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★1964年 プリンス グランド グロリア 幻の皇室特注45型 ~ 自動車カタログ棚から 309

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オノ・ヨーコさんが脳卒中で救急搬送されたとのニュースには冷汗が出た。でも、脳卒中はデマだった?ようでインフルエンザ?のような症状ですぐに退院できたとのショーンの情報でホットした。ジョンが愛したヨーコさん。やはり長生きしてもらいたいですよね☆

もう2月も終わりですね。早くも2016年の6分の1が終わりですね。今日はスタリハなのでギターと歌の練習が最優先で記事を書いてる場合でもないのですが(汗)、「自動車カタログ棚から」シリーズの第309回として前回と同じ2代目グロリアのバリエーションの一つ「グランド グロリア」をご紹介します。市販車に加えて宮内庁特注の非常に貴重な車両のデータも掲載することとします。
 



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★1960年代前半、1964年秋の東京オリンピックの前に3ナンバー国産大型車が相次いでデビューした。即ち、1963年(昭和38年)2月にデビューしたニッサン セドリック・スペシャル、1964年(昭和39年)4月にデビューしたトヨタ クラウン・エイト、1964年(昭和39年)4月にデビューしたプリンス グランド グロリアの3車である。
この3車を比較するとサイズは5ナンバー車グロリアのボディをそのまま流用したグランドグロリアが最も小さい。全長では4855㎜のセドリック スペシャルがグランドグロリアより20cm以上も長く、全幅は1845㎜のクラウンエイトがグランドグロリアより15cmも広い。しかし、性能は最高出力130ps最高速170km/hのグランドグロリアが他2車の最高出力115ps最高速150㎞/hよりも10%以上高かった。販売価格は発売時点の比較ではセドリック・スペシャルとグランドグロリアはほぼ同じ、日本初のV8を積んだクラウンエイトは他2車より27万円程も高価であった。セドリック・スペシャルは1965年(昭和40年)12月デビューのプレジデントに、クラウン・エイトは1967年(昭和42年)11月デビューのセンチュリーに夫々のメーカーの旗艦モデルの座を受け渡す形となったが、グランド・グロリアはプリンスと日産が1966年8月に合併したことに伴い後継車のないまま消滅した。否、プリンスの技術力を結集したフラッグシップモデルは1967年納入の御料車プリンスロイヤル(型式A70型)として、プレジデントやセンチュリーといった市販車よりも遥か高次元にまで昇華したとも言える。


【1960年代前半にデビューした国産大型車3車の比較】 (発売順)

1)1963年2月2日発売 ニッサン セドリック スペシャル (型式T50型)
全長4855mm・全幅1690mm・全高1495mm・ホイールベース2835mm・車両重量1400kg・K型4サイクルOHV直列6気筒2825cc・最高出力115ps/4400rpm・最大トルク21kgm/2400rpm・変速機コラム3速MT・乗車定員6名・最高速150km・東京店頭渡価格138万円(但し、1964年型145万円、1965年型では165万円と順次値上げ)

2)1964年4月13日発売 プリンス グランド・グロリア (型式S44P-1)
全長4650mm・全幅1695mm・全高1480㎜・ホイールベース2680㎜・車重1395㎏・直列6気筒SOHC2494cc・最高出力130ps/5200rpm・最大トルク20kgm/3200rpm・コラム3速MT・乗車定員6名・最高速170㎞/h・東海道統一価格138万5000円

3)1964年4月20日発売 トヨタ クラウン・エイト (型式VG10)
全長4720mm・全幅1845mm・全高1460mm・ホイールベース2740mm・車重1375kg・V型8気筒OHV2599cc・最高出力115ps/5000rpm・最大トルク20kgm/3000rpm・変速機コラム2速オートマ・乗車定員6名・最高速150km/h・東京店頭渡価格165万円


プリンス グランド グロリアは、まず1962年(昭和37年)10月25日~11月7日に東京・晴海で開催された第9回東京モーターショーで「プリンス2500」の名称で一般公開された。
プリンス2500は、同年9月にフルモデルチェンジしたばかりのグロリア・デラックス(型式S40D-1)のフロントグリルとホイルキャップを替え、サイドスカート・リアエンド・リアピラーにメッキのモールディングを追加した豪華な外観にメルセデスベンツ220のような美しいアルミのヘッドカバーを持つエンジンはSOHC6気筒2500cc135ps最高速170km/hと公表された。SOHC6気筒エンジンを搭載したグロリアは、まず小型車規格内の2000ccにダウンサイズした車両が翌1963年(昭和38年)6月に「グロリア・スーパー6」(型式S41D-1)の名称で市場に出された。
1963年(昭和38年)10月26日~11月10日に東京・晴海で開催された第10回東京モーターショーでは「プリンス グロリア2500」の名称で再度参考出品された。前年の展示車と異なっていた点は、公称出力が140psに上がりリアピラーのメッキモールが省かれフロントシートがセパレートとなりその中央にはSONYの超小型テレビが装備され変速機はオートマチックとされたことなどであった。


●1962年10月にプリンス2500として公開されてから1年半を経た1964年(昭和39年)4月13日に「プリンス グランド グロリア」(型式S44P-1)の名称でついに市販に移された。
外装は1963年の第10回東京モーターショーに出品された車両と基本的には同一であった(セールスカタログ上ではフロントのフォグランプが追加されている点が異なるが、フォグランプはオプションだったと思われる)。1962年に初展示された当初のリアピラーのメッキは省かれ、内装はベンチシート仕様、変速機はオーバードライブ付のフルシンクロ3速コラム・マニュアル仕様で市販された。スーパー6に搭載されたSOHC6気筒2000ccG7型エンジンの排気量の増大と新型4連キャブレターの採用等により2594cc130psの高出力G11型エンジンを搭載し、内外装は落ち着いたシックな印象のダイキャスト製フロントグリルやサイドスカートモールディングを付け、インパネとドア内側に木目模様の化粧版を付けるなどスーパー6を基本に豪華にし、パワーウインドが全車標準とされた。その他、エアコン、パワーシート、オートライティング(ライトの点滅、減光切換えの自動装置)はオプションとされた。スーパー6と判別する場合に判りやすい箇所は、独特のフロントグリル・パターン、独特のホイールキャップ、そしてサイドスカートモールの有無であろう。


●1965年(昭和40年)12月、グランド グロリアはマイナーチェンジを受け、型式S44P-2となった。
MCとはいえ外観で判別できる差異は見られず、フロント・ディスクブレーキの採用、米国ボルグワーナー3速トルコン・オートマ(BW35)仕様の追加、ギア比変更(第1速を2.980から2.963に変更等)、リアリーフスプリングの変更(1500×90×8mm×2枚から高性能荷型1500×90×11mm×1枚リーフに)、燃料タンク容量の変更(50ℓ→60ℓ)等といった目に見えない箇所の改良が多数行なわれた。そして、1966年(昭和41年)8月にプリンス自動車が日産自動車と合併した後の1967年(昭和42年)4月に3代目グロリアA30型(通称タテグロ)がデビューするまでひっそりと生産が続けられた。



【主要スペック】1964年 プリンス グランド グロリア  (S44P-1型)
全長4650㎜・全幅1695㎜・全高1480㎜・ホイールベース2680㎜・車重1395kg・G11型水冷直列6気筒SOHC2494cc・圧縮比8.8・最高出力130ps/5200rpm・最大トルク20m-kg/3200rpm・変速機フルシンクロ オーバードライブ付3速コラムMT・乗車定員6名・最小回転半径5400㎜・電装系12V・タイヤ7.00-13-4PRチューブレス・燃料タンク容量50ℓ・最高速度170km/h・東海道統一価格138万5000円



●1962年10月 第9回東京モーターショーのプリンス 2500
二玄社「CARグラフィック」誌1962年12月号より。最初に公開された62年の車両はリアピラーまでメッキで飾られており、オーバーデコレーション気味。
62年(前)

62年(後)



●1963年10月 第10回東京モーターショーのプリンスグロリア2500
二玄社「CARグラフィック」誌1963年12月号より。市販前に再度モーターショーで公開された車両は市販化されなかった前席セパレート仕様で変速機はオートマチック、出力140psと公表された。
63年ショー



●1964年 プリンス グランド グロリア
グランド グロリアの車名で1964年4月に市販化後、東京オリンピックと日程が被らないよう例年より1ヵ月早く1964年9月に開催された第11回東京モーターショーで配布されたプリンス総合パンフレットより。この写真はグランドグロリア専用リーフレット等にも使用されている。
64パンフ(1)

上の写真が掲載されたパンフの表紙は第2回日本グランプリで活躍したプリンス車たち。
64パンフ(2)



●1964年9月 第11回東京モーターショーのプリンス グランド グロリア
プリンス広報誌「プリンスグラフ」第6号(1964年10月発行)より。
64年ショー(1)青灰

この年のプリンスブース。手前はスーパー6、次がS50スカイライン1500、右に珍しい黒ルーフに赤のS54スカイライン2000GT、後方2台が独特のホイールキャップにサイドスカートモールを付けたグランド グロリア。
64年ショー(2)4台



●1964年4月 プリンス グランド グロリア プレスシート (A4判・ホチキス留め4枚)
S44P-1型デビュー時に配布された広報向け資料。プリンス グロリア スーパー6の6気筒エンジンをベースとして格段の性能向上を計った2.5ℓエンジンを搭載し艤装を一層豪華にした「最高級普通乗用車」であるとして、スーパー6との差異を中心に特徴が記されている。
プレス(1)

プレス(2)



●1964年4月 プリンス グランド グロリア 本カタログ (A4判・20頁+α)
プリンス カタログNo.00093。前期S44P-1型の本カタログ。表紙には文字が一切なく紺色の上質紙の中央に百獣の王ライオンが浮き彫りされたシンプルなもの。
前期(1)表紙

【中頁から】
扉頁
前期(2)扉頁

概説
前期(3)概説

雨の日にリアシートで流し目をする女性
前期(4)雨のリアシートの流し目

フォグランプを付けたフロント。ナンバーはまだ漢字一文字の「品3」。
前期(5)品3ナンバーのフロント

リアビュー
前期(6)リア

サイドビュー
前期(7)サイド

リアシートの上流夫人
前期(8)リアシートの上流婦人

白ハンドルと木目模様のインパネ
前期(9)白ハンドルの運転席

後席左上に設けられた読書灯ほか室内各部
前期(10)読書灯等室内各部

ゴルフバックが6個入る広いトランクと青ガラス(オプション)
前期(11)青ガラス広いトランク

電動シート(オプション)
前期(12)パワーシート

パワーウインド及びオートアンテナのスイッチとオートライティングコントロール(オプション)
前期(13)パワーウインドスイッチ他

G11型2500cc130psエンジン
前期(14)G11型2500エンジン

スペック
前期(15)スペック

図面
前期(16)図面



●1965年12月 プリンス グランド グロリア 本カタログ (縦26.5×横24.5cm・カード式7枚)
プリンス カタログNo.:印字なし。後期S44P-2型およびBWオートマを搭載したS44PW-2型の本カタログは日本初?のシート式。ベージュのケースを開くと7枚のシートが納められている。1960年代後半には、トヨタ2000GT、トヨタセンチュリー、いすゞ117クーペ、コロナマークⅡ、ハコスカ4ドア2000GT-R等のカタログが相次いでシート式で発行された。
後期(1)表紙

【封入されたシートより】
「日本最高の名車プリンス グランド グロリアの新しいニュースをお届けいたします。」
後期(2)新しいニュース

「品川3」ナンバーとなったフロント
後期(3)品川3フロント

疾走
後期(4)疾走

BWオートマ追加
後期(5)BWオートマ

オートマの運転席周り
後期(6)オートマ運転席2ペダル

重役の座る後席
後期(7)重役の座る後席

パワーウインド
後期(8)パワーウインド

広いトランクと後席からも選局可能なラジオ
後期(9)トランクと後席選局ラジオ

この時代、まだエアコンは最高級車でもオプション
後期(10)エアコン

スペック&図面
後期(11)スペック&図面1

後期(12)スペック&図面2



★1965年 8月生産 幻の皇室特注車両 グランド グロリア45型
グランド・グロリアの決定的なウィークポイントは6気筒2500cc130psの高出力エンジンを搭載していながら、ボディが街でゴロゴロ見かける普通のグロリアのタクシーなどとも全く同じであったことである。このウィークポイントを解決したグランド・グロリアが宮内庁向けに少数が生産された。1965年(昭和40年)8月に製造された、グランド グロリア45型がそれである。この車両は現在の天皇陛下(第125代天皇:明仁1933年12月23日-)が31歳の時に完成し御所等で御自身でも運転をされていたと言われるが、現在は殆どが廃車となり極く一部の車両が民間に流出して保存されているようだ。自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏が1950年代末に宮内庁ガレーヂを見学・撮影された時代と異なり、この車が納入された1960年代半ばには宮内庁のガードは固くなりガレーヂの撮影も困難になったと言われるため、残念ながら現役当時の写真が見当たらない。皇太子殿下(徳仁親王)の学習院への送迎に使われているところを撮影した2代目グロリアの写真はグラフ誌に掲載されたものなどが存在するが、それは普通のグロリアのようでもあり、この45型であるか否かが判然としない。
そんな訳で、このグランドグロリア45型の実車の現役当時の写真は見当らないのだが、当時プリンスが発行した簡素な資料が手元にあるので客室・ホイールベース・全長が市販車より各々160㎜延長されていることが確認できる貴重な図面等をご紹介したい。宮内庁向けスペシャルメイドの極秘車両とはいえ、既に半世紀以上の時を経ておりプリンス自動車も今はなく、もう時効であろう。近年に至るまで多数リリースされている2代目グロリアのプラモデルやミニカーを元にルーフを延長してこの45型を製作してみるのも面白そうだ。

●1965年8月 プリンス45型 諸元表   
表紙。サイズはB5判、6枚の紙がホチキス留めされた簡素なもの。宮内庁特注車両のため恐らくカタログの類は作られていないだろう。表紙には「プリンス45型 諸元表 昭和40年8月 東京都杉並区桃井3丁目5番1号 プリンス自動車工業株式会社」の文字。
皇室(1)表紙

