しかし、1943年(昭和18年)にエドセルは心労が原因の胃癌により50歳で逝ってしまう。既に80歳となっていたヘンリーがいったん社長に返り咲くがエドセルの妻が老ヘンリーの社長復帰には猛反対し、画策した末、エドセルの若い長男ヘンリーフォードⅡ世(1917 –1987)を社長職に就かせることに成功した。
戦後のフォードは、ヘンリーフォードⅡ世が中級車マーキュリーの生産を再開するに当り、高級車リンカーンとマーキュリーを同一部門とし、1945年(昭和20年)10月に「リンカーン・マーキュリー・ディヴィジョン」を立ち上げることから出発した。マーキュリーは、1946年~1948年型までは戦前型の化粧直しモデルとして発売され、1948年8月登場の1949年型よりフラッシュサイドの真の戦後型となった。1949年~1951年が戦後の第一世代、1952年~1954年が第二世代、1955年~1956年が第三世代、1957年~1959年が第四世代と1950年代までは凡そ3年周期でフルモデルチェンジを繰り返し、更に毎年マイナーチェンジもされた。今回ご紹介する1958年型はマーキュリーの戦後第四世代の中期モデルということになる。戦後のフルサイズ・アメリカ車がギラギラ輝くクロームメッキにテールフィンを生やした黄金時代の1台である。1958年のマーキュリーは現代のクルマが持つ装備は(オプションを含めれば)既に殆ど備えており、その巨大なボディとオーバーデコラティブな外観が醸し出すムードは好みが分かれるところでもあるが、一種異様な凄みさえ感じさせる。
その後のマーキュリーブランドは、マスタングベースの1967年登場のマーキュリー・クーガーがヒットするなどしたが、1970年代後半以降は販売不振に陥り、ブランド誕生から約73年を経た2011年1月4日の生産車をもってブランドの歴史に幕を下ろした。


★マーキュリー車名の由来: ローマ神話に登場する12人の最高神=ディー・コンセンテス(Dii Consentes)の1人、商人や旅人の守護神メルクリウス (Mercurius)の英語名がマーキュリー (Mercury)。


【主要スペック】 1958年マーキュリー パークレーン フェートンセダン  (1958 Mercury Park Lane Phaeton Sedan)
全長5593㎜・全幅2060㎜・ホイールベース3175㎜(125in)・車両重量1991kg・ボディタイプ:4ドアハードトップ・標準ボディカラー16色・FR・水冷V8/7046cc(460cubic inch)・最高出力360hp・最大トルク58.65kgf-m・変速機3速押しボタン式AT(Merc-O-Matic)・パワーステアリング/パワーウインド/4ウェイパワーシート/オートクルーズ/エアコン装備・乗車定員6名・最高速度201km/h(125mph)・0-402m:16.2秒・燃費4.3km/ℓ(平坦路)・米国内販売価格:調査中



●1958年 マーキュリー 総合カタログ (縦15.5×横22.8cm・英文32頁)
1957年9月発行。カタログNo.M58-104。判型が小さ目なフルライン本カタログ。イラストとカラー写真が併用されている。この年のマーキュリーは大別して上から360hp(オプションで400hpの高出力エンジンも選択可)のパークレーン(Park Lane)、330hpのモンテクリア(Montclairs)、312hpのモンテリー(Monterey)の3つのグレードがあり、ボディタイプは各々4ドアセダン、2ドアセダン、4ドアハードトップ(フェートンセダン)、2ドアハードトップ(フェートンクーペ)、2ドアコンバーチブルの5種が選択できた。更にボイジャー(Voyager)及びコミューター(Commuter)という2つのグレードの4ドアハードトップ及び2ドアハードトップのワゴン(!)が存在し、総計22種に及ぶワイドバリエーションであった。
前年1957年型では最上級グレードのターンパイクにのみ採用された4灯ヘッドライトが1958年型では全車に標準となり、前後の左右分割で大きな口を開けたバンパーグリルがデザイン上のポイントとなっている。機構的には変則レバーなしのキーボード(押しボタン)式変速機やオートクルーズ(巡航速度自動保持装置)、パワーシートといった装備が全車にオプションとなった。1958年型マーキュリーの生産台数は同年デビューの新型車エドセルの影響で前年より半減したが、それでも月産1万台を軽く超える13万3271台を記録した。
日本では僅か1500cc/55hpのクラウンデラックス(RSD)が庶民には高嶺の花であった時代であり、オールパワーアシストの300hpを軽く超えたこの時代のマーキュリーのようなアメリカ車は正に宇宙船のような夢の存在であったことだろう。
(1)表紙


【以下、中頁から】(抜粋)

上級グレード「パークレーン2ドアハードトップ」
(2)上2H

上級グレード「パークレーン4ドアハードトップ」(フェートンセダン)
(3)上4H

上級グレード「パークレーン2ドアコンバーチブル」
(4)上コンバチ

V8エンジン3種
(5)エンジン

押しボタン式変速機「Merc-O-Matic」
(6)押しボタン

リアシート
(7)リアシート

中級グレード「モンテクリア4ドアハードトップ」
(8)中4H

中級グレード「モンテクリア2ドアハードトップ」(ターンパイク・クルーザー)
(9)中2H

中級グレード「モンテクリア2ドアコンバーチブル」
(10)中コンバチ

下位グレード「モンテリー4ドアハードトップ」
(11)下4H

下位グレード「モンテリー4ドアセダン」「2ドアハードトップ」「2ドアコンバーチブル」「2ドアセダン」
(12)下4セダン他

4ドアハードトップ・ステーションワゴン
(13)ステーションワゴン

4ドアハードトップワゴン「ボイジャー」
(14)ボイジャー

2ドアハードトップワゴン「コミューター」
(15)コミューター

運転席
(16)運転席

裏面: スペック
(17)スペック





★オマケ(その1): 米澤玩具 1/19スケール 1958年マーキュリー・モンテクリア4ドアハードトップ 東京駅構内タクシー
全長29cm。ブリキ製。当時定価:不明。大量に輸出されたノーマルとポリス仕様(オマケ2)とは異なる国内販売専用モデルで元箱の有無を問わず現存個体が少ない一期一会的な逸品。実車は存在しない左ハンドルの東京駅構内タクシーながら事業者が米澤の桜印のロゴマークになっているのが楽しい。リア左ドアの「自動ドアー」のプリントも良い味を出している。
タクシー(1)