全長4810㎜(標準のグランドグロリア4650㎜)、軸距:ホイールベース2840㎜(同2680㎜)、客室長2030㎜(同1870㎜)、タイヤサイズ7.00-14-4PR(同7.00-13-4PR)といった45型のみの数値が確認できる。
皇室(2)諸元

全長4810㎜に注意
皇室(3)全長等アップ

打刻様式及び始番号:車台番号45-100021、打刻開始年月日:昭和40年8月16日と記載がある。45型は何故か21番から打刻。1945年8月15日の終戦の日から20年目の翌日1965年8月16日に打刻が開始されたことが判る。通称名=プリンス グランド グロリアとも記載されている。
皇室(4)打刻開始・通称

45型 走行性能曲線図: 全て手書きされたデータ
皇室(5)走行性能曲線図

皇室(6)曲線図データアップ

45型 三面図・・・・・ここでも全長4810、ホイールベース2840㎜、客室長2030㎜のデータが確認できる。
皇室(7)三面図

側面図アップ・・・・・前後席の間が標準のグロリアより長く後席の足元が広い。上掲のノーマル「グランド グロリア」の図面と比べると違いがよく判る。
皇室(8)側面図アップ





過去の関連記事

本記事に関連する過去の記事です。御興味がありましたら、併せてご覧ください。

・1963年 ニッサン セドリック スペシャル ・・・・・第70回記事

・1964年 トヨタ クラウン エイト ・・・・・第72回記事

・1963年 プリンス グロリア スーパー6 ・・・・・第58回記事

・1965年 ニッサン プレジデント ・・・・・第71回記事

・1967年 トヨタ センチュリー ・・・・・第184回記事





★オマケ(その1): 東宝模型 1/15スケール 1963年プリンス グロリア スーパー6 プラモデル
グランド グロリアのスケールモデルは現在に至るまで市販製品が存在しない。しかし、ボディが通常のグロリアデラックスやスーパー6と同じためフロントグリル、ホイールキャップ、メッキのサイドスカートあたりを作ることが出来れば市販品を容易に改造できそうではある(エブロの1/43スーパー6のダイキャストミニカーは何故か初めからグランド グロリアのホイールキャップを付けている)。オマケに立体物が何もないのは寂しいということで、スケールモデルを少し載せておきます。この東宝製プラモデルはハチマキグロリアのプラモデルの中では最大サイズのもので社外品を使用してラジコン仕様にすることも出来た。全長28cm。当時定価700円。小田原城をバックにしたボックスアートが初版、バンダイのブリキのスーパー6の箱と同じ林をバックにした広報写真を使用したものが再販品。初版は販売期間が短かったのかあまりビンテージ・プラモ市場で見かけない。

小田原城をバックにしたBOX ARTの初版
東宝(1)小田原

東宝(2)小田原2

再販バージョン
東宝(3)林BOX



★オマケ(その2): ポストホビーMARK43 1/43スケール 1963年プリンス グロリア スーパー6
2015年8月発売製品。全長11cm。レジン製。定価:税抜8800円。1/43スケールの決定版と言えるモデル。カラーバリエーションは黒、ブルーメタ、メタ茶、ホワイトの4色。MARK43ブランドは日本の名車をハイクオリティでリリースしている注目のブランド。この価格帯ではカラーバリエーション全てを揃えるのは少々辛いのが難点。
マーク(1)

この綺麗なライトブルーメタ(サンマリノブルー)は実車を彷彿させられる。
マーク(2)青メタ前サイド

マーク(3)


★1957年 三鷹富士産業 軽三輪トラック「ムサシ」英バッジー ~ 自動車カタログ棚から310

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50代も半ばを過ぎた私のような歳ともなると、「終活どうしてる??」「もう孫も出来たことだし、そろそろ人生の最後を本気で考えて終活しないと。」などと話す友人の会話が聞こえてくる。確かに友人の殆どは20代ないし30歳前後までには結婚し、育った子供はもう25歳を過ぎ、更にその子供も結婚して孫も出来て、あとは数年後に迫った満60歳の定年退職後の人生を本気で考えなければならない歳になったということなのだろう。サラリーマンではなく、俳優・音楽家・画家・漫画家・小説家・弁護士・公認会計士・開業医といった自営業や法人に所属していても役員以上のエラい人など60歳定年の心配がない人には関係のない話だろう。事実、私の勤め先の顧問弁護士は昭和2年(1927年)生まれで今年の誕生日で89歳になられるのだが、大手町の一等地に弁護士事務所を構えて大勢人を雇い事務所の代表としてまだ精力的に仕事をされている。外科医の知人では70歳位までは普通に手術もして、自分の手や目に自信がなくなった時には診察と診断だけ行なうつもりだと話している人もいる。年収の比較的低い病院の勤務医ではなく、平均年収で5000万円は稼げると言われる開業医の場合は更に恵まれている。健康でありさえすれば、まず食いっぱぐれることはないだろう。

最近は年金制度の変更に合わせて65歳定年とする法人も少しずつ増えてきてはいると聞く。個人商店や中小規模の法人では定年制度自体がなく、家族同然の従業員には普通に働けるうちは働いてもらうといった形を採っている例もあると聞くけれど、2016年現在、まだ日本の大半の役所や法人企業では60歳定年が一般的であって、普通のサラリーマンは60歳からは時給1000円以下もしくは初任給以下の賃金で1年毎に契約更新の再雇用となるといったケースが多いようだ。私の勤め先も例外ではなく、基本60歳からはボーナスなしの初任給のみという超低賃金に嫌気がさして、先輩にはタクシードライバーやトラックドライバーに転職した人などもいる。確かに生活保護費と大差ない税込月収15万円を割る程度でボーナスもなしとなると都内でフツーに暮らすことは少々厳しい。まず役所(=公務員)が定年の年齢を引き上げ、次いで社会全体が65歳定年となれば良いだろう。そうでないならば、公平性を保つために国会議員も60歳定年にするのが良い。60歳を越えたら議員を出来ないと法律で定める。国会議員が60歳定年となれば地方議員も60歳定年になるだろう。そうなると、今61歳、今年の誕生日を迎えると62歳となる安倍サンも年齢制限で引退せざるを得ないことになる。日本に多い、死ぬまで議員なんていう人もいなくなる訳だ。
しかし、現実は60歳定年である。健康であれば70歳位までは雇用してもらえることの多いタクシードライバーになるか、あるいは何かしら事業を始めようかと私も考え始めている。何しろ手に職もなく特別な資格もなく、PC操作はワード・エクセルがやっとというようなレベルの私では世間では殆ど使い物にならないのである。夢は、これまでライフワークとして長年蓄積した自動車史関連の資料やコレクションを活かせる仕事をすることなのだが・・・・・。← 無理無理、絶対に無理と外野の声(爆)


閑話休題
今回は「自動車カタログ棚から」シリーズの第310回として、ダイハツ・ミゼットやマツダK360に代表される軽3輪の超マイナーな仲間「ムサシ」をご紹介します。ムサシについては情報が少なく既に歴史の闇に消えつつあるため推測・推論の多い記事となります。前回の記事でも宮内庁特注のグランドグロリア45型が現存していることを御指摘戴きましたが、今回も明らかな誤り等がありましたらどしどし御指摘ください。



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★東京都三鷹市下連雀481に存在した三鷹富士産業株式会社のルーツは、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦に至るまで従業員凡そ25万人を擁した、三菱重工業と並ぶ我国最大規模の航空機メーカー「中島飛行機」である。
中島飛行機は、1917年(大正6年)、中島知久平(なかじまちくへい:1884年1月1日-1949年10月29日)により群馬県尾島町に「飛行機研究所」の名称で設立された(相前後して東京帝国大学に同名の研究機関が出来たため、1918年に「中島飛行機研究所」と改名)。研究所設立時に33歳だった中島知久平は、「航空機こそが日本の未来を拓く」と予見していた。その後、中島は1930年(昭和5年)に政治家に転じ、鉄道大臣、商工大臣等を務め、戦後はA級戦犯として逮捕命令が出るも無罪となり1949年(昭和24年)に何と一度も結婚をしないまま65歳の人生に幕を下ろした(但し、女中との間に子供をもうけた)。

★一式戦闘機「隼」、 四式戦闘機「疾風」、夜間戦闘機「月光」等といった太平洋戦争中の名戦闘機の名を挙げるまでもなく、中島飛行機は、エンジンや機体の自社開発を行う能力ならびに自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、戦前・戦中にかけて東洋一の生産規模を誇る世界有数の航空機メーカーであった。
1920年代半ば、時代が大正から昭和へ変わる頃、時の政府から航空機は軍事力の要と認識されるようになり、その後、日中戦争の戦火が拡大していく中で軍の増産要請に応え中島飛行機は次々と工場の拡張を進め、数々の名機を生み出した。1941 年(昭和16年)12 月8 日に真珠湾攻撃により日本が米英に宣戦布告し第2 次世界大戦に参戦した後は、しだいに悪化していく戦局の中で、中島飛行機の工場は米軍の爆撃の最重点対象とされ壊滅状態となったまま敗戦を迎え、その輝かしい歴史に幕を下ろした。

★戦後、中島飛行機は富士産業と社名を変更したが、民需転換は文字通りゼロからのスタートとなった。
ギリシャ神話に登場するイカロスの如く航空機製造という翼を失った中島の技術者達は暗中模索の中で自転車、リヤカー、小型モーター、製粉機といった様々なモノ造りを始めた。
1950年(昭和25年)8月、旧中島飛行機の富士産業は財閥解体の対象となり12の会社に分割されたが、1953年(昭和28年)7月15日にはそのうちの5 社(東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両)が合併して富士重工業が発足した。
然らば、三鷹富士産業とは如何なる会社であったのか。手持ちの資料を調べた限りでは、旧中島飛行機系のメーカーであるとの記述のみがあり、それが正しいとするなら1953年7月の富士重工誕生に際しての合併に漏れた会社であるという線が出てきた。しかし、合併に漏れたのは、富士精密工業(後のプリンス自動車)、愛知富士産業、岩手富士産業、富士機械工業、富士機器、田沼木材工業、富田機器製作所の7社であったので、三鷹富士産業は合併に漏れた会社でもない。ここで残る線は、富士産業が12社に分割された1953年7月の時点では事業を停止していた旧中島の工場が三鷹富士産業の前身だったというものではあるまいか。
現在は住居表示が変更となっているが、三鷹富士産業の所在地・東京都三鷹市下連雀481は、当時の三鷹市下連雀の地番が若いほど国鉄中央線に近かったと思われることから、三鷹駅ないし吉祥寺駅から南下し連雀通りを過ぎ、人見街道と東八道路に近づいたあたりではないだろうか(後日、図書館で古地図により精査予定)。

★三鷹富士産業が軽三輪トラック「ムサシ」を生産することとなった経緯は不明であるのだが、大宮富士工業/富士重工業のダイナスター、ホープ自動車のホープスターOW型、近藤国松製作所のツウテンK-65型といった軽自動車規格内の三輪トラックが1955年(昭和30年)までに相次いで生まれていたことから、車体が小さく製作の容易な製品として軽三輪に目を付け自社製品として造ることを選択したのではないだろうか。
ムサシの販売開始年月については1957年(昭和32年)1月とする文献もあるが、1957年5月の第4回東京モーターショーでは既に初期の単眼1灯式ヘッドライトから2灯式ヘッドライトに変えた2ndモデルが展示されており(但し、ショー時点ではエンジンは初期型の単気筒空冷のままで外観だけを変更、少し間を置いてエンジンが2気筒水冷化された模様)、その際のモーターファン誌に「昨年デビューしたムサシ・・・」との記載があることから最初のムサシの市販時期は1956年(昭和31年)とみるのが妥当であろう。ムサシのセールス・カタログには発行年月の印字が全くなく、デビュー時期やその後のモデルチェンジ時期の特定は困難である。確かなことはムサシが一世を風靡する大ヒット作となったダイハツ・ミゼットDKA型よりも一足早く市場に出たことである。

★三鷹富士産業のムサシはダットサン110系の基本的には戦前の設計である旧弊なD10型4気筒SV860ccエンジンを流用し、それを小型化した空冷単気筒SV357cc10psエンジンを搭載して登場した。
1956年の初期型(1stモデル)は単眼ヘッドライト、1957年5月の東京モーターショーでは時流に合わせ2灯複眼ヘッドライトとなり、次いでエンジンを水冷2気筒359cc15psに換装(2ndモデル)。1958年には複眼ヘッドライトが独立した筒型からボディプレス一体型のデザインとなり(3rdモデル)、更に1959年には簡便なドアが付いた(最終4thモデル)。
1959年、三鷹富士産業はムサシの2ndモデル以降と同じ水冷2気筒15psエンジンを搭載した軽四輪トラック「パドル」(PD33型)を発表するが、ムサシと共に短期間で市場から消えた。三鷹富士産業の生産した軽三輪トラック「ムサシ」と軽四輪トラック「パドル」は生産台数も少なかったが、現存する個体も発見されずほぼ絶滅したと言われる。
なお、1956年のムサシのデビューと同時期には八洲自動車製作所が空冷OHV360cc17psエンジンを搭載した軽三輪「ヤシマ」を発売したが、これも短期間で市場から消えている。


●1957年 ムサシMF型
1957年(昭和32年)5月9日~5月19日に日比谷公園で行われた第4回東京モーターショー(当時の正式名称は全日本自動車ショウ)に出展されたムサシ。1灯から2灯に変更された2ndモデルだが、ショーの時点ではまだ初期型と同じ空冷10psエンジン搭載。この年のショーではプリンスの初代スカイラインが華々しくデビューした。三栄書房モーターファン1957年7月号より。
57年ショー



●1958年 ムサシMF21型 広報写真
恐らく三鷹富士産業の地元・三鷹市下連雀で写されたものだろう。しかしながら、背景に民家が写り込んだ何ともお粗末なメーカー広報写真ではある。ムサシが生産されていた1950年代後半のモーターファン誌を調べてみると、ダイハツ、マツダ、ヂャイアント、三菱、くろがね、オリエント、ホープスターといった銘柄の三輪トラックの広告は毎号掲載されていても、ムサシやヤシマ(八洲自動車製作所)の広告は全く見当たらない。雑誌に広告を出す余裕もなかったということではないだろうか。
58年広報写真三鷹