タクシー(2)

タクシー(3)

「自動ドアー」のプリント
タクシー(4)自動ドアー



★オマケ(その2): 米澤玩具 1/19スケール 1958年マーキュリー・モンテクリア4ドアハードトップ ポリスカー
全長29cm。ブリキ製。当時定価:都内300円・地方330円。米澤製品番号:No.10532。実車は既に7年落ちとなった1965年版の米澤玩具カタログにも掲載されていた長寿モデル。ノーマルが絶版となった後、金型使い回しで、まずオマケ1の構内タクシーが短期間生産され、このポリスカーだけが連綿と売られていたと推察される。
ポリス(1)

ポリス(2)

ポリス(3)

オマケ1との並び
ポリス(4)2種の1

ポリス(5)2種の2



★オマケ(その3): 1958年マーキュリー テレビCM




★オマケ(その4): 日本橋高島屋 「こち亀展」
会場限定で展示された作品「想い出」を読むためだけでも行く価値あり。「想い出」はシンプルながら思わずホロッとさせられる作品。模型好きには外せない会場限定オリジナルグッズ「アクリルジオラマおばけ煙突」(税抜1200円)は何と完売していて残念でした。日本橋では9月26日(月)まで。年末には大阪でも開催されるようです。

日本橋高島屋・・・・・1933年(昭和8年)築のこの80年以上の歴史を持つ建物は2009年(平成21年)に国の重要文化財の指定を受けている。こち亀展の垂れ幕は会期中だけのもの。
亀(1)全景

垂れ幕
亀(2)垂れ幕

入口看板
亀(3)入口看板

こち亀展ポスター
亀(4)展示会ポスター

御馴染みキャラ達
亀(5)おなじみキャラ達

御神輿
亀(6)御神輿

どこを読んでも面白い「こち亀新聞」(350円で販売)
亀(7)こち亀新聞

こち亀新聞の天気予報: 地獄の天気が降水確率100%で暴風雨のち雷雨、最低気温50度・最高気温100度。
天気予報

こち亀展限定の200巻カバー(グッズ1000円以上お買上の方、先着1万名プレゼント)
カバー表

カバー裏



★オマケ(その5): 映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』
9月22日から全国で上映が始まった映画。アップルの公式作品であるという1点のみでもビートルズファンなら観る価値あり。アメリカ公演ではビートルズが人種差別の壁も壊したこと、PAのなかった時代のスタジアム公演では4人(特にリンゴ)が勘を頼りに演奏していたことなどが印象深いです。

映画チラシ
ちらし

アナログLPジャケット風のケースに入れられた、なかなか魅力的なプログラム(税込900円)。青がケース、黒が中味。
プログラム

プログラム裏表紙の珍しいフォト: デビュー直後のビートルズと一緒に写っているのは何と1961年6月デビューの英国の大衆車フォード・コンサル・クラシック(OHV1340cc54ps)。既にEタイプ・ジャガーもデビューしている時期にこのクルマというのは、まだ彼らが爆発的に売れる前であることを示している。
自動車

映画予告動画


★1966年マセラティ・ミストラル 南仏の季節風 ~ 自動車カタログ棚から 328

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さて、もう10月ですね。今年も残り、4分の1。まだ台風が来たりなど、すっきりとした秋晴れにはならないようですが、さすがに少し涼しくなってきたのは助かります。急な気温の変化と睡眠不足が原因かワタシは風邪気味になってしまいました。クシャミ、鼻水位の段階で止まるようちょっと大事にしたいと思います☆

2020年の東京オリンピック/パラリンピックの開催時を目標に政府も後押ししてクルマの自動運転が目指されています。自動運転の分野の先進国であるドイツに負けじと国内の自動車メーカーも本腰を入れて開発に取り組み始めているようです。一方、ITの巨人グーグルは自動運転の要となるソフト面での世界制覇を本気で目論んでいるようです。
4年後のオリンピック開催の秋にレベル4の完全自動運転が実現できる可能性があるのは、東京でも恐らく限られた地区のタクシーだけとなり、例えば湾岸地区に滞在するオリンピック選手団が競技会場までの移動に使用するなどといったことが想定できます。日英仏伊独蘭語あたりの音声を自動認識し、認識した目的地まで人を運ぶといったことも想定されているようですが、現段階では技術面のみならず運転手不在の自動運転がそもそもジュネーブ道路交通条約で禁止されているなど法制面でも課題が山積していることは間違いないようです。
今後、レベル4の完全自動運転車が日本国内で市販に移されるのは2020年代の前半とも予想されています。四半世紀後の2040~2050年あたりには自動運転車が路上を走るクルマの主流となり、人が運転する現在のスタイルのクルマは過去の遺物となると予測する向きもあります。現にヤマト運輸でも完全無人自動運転配送の研究が始まっているそうです。現在のように人が五感を使ってクルマを運転するということは原則としてなくなり(あるいは禁止され)、タクシーやバスやトラックなどのクルマを運転するという職業もなくなり、運転そのものを楽しみたい場合には専用のサーキットが用意されるといったことになる可能性もあります。しかし、これでは自動運転ではない(過去の)クルマを自ら運転したい場合には、専用のサーキットにクルマを持ちこむしかないという話となり、日常的な運転の楽しみを人から奪う形となってしまうので反対論が出ることは必至でしょう。