●1959年2月28日付 京都くろがね商会 セールスマンの手紙 (B5判・専用便箋3枚)
ムサシ軽三輪トラックの京都・滋賀における総代理店であった京都くろがね商会のセールスマン永田氏からムサシについて三鷹富士産業に問い合わせをした脇坂様という人への手紙。広報写真やカタログと一緒に出てきたものだが、当時のセールスマンがムサシをどのような点をポイントにして売っていたかが判り興味深い。達筆な文字と文章からして、セールスマン永田氏は当時そんなに若くはなく30代後半~40代ではと推測。この手紙が書かれてから2016年現在で既に丸57年を経ているが、もしかすると現在、御高齢ながら御存命かもしれない。セールスマン永田氏も買い手の脇坂氏も個人情報となり得るフルネームは書かれていない上、既に半世紀以上を経ているのでムサシに纏わる貴重な関連資料として全面公開することとしたい。

手紙(1)

手紙(2)

手紙(3)

前略 御葉書を賜り有難う御座いました。本商会はムサシ軽三輪自動車の京都・滋賀の総代理店となっており、本日、三鷹富士産業の方より連絡を戴きました。早速乍らムサシのカタログ及び写真1枚を同封の上、御送り申し上げます。
ムサシは軽三輪中唯一の水冷式4サイクル2気筒エンヂンを搭載し、軽快にして最も力の強い車です。気筒容積が359ccにて軽自動車の制限一杯の最高容積で積載量も百五十貫位まで積むことが出来ます。
水冷式エンジンの特徴は重量運搬や長距離にも絶対に無理が生じ無い為、エンヂンの寿命が長く保てます。五萬キロ以上御乗りになって、2サイクルものと異なりボーリングも利きますし、部品関係はニッサン及びくろがねと共通で全国的に最も豊富です。
何と申しましても車の寿命はエンヂンに御座いますが、ムサシの場合、4サイクルにてガソリンエンヂンですから燃料消費も混合の2サイクルより経済的ですし、オイルはドライサンプ方式となり絶えず循環しております。ガソリンエンジンは始動も良く完全燃焼に依る完全排気が出来ますので2サイクルの様にマフラーのカーボン詰まりによるエンヂンの不調は生じません。
又、他車に比較しますと床下の地上最大高が高く出来ておりますので、郡部方面とか悪路にも床をする恐れがありません。ムサシは市内でも軽三輪ブームと云いますか、良く出ますが特に南山城方面に多く出ております。
つまり、山坂の多い地方ではやはり水冷が最高となる様です。又、ムサシは最高速度も五十五キロ位ですが荷を積んだ場合でも同じ様に走るのが特徴です。
尚、御尋ねの車検はありません。免許は軽三輪免許で自動二輪以上の免許をお持ちの方は誰方でも運転出来る訳です。バッテリーは勿論ついております。損害賠償保険は年間八百円で本商会にて御取扱い致します。
尚、車の価格は現金正価25萬5000円となっており、分割の場合は26萬5000円となっております。分割の場合は、頭金が八萬円程度で六回乃至十回迄位の御相談を致します。
若し御希望賜れば何時にても現物持参の上、御覧戴けますから宜敷く御研究の上、御配慮賜ります様御願い申し上げます。
尚、滋賀県には大津市内にも此方のサブディーラーが御座居ますから、御買上げ後のアフターサービスは十分にさせて戴きます。
長くなりましたが、右、ムサシ軽三輪に関する御説明まで申し上げます。 敬具

脇坂様

昭和34年2月28日 係 永田




【主要スペック】 1957年 三鷹富士産業 ムサシ軽三輪トラック MF21型 (1957 Mitaka Fuji Industrial Musashi 3Wheel Light Truck Type.MF21)
全長2815㎜・全幅1265㎜・全高1650㎜・ホイールベース1925㎜・荷台長1200㎜・車重462kg・シャフトドライブ差動機式直結・水冷サイドバルブ直立2気筒4サイクル359cc・圧縮比6.5・最高出力15ps/4000rpm・変速機4速MT・乗車定員1名・積載量300~500kg・最小回転半径3000㎜・最低地上高160㎜・電装系6V・燃料タンク容量10ℓ・平坦路定速燃費30km/ℓ・始動装置:蹴下式(セルモーターはオプションにて取付可)・タイヤ4.00×16-4P・最高速度55km/h・都内販売価格24万5000円



●1956年? 三鷹富士産業 ムサシ 軽三輪トラック MF型 カタログ (縦18×横14.7cm・2つ折4面)
最初のムサシ号のカタログ。ムサシ最初期の一つ目小僧。単眼に左右3本のヒゲがユニークな表情を醸し出している。空冷単気筒SV357cc10psエンジン搭載。
56年(1)表紙

【中面から】
特長として、(1)軽免許 (2)車検なし (3)部品の60%がダットサン・くろがね等と共通であることが記されている。
56年(2)中面

裏面スペック
56年(3)裏スペック



●1957年? 三鷹富士産業 ムサシ 軽三輪トラック MF21型 カタログ (縦18×横14.7cm・2つ折4面)
ヘッドライトが1灯から2灯となり、エンジンは過負荷で問題の生じた空冷単気筒から水冷2気筒に換装された。
57年(1)表紙2灯

【中面から】
新しい水冷2気筒エンジン
57年(2)中面

裏面スペック
57年(3)裏スペック



●1958年 三鷹富士産業 ムサシ 軽三輪トラック MF21型 カタログ (縦19.5×横11.4cm・3つ折6面)
ヘッドライト周りを中心にボディブレスが変更された。
58年(1)表紙

【中面から】
58年(2)中1

計器1つの2輪のような運転席。最後までバーハンドル。
58年(3)バーハンドル計器

「1番よい水冷式・2気筒エンジン・3人前働く」
58年(4)1番よい水冷

裏面スペック
58年(5)裏スペック



●1958年 三鷹富士産業 ムサシ 軽三輪トラック MF21型 チラシ (縦21.8×横28.8cm・片面1枚)
58年型ムサシのフライヤー。オート三輪では2輪車(モーターサイクル)と類似したこの手のフライヤーが各社から多数発行された。
58年チラシ



●1959年 三鷹富士産業 ムサシ MF型 広報写真
簡易な半ドア(上部は取り外し式キャンパス窓)が付いた最終型。三栄書房モーターファン1959年5月臨時増刊「1959世界オート年鑑」より。このドアが付いた最終型のカタログは未見。
59年広報写真



●1959年 三鷹富士産業 パドル360 チラシ (縦19.5×横27.3cm・片面1枚)
短命ながらも前・後期ボディが存在したパドルの前期型フライヤー。
59年パドル360





★オマケ(その1): 英国 BUDGIE TOYS(バッジー) 1960年代のB級?ダイキャストミニカー
オマケにミニカーがないのはどうも寂しいということで、英国バッジートーイの古いミニカーを幾つかオマケに掲載します。バッジーと言うと、1967年6月に刊行された保育社カラーブックス「世界のミニカー」(中島 登著)に数台が載っていたことを思い出します。バッジーは日本に輸入されたブランドですが、1960年代当時、子供だった私はリアルタイムで入手することはありませんでした。現代の目で見ると緩く素朴で少々荒削りな造形ながらズッシリと重くヒンヤリとしたダイキャストの質感がとても魅力的なミニカー達です。

・BUDGIE No.240 スキャメル・スカラブ(Scammell Scarab)
全長15.5cm。スカラブは英国スキャメル社が1948年から1967年まで製造した三輪トレーラーで英国の国鉄構内等で大量に使用された車両。年代的にビートルズのメンバーは皆このクルマをリアルタイムで見ているに違いありません。
バッジー(1)スカラブ

・BUDGIE No.228 コカコーラ・バン (COCA-COLA VANB
全長13.5cm。「世界のミニカー」に掲載されていた1台。
バッジー(2)コーラ

・BUDGIE No.242 ユークリッド大型ダンプ (Euclid Tipper Truck)
全長11.5cm。これも「世界のミニカー」に掲載されていた1台。
バッジー(3)ダンプ

・BUDGIE No.244 レッカー車(Breakdown Truck)
全長13.5cm。
バッジー(4)レッカー

・BUDGIE No.234 ブルドーザー運搬トレーラー (Heavy Duty Transporter with Crawler Tractor)
全長15cm。
バッジー(5)トレーラー


・BUDGIE 集合写真
バッジー(6)集合



★オマケ(その2): スキャメル・スカラブ 動画 (47分)
少々長いですが、オマケ1の最初のミニカーの実車動画です。スカラブの保存の様子や現役当時の貴重な映像などが見られます。興味のある方だけどうぞ。


★1928年 リンカーン 最初の「リンコン號」 戦前 日本語版 ~ 自動車カタログ棚から 311

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今日はホワイトデーでしたね!みなさんは沢山プレゼントしましたか??あるいは沢山もらいましたか??ワタスは実は人にプレゼントするのが大好きなんです♪♪
しかーし!!何しろ義理でもバレンタインにチョコを貰えないという謂わば悲惨な生き地獄におりますもので、プレゼントする相手もいないという訳なのですYO!!でも、ワタスにとってホワイトデーというのは毎年プレゼントしたい衝動に駆られて駆られて、駆られながら終わる1日となりますNE☆早くこんな人生とはオサラバしたいNA☆


近頃、トミカさん(→maroさんの何とも優しいムードを真似してみましたYO) が異様に熱くてビックリンコDAYO!
ヤフオクを見るともなしに見ているとF6-1-8ロールスロイス・ファンタムⅥアイボリーに文字入れ2次加工しただけのアイアイアドさんのワンダーランド限定品が98550円!とか、どこの玩具店でも220円とか240円で普通に売っていた50-1ハイエース牧場トラック赤キャブが56000円!とか信じられない高値が付いています。ハイエースとダイナの牧場トラックやキャリイの家畜運搬車あたりは、どこでも買える通常品だったのに高額となっている理由は一体何なのでしょうか。そんなに高額なら昔入手した手持ちのモノを売ってしまってもいい気がしてしまいます。トミカさんの高値は中国人コレクターの所為だとの話をよく聞きますが、初回限定カラーのトミカさんでさえすぐに値上がりするという今のような状況がいつまで続くのか、もし今後も数十年と続くのならマメにトミカさんだけ買っておけば下手な金融商品に手を出すよりも余程良い利殖になるのかもしれません。尤も売って儲けることを目的にコレクションをするというのは本当のコレクターとは言えない気もしますが、自分の集めたモノの資産価値が高くなることで困るという人もいないでしょう。私はトミカさんに限らずミニカーを買う場合、余程気に入った車種(ポルシェ356とか)以外は意識的にダブって買うことはまずないのですが、コレクション用と売却資産用とで同じものを2台ずつ買っておくという手もありなのかもしれませんNE。


嘗て311と言えば国産旧車好きなら1967年にデビューしたフェアレディ2000の型式名SR311を連想したものですが、現在は何と言っても2011年3月11日に起こった東日本大震災でしょう。あれから丸5年。早いものです。津波の被害を受けた地域以上に放射能の被害を受けた地域の問題が深刻です。100年経っても人は住めないかもしれないのですから。

閑話休題
あの震災の翌年2012年の6月に始めた「自動車カタログ棚から」シリーズも今回が311回目。週に1度はアップしたいという気持ちがある反面、アップしなければという義務的なプレッシャーもあり、根がグウタラなので休みの日はボーッとしていたい気持ちもあり、記事を一つアップするためにはかなりの時間と労力がかかることから、実はちょっと疲れてきた感があります(汗)。
その上、色々用事もありこの週末の更新はどうしても出来ませんでしたが、あまり間隔の開かない内に、大急ぎで1記事アップしておきます。
まだ世の中に公開されていない自動車カタログをWeb上にアップしておきたいという思いから、今回はアメリカの高級車リンカーンの最初の世代の大変稀少な日本語版カタログをご紹介することとします。カタログに記載されている内容を全部書き写してアップするつもりでしたが時間がなく出来ませんでしたので、内容をじっくり読んでみたい方は御面倒をおかけしますが画像を拡大もしくは印刷して御覧ください☆☆☆
 



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★1925年(大正14年)2月、日本法人の「日本フォード」が横浜市緑町に組み立て工場(日本フォード子安工場)を設置、フォード車のノックダウン組立を開始した。次いでゼネラルモータース(GM)も大阪工場を設置して日本に進出し、戦前の日本の自動車市場は、この2社によって寡占状態にあった。
フォードにはリンカーン(Lincoln)、GMにはキャデラック(Cadillac)というフラッグシップモデルが存在したが、当時の日本市場での高級車の販売は殆ど見込めなかったため、それらは日本組立をされずに少数ながら完成車輸入の形が採られた。


★リンカーンとキャデラックと言えばアメリカを代表する高級車の2大巨頭だが、そのルーツを辿ると同じ一人の人物に行き着く。即ち、キャデラックは不世出の名エンジニア ヘンリー・マーティン・リーランド(Henry Martyn Leland;1843年2月16日-1932年3月26日)が1902年(明治35年)10月に生み出し1909年(明治42年)にGMに450万ドルで売却したクルマであり、リンカーンはリーランド自身が1917年(大正6年)に設立したリンカーン・モーター・カンパニーにより1920年(大正9年)9月より生産され1922年(大正11年)2月4日にフォードに800万ドルで売却されたクルマなのである。