閑話休題
ワタシは何事でも丁寧に取り組む悪癖がある所為か記事のアップには実はかなりの時間がかかっています(汗)。やりたいこと、やるべきことがブログの他にも沢山あり時間があまりありませんので、今日は「自動車カタログ棚から」シリーズ第328回記事として1960年代のイタリア車「マセラティ・ミストラル」をサクっとアップしますね☆☆
 



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★イタリアのカーデザイナー「ピエトロ・フルア」(Pietro Frua;1913年5月2日-1983年6月28日)は、70歳の誕生日を過ぎ癌宣告を受けて死を目前とした1983年(昭和58年)5月に長年彼に寄り添ってきた女性ジーナ(Gina)と結婚したという。
彼が死を目前としてジーナと籍を入れたのは、遺産を相続させることが目的ではなく、この世で彼の正式な妻としての立場を与えたかったからではあるまいか。このことは、自動車史/自動車文化史の第一人者であった五十嵐平達氏が、当然、氏の養子にすべき関係にあった人を養子縁組しないまま逝ってしまったことを、あの世で悔やんでいるに違いないであろうことを想起させる。
デザイナー・フルアの代表作というと、ルノー・フロリード、ボルボP1800、そして今回ご紹介するマセラティ・ミストラルの3車が挙げられるであろう。


★1914年(大正3年)に創業したマセラティ(Maserati) は、その100年を超える歴史の中で数々のレーシグカー、スポーツカーを産み出してきた。
マセラティには創業以前の前史が存在し、その物語の始まりは19世紀にまで遡る。1880年(明治13年)~1898年(明治31年)までに生を受けたマセラティ家6人兄弟のうち、芸術家となった1人を除く5人が力を合せて築いたメーカーがマセラティであり、戦前から1957年(昭和32年)まではF1GPを中心に活躍し、1960年代以降はフェラーリと並ぶ豪華グランツーリスモのメーカーに転身した。
マセラティは1957年のジュネーブ・ショーに2+2ボディの市販車3500GT(6気筒DOHC3485cc/230hp・WB2600㎜)を登場させた。この3500GTのフレーム付シャシーをベースにホイールベースを2400㎜に縮め、フルアが斬新な2座ハッチバック・ボディを架装して1963年(昭和38年)11月のトリノ・ショーに登場したのが「ミストラル」(MISTRAL=仏南東部に吹く冷たく乾燥した季節風の意味)である。日本では第10回東京モーターショー(当時の正式名称は全日本自動車ショー)が開催されて最初のベレットGTが展示され2代目スカイライン50系やホンダS500がデビューした時期に当る。
最初のミストラルは、3500GTIと同じ3500cc/235hpを搭載していたが、1966年(昭和41年)3月に3700GTI(3700cc/245hp)及び4000GTI(4014cc/255hp)が標準となり、そのMCの際、外観上はフロントフェンダーに開閉式エア・アウトレットが付いたことで初期型3500GTIとの識別ができる。ボディタイプとしては、HBクーペのデビューより4ヵ月遅れて1964年のジュネーブ・ショーでフルオープンのスパイダーがデビューし、エンジンは基本クーペと同じ変遷を辿るが外観上はフロントフェンダーのアウトレットが最後までスパイダーには取り付けられなかった。
マセラティとしては長寿車で1963年秋~1970年まで約7年間もカタログに載り続け、クーペ828台、スパイダー120台が製造・販売された。日本にも新東洋モータースの手により少数が上陸している模様。なお、ミストラルは英米向けでの販売名称で、当初イタリア本国では単に「デュエポスティ」(=2Posti=2座席)の車名で販売された。


【主要スペック】 1966年マセラティ・ミストラル4000GTI クーペ (1966 MASERATI MISTRAL 4000GTI Coupe)
全長4500㎜・全幅1650㎜・全高1280㎜・ホイールベース2400㎜・トレッド:前1390㎜/後1360㎜・フレーム付2ドアHBクーペ・車重1350kg・FR・水冷直列6気筒DOHCフロント縦置き燃料噴射4014cc・圧縮比8.8:1・最高出力255ps/5200rpm・最大トルク37.0mkg/4000rpm・変速機5速MT・四輪ディスクブレーキ・乗車定員2名・燃料タンク容量70ℓ・最高速度255km/h・国内販売価格:調査中



●1967年マセラティ・ミストラル4.0と美女
1967年ミストラルと美女


●絵本に描かれたマセラティ・ミストラル
ひかりのくに絵本「じどうしゃ」より。絵:村瀬有紀 画伯。絵本に登場するミストラルは珍しい。上の白いクルマは1964年ダイハツ・コンパーノ・ベルリーナ。
絵本


●1964年マセラティ・クーペ3500GT 広報写真
モーターマガジン1964年5月号新車紹介グラフ記事より。フロントフェンダーにアウトレットの付かない初期型。記事には、「3.5GTに新しく加えられた2座のヴァリエーションでシャシは3500GTのものを使っているがリアの板バネをコイルバネに換え、ボディはフルアのデザインによるもので曲面ガラスを用いたサイドや大容量のトランクルームが特徴。直6・260馬力エンジンに5速ギアボックスで最高速度245kmをマークする。」とある。この時点ではミストラルの車名は使われていない。
モーターマガジン



●1966年3月? マセラティ・ミストラル 本カタログ (縦16×横32cm・英独仏伊4ヵ国語併記10頁)
1960年代後半のマセラティ・カタログのフォーマットであった白地に横長大判サイズ。
(1)表紙