★最初の世代のリンカーンはリーランドのイニシャルを付した「モデルL」と呼ばれ、1920年(大正9年)9月に1921年型として生産が開始され、1930年型まで10年間に亘り生産された。
1931年型で過渡的なモデルKとなり1932年型に至り有名なV12搭載のモデルKBが登場した。
リーランドは最初のリンカーンのデビュー時に既に77歳となっていたが、生涯、最高の材質と工作精度を追い求めるエンジニアであったので、リンカーンは極めて高品質なクルマとして登場した。60度V8・5ベアリング付の5900ccSVエンジンはクランクシャフトを初めとする各可動部分が高精度でバランスされ、ヴァイブレーション・ダンパーを持っていなかったのは異例のことであった。130インチ(3302㎜)または136インチ(3454㎜)の長大なホイールベースに梯子型フレーム、前後共に半楕円リーフ・スプリングのサス、3速ミッション、後輪のみに付いたメカニカル・ブレーキという当時としてもオーソドックスな設計ではあったが、何にも増して設計・材質選択・工作の全ての過程における入念かつ良心的な姿勢が市場での高い信頼を生んだ。
ところが、入念な工作は高コストとなり車両価格を押し上げる結果となった。キャデラックV8が2500ドル前後だった時代にリンカーンは最廉価な4ドアセダンでも6000ドルもしたのである。そのため販売不振に陥り、生産開始から僅か1年強でフォードに売却されることとなった。フォードの手中に落ちたリンカーンは、ジャドキンス、ブラン、ル・バロン、ディートリッヒ、ロック、マーフィー、ウォーターハウスなどの多数のコーチビルダーにデザインを募集し、その中から当時のフォード社長エドセルの確かな審美眼により選ばれたものがカタログモデルとされた。これによりリンカーンの最も大きな問題であった地味過ぎるスタイルに変化が起こり、リンカーンは上流層の目にも留まる高級車となった。また、フォードに買収された後は生産方式の合理化により価格も大幅に下げられ(4ドアモデルの場合、6000ドル→4200ドル等)、信頼性の高い高級車として名声を高めていった。尤も当時のアメリカにはキャデラック、リンカーンより更に上位に位置するピアス・アロー(Pierce-Arrow)やデューセンバーグ(Duesenberg)といった超高級車が存在した。


【主要スペック】 1928年リンカーン モデルL 4ドアセダン (1928 Lincoln Model L 4door Sedan)
FR・ホイールベース3454mm・水冷V型8気筒 6306 cc( 384.8 cu in)・最高出力90 HP/2800rpm・変速機3速フロアMT・電装系6V・4輪ブレーキ(1926年型までは後輪のみ)・乗車定員6名・最高速度137km/h(85mile)・生産台数2403台・米国本国販売価格$3700


●広報誌「リンカーン」(The LINCOLN) 1926年3/4月号 (縦30.5×横23cm・英文24頁)
手元にはこの1冊しかないが、恐らく隔月刊(bimonthly)で発行されていたリンカーン1車のための広報誌。内容はリンカーンについての記事は僅かで高級家具、別荘地、アジア旅行記、映画、スポーツ等、当時のアメリカ上流層向けの記事を寄り集めて編集したもののようだ。日本フォード設立から1年後の発行のため当時、アメリカから日本フォードに送られてきたものと思われる。この冊子の発行された1926年の春は日本では大正15年。1926年の12月25日に昭和となった。表紙の黄色いクルマは前後席にウインドを持つ豪華なスポーツ・フェートン。絵では後席のウインドは倒されている。
広報(1)

ホワイトハウスにて: 人物は英国のEsmeという伯爵らしい。フロントウインドが前傾しサイドに間隙を埋める三角窓が付くのがモデルL時代のリンカーン・セダンの特徴。中央がダブルとなったフロントバンパーも1924年型~1931年型までのリンカーンの大きな外観上の特徴。有名なグレイハウンドのマスコットが付いていないのは、1926年の時点ではオプションであったため。
広報(2)ホワイトハウス

裏表紙
広報(3)裏表紙




●1928年? リンカーン 本カタログ (縦24.1×横31.3cm・紐綴じ・上質紙・日本語24頁)
発行年月・発行元の記載はないものの、「リンコン車が日本に初めて輸入されて漸く2年」と記載があることから、日本フォード設立から2年を経た1927年乃至1928年の発行と推定。ホイールベースはモデルL初期に存在した130インチは消え、136インチ(3454㎜)1種。WBは1931年のモデルKでは145インチに統一された。リンカーンを「リンコン」とする表記は日本フォードでは1930年代後半まで使用したが、印刷物によっては例外的に現在と同じリンカーンの表記とされているものがある。「ボディ図は日本で好評を博しているもの数種を示すに過ぎず、他にも色々な型があり如何に気難しい人々の趣味にも合うようになっています。」と記載の上でスポーツ・ツーリング、スポーツ・フェートン、7人乗りリムジン、ブローアム、クラブ・ロードスター、スポーツ・ロードスターの6種のボディ図がカラーで掲載されている。屋根なしの伊達車と最上級のリムジン、ブローアムが掲載され、スタンダードな4ドアボディの掲載はない。昭和初期の日本でリンカーンを買うような超富裕層は地味な4ドアセダンなどを買わず極くフォーマルなリムジンやブローアム、または正反対にロードスター等の遊び車を好んだという見方も出来るのではないだろうか。
本(1)表紙

【中頁から】
表紙を開くとリンカーンのマスコット「グレイハウンド」の大きな絵が現われる。
本(2)グレイハウンド

リンコン車の本質
本(3)本質

リンコン自動車会社
本(4)リンコン自動車会社

リンコンの優秀なる理由
本(5)優秀なる理由

リンコンの背後にはフォードの資源・リンコン車の車体(ボディメーカー)
本(6)フォードの資源と車体

スポーツツーリング(ボディ架装:ロック)
本(7)スポーツツーリング

魅惑的なデュアルウインドを備えたスポーツフェートン(ボディ架装:ロック)
本(8)スポーツフェートン2枚窓

7人乗りリムジン(フォード自製ボディ)
本(9)7人乗りリムジン

ブローアム(ボディ架装:ブラン)・・・・運転席には幌の用意もなくショーファー(おかかえ運転手)は雨ざらしというのは当時の階級社会を物語る。
本(10)ブローアム雨ざらし

クラブロードスター(フォード自製ボディ)
本(11)クラブロードスター

スポーツロードスター(ボディ架装:ロック)
本(12)スポーツロードスター

V8エンジン
本(13)V8エンジン

60度型エンジンが90度型に優る理由・リンコン サービス
本(14)60度型エンジン勝る理由

リンコンは何処でもリンコンで通る・明細書(スペック)
本(15)リンコンは何処でもリンコン

スペック
本(16)スペック

最終頁: 日本におけるリンコン車と「リンコン所有者芳名録」
徳川圀順、小笠原長幹といった華族や三菱財閥の総帥であった岩崎小弥太といった名前がみられ、庶民には凡そ縁のないクルマであったことが判る。
本(17)日本におけるリンコン




●1928年? リンカーン・オープンカー 専用カタログ (縦15.3×横25cm・日本語16頁)
屋根なしカブリオレだけを掲載した専用カタログ。この時代の日本でこのような豪華で洒落たクルマを買った人は極く少数の超上流だっただろう。現代のカブリオレのような電動ルーフなどは当然存在しなかった時代である。この時代は自動車が幌型フェートンから鋼製ルーフを持つセダン型に主流が移行する前の過渡期でもあった。上掲のカタログと同時代と思われるが、クルマの絵は全て異なり、スポーツ・フェートン、スポーツ・ツーリング、スポーツ・ロードスターの3車のみが掲載されている。このカタログには大阪のリンカーン代理店であった河盛商店(大阪市東区小橋東ノ町53)のディーラー印が裏表紙にスタンプされている。
日本語(1)表紙

【中頁から】
幌型リンコン自動車の解説。最下部に「フォード自動車会社所属 リンコン自動車会社」と記載されている。
日本語(2)フォード所属・・

スポーツフェートン(ボディ架装:ロック)
日本語(3)スポーツフェートン1

スポーツフェートンのデュアルウインドは後席の方が若干大きい。
日本語(4)スポーツフェートン2絵

スポーツツーリング(ボディ架装:ロック)
日本語(5)スポーツツーリング1

日本語(6)スポーツツーリング2絵

スポーツロードスター(ボディ架装:ロック)
日本語(7)スポーツロードスター1

日本語(8)スポーツロードスター2絵




●1928年? リンカーン・オープンカー 専用カタログ (縦32×横23.2cm・英語12頁)
これも屋根なしカブリオレだけを掲載した専用カタログの米国本国版。上掲の日本語版と同様に河盛商店のディーラー印がスタンプされている。日本語版とは内容は全く異なり写真中心の構成となっている。
英語(1)表紙

【中頁から】
オープンカー概説。最下部にはリンカーンモーターカンパニーはフォードモーターカンパーニーの一部門と印字されている。
英語(2)扉頁

スポーツツーリング
英語(3)スポーツツーリング

スポーツフェートン
英語(4)スポーツフェートン

スポーツフェートンの室内。革張りの分厚いシート。前席中央にはこの時代で既にセンターアームレストが備わっている。
英語(5)スポーツフェートン室内アームレスト

スポーツロードスター
英語(6)スポーツロードスター1

スポーツロードスターのリアビューとランブルシート
英語(7)スポーツロードスター後ろランブル





★オマケ(その1): 仏ディンキー 532番 1/43スケール 1958年リンカーン・プレミア
1920年代のリンカーン・モデルLのミニチュアは手元に1台もなし。しかし、オマケにミニチュアがないのは寂しいということで、これまでにアップしていないミニカーをオマケに掲載します。これは1958年リンカーンの本シリーズ第206回記事のオマケに掲載漏れしていたミニカー。全長12cm。ダイキャスト製。シートも付かない素朴な造りながらビンテージ感は抜群の1台。
仏ディンキー(1)

仏ディンキー(2)

仏ディンキー(3)



★オマケ(その2): 英ディンキー 170番 1/43スケール1964年リンカーン・コンチネンタル
全長12.5cm。ダイキャスト製。これは1961年リンカーンの本シリーズ第290回記事のオマケに掲載漏れしていたミニカー。フロントグリル縦5本線の1964年型モデル。前後グリルがプラパーツながらヘッドライトにはジュエルが奢られている。ボンネット、トランク開閉アクション付。
英ディンキー(1)

英ディンキー(2)

英ディンキー(3)



★オマケ(その3): ユニバーサルホビー 1/43スケール 1964年リンカーン・コンテチネンタル「007ゴールドフィンガー」劇中車
全長12.5cm。ダイキャスト製。2009年発売製品。書店売りの冊子付ジオラマ仕立て007劇中車ミニカーシリーズの1台。グランド・スラム計画に乗らなかったシンジケートのボスの一人ソーローが殺され、このコンチネンタルごとスクラップにされた。
ゴールドフィンガー(1)ジオラマ仕立て

ゴールドフィンガー(2)



★オマケ(その4): ユニバーサルホビー 1/43スケール 1964年リンカーン・コンテチネンタル・ストレッチリムジン「007サンダーボール作戦」劇中車
全長15cm。ダイキャスト製。2012年発売製品。これも書店売りの冊子付シリーズの1台。スペクターのメンバー、ジャック・ブヴァール(?)の所有車として登場。
リムジン(1)

リムジン(2)

オマケ3と4の並び。DB5は1960年代の英コーギー。
リムジン(3)集合



★オマケ(その5): 本日のホットウィール 1/65スケール程度 1963年リンカーン・コンチネンタル・コンバーチブル
全長8cm。ダイキャスト製。2003年発売製品。キャンディーグリーンがイケてますNE。
HW(1)

HW(2)



★オマケ(その6): 映画 1964年「007 ゴールドフィンガー」
007と言えば、やはりショーン・コネリーとアストンマーチンDB5と美女(ボンドガール)ですNE。




★オマケ(その7): 1928年(昭和3年)生まれの有名人
今回の1928年リンカーンと同年生まれの方々です(順不同・敬称略)。きっと皆さんもご存知の方がいるのではないでしょうか?お元気であれば今年の誕生日で満88歳ということになります。

渥美 清(俳優)・宮城 まり子(女優)・手塚 治虫(漫画家)・小島 功(漫画家)・久里 洋二(アニメーター)・荒井 注(ドリフターズ)・河合 隼雄(心理学者)・森 毅(数学者)・土井 たか子(政治家)・ 兼高かおる(ジャーナリスト)・コーリン チャップマン(ロータス設立者)・ジェームズ コバーン(俳優)・ボ ディドリー(ロックンローラー)・ アンディー ウォーホル(アーティスト)

★1977年3月 津軽の旅 太宰 治・斜陽館 南部縦貫鉄道レールバス ~ 旅の記録 001

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太宰治(1909年6月19日-1948年6月13日;38歳没)は、ジョン・レノン(1940年10月9日-1980年12月8日; 40歳没)と同じでけっして銅像にして崇めたてるべき人ではないし、銅像にされても本人はちっとも喜びはしなかっただろう。
それでも現在では津軽の何カ所かに太宰の銅像ができて、太宰ゆかりの地を訪れる人の目を楽しませている(芦野公園や小泊など:小泊には幼い太宰を6年8ヶ月間子守した越野タケと2人の銅像)。
私が津軽を初めて訪ねたのは1977年(昭和52年)3月のことで、太宰より11歳年長の1898年(明治31年)7月14日生まれの越野タケさんは78歳で未だ御存命であったが、1948年(昭和23年)6月13日に太宰が愛人・山崎富栄と玉川上水で入水自殺をしてからは既に29年の時が流れていた。 


太宰 治・・・・・1946年(昭和21年)、銀座ルパンにて。手に持つ煙草はゴールデンバット。(撮影:林 忠彦)
太宰



「自動車カタログ棚から」シリーズは第311回で一休みすることとして、今回は個人的に記録を残しておきたい旅の記事です。個人的な日記的な内容も含まれ、他人が読んでも全く面白くはないかもしれませんが、もし御興味がありましたら御覧ください。もしかすると1970年代という時代の空気を感じて戴けるかもしれません。 



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★1977年(昭和52年)3月29日(火)~4月1日(金)、私が高校2年から3年になる前の春休みに青森一人旅をした。あれから早いもので今年2016年3月で丸39年の時が経つ。
旅の目的の一つは太宰治の生家や小説「津軽」に描かれた津軽の各地を訪ねること、今一つは南部縦貫鉄道のレールバスと津軽鉄道のダブルルーフ客車に乗ることにあった。デジタルカメラが普及する遥か以前のフィルムカメラ時代のこととはいえ、4日間で撮った写真は10数枚と非常に少ない。その上、当時プリントしたカラー写真は色が飛んできており酷い状態にある(ネガは行方不明)。鉄道車輛の写真は若干あるもののバスやタクシー等の自動車の写真は何と1枚もない。尤も普段都内にいても余程の旧車でもない限り当時は自動車にカメラを向けることはしなかったから、元々日常見かける自動車を被写体として撮って記録しておくという習慣が全くなかったのである。39年前の青森各地、特に駅前のタクシー乗り場等で例え数枚であっても自動車を被写体として写していれば・・・と今更ながら非常に悔やまれる。

★私には細かい時刻や場所、感じたこと等を書き残しておく習慣があったので、手元に残っているメモから旅の記録を残しておきたいと思う。
鉄道やバスの乗車/降車時刻は当時の時刻表とも一致するはずである。遠い将来、もしもタイムマシーンが出来て、記載の日時にその場所に行くことが出来たなら、そこには紅顔の美少年と言われた(?)17歳の多感な私がいるはずである。



●1977年(昭和52年)

・3月29日(金)
19時10分 上野発 急行「八甲田」乗車(牽引機EF58、客車オハ47)・・・・・車内は春の帰省列車のムード。東北訛りが物凄い。それに、そこら中で酒盛りをしていて騒がしい。ズーズー弁の知らないオジサンに何度も酒をすすめられるが未成年を理由にして飲まず。知らないうちに眠りに落ちる。

・3月30日(土)
5時35分 野辺地 着
6時48分 野辺地 発 南部縦貫鉄道キハ101/102レールバス・・・富士重工宇都宮工場1962年製。
野辺地早朝

7時13分 天間林 着~国道4号を歩く
8時24分 中野 発
8時33分 七戸 着・・・構内散策
七戸車庫

9時20分 七戸駅近くの食堂でチャーシューメン(250円)食べる。食堂に入ると、自分がいかにもよそ者に見えるのだろう、地元の客など大勢の視線が痛い。食後、国道四号を南部縦貫の盛田牧場前まで歩く。

11時30分 盛田牧場前 発・・・線路上を徒歩
13時16分 研修所前 発
研修所前

13時46分 野辺地 着・・・南部縦貫のレールバスと別れる。
野辺地午後

14時37分 野辺地 発 急行「くりこま2号」
15時13分 青森 着
15時15分 青森 発
16時07分 川部 着
16時20分 川部 発
16時59分 五所川原 着
17時03分 五所川原 発 津軽鉄道
17時41分 金木 着
18時00分 斜陽館 着 (宿泊料4000円)
19時頃 夕食 ミニスカートの綺麗なお姉さんから「君、どこから来たの?」と訊かれて、「東京です」とだけ答える。あまり魅力的なので思わず顔が赤くなる。青森にはこんな綺麗な女の人が多いのだろうか。

22時30分 就寝・・・・・夜中に2回も斜陽館の女性が戸を開けて「眠れますか?」と聞いてくる。太宰信者の自殺を恐れているのかもしれない。 

・3月31日(木)
7時00分 起床~朝食
8時15分 斜陽館 発・写真1枚撮る。
斜陽館

8時44分 金木 発
9時37分 津軽中里 着
9時45分 津軽中里 発 弘南バス・・・車中で聞こえてくる会話はさっぱり内容判らず。とても日本語とは思えない。
11時05分 小泊 着
11時40分 小泊駅前ラーメン屋 ミソラーメン(250円)・・・ラジオから石川さゆりの津軽海峡冬景色が流れたのには感動した。日本の風景には演歌がよく似合う。小泊の海はあまりにも暗く寂しかった。
小泊の暗い海

12時35分 小泊 発 弘南バス
13時45分 津軽中里 着・・・駅の売店でトミカ9番スバルR2と10番ホンダNⅢ360を買う(1台240円)、駅構内の古い機関庫とターンテーブルを見る。
津軽中里のターンテーブル

14時09分 津軽中里 発 津軽鉄道
14時23分 芦野公園 着・・・公園散策。幼い太宰が遊んだ芦野公園。人影一つなくうら寂しいが、ひどくロマンチックな風景だ。
うら寂しい芦野公園

15時38分 芦野公園 発
16時09分 五所川原 着・・・五所川原の街を歩く。玩具店2軒には古いトミカが沢山あったが全く買わず。

五所川原に停車中の津軽鉄道ダブルルーフの客車オハ312
オハ312

ダブルルーフ2

五所川原構内・・・ラッセル車(除雪車)の姿もみえた。
五所川原構内

18時12分 五所川原 発(キハ11+キハ17)
18時46分 川部 着
18時54分 川部 発 (牽引機ED75+スハ43)
19時41分 青森 着
20時00分 青森駅前食堂「鉄道員」で夕食(カレーライス300円+ミルクコーヒー250円)
21時35分 青森発 急行「十和田3号」乗車(牽引機未確認・客車14系)

4月1日(金)
9時54分 上野 着
11時頃 新宿小田急デパート ダイヤペットの小田急オリジナルカラーのポルシェターボ緑(850円)とやはり小田急オリジナルカラーのトミカ・ハイエース冷凍車「小田急」など数台を買い家路に着く。





★オマケ: 「津軽海峡 冬景色」  1977年 石川さゆり
この歌を知らない人はまずいないと思いますが、今回の記事中に登場した曲。日本の歌謡史に残る名曲だと思います。1977年(昭和52年)1月1日、日本コロムビアレコード発売。作編曲:三木たかし(1945年1月12日-2009年5月11日)、作詞:阿久悠(1937年2月7日-2007年8月1日)、歌:石川さゆり(1958年1月30日-)

★1971年 栄光社「じどうしゃ」いすゞベレットGTR ・新井 亮 ~ 乗物絵本棚から 001

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バンドのリハとピアノの練習、そして年度末から4月下旬にかけては午前0時43分の終電に間に合わず勤め先に泊りがけとなることの多い仕事の関係から、丸1日ないし2日かかることもある自動車カタログの記事をつくる時間がなかなか確保できないという事情があり、サクっとホントに30分~1時間程度でアップ出来る新しいシリーズ記事を始めようと思います。

私の場合、勤め先を出るのが午前0時30分を過ぎてしまうと御茶ノ水発午前0時43分発のJR中央線三鷹行きに間に合わず、深夜割増料金の高額タクシー代を払って帰る以外は帰る手立てがないのです。勿論、タクシー代は自腹になります。それに今の時期は朝も大体7時から仕事ですから、午前2時に帰宅してシャワーを浴びて速攻2時半に寝て、朝5時半まで3時間眠って6時に家を出て仕事に行くよりも勤め先に泊まった方が通勤時間往復約2時間という移動時間が消え、その分、睡眠時間が沢山取れるというメリットもあります。勤め先にはシャワーの設備がないのですが、近くのインターネット喫茶でシャワーだけ浴びるという手はあります。
インターネット喫茶といえば、私のよく利用する某チェーン店は利用するとポイントが付くのですが、利用料の割引には使えずフロントに置いてあるカップ麺やお菓子との交換にしか使えないので大変困っています。100円利用に付き1円ポイントが付き、現在7000円分位ポイントが貯まっているので、単純計算でそのネット喫茶にはトータル70万円位払っているのに利用料の割引きには一切使えずポイントが貯まる一方というのは本当に困ったものです。


閑話休題
・・・という訳で、今日はサクっとアップできる新シリーズ「乗物絵本棚から」です。手元の本棚や倉庫に多分500冊位?は保管してある過去30年以上かけてコツコツと集めた古い乗物絵本を1冊ずつピックアップしていくというものです。この新シリーズも究極の目標はやはり書籍化なのですが(大量に手元にある151系特急こだまの表紙の絵本などカテゴリー別のリスト化など)、出版するには著作権の問題をクリアすることが案外大変かもしれません。第1回はベレットGTRが表紙となった恐らく唯一の絵本です。



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●タイトル: ピッコロえほん じどうしゃ
●発行年: 1971年(推定)
●定価: 200円
●出版社: 株式会社 栄光社 (東大阪市新庄西75)
●絵: 新井 亮
●文: 西川裕子
●編集者: 北村よし子
●発行者: 北村市蔵
●製作: 本州製紙 株式会社
●判型/頁数: B5判・表裏共18頁
●入手時期: 1985年(昭和60年)頃
●入手先: 国鉄中野駅北口早稲田通り近くの古書店
●入手価格: 50円




【新井 亮(あらい りょう)画伯の略歴】

・1933年(昭和8年) 栃木県内にて出生

・1957年(昭和32年) 24歳: 東京芸術大学美術学部図案科卒業

・ 1958年(昭和33年) 25歳: 日本宣伝美術協会会員となる。「日本宣伝美術協会展奨励賞」受賞。

・ 1959年(昭和34年) 26歳: 大日本印刷主催カレンダーコンテスト金賞受賞。株式会社デスカ入社、河野鷹思氏に師事。

・ 1960年(昭和35年) 27歳: 毎日新聞社主催「毎日新聞広告賞特別賞」受賞

・ 1962年(昭和37年) 29歳:フリーランスのイラストレーター、デザイナーとして活躍。日立家電、西武百貨店、国土計画、いすゞ自動車、IBM、乗物絵本等にて幅広く仕事をする。

・ 1975年(昭和50年) 42歳: 銅版画制作開始。

・1978年(昭和53年) 45歳: 銅版画展(青山5610ギャラリー)出展

・ 1979年(昭和54年) 46歳: 日動画廊版画グランプリ展出展

・ 1980年(昭和55年) 47歳: 銀座「ギャラリーミキモト」に於いて個展

・ 1982年(昭和57年) 49歳: カレンダーコンテスト通産大臣賞

・ 1983年(昭和58年) パリの版元フランコニー社と契約エディションを行う。

・ 1984年(昭和59年) 51歳:  第1回ウッドパッケージ展(AXISギャラリー)出展

・ 1985年(昭和60年) 52歳: 新宿「京王百貨店」にて個展

・ 1986年(昭和61年) 53歳:  第2回ウッドパッケージ展(AXISギャラリー)出展

・ 1987年(昭和62年) 54歳:  六本木・金鳳堂ギャラリーに於いて個展

・ 1988年(昭和63年) 55歳:  和紙作品展(西武百貨店)出展

・ 1991年(平成3年) 58歳:  PAPER CUBIC展(アートフロントギャラリー)出展

・ 1994年(平成6年) 61歳: 銀座「ギャラリーミキモト」に於いて個展

・ 2009年(平成21年) 76歳: 逝去



●表紙: 1969年 いすゞベレット1600GTR
いすゞ自動車は1950年代より「いすゞのえほん」という恐らく販促用、工場見学時の配布用と思われるオフィシャル絵本を出しているが、この絵本は新井画伯がいすゞの仕事をしていた関係からか表裏表紙を含め何と全10枚の絵の中の9枚までがいすゞ車の絵が描かれており、謂わば非オフィシャルのいすゞ絵本のような様相を呈している。いすゞの実車カタログにあるイラストと酷似したものが含まれていることから、元々はいすゞの依頼で描かれたものを絵本に転用したものも含まれている可能性がある。絵本における新井画伯の画風は背景の描きこみがあっさりしているが、デッサン力は確かなものである。

※ベレット1600GTRの実車カタログについては、「自動車カタログ棚から」シリーズ第86回記事を御参照ください。

(1)表紙ベレGR


-以下、中の頁-


●1969年 いすゞTD50Eタンクローリー ・・・・・ロゴは「OIL」だが白黄のカラーリングはシェルのようだ。文:「せきゆをはこぶタンクローリー まあるいタンクをしょっている こんどおそとでみかけたら どれがそうだかあててごらん」
(2)タンクローリー


●1970年 いすゞベレット1500デラックス2ドア ・・・・・文:「じどうしゃにのってうみにいこう うみにうかんだおふねをみにいこう」
(3)赤いベレットセダン


●1970年 いすゞユニキャブKR80型・・・・・四駆ではないジープスタイルの貨客兼用レジャーカー。文:「でこぼこなあんて へーちやら のはらもはしっちゃう さばくもはしっちゃう やまにものぼっちゃう それが ゆにきゃぶ」
(4)ユニキャブ


●1970年 三菱D200 32トン積みオフロードダンプ+日野レンジャーKLコンクリートミキサー
三菱D200は全長7700㎜・全幅3470㎜・全高3450㎜の公道走行は不可のマンモス・ダンプ。文:「にほんでいま いちばんおおきい32トンづみ ダンプカー」
(5)マンモスダンプ


●1970年 いすゞBU15高速バスと0系新幹線・・・・・文:「ハイウェーバスはジャンボジェットみたいだな とうめいこうそくを びゅんびゅんはしる しんかんせんにもまけないぞ」
(6)オバQ


1970年 いすゞTXG10型 消防車・・・・・文:「うー うー ううー かん かん かん かじはどこだ すぐいくぞ しょうぼうじどうしゃは たのもしい」
(7)消防車


●1970年 いすゞTXD50型6トン積みボンネットトラック ・・・・・文:「トラックはちからもち おおきなにもつを いっぱいつんで はしっていく ときには うまやうしも はこびます」
(8)TXトラック


●1970年 いすゞベレットR6スパイダー
117クーペやベレットGTRと同じ1600ccツインカムG161W型エンジンを搭載したレーシングカー。文:「びゅーん ぶおーん わあ すごいな なんて はやいんだろう レーシングカー どれが いっとうしょうに はいるかな」
(9)R6スパイダー


●裏表紙: 1970年 いすゞTD50A-D 8トンダンプ
(10)裏ダンプ





★オマケ(その1): 1969年いすゞベレット1600TGTRの1/43スケールミニカー
ベレットの旗艦GTRのミニカーはトミカリミテッドヴィンテージなどの小スケール(3インチサイズ)や更に小さなコーヒーのオマケに至るまで夥しい種類が出ています。今回はミニカーの王道1/43スケールのみをご紹介します。1/43スケールは2002年発売のエブロ、書店売り国産名車Vol.11として2006年6月発売のノレブ、2014年5月発売のレジン製ポストホビー「マーク43」の3種類。ノレブ以外はカラーバリエーションが各3色ずつあります。販売価格はエブロが税抜3400円、国産名車ノレブが税込1790円、マーク43が税込9504円(税抜8800円)。高価なマーク43はリアサイドウインドが妙に大きく、あまりよいプロポーションではないように思います。プロポーションは価格がマーク43の5分の1以下の国産名車が一番スリムで恰好良いように感じます。なお、ベレットGTRにはリアルタイム(当時物)のスケールモデルは存在せず、最初に出たのは1980年代後半のエルエスの1/32スケールのプラモデルでした。

・エブロ品番307
エブロ(1)

エブロ(2)

エブロ(3)

エブロ(4)箱


・国産名車Vol.11
ノレブ(1)

ノレブ(2)

ノレブ(3)

ノレブ(4)


・MARK43品番PM4314P
マーク(1)

マーク(2)

マーク(3)