(2)表紙アップクーペ

(3)表紙アップスパイダー


【中頁から】

「快適性と信頼性を併せ持つ最も権威と名声のあるスポーツカー」
(4)2台

フロント、リア、クーペとスパイダー
(5)前後+スパイダー

スパイダー・ソフトトップ
(6)ソフトトップ

スパイダー・ハードトップ
(7)ハードトップ

室内及びリアハッチ
(8)室内リアハッチ

上質な室内
(9)室内アップ

リアゲートを開けると2人には十分広いラゲッジスペース
(10)リアハッチアップ

図面及び7連メーターのインパネ
(11)図面インパネ7連メーター

6気筒DOHCエンジン
(12)6気筒エンジン

スペック(英語記載部分): オートマチック・トランスミッションとエアコンはオプションとして記載されている。
(13)スペック英文

裏表紙
(14)裏表紙





★オマケ(その1): 日本模型(ニチモ) プロコン・ミニ1/24スケール 1966年マセラーティ3700GT
全長19cm。プラ製ラジコン完成品。当時定価:5200円。1966年12月発売。定価が高かったため、模型店の長期不良在庫となったケースが多かったのか(?)、半世紀を経た2016年現在でもヤフオクなどでは当時の定価以下で相当数が流通しています。箱絵及び裏面の使用説明はプリムス・バラクーダと共用で、マセラティは楕円シールを貼っただけというのが少々残念。マセラーティ3700GTの文字のみでミストラルの表記はなし。成形色のくすんだ薄水色が何とも冴えないながらも出来は良いので、ボディを上手くペイントすれば見違えるような良いモデルになりそうです。1960年代後半のニチモというと、個人的にはエレキギタートリオやハワイアンバンド、ドラムスなどの楽器シリーズを作ったことが懐かしいです。
ニチモ(1)

ニチモ(2)

ニチモ(3)

紙箱を開けると更にプラ製アタッシュケースに入れられており持ち運んでも遊べるようになっている。しかし、大量の電池やアンテナのセッティング作業など少々面倒で子供が気楽に遊べるシロモノではなかった感じがします。
ニチモ(4)佐野市アタッシュケース



★オマケ(その2): 仏ソリド139番 1/43スケール マセラティ3.5L
全長10.5cm。ダイキャスト製。ボンネット、ドア開閉。シャシー裏面には、「Maserati 3.5」とありミストラルの刻印はないものの、フェンダーにエアアウトレットが付いた3700/4000をモデル化している。ジュエルライトにワイヤーホイールの魅力的なミニカー。画像の赤の他にシルバー、金茶、エンジメタなどカラーバリエーションは多数。1/43の当時物ミニカーは伊メーベからも出ていた。
ソリド(1)

ソリド(2)

ソリド(3)

リアハッチ以外は全て開閉
ソリド(4)



★オマケ(その3): 「そんな本日のホットウィール」 1/66スケール程度 マセラティ・ミストラル
全長6.8cm。ダイキャスト製。ボンネット開閉。エンジンはV12に見える。シャシー裏面には、「MASERATI MISTRAL 1969 MATEL.INC. HONG KONG」の刻印あり。遊ばれて傷だらけながら、HW初期のレッドラインのようです。
HW(1)

HW(2)赤リア

HW(3)


●オマケ1~3の並び
HW(4)集合1

HW(5)集合2



★オマケ(その4): マセラティ・ミストラル 実車動画




★オマケ(その5): コレクター 朝田隆也氏 紹介記事
冒頭の写真の掲載されたモーターマガジン1964年5月号に日本を代表するミニカーコレクターズクラブJMACの草創期からのメンバー朝田隆也氏の興味深い紹介記事が出ている。当時、朝田氏は30歳位?戦前ブリキ3台の写真が貴重。残念ながら朝田氏は1980年頃に戦後のモノも含めてブリキモデルは全て手放されたようだ。何時だったかの横浜ワンダーランドマーケットで萬代屋などブリキの話をお伺いした際、もし今も売らずに持っていたらフェラーリが買えますと言って笑っておられた。休日用には1960年ライレー1.5、普段の通勤用にはブルーバードを使用と記事にあるので、1964年当時としてはかなり裕福に暮らしておられたようだ。
朝田氏(1)

戦前の貴重な日本製ブリキ3台。左から倉持商店1936年ポンティアック、小菅(コスゲ)1932年パッカード、野村トーイ1928年フランクリン。
朝田氏(2)ブリキ

朝田氏と1960年ライレー1.5。「神」ナンバーは神戸ではなく神奈川を示します。
朝田氏(3)神奈川ライレー

★1950年代 黎明期の国産電気自動車達 ハスキー&ピアノ ~ 自動車カタログ棚から 329

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さて、今日10月9日はジョン・レノンの76回目の誕生日ですね。1975年10月、ジョンが35歳になった時、15歳の私はジョン・レノンも歳をとるということに何故か不思議な、堪らなく寂しいような、言葉では上手く表現しにくい感覚に見舞われたことが昨日のことのようです。
東京も涼しくなりました。半袖で外を出歩くのはちょっと寒いかなという感じです。漸く今年も秋が訪れたというところでしょうか。



ある調査によれば男性が結婚したくない女性は以下の4つのタイプだそうです。

1)家事が苦手
2)気が強くて男勝りで性格がキツい
3)自分勝手で些細なことでも怒る
4)浪費家

なるほど、という感じでしょうか。個人的に1)は、苦手な彼女の代わりに自分がやれば済むことなので案外大丈夫かもしれません。2)と3)は見た目がドストライクなら多少は許せちゃう場合もありそうな気もします(汗)。でも、まあ基本的には避けたいところではあります。4)は資産100億とかいったレベルの大金持ちでもない限り普通は避けたいところではないでしょうか☆



また、別のとある調査によると私と同じ50代の未婚男性が希望する相手の年齢層は以下の通りだったそうです。

1位: 40代前半=29.0%
2位: 30代後半=23.6%
3位: 30代前半=17.4%
4位: 40代後半=12.0%
5位: 20代後半=6.2%
6位: 50代(同世代)=6.2%