マーク(4)箱


3台の並び(左からマーク43、ノレブ、エブロ)
並び前

並び後ろ

マーク43オレンジ(左)とノレブ青(右)のフロント。バンパー下の左右スモールランプが表現されているのはマーク43のみ。
ノレブ青とマーク橙



★オマケ(その2): 1969年 日本グランプリ 動画
言わずと知れたニッサンR382が優勝したレースの動画。クローズドボディのいすゞベレットR6も出場するが途中で火を噴く(9:30前後)。




★1967年 光洋出版じどうしゃ ベレットBタイプ トヨタ2000GT ~乗物絵本棚から 002

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東京はもう桜が満開ですが、4月1日(金)・2日(土)は花冷えでお花見には寒すぎる陽気でした。しかし、今日4月3日(日)は曇りがちながら最高気温が20度まで上がり、春の陽気が戻るようです。

4月と言えば、4月1日はエイプリルフール(April Fools' Day)ですNE!1年に一度は嘘をついてもよいという日です!
さてさて、今回、ここからは私の内緒話です。興味がない人は読み飛ばしてくださいNE。。。
以下の10項目のうち9項目までは本当のことなのですが、1つだけ嘘が混じっていますYO。果たして嘘は何番でしょう??(正解はこの記事の最後に記載しますNE)

1) 連合国軍のお仕着せだ、非現実的なまでに平和主義・理想主義的であるとの批判があったとしても私は現在の日本国憲法を変える積極的な理由はないと思う。

2) 先天性の心疾患=心臓病のため子供の頃に運動することを殆ど許されなかったため、私は野球やサッカーなどには殆ど縁がなくモータースポーツ以外のスポーツにはあまり興味がなかった。ちなみに子供の頃の夢はF1ドライバーになることだった。

3) 私のアイドルは10代の頃からジョン・レノンとエリック・クラプトンだった。もうずっと一生好きなままで死ぬだろう。

4) 私はピアノではショパンのバラード全曲演奏が当面の目標である。

5) 私はギターでは高校生の頃にシャコンヌなどバッハをよく弾いていたが、今は楽譜に縛られず力を抜いて気楽にブルースを弾いている時が一番心地いい。

6) 私は以前、英語・仏語・日本語が全てネイティブレベルに堪能な目も覚めるような絶世の美女と交際していたが、彼女はフランスで採った医師免許では日本国内で医療行為が出来ないためにもっぱらフランス語の講師をしていた。

7) 私は有名人ではなく一般人なのに実は雑誌の表紙に出たことがある。根はちびまるこちゃんの中野さんキャラで大の照れ屋なのにステージに立って演奏したり人目につく目立つことが大好きという摩訶不思議&複雑な内面を持っている。

8) 私は死ぬほど好きな女性なら、彼女のウ○コを食べてもいいと思う。

9) 私はこの歳で妻子もない独り者なので、やがて歳をとり孤独死することがマジで怖い。

10) 私は定年退職が視野に入ってきたこの歳になっても生涯独身でいくという覚悟が出来ずに、いまだに結婚を夢見ているという女好きの大馬鹿野郎である。



閑話休題
さて、内緒話はここまでとして、今日もサクっとアップする新シリーズ「乗物絵本棚から」です。新シリーズは手元の本棚や倉庫に多分500冊位?は保管してある過去30年以上かけてコツコツと集めた古い乗物絵本を1冊ずつピックアップしていくというものです。この新シリーズも究極の目標はやはり書籍化なのですが(大量に手元にある151系特急こだまの表紙の絵本などカテゴリー別のリスト化など)、出版するには著作権の問題をクリアすることが案外大変かもしれません。第2回の今回も前回と同様、表紙がいすゞベレット、しかもベレットの中でもレアなBタイプが表紙に描かれた珍しい絵本です。



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●タイトル: 子供の本棚 じどうしゃ 2才~4才
●発行年: 1967年(推定)
●定価: 150円
●出版社: 光洋出版 株式会社 (大阪市住吉区万代西4-40)
●絵: 不詳
●文: 不詳
●編集者: 村木 剛
●発行者: 村木 剛
●製作: 光洋出版 株式会社
●判型/頁数: B5判・表裏共22頁
●入手時期: 1998年(平成10年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 200~300円位



●表紙: 1967年 いすゞベレットBタイプ1300ほか
いすゞベレットの美点は独特な後輪スウィング・アクスルによる優れた操縦性にあったが、その独特な操縦性に慣れない一般ユーザーやタイヤの片減りなど固定軸と比較した際の耐久性の低さを指摘するタクシー業界の声に応える形で1966年(昭和41年)11月に後輪サスペンションを常識的なリジット・アクスルに変更した「ベレットBタイプ」が発売された。角型のヘッドライトと直角に切り落とされたリアエンドがBタイプの外観上の特徴であった(角型ヘッドライトは後の一時期に通常のベレットにも採用された)。しかし、ベレットの美点を自ら否定した形のBタイプに市場での良い評価は得られず、1969年(昭和44年)初頭までの僅か2年余りでカタログから落ちた。
今回の絵本の表紙はメインに何とこのベレットBタイプが描かれている。更に驚くべきことに表紙左上には今も昔もレア度ではベレットBタイプに優るとも劣らないホンダL700ライトバンが描かれている。表紙右上にはメジャーなトヨタスポーツ800(通称ヨタハチ)が描かれているが、何とタルガルーフを切り取った形で描かれている。この絵本には画家(絵師)のクレジットが全くなく、誰の筆によるものかは不明。添えられた文章の作者も不詳。

※ベレットBタイプの実車カタログについては、「自動車カタログ棚から」シリーズ第11回記事を御参照ください。
(1)表紙Bタイプ


-以下、中の頁-


●1965年 いすゞBXD30ボンネットバス ・・・・・0系新幹線との東名?を走る品川ナンバーのいすゞボンネットバスという珍妙なツーショット。
文:「おとうさん まどをあけますよ かぜがひんやり ぼくにはなしかけます ―きみ バスのたびはたのしいかい」
(2)いすゞBXD


●1965年 いすゞBU30P高速バス ・・・・・0系新幹線と立体交差する多摩ナンバーのオバQ、小さく描かれた後続のバスもオバQのようです。
文:「バスのたびなら つんつんつん ほそうどうろはすてきだな あなぼこみちなら がっくんくん しろいほこりがまいあがる ほそうどうろよ どこまでも つんつん つづけ どこまでも」
(3)いすゞオバQ


●1964年 ニッサン セドリック ・・・・・品川5ナンバーの横目のセドリックが走っているのは対岸に島がみえることから江の島でしょうか。後続は三菱ふそうMAR820高速バス、対向車の丸テールは1964年クラウンに見えます。
文:「こんな みちだったら いつまでも はしっていたいな けしきはいいし くるまはすくないし もう おもちゃばこのなかのような まちへはかえりたくないな じどうしゃのひとりごとです」
(4)横目セド


●1965年 ランチア フルヴィア・クーペ ・・・・・当時、ランチア輸入代理店・国際自動車商事が少数輸入したフルヴィア。当時としてもマニアックなフルヴィアを描いた画家は相当なクルマ好きだったのではないでしょうか。バックに描かれているのは、イギリスP&O社の客船「オリアナ号」。オリアナ号は1963年4月に初めて日本に寄港し、翌1964年の東京オリンピックの際には横浜港に停泊して海上ホテルとして使用された。
文:「どこから きたのか しろいふね のってみたいな しろいふね ゆめでみたよな しろいふね のってみたいな しろいふね」
(5)ランチア


●1963年三菱ふそうAR470SスーパーデラックスはとバスAタイプ ・・・・・1960年代の花形国産バス、通称「月光仮面」。自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏がデザインした傑作バス(「自動車カタログ棚から」シリーズ第121回記事参照)。
文:「かんこうバスでらんらんらん とうきょうけんぶつ たのしいな ぎじどうまわって きゅうじょうへ こうそくどうろを しゅろるるる かんこうバスでらんらんらん とうきょうのやね とおってく」
(6)はとバス


●1963年トヨペット クラウン デラックス他・・・・・足立ナンバーのRS41クラウンや品川ナンバーの日野RA100-P高速バスが走る首都高。クラウンの後続車はいすゞベレット。
文:「こうそくどうろはいいな のろのろうんてん しなくってもいいし どこまでも びゅんびゅん とばせるし じどうしゃは さいこうにごきげん」
(7)クラウン他


●1965年トヨペット コロナ ハードトップ RT50・・・・・品川5ナンバーは日本初のハードトップRT50(「自動車カタログ棚から」シリーズ第214回記事参照)。
文:「たにがわぞいの やまみちを くるまでいけば だれかしら きらりさかなを つりあげた どんな さかながつれたんだい くるまをとめて おとうさん こどものように うれしいな」
(8)コロナHT


●1961年 日産ディーゼルB80ボンネットバス ・・・・・戦前からクルップ特許の、2ストロークエンジンを生産していた民生デイゼルは1960年に日産ディーゼルとなるが、民生時代より日産製ボンネットバスのボディを流用したBS系等と並行して1955年から1961年にかけて日野BHとよく似たマスクのB80およびB70を生産した。同じマスクのT80等のボンネットトラックは1960年代後半まで生き延びたが、B80型バスは三菱製ボンネットバスに次ぎ1960年代初頭に姿を消した。この白銀の山をバックにした足立ナンバー車の「朝日観光」は現存する同名の事業者とは異なる架空の事業者と思われる。
文:「まがりくねって やまのみち のぼりつめれば ゆきのやま スキーかついで いつかまた バスでのぼろよ このみちを」
(9)UDボンネットバス


●1965年 日野TC30梯子消防車・・・・・この絵本の中でこの車両だけ大阪ナンバーを付けている。TC30は1960年代最大の前2軸国産消防車。この顔の消防車と言うとトミカ29-1を思い出す人が多いのではないでしょうか。後続の縦目の消防車は日産FS680。
文:「どんなにたかい ビルだって はしごのばせば とどくんだ 十かいだてのビルだって まどからみずを かけるんだ ぼくは はしごしゃ うーうーうー ビルのかじなら まかしとけ」
(10)日野消防


●1965年 トヨタスポーツ800・・・・・品川5ナンバーのヨタハチ。残念ながら少々バランスが崩れたヨタハチです。
文:「ひろいな うみは ついつい あのふね ごきげん はしってる スピードだったら  まけないが みちはほそくて はしれない スポーツ・カーでうみのように ひろいところを はしりたいな」
(11)ヨタハチ


●裏表紙: 1966年 ホンダS800
(12)エスハチ裏





★オマケ: 隔週刊スペシャルスケール1/24 国産名車コレクションVol.01 1967年 トヨタ2000GT
全長17.4cm。ダイキャスト製完成品。モデル製造:ixo。定価:創刊号特価1499円。発売日2016年3月16日(水)。ドア開閉アクション付。エッチングの繊細なワイパー付。アシェット・コレクションズ・ジャパン発行。書店売り分冊百科の第1号。1/43スケールの国産名車コレクションは200号以降では何故か外国車が入り混じりつつ現在に至るまで既に10年も続いているシリーズだが、何と2016年3月に1/24スケールの新シリーズが新発売となった。1号~4号までは、東京・大阪・栃木の3地域限定発売、その後(好評であれば)、60号まで全国展開するらしい。しかし、1/24スケールが60台となると置き場所にも困りそうです。定期購読せずに好きな車種だけ買っていくという方がいいかもしれません。
創刊号トヨタ2000GTの1/24スケールで約1500円という価格はTLVの乗用車が1台2000円を超える現在では激安の感あり、プロポーションもなかなか良いのでトヨタ2000GTが好きな人にはmustアイテムと言えます。安価なのは創刊号だけで第2号のハコスカHT GT-Rからは3999円の通常定価。既に2号のハコスカまで発売されています。都内では2016年4月初旬現在、街の書店ではまだ1号のトヨタ2000GTも店頭在庫があります。私は思わず2台買ってしまいました(遊ぶ用と保存用)。但し、書泉グランデ等のマニアの集まる大型店では1号は完売しています。10号までのラインナップは以下の通り非常に魅力的。1/24スケールということからプラモデル愛好家の方にもお薦め出来ます。個人的には5号のスバル360デメキンが特に楽しみです♪もし60号まで続けばベレットGT、コンテッサ1300クーペ、初代シルビアあたりも出るでしょう。
9号まで買うと1/24スケールの1968年ポルシェ911S、30号まで買うと1/24スケールのカウンタックLP400Sというオマケも付きます(国産名車シリーズなのにオマケは外車というのは謎ですが)。

・第2号 3月30日(水)発売 1970年スカイラインHT GT-R (KPGC10ハコスカ)
・第3号 4月13日(水)発売 1966年ホンダ S800オープン
・第4号 4月27日(水)発売 1968年コスモスポーツ後期型
・第5号 発売日未定 1958年スバル360最初期型
・第6号 発売日未定 1971年フェアレディ240Z
・第7号 発売日未定 1968年いすゞ 117クーペ(ハンドメイド)
・第8号 発売日未定 1970年セリカ1600GT
・第9号 発売日未定 1973年スカイラインGT-R (KPGC110ケンメリ)
・第10号 発売日未定 1965年トヨタ スポーツ800 前期型

トヨ2(1)

1~4号までのラインナップ
トヨ2(2)

プロポーションはなかなか良いです。
トヨ2(3)

トヨ2(4)

トヨ2(5)

両ドア開閉
トヨ2(6)

室内: ウッドインパネ、ウッドステアリング、ウッドシフトノブを再現
トヨ2(7)

他のスケールと比較すると大きさが判ります。手前:トミカくじ20タイムトライアルカラーの教習車1/59スケール、中央:1960年代の伊メーベトーイ1/43スケール。
トヨ2(8)比較



※冒頭のクイズの答え: 8番 →さすがの私も食べられません(笑)。

★1958年 光文社の動く絵本「東京の乗物」はとバス 勝鬨橋 ~ 乗物絵本棚から 003

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東京では桜の花が散り始め葉桜となっています。今日4月9日 土曜日の東京は夏日一歩手前の何と最高気温24度で街では半袖姿の人も結構見かけました。この暖かい陽気は明日10日の日曜日まで続き、週明け11日の月曜日はぐっと気温が下がり12日の火曜日には何と気温が5度まで下がるという予報ですので、今日・明日の日中はTシャツ1枚で過ごせても、まだコートの出番がありクリーニングに出したり仕舞ったりするのはもう暫く待った方が良いようです。暖かかったり寒かったりを繰り返して、間もなく本格的な春が訪れるのでしょうね。


閑話休題
さて、今日もサクっとアップする新シリーズ「乗物絵本棚から」です。新シリーズは手元の本棚や倉庫に多分500冊位?は保管してある過去30年以上かけてコツコツと集めた古い乗物絵本を1冊ずつピックアップしていくというものです。この新シリーズも究極の目標はやはり書籍化なのですが(大量に手元にある151系特急こだま/つばめ号の表紙の絵本などカテゴリー別のリスト化など)、出版するには著作権の問題をクリアすることが案外大変かもしれません。第3回の今回は第2回までとは趣向を変えて自動車がメインではない乗物絵本をご紹介します。



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★第2次世界大戦終戦の年、1945年(昭和20年)の10月1日に創業した光文社は 、古くは鉄腕アトム・鉄人28号・サスケ・忍者ハットリくん等の連載で一世を風靡した月刊少年漫画雑誌「少年」を出し、1958年(昭和33年)には現在でも刊行されている女性週刊誌「女性自身」、更に1975年(昭和50年)に女性自身の別冊として出発した女性向けファッション誌「JJ」(ジェイ・ジェイ)、1984年(昭和59年)にはJJから派生した女性向けファッション誌「CLASSY」(クラッシィ)、1986年(昭和61年)には写真週刊誌「FLASH」(フラッシュ)等の雑誌の他、1959年(昭和34年)に創刊され松本清張の「ゼロの焦点」「砂の器」や小松左京のSF「日本沈没」等多数のヒット作を世に出したカッパ・ノベルス等でよく知られる出版社である。


★今回の「乗物絵本棚から」では光文社が1958年に発行した「動く絵本」シリーズの1冊「とうきょうののりもの」(3才~6歳)をピックアップしたい。
「動く絵本」シリーズは少なくとも15タイトル以上が出版され、乗物関係だけでも「のりもの」「じどうしゃ」「とっきゅうつばめ」「はやいのりもの」、そして今回の「とうきょうののりもの」と少なくとも5タイトルが出版された。1冊の中に見開き1箇所だけ頁を開くと立体的な情景が現われるギミック頁があり、1960年代以降にヒットした飛び出す絵本に先鞭を付けた。絵本の定価が60~70円程度がメインだった時代に約2倍の定価130円という同時代の絵本としては制作にコストのかかった高価なシリーズであった。


●タイトル: 光文社の動く絵本「とうきょうののりもの」 3才~6才
●発行年: 1958年(裏表紙に印字)
●定価: 130円
●出版社: 株式会社 光文社 (東京都文京区音羽町3-19)
●表紙絵: 上田三郎
●中頁絵: 小松崎 茂・天野貞郎・池田献児・井上悦三・上田三郎・中島章作
●文: 森 至
●編集人: 松丘 富雄
●発行人: 神吉 晴夫
●監修: 波多野勤子 (文学博士)
●指導: 井上萬寿蔵(交通博物館館長)
●工作: 中村 星果
●判型/頁数: B5判・表裏共20頁
●入手時期: 2000年(平成12年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 1000円程度



●表紙: 1957年 国鉄中央線快速 新性能電車モハ90系電車 (絵: 上田三郎)
1957年(昭和32年)12月に国鉄中央線快速電車として営業運転を開始した従来の国鉄のイメージを一新した鮮やかなオレンジ色のモハ90系電車。1959年(昭和34年)の国鉄車両の称号改正後は101系と称されるが、この絵本が発行された1958年(昭和33年)の時点ではまだモハ90系である。国鉄の電車として初めて中空軸平行カルダン駆動方式などの近代的メカニズムを搭載し、所謂「新性能電車」の嚆矢となった系列であり、この画期的な基本システムは1980年代前半に至るまでの国鉄の電車に広く応用された。1963年(昭和38年)には101系の改良型式である103系が登場した。背景には「光文社の動く絵本」と書かれたアドバルーンが上がっている。
(1)表紙モハ90


●羽田空港の日本航空ダグラスDC7-C (絵: 小松崎 茂)
1958年(昭和33年)2月2日に太平洋横断路線である東京-サンフランシスコ線に就航したばかりの日航「City of San Francisco」(JA6301)が描かれている。この時代の航空運賃は現在の貨幣価値に換算すれば数百万と非常に高価であり庶民が海外旅行に行くことは夢のまた夢であった。小松崎 茂(1915年2月14日-2001年12月7日)は、プラモデルの箱絵(BOX ART)や少年雑誌の挿絵等で臨場感溢れる独特なタッチの作品を多数残したカリスマ的な画家である。
文:「ひこうじょう ぎんのつばさを きらきらさせて ぶるるん ぶるるん ぷろぺらならし そうら ひこうき とびたつぞ。 ぼくもいきたい あめりかへ。
(2)羽田


●1958年いすゞBC20 新日本観光「はとバス」 (絵: 井上悦三)
東京の乗物といえば今も昔も「はとバス」は外せないテーマであろう。この時代のはとバスにはフロントに円形の立体的な「はとマーク」が取り付けられていた。
文:「かんこうばす きれいですてきな かんこうばすで とうきょうけんぶつ うれしいな
(3)はとバス


●1957年 上野動物園モノレールH形 (絵: 天野 貞郎)
1957年(昭和32年)12月17日に開業したばかりの日本初のモノレール(懸垂式鉄道)。開業当時は文字通り夢のような乗物であっただろう。上野動物園内の2駅を結ぶ僅か332.42 mの路線で東京都交通局が運行し、現在は4代目車両40形が運行されている。モノレールの下には観音開きの初代クラウンのタクシー、クリームに赤帯となる以前の旧塗装の都電も描かれている。
文:「ものれーる たかいな はやいな ものれーる。よいこのぶらんこ じどうしゃ でんしゃ ほうら あんなにちいさくみえる
(4)モノレール


●東京駅の国鉄80系「湘南準急いでゆ」 (絵: 中島章作)
初代湘南電車である80系。1950年(昭和25年)下半期に登場した鼻筋の通った正面2枚窓のクハ86形2次車以降のこの顔は私鉄を含めた日本の鉄道車輛デザインに広く影響を及ぼした傑作デザイン。緑と橙の所謂「湘南色」もこの80系から始まった。80系による「湘南準急いでゆ」は1951年(昭和26年)3月31日より東京~伊東、修善寺間に運行された。右にEF58牽引のつばめ、左にオレンジ色の中央線快速モハ90系も描かれている。背景には「たまどうぶつこうえん」の文字のアドバルーンも上がっている。
文:「とうきょうえき あちらも こちらも れーるがいっぱい とうきょうえきはおおきいな。ほうら いま しょうなんでんしゃの しゅっぱつだ
(5)80系いでゆ


●勝鬨橋 (絵: 中島章作・文: 中村星果)
ジョン・レノンが生まれた年、1940年(昭和15年)の6月14日に可動橋(跳開橋)として完成した勝鬨橋(かちどきばし)は、こち亀コミックス71巻に収載の「勝鬨橋ひらけの巻」や魔法使いサリーの最終回、1954年の映画ゴジラ、帰ってきたウルトラマン等にも登場する極めて有名な橋。1970年(昭和45年)11月29日を最後に開閉されておらず、1980年(昭和55年)には機械部への送電を取り止め可動部もロックされているが、今でも10億円程度の費用をかければ再度開閉することは可能と言われており、架橋80周年と2020年の東京オリンピック開催を記念し再び跳開される可能性もゼロではないとも言われている。「動く絵本」であるこの絵本のハイライトがこの頁であり、頁を開くと勝鬨橋が現れて橋の左右が跳ね上がるギミックとなっている。
文:「かちどきばし かちどきばしの まんなかが ふたつに われて ぎいっと あがる。どうぞゆっくり おとおりと ふねにしらせているのです。
(6)勝鬨橋1

(7)勝鬨橋2


●有楽町の高架を走る80系湘南電車 (絵: 上田三郎)
有楽町の日劇(現マリオン)と朝日新聞社の横の高架を走る80系湘南電車。手前の桜木町行の京浜東北線はチョコレート色のクハ79。都電は旧塗装。
文:「りったいどうろ にぎやかな ゆうらくちょうのおおどおり でんしゃやばすの きょうそうだ。がーどのうえはごうごうと しょうなんでしゃが はしっていく。
(8)有楽町80系


●東京駅の帝都高速度交通営団 地下鉄「丸ノ内線」500形電車(絵: 上田三郎)
1957年(昭和32年)登場の丸の内線500形電車。丸ノ内線と言えばやはりこのカラーリングが懐かしいという向きが多い。方向幕が西銀座とあるのは、この本が出た時点の丸ノ内線はまだ全線開通しておらず、池袋~西銀座間の運行であったため。多数描きこまれた人物が興味深い。
文:「ちかてつ まっくらな じめんのしたを ごうごうと あかいでんしゃが つきました。おわすれものが ないように ごじゅんに おおりねがいます。
(9)丸ノ内線


●銀座の都電8000形 8027号 (絵: 池田献児)
「月島」の方向幕を付けた都電は1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)にかけて131両が製造された東京都交通局の8000形旧塗装。交差する都電は1954年の製造当初からクリームに赤帯で登場したPCCカー5500形。森永の地球儀形の巨大なネオン、遠方には日劇という懐かしい銀座の姿が描かれている。前向きに描かれた都バスはクリームに赤帯となる以前の旧カラーである。
文:「ぎんざ ぎんざは いつもいそがしい。おーらい おーらい ばすがいく。ちん ちん でんしゃもはしります。そら しんごうがかわったよ いそいでわたろう むこうがわ。
(10)都電


●後楽園ゆうえんちのジェットコースター (絵: 上田三郎)
1955年(昭和30年)7月9日に「後楽園ゆうえんち」として開業し、現在も東京ドームシティアトラクションズとして現在も存続している遊園地である。日本のジョットコースターは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会(於:上野)で設置された「自動鉄道」(名称: ローラーコースター)が最初のもので、1925年(大正14年)には東京・多摩川園に「陸上波乗」として登場するなど戦前からの歴史を持つ。戦後は宝塚新温泉遊園地でウェーブコースターの名称等も使用されたが、後楽園ゆうえんちが1955年の開業に際してジェット機に因み「ジェットコースター」とネーミングした固有名詞が後に一般に広く使われることとなった。描かれたジェットコースターは4両連結で2灯ヘッドライトにグリルを備えたフロント周りのデザインは自動車のようでもある。
文:「じぇっと こーすたー たかいれーるを すぴーどだして あがってさがって またあがる。にこにこしたり どきどきしたり おもしろいなあ じぇっとこーすたー
(11)後楽園ジェットコースター


●裏表紙: 光文社の動く絵本シリーズ 広告 
「動く絵本」全15タイトルの表紙写真が掲載されている。
(12)裏表紙





★オマケ(その1): カツミ模型店 日本型HOゲージ16番 1/80スケール クハ103通勤型電車「中央線快速」
1960年代、私が子供の頃の鉄道模型。非冷房の原型車両。1967年時点の定価2200円。16番の101/103系は、1960年代にカツミ模型店、カワイモデル、つぼみ堂等の各社から製品が市場に出たが真鍮製の鉄道模型は貧乏小学生には正に高嶺の花でお年玉を貰った時に先頭車1両を買うのが精々であったので、私は1980年代に社会人となってから中古品を探して当時の製品を買い集めた。後方のウグイス色は同じカツミ模型店の山手線カラーのクハ103。
カツミ(1)

カツミ(2)



★オマケ(その2): 野村トーイ 1/25スケール 1958年日産キャブスターCOE富士重工ボディ風「はとバス」
全長29cm。当時定価:不明。発売年:1958年。厳密なスケールモデルではないものの、夥しい種類がリリースされたはとバスの玩具の中でパーツ点数が多く手間のかかった造りの良さ、雰囲気の良さでは1,2を争うモデル。バスモデルとしては小ぶりながらも凝縮感が素晴らしい野村トーイの傑作。私は1990年代初頭に国立国会図書館で月刊玩具業界誌「東京玩具商報」のバックナンバーをくまなく見ていて、1958年の1冊にこのはとバスの写真広告を見つけ、出来の良さ、雰囲気の良さにいたく感動して是非入手したい衝動に駆られたものの、四方八方を探してもジャンク品でさえ影も形も見つからず10年近く経った頃に漸く巡り合えたという謂わば私にとっては宝物。ブリキ製の自動車玩具としては、箱付ミントの市場価格が100万円をオーバーする旭玩具製1962年クライスラー・インペリアルあたりより、この野村トーイのはとバスの方が現存する個体は遙かに少ない。
野村(1)

野村(2)

はとバスのキャッチフレーズ「お一人でも乗れる東京定期遊覧バス」のプリントが泣かせます。
野村(3)

この野村トーイのはとバスは出来の良さが当時の新日本観光(現はとバス)の職員の目にも留まったらしく、「新日本観光共済組合機関誌1960年7月号」の表紙に美人ガイドさんと共に登場している。
機関誌1

機関誌2

はとバス3

★1963年ひかりのくに声の絵本「パトカー」 エリック・クラプトン武道館 ~乗物絵本棚から004

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しかし、今日の東京は神様が怒ったかのような物凄い風が吹き荒れています。工事現場の足場や防護柵が多数倒壊し最寄駅を通る国鉄(現JR)中央線も一時止まっていました。
九州で大地震が発生しているという、このような非常時に悠長に記事の更新などして何たる非常識かと皆様からお叱りを受けることと思います。この度の震災には私としても熊本に知人もおり大変心を傷めておりますので、どうか記事の更新を御許可下さいますようお願い申し上げます。