おやおや、30代~40代前半までの相手を希望するという1位~3位までで何と7割を占めていますね。エリック・クラプトンの現在の夫人との年の差32歳と同じレベルの20代後半を希望という5位の6.2%を加えれば、8割弱位の人が40代前半以下の女性を希望しているということになります。この結果は、おそらく結婚するなら子供が産める年齢の相手がよいという意味が含まれてもいそうです。
それで、君の場合はどうなの?という話になる訳ですが、人として相性が良いことと、こんなロクでもない自分を本気で好いてくれる人であれば、もうオカチメンコでも誰でも良いです!とまでは言いませんが、年齢については正直あまりこだわりません。若くても歳がいっていてもお互い相性が良い人も良くない人もいるのです。実際、私がこれまでに好きになった女性は30歳位年下だったこともあれば、逆に20歳以上年上だったこともあります。20歳年上というのは若い頃の話で、実は私が25歳の時に好きだった彼女が48歳のシングルマザーでした(23歳年上)。その彼女は現在も元気でいるのですが(毎年、一目で彼女と判る達筆な文字の年賀状が届くのです)、今年で80歳となられており、さすがに彼女とヨリを戻して結婚したいとは思いません。でも、人として、女性として、彼女は魅力的だったなと今でも思います。
まあ、しかし、私のような歳で結婚したいだなんて言うと、前にも書きましたが、「フツーのサラリーマンが定年を目前にして気でも狂ったのか!」とか、「50代の未婚男性で結婚できる確率は統計的に1%(100人に1人だけ)なのにまだ結婚の夢を見ているのか!」とか言われるのがオチであったりするのも確かです。でも、正直な話、人に何と言われても本当にまだ諦めていないんですよね。諦めないから気も若く元気で生きられるという面も確実にあるような気もします。結婚を諦めてしまったら急に老け込みそうな感じがするというべきか・・・。
56歳で32歳差結婚をしたエリック・クラプトンと言えば、ストーンズの11年ぶりのニューアルバムに特別に参加したようですね。今から新譜のリリースが楽しみです☆☆



閑話休題
私が人前でピアノを弾く機会は年に2,3回あるのですが、今年のピアノ演奏はまだ動画をアップしていなかったので今回のオマケにアップしておきますね。ご興味がありましたら、ご覧ください。でも、8分位と長いのでビートルズやショパンに興味がない方は多分眠くなると思います。今回の本題は「自動車カタログ棚から」シリーズ第329回記事として戦後黎明期の国産電気自動車をサクっとご紹介します☆☆☆



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★ガソリン車のような自然界への有害排出物が皆無(=ゼロエミッション)で地球環境にやさしい電気自動車というと、2016年10月現在販売されている日産リーフやe-NV200、先般の燃費偽装問題で2016年8月より販売中止となっている三菱i-MiEV(アイ・ミーブ)を思い浮かべる向きも多いだろう。1回の充電で走行できる距離が限られること、充電時間も長いこと、車両価格が高いことなどガソリン車並みに普及するには、まだ乗り越えるべき課題は多く、現在はガソリンエンジンと電気モーター併用のハイブリッド車がメインとなっている。


★電気自動車の誕生は意外にもガソリン自動車より約半世紀も早い1830年代(天保年間)のことで、スコットランドの発明家ロバート・アンダーソンが充電不可能な一次電池を搭載した世界初の電気自動車を試作したことに始まると言われる。
一般向けの市販についてもガソリン車の市販よりも電気自動車の方が5年早く、1886年(明治19年)の大英帝国に於いてであったという。西暦1900年前後、自動車の黎明期には蒸気機関・内燃機関(主にガソリン)・電気モーターが覇権を争って開発にしのぎを削っていた。前輪ハブにモーターを搭載したインホイールモーターの原型とも言える4輪駆動車を当時ローナー社に在籍していた弱冠25歳のフェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche;1875年9月3日-1951年1月30日)が1900年(明治33年)のパリ万博にローナー・ポルシェ(Lohner-Porsche)として出展した。ポルシェはこのクルマを競技用に改造し30PSの出力で当時としては驚異的な最高速度90km/hをマークしたという。
その後、電気自動車は航続距離の短さが致命的な欠点となり、T型フォードの普及によるガソリン車の台頭に伴い、屋内作業用や遊園地用乗物等の一部特殊用途を除き市場から駆逐された。しかし、ガソリンの供給難という事情が追い風となり電気自動車の製作は細々と続けられた。


★日本の電気自動車
日本で最初に走った電気自動車は、1900年(明治33年)5月10日、当時20歳の皇太子(明宮嘉仁、後の大正天皇、一夫多妻制だった明治天皇の側室の子15人のうちの1人、明治天皇は正妻との間には子供が出来なかった: 1879年8月31日-1926年12月25日)と15歳の九条節子(1884年6月25日-1951年5月17日)の御成婚に際して米国ウッズ社が献上した「ビクトリア号」であった。その後、1909年(明治42年)に東京電燈社長の佐竹作太郎が米国ベーカー社の2人乗り電気自動車を購入した。このベーカー社の車両は数台輸入され、1911年(明治44年)にはベーカー社の車両の分解精査及び詳細研究の結果に基いて国産電気自動車が製作されたとされる。この時の製作車両は恐らくコピーであり、然らば国産電気自動車の祖は何かとなると、SCCJの草創期の会員であり日本の自動車エンスージャストの祖とも言える野沢三喜三が1919年(大正8年)の畜産工芸博覧会に出品した「野沢式テルコエレクトリック」(60V・最高速度29km/h・充電時間6時間)であったという。昭和に入ると、1932年(昭和7年)に名古屋市電気局がSKS型バス(80V・15ps・最高速度48km/h)、1934年(昭和9年)に日本電気製作所がデンカ号、大阪車体製造がOS電気自動車、1937年(昭和12年)には日本輸送機がタカラ号、大阪乗合自動車が神戸製鋼に発注したモダンな電気バス等々、夥しい種類の電気自動車が製作された。 (参照→ 論稿「戦前の国産電気自動車」東海大学 森本雅之氏・稲森真美子氏) 


★第二次世界大戦(太平洋戦争)後の国産電気自動車
戦中から終戦後1949年(昭和24年)の3月までは戦時中に制定された軍・官公庁以外にはガソリンを配給しないという「石油製品配給規制」が敷かれ、ガソリンは一般には入手することが極めて困難な状況にあった。そのため、代用燃料車=代燃車(木炭・薪・石炭・コーライト等を燃やして機関を作動させるもの)が花盛りであった。バス、トラック、タクシーといった自動車の大半が代燃車という時代であった。この時代、ガソリン車を流用した代燃車に対抗して製造されたのが電気自動車である。メジャーどころでは、プリンスの前身、東京電気自動車~たま電気自動車により1947年(昭和22年)5月に製作された「たまE4S-47」とそのモデルチェンジ版「たま・ジュニア」、1948年~1950年の「たま・セニア」(初期2ドア、後期4ドア)、トヨタ自動車のトヨペットSDシャシーに日本電装が発注して関東自工が生産した「デンソー中型電気自動車SDEX型」等が造られた。なお、戦前に製造されていた幾多の電気自動車のうちの幾つかは戦後に入っても生産された模様である。
「石油製品配給規制」解除後にまず規制対象から外され割当制ながらガソリンが供給されたのはタクシー、ハイヤーといった事業用車両であった。そして、1950年(昭和25年)6月の38度線での朝鮮戦争勃発により国内自動車事情は急変した。
まず、供給が統制されていたガソリンが一般にも大量に出回ったためガソリン車が急激に増え、米軍による軍事物資の買占めに伴って電気自動車の要となる鉛の価格が10倍近くにも高騰したことから、あえて電気自動車を製造する意味も生き延びる道も失われたのである。昭和20年代半ばまでは一発を狙った中小企業による少数生産のみで終わったと思われる(今や歴史の闇に消えつつある)幻の電気自動車が幾つも存在したが、「たま」も含めこの時代の国産電気自動車の生産は1951年(昭和26年)の夏頃までには全てが終焉を迎えたものと思われる。


●月刊誌「モーターファン」1948年12月号 表紙
三栄書房 発行。表紙は発売されたばかりの電気自動車「たま・セニア」。
モーターファン1949年



●1949年 たま自動車「たま・セニア」 カタログ 表紙
これは2013年にヤフオクに出品された際の画像。カリスマ的な人気を誇るプリンス自動車の前身に当るメーカーのレア・カタログだけあり、5万円を超える高価格となっていた。2つ折4面、二~三色刷りの簡素なカタログ。表紙に1949の印字があるが、4ドア化した後期型ではなく2ドアの前期型カタログのようだ。
たまセニア表紙



●大阪バス1937年1月号 表紙
後年、大阪市営バスに吸収された民間事業者「大阪乗合自動車株式会社」発行。表紙は神戸製鋼所鳥羽工場で製作予定の電気バス。流線形が流行った時代のバス。戦前とは思えない斬新なデザインだが蓄電池搭載の関係か、サイドウインドが異様に天地方向に短い。表紙の説明として、「近くお目見えせんとする弊社電気自動車の理想的形式であります。実際は多少異なったものとなるかも知れませぬが、必ずや皆様の御期待に沿い得るものと確信いたして居ります。」と記載があり、イラスト通りのデザインの実車が製造されたかどうかは不明。
大阪バス(1)表紙

表紙についての解説箇所
大阪バス(2)解説

湯浅蓄電池 電気自動車用ユアサ蓄電池 広告: 丸囲いの中に映された小型電気バスに注意
大阪バス(3)ユアサ



●1951年 新田産業 サンセダン カタログ (縦21×横29.9cm・日本語・表裏1枚)
表面に新田産業の住所が「群馬県新田郡強戸村寺井841」、電話が「強戸2番」と印字があるのは貴重な情報。四駆の歴史研究で著名なYW氏によれば、新田郡強戸村寺井は現在の群馬県太田市寺井町に当り、メーカー名の新田産業というのは当時の新田郡に存在したということより寧ろ上野国新田荘=1951年当時の新田郡=2016年現在の太田市で育った新田義貞(1300年?-1338年:武将)に因んだ可能性が高いとの由である。また、新田産業の当時の社長は既に他界し親族は現在も健在であるが、新田産業について訊いても倒産時に色々あったのか固く口を閉ざしておられるとの由である。この前2輪・後1輪の奇妙な三輪乗用車の生産台数や生産期間は不明ながら、雑誌「自動車技術」の1949年12月号に三輪電気自動車「SUN」として広告、「モーターファン」の1950年2月号にサン軽三輪電気自動車と題して記事が出ているとのことである(この2冊は古書店等で探すより国会図書館の蔵書で調べた方が早いだろう)。このカタログの表紙に「The modern design for ’51」の印字、イラストの青いサンセダンのナンバーが「1951」であることから、1950年秋口以降に発行された1951年モデルと思われるが、このカタログでは何と電気自動車ではなく空冷単気筒TIA-80型500cc/5hpニッサンソレックス式キャブ付エンジンを搭載している。潤滑はガソリン・オイルの15:1の混合。サン軽電気自動車は上記の1949年末の雑誌広告からこのカタログの発行されるまでの1年程度は生産された可能性がある。ガソリン車の生産終焉時期は不明。ボディサイズは全長3300㎜・全幅1200㎜・全高1425㎜と現代の軽自動車より一回り小さく、車重は460kgと軽い。乗員4名と記載があるものの全幅1200㎜に大人4人乗車は相当厳しかったと推察される。
サンセダン(1)

新田産業の住所・電話番号 印字箇所。当時の電話番号の一番は役場が取得し、「(強戸)二番」という電話番号は、村一番の名家であることを示すもののようだ。
サンセダン(2)新田アップ

裏面
サンセダン(3)裏面

図面・機関スペック
サンセダン(4)図面機関

各部サイズ他
サンセダン(5)寸法等



●1950年? ユニバーサル電気自動車株式会社 電気自動車 広報写真
このクルマについては全く詳細不明(御存知の方は御教示ください)。写真の裏には「ユニバーサル電気自動車株式会社 横浜市鶴見区市場町588」の印字。住所や会社の登記関連書類を調査できれば、ユニバーサル電気自動車についての多少の情報は得られるかもしれない。しかし、このクルマは全体的なボディ・デザインが上掲の新田産業サンセダンとよく似ている。残念ながらリアからの写真はないのだが、サイドビューからするとこれはサンセダンのような三輪ではなく四輪であることは間違いなさそうだ。
ユニバーサル(1)

サンセダンと近似したサイドビュー
ユニバーサル(2)





★オマケ(その1): 英ハスキー ホリデータイム・ギフトセット
今回の記事に因む電気自動車のミニカーが手元にありませんので、今回はYI氏所蔵の非常に貴重なミニカーコレクションを一つ。コーギージュニアの前身ハスキー(HUSKY)の1969年発売のギフトセットで日本にも輸入された製品ながら絶版市場ではまずお目にかからない。Eタイプ、ビートル、スチュードベーカーワゴン、モーターボート牽引ジープなどセットに納められた旧ホイールの3インチ・ミニカー達はどれもとても魅力的。YI氏はリサ店で6000円程度で売られているのを見つけて救出されたとの由。
ハスキー(1)

箱裏面のイラストも魅力的
ハスキー(2)箱絵魅力的



★オマケ(その2): She's Leaving Home & Nocturne No.1 in B-flat minor, Op.9 No.1  (The Beatles 1967 & Chopin 1830)
最後に最近の私の演奏。ビートルズとショパンに興味がない方は観ると眠くなる睡眠薬です。ご注意くださいね。シーズ・リーヴィング・ホームは、今回もまたポールのナンバーを適当にアレンジして弾いたもの。アレンジと言っても、左手のコード分散に右手のメロディを載せただけという(大汗)。ショパンのノクターン1番はショパン作品としては割合易しい曲ですが自己評価で70点位の演奏。この2曲の発表された年には147年の開きがありますが、どちらも美しい曲です。ご感想、何か感じることなどありましたら是非コメントくださいね!



★1960年 CQ!ペット21! 初代クラウン ブログ5周年! ~ 乗物絵本棚から 008

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東日本大震災が発生した2011年(平成23年)の10月15日に開始したアメーバの本ブログが今日で5周年となりました。マニアックな長文記事が多いにも関わらず、ブックマークなどされていつも見て下さっている方々、とりわけ、コメントを下さる方々(他人様から敬遠されがちな私の人柄の悪さ故か年を追うごとにコメントを下さる方は減ってきていますが・・・)には深謝申し上げます。
あと四半世紀、30周年位まで続けることが夢ではありますが、もしもこの私が独り者でなくなった場合には、当然、愛に溺れ、愛一筋の、愛だけに生きる人生となりますことは避けられませんのでブログの更新が止まる可能性は大いにあると思います(爆) 
まあ、勿論、そうでなくとも不慮の事故や病気などで命を落とせばそこまででブログはストップですが、もし私が死んでもアメーバのサーバーが壊れるとか誰かが故意に消さない限り過去記事はネット上に残るでしょう。
「ブログ〇周年」として記事をアップすると20人、30人といった大勢の方からお祝いコメントが入るような魅力的なブログを目指して頑張りたいと思います☆



閑話休題
実は今週は博多に出張したりなどして少々お疲れモード(汗)になっているため、「乗物絵本棚からシリーズ」第8回記事として、1960年発行の「CQ!ペット21!」をサクっとアップします☆
 



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★「CQ!ペット21!」は、1960年(昭和35年)6月8日から1961年(昭和36年)3月1日までの約9ヵ月間、日本テレビ系列で放送された子供向け実写テレビドラマである。毎週水曜日の夜6時15分~6時45分の30分枠で放送された。スポンサーはトヨタ自動車の一社のみで、劇中には当時最新のトヨタ車(RS20系クラウン、PT20系コロナ等)が多数登場した。
タイトル「CQ!ペット21!」のCQは無線略符号、ペットはトヨペット、21は当時のクラウンデラックスの型式名称RS21に由来する。同時代には1960年(昭和35年)8月4日より1961年(昭和36年)4月27日までNET(現テレビ朝日)系列で放送された子供向け番組「ナショナルキッド」がスポンサーである松下電器産業(現パナソニック)の製品に使用されていた商標「ナショナル」をヒーロー名としてそのまま使用したという例も存在した。
「CQ!ペット21!」は、テレビ放送された実写版以外に、小沢さとる、南村喬、芳谷圭児、山田はるき等による漫画版(コミック)も存在し、小沢版は月刊「小学五年生」(小学館)、南村・芳谷・山田版は月刊「少年ブック」別冊付録(集英社)にそれぞれ連載された。
物語は、少年探偵の2人の兄弟、兄・久保田勇一(空手と柔道の達人で勇敢なスポーツ万能少年)と弟・久保田健次(アマチュア無線=ハムや理数系全般に強く明るく元気な科学少年)の日常を軸に(兄弟の両親や近くのガソリンスタンドの大助兄さんなども登場)、事件が起こると弟・久保田健次が「CQ!CQ!ペット21!ペット21!大変です!早く来てください!」などと無線連絡した後に仮面のヒーロー「ブラックマスク」が登場する。
テレビ版のブラックマスクは好評だった前番組「怪人二十面相」の明智小五郎役を演じた佐伯徹(1939年2月1日~)が継続して出演し、兄・勇一を矢代和雄(子役時代だけで俳優引退?)、弟・健次を設楽幸嗣(1946年6月4日~)がそれぞれ演じた。
準主役であるブラックマスクが運転して颯爽と登場するトヨペット・クラウン・デラックスは1958年(昭和33年)10月6日にマイナーチェンジを受け、1959年(昭和34年)7月に58psから62psに出力向上が図られた時期のRS21型のルーフを取り去りオープン化改造を施した車両であった。ボディカラーは青緑。なお、同時期のクラウン・デラックスRS21型はトヨタ自身の手で複数台がオープン化改造された模様である。



●少年ブック1960年11月号別冊付録 痛快探偵冒険まんが『CQ!ペット21!』  (縦17.8×横11.8cm・52頁)
1960年11月1日、集英社発行。表紙にはトヨタのロゴマークと芳谷圭児の印字。中の漫画には「山田はるき」のクレジットもある。青緑メタのクラウンRS21コンバーチブルの運転席から身を乗り出した佐伯徹が演じるピストルを構えたブラックマスク。当時のテレビは白黒放送だったため、こうしたカラーのスチールは珍しい。
付録



●1960年 鈴木出版のおはなしえほん 第16巻「CQ!ペット21!」  (B5判・12頁)
鈴木出版株式会社(東京都台東区浅草蔵前3-12)発行。当時定価60円。原作: 双葉十三郎(1910年10月9日-2009年12月12日)、高岩 肇(1910年11月9日-2000年1月28日)。絵: 湯川久雄。鈴木出版のこの絵本シリーズには、月光仮面、名犬ラッシー、七色仮面、少年ジェット等もあり、この時代をリアルタイムに知る世代には堪らなく懐かしいものであろう。
(1)表紙


CQ!CQ!ペット21 正義を愛するCQ!ペット21! 呼べばいつでも飛んできて悪人どもをこらしめる そっとみんなで呼びましょう CQ!CQ!ペット21! 今日も事件が呼んでいる
(2)登場


ブラックマスクのクラウンに対して脇役のクルマはサーモンピンクがイメージカラーだった2代目トヨペット・コロナPT20
ラジオが伝える臨時ニュース 銀行ギャングは逃走中  空手二段の勇一くん 少年無線士 健次くん ギャングを追って山の中 無線で連絡 つーとん つーとん 早く来ないか CQ!ペット21!
(3)コロナ


ギャングがきっと振り向いた その手に光るピストルの引き金 引こうとした時に ダーンと鋭い音がして ギャングの手にしたピストルがどこかに飛んでいきました
(4)崖


驚く二人の後ろには 黒いズボンに黒い服 正義のしるし ブラックマスク すっくと立っていたのです 怯んだギャングに勇一の空手が飛びます 一発二発 ギャングはうーんとのびたまま
(5)空手


勇一、健次の兄弟にブラックマスクのおじさんは 笑顔で優しく言いました 『勇一くんと健次くん もう大丈夫 よくやった』と 二人の肩を優しく叩き ペット21!に飛び乗って 今日も行く行く 事件を追って
(6)ラスト


裏表紙: 月光仮面、少年ジェット等のシリーズ各号が記載されている。
(7)裏表紙





★オマケ(その1): 月刊誌「日本のモータリスト」 1960年7月号 (B5判・156頁)
東京都港区芝新橋に存在した日本モータリストクラブ(略称JMC)発行の月刊誌。まだオーナードライバーが少なかった日本のモータリゼーション黎明期の雑誌。当時定価100円。この号の表紙は何と「CQ!ペット21!」と同じトヨペット・クラウン・デラックスRS21型のコンバーチブル。ペット21のボディは青緑だったが、こちらのボディは赤なので、RS21のコンバーチブルは複数存在したことになる。トヨタ自販あるいは大手販売店の東京トヨペットあたりが広報用に製作して貸し出していた車両だったのだろうか。
モータリスト(1)表紙

中頁から: 「女が車を降りる時」と題して、ちょっとお色気ありの様々なクルマから降りる女性の姿を写したグラフ集が掲載されており、その中の1枚がこの観音開きの初代クラウンから降りる女性のフォト。
モータリスト(2)足



★オマケ(その2): 毎日グラフ1960年7月1日号別冊「続 乗用車への招待」  (B4判・94頁)
毎日グラフの別冊として1970年代前半あたりまで発行されていた自動車特集の別冊。当時定価120円。大判で写真に迫力があり、当時の各メーカーの広告を眺めているだけでも面白く興味深い。表紙の若い男女が馬乗りになっている、白赤ツートンのクラウン・デラックスRS21型もトヨタの広報用車両であろう。この本の懸賞は「この表紙の車は何でしょう?」というクイズになっており、中の頁には何と「正解者300名様にこの車の模型を自動車会社からプレゼントします」と記載がある。クラウンRS21の模型は萬代屋(現バンダイ)と旭玩具のブリキモデル、旭玩具のモデルペット1番、和工/マルサン商店の1/40スケール・プラモデルと当時多数存在したが、自動車会社=トヨタからプレゼントするという記載からすると、景品は実車購入者等に配布されていた金メッキのアンチモニー製車型煙草入れ(シガレットケース)であったのかもしれない。
毎日グラフ



★オマケ(その3):  和工樹脂 1/40スケール 1960年トヨペット クラウン デラックス RS21型 プラモデル
全長11.5cm。当時定価100円。国産プラモデル黎明期のキット。和工樹脂は東京都練馬区南町4-6264に存在したメーカー。マルサン・ブランドでも発売された製品。このプラモデルは実は2013年1月3日の記事で一度画像をアップしています。多数存在するRS21型の模型としてはヤフオクなどで萬代屋(現バンダイ)のブリキあたりはかなりの数を見かけますが、このプラモデルが出現することは非常に稀でもしかすると一番レアかも?ということで再度アップすることにします。実は残念ながら私もこのプラモデルのマルサン版は手元にありません。
和工(1)

和工(2)

箱(前側)
和工(3)箱表

箱 (後ろ側)
和工(4)箱裏

組立説明書
和工(5)

和工樹脂の住所。上部に「ゴムタイヤと鉄製シャフトが入れてありますから車輪が廻る様に組み立てて下さい」という印字のスタンプ。自分で考えてタイヤが廻るように組み立てて下さいというのは、年少者には分かりにくく少々不親切だったかも。
和工(6)住所アップ車輪が

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