この度の平成28年熊本地震(The 2016 Kumamoto Earthquake)で命を落とした28歳の娘について父親が「まだ結婚もしていないのに・・・」とコメントしていたのが非常に印象的だった。「独り者は人間のクズである」が前々からの信念・信条である私の場合では、もし私が同じような状況で命を落としても、「定年退職も近いこの歳で独身だったんじゃ、大きな難のある謂わば人間のクズだから死んでも全く惜しくはない人だった。」などとコメントされるに違いない(爆)。
ところが、私の知人で誰もが知る大手商社の役員をしていて社会的地位も極めて高く、退職金は軽く1億以上は出るだろうというほど経済的にも恵まれているのに、結婚歴が全くなく未だ独り者という例があり、どうやら独り者は誰もが等しく人間のクズだとも言いきれない面があるのかもしれない。その知人は自動車が唯一無二の趣味で一緒に自動車の話をしていれば、あっという間に夜が明けるという程の古今東西の自動車に精通した謂わば高レベルのカーマニアなのだが、独り者であるのに経済的にも恵まれている所為か私のように人生お先真っ暗的な前途を悲観した悲壮感も全く感じられないのが摩訶不思議ではある。尤も私もライブに出たりして少しでもカッコいいオヤジになれるよう多少前向きに努力はしているのですが。



閑話休題
さて、今日もサクっとアップする新シリーズ「乗物絵本棚から」です。新シリーズは手元の本棚や倉庫に多分500冊位?は保管してある過去30年以上かけてコツコツと集めた古い乗物絵本を1冊ずつピックアップしていくというものです。この新シリーズも究極の目標はやはり書籍化なのですが(大量に手元にある151系特急こだま号/つばめ号が表紙の絵本などカテゴリー別のリスト化など)、出版するには著作権の問題をクリアすることが案外大変かもしれません。
第4回の今回は初代クラウンベースのパトカーが主役の絵本をご紹介します。今回の絵本は2014年8月3日の「自動車カタログ棚から」シリーズ第235回の黎明期の国産パトカーの記事で表紙と内容の一部を既にご紹介しているものですが、今回は全頁をアップいたします。また今回は最後のオマケに昨日4月16日(土)に日本武道館で観てきたエリック・クラプトン公演を少しだけご紹介します。



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★ひかりのくに昭和出版の「ひかりのくに声のえほん」シリーズは、花咲爺、一寸法師、文福茶釜、かぐや姫、さるかに、桃太郎、おむすびころりん、浦島太郎等の多数の童話系と乗物系では特急こだま等のタイトルが1960年代前半にソノシート付で販売された絵本である。
1960年代はアサヒソノラマやアニメ主題歌等のソノシートの全盛期であったが、親が子に絵本を読み聞かせする手間を省き、レコードプレーヤーに話をさせるという発想で生まれたのが「ひかりのくに声のえほん」シリーズであった。私など子供に読み聞かせをすることが大好きなので(子供もいないのにw)、大人から読み聞かせの楽しみを奪う絵本であった側面があるとも言えるが、ひかりのくにがプロに依頼して吹き込んだ音声に優るレベルの読み聞かせをすることは一般家庭の素人には困難であっただろう。


●タイトル: ひかりのくに声の絵本「パトカー」
●発行年: 1963年(推定)
●定価: 200円
●出版社: ひかりのくに昭和出版 (大阪市南区上本町3-12)
●編集及び発行者: 岡本美雄
●印刷所: 株式会社三和印刷所
●絵: 安井敬造
●文: 天神倭文枝
●ソノシート製作: 日本ビクター株式会社
●声の出演: 泉田行夫、松下美智子
●パトカーの歌 作曲及び指揮: 高橋 半
●  同上   作詞: 小春久一郎
●  同上   歌手: 松枝良子
●  演奏   MBSシャンブルデコール
●判型/頁数: B5判・表裏共14頁
●入手時期: 2000年(平成12年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 1000円程度



●表紙: 1960年 トヨタパトロールFS20 大阪府警 (絵:表紙・中頁全て 安井敬造 画伯)
描かれている大阪8ナンバー「大8た1122」のパトカーは1958年(昭和33年)10月の初代クラウンのビッグマイナー後のスタンダード・ボディに大型車用F型130psエンジンを搭載した警察専用車両で正式な車名はクラウンではなくトヨタパトロールである。ノーマルのクラウンデラックス(RS21)が58~62psだった時代に2倍を超える出力を持つF型エンジンを搭載した正にモンスターであり、当時のカミナリ族の取り締まりにもメグロの白バイと共に活躍した。初代前期型クラウンベースのパトカーBH26型(85ps)及びFH26型(110ps)に次ぐ、クラウンベースのパトカーとしては2代目に当たる車両である。フロントグリルやボディのモールディングは華美なデラックスではなくシンプルなスタンダードRS20型のものを流用した。この初代後期型クラウンをベースとしたパトカーは1960年代後半まで活躍し、初代ウルトラマン等のテレビ番組にも頻繁に登場した。謂わば日本の1960年代を象徴するようなパトカーと言える。後続の赤いクルマはトヨタFAだが消防車ではなく救出車、その後ろにもクラウンボディのFS20パトロールが描かれている。警視庁ではなく大阪府警の車両が描かれているのは、ひかりのくに昭和出版が大阪の出版社であった関係と思われる。
絵本(1)表紙


-以下、中の頁-


【パトカーの唄】 高橋 半 作曲・小春久一郎 作詞
サイレンならしてウーウーウー
パトカーまちをとばしてく
ごくろうさんです おまわりさん
みんなねている よるだって
パトカーまちをパトロール
ごくろうさんです おまわりさん

絵本(2)歌


【警察本部の朝】
数えられるだけでも15台以上の大阪府警のFS20が並んだ様は壮観。
文:「白と黒のパトカー。赤いランプをつけたパトカー。警察本部と無線電話で連絡するパトカー。朝、警察の本部から、沢山のパトカーが出発していきます。さあ これからパトロール。街に変ったことがないかどうか、パトカーは街をパトロールするのです。
絵本(3)朝


【交差点にて】
白と橙のバスは京阪?バスの前には三菱500。対向車には1962年秋にマイチェンした横目のセドリックや1960年以降のいすゞTXが見える。この絵本には発行年の印字が全くないものの横目のセドリックが描かれていることから、1963年以降の発行と推察できる。
文:「右の上にある絵が警察本部にある指令室です。もし、皆さんが110番へ電話をすると、この指令室へ通じるのですよ。『はい こちらは110番 はい!はい!?本町2丁目付近にて交通事故発生!』指令室に交通事故の知らせがあると、パトカーにはすぐに指令室から無線で連絡が入ります。『本部から303。本部から303』『303です。どうぞ』『本町2丁目付近にて交通事故発生。直ちに現場へ急行願います。どうぞ』『了解。直ちに現場へ急行します』連絡を受けたパトカーは、サイレンを鳴らして凄いスピードで走りだしました。交通整理のおまわりさんは、早くパトカーが通れるように、他の車を整理しました。 」
絵本(4)交差点


【事故現場】
横倒しになったダイハツ三輪、トヨタパトロールFS20の後ろはトヨタFA救出車。臨場感溢れる絵です。
文:「交通事故の現場です。駆けつけてきたパトカーのおまわりさん達は、『見事に引っくり返ったなあ』『スピードの出し過ぎだな』『ここで急カーブを切ったからだなあ』などと、どうして事故が起きたのか詳しく調べます。やっと調べ終わったと思ったら、また指令室から連絡です。『本部から303』『303です。どうぞ』『大江橋交差点にて車がつかえています。現場の交通整理 願います』『了解、直ちに現場へ急行します』さあ、今度は交通整理です。
絵本(5)事故現場


【警察ヘリ】
眼下に描かれている川は淀川でしょうか?「浪華八百八橋」といわれる通り、見えるだけでも橋が6本も描かれています。ヘリには「大阪府警」「あおぞら」の文字が見えます。ヘリは三井物産が輸入し1960年(昭和35年)7月25日に大阪府警に納入されたベル47G-2型のようです。この機体は1966年(昭和41年)11月15日に松山沖で衝突事故を起こし大阪府警の登録が抹消されています。
文:「おや、警察のヘリコプターが飛んでいます。ヘリコプターは自動車で一杯になっている道を空から見つけると本部へ連絡するのです。あっ、パトカーが走ってきました。『303から本部』『303 どうぞ』『只今、大江橋交差点に向かって急行中、どうぞ』『了解』パトカーはすぐに交通整理を始めることでしょうね。
絵本(6)ヘリ


【夜の大阪】
何とも味わい深い夜のパトカーを描いた1枚。
文:「夜になりました。夜でも街をパトカーが走っていきます。『本部から303』『303です。どうぞ』『現在地点、知らせ。どうぞ』『北浜交差点を東へ進行中、どうぞ』『了解』今夜も変わったことがないかどうか、パトカーは私たちの街を一晩中走りながら見守ってくれます。そして、事件を受け付けてパトカーに伝える、110番の指令室も一晩中起きていて、私たちを守ってくれるのです。
絵本(7)夜


【警備艇「はるかぜ」】 (裏表紙)
警察官3名が乗りこんだ小型警備艇。資料が見つかりませんが、恐らくこれも1960年代に大阪府警が所有していた船舶を描いたものと思われます。
絵本(8)船





★オマケ(その1): 萬代屋(現バンダイ) 1/19スケール 1961年トヨタパトロール警視庁
全長22.7cm。ブリキ製。フリクション動力。萬代屋品番845。当時定価:都内200円・地方220円。1960年秋に最後のマイチェンを受けた初代クラウン1900DX(RS31型)をパトカーに化粧直ししたモデルでサイドモールはRS31型のままという実車には存在しない仕様となっている。旭玩具でもモデルペットとブリキモデルの2種でこのバンダイ製と同じRS31ベースのパトカーを出している。このバンダイ製の初代最終型パトカーは、初版のフリクション仕様が絶版となった後にリモコン化され2代目クラウンのデビュー後も1960年代半ばまでバンダイのカタログに載っていたベストセラー製品で、フリクション仕様は少ないもののリモコン仕様は爆発的に売れたらしくかなりの数が現存している。
バンダイ(1)

バンダイ(2)

バンダイ(3)

これも初代クラウン後期型ベースのバンダイ製警視庁パトカーだが1964年版のバンダイの製品カタログに掲載され少数が販売されたと思われる塗り分け違いのレアバージョン。通常モデルと異なり、サイドモールなし、テールライトがプラではなくブリキパーツ、フロントグリル・前後バンパー・ボンネットオーナメント等のメッキパーツが金メッキ、ルーフにフリクションと連動して左右に首を振るサイレンが付く等の差異がある。
バンダイ(4)レア

バンダイ(5)レアリア



★オマケ(その2): 日本模型(ニチモ) 1/22スケール 1959年トヨタ警視庁パトカー プラモデル
当時定価350円。全長19cm。プラスチックとブリキの混合組立キット。バンパー、窓枠、サイドモール等のクロームメッキされたブリキパーツの爪を折ってボディに組み付けるというブリキの玩具と同じ組立方法が採られている。このキットは1990年(平成2年)の初夏に模型問屋で大量のデットストックが発見され、都内および神奈川県内の模型店(恵比寿ミスタークラフト、吉祥寺ウェーブBe-J、海老名ホビーボックス等)に1個3000円で山積みされていたもの。発見された数は少なくとも10ダース以上と聞いた。当時の絶版価格の10分の1程度のプライスで店頭に山積みされているのを見た時はたまげたものだった。転売目的で1ダース位買った人もいたようで、その年の夏の終わりには店頭から綺麗に消えていた。箱絵は小松崎茂氏(1915年2月14日-2001年12月7日)による夜の銀座を描いた非常に魅力的なもの。デッドが発見されるまでは3万円位のプレミアが付いていたものが急降下し、その後四半世紀以上経っても昔のような高額では流通していないのは、今でもこの時の状態の良いデッドが沢山出てくるためだろう。なお、大量のデットが発見されたのは、この再版箱の方のみで初版の箱はパトカーが左向きではなく右向きで絵柄も微妙に異なる。
ニチモ(1)

ニチモ(2)



★オマケ(その3): エリック・クラプトン 2016年4月16日(土) 武道館公演
4月は仕事が繁忙期で泊まりになることもある合間を縫って4月16日(土)17時~のエリック・クラプトン武道館公演を観てきました。幸い、東京ドームや武道館は職場から歩いても行ける距離なのです。エリックの日本公演は初回1974年(昭和49年)の伝説のホロ酔い武道館公演だけはまだ中学生でお金もなくて行かれませんでしたが、1975年(昭和50年)11月の武道館公演からは欠かさず観ています。今回、会場係員の人が目の前という生憎の席だったため残念ながら動画は殆どありません。終戦の年、1945年(昭和20年)3月30日生まれのエリックは71歳になったばかり。1975年に武道館で観た時のエリックはまだ30歳で白いテレキャスターとパンタロンのブルージーンズが今でも印象に残っています。当時、既に世界的なスーパースターだったのが、あれから41年が経ち今は70歳を過ぎているというのが信じられない思いです。尤も10代半ばだった私もいつの間にか50代半ばを過ぎてしまった訳で(私の場合は馬齢を重ねているだけですが)、あたかも共に年を重ねてきたような感慨があります。去年、1945年(昭和20年)生まれのエリックより3才年上の1942年(昭和17年)生まれのポール・マッカートニーの日本公演も物凄くパワフルでしたが、エリックも元気です。歌もギターも余裕たっぷりにリラックスしつつパワフルでもあり衰えは感じられません。きっと東京では例のトンカツ屋さんでヒレカツなどをガンガン食べてるのでしょうね。

●武道館のエリック
エリック武道館


●武道館正面
武道館(1)

武道館(2)


●2016年エリック・クラプトン 武道館公演パンフレット (縦28×横28cm・日本語40頁)
今回の公演メンバー、過去の日本公演のポスターやアルバムジャケットの写真が網羅されたヒストリー、2015年ロイヤルアルバートホール公演での写真を中心に構成されている。武道館が表紙というのも象徴的。
パンフレット


●非オフィシャル写真
武道館の外の露店で思わずカッコよさに痺れて衝動買いしたコーティング写真下敷き(500円)。1975年頃?
非オフィシャル

非オフィシャル露店の妖しい商品たち
非オフィシャル露店



●フーチークーチー・マン 2016年4月16日(土)日本武道館 エリック・クラプトン  (Eric Clapton - Hoochie Coochie man Live at Budokan, Tokyo, 16th April 2016 ) 
辛うじて少しだけ撮れた動画です。


★1963年 トッパンのえほん「走れ特急」 米澤玩具クロ151こだま ~ 乗物絵本棚から005

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幸いなことに熊本での余震は段々回数が減ってきていますが、気象庁はまだ引き続き警戒するよう呼びかけています。熊本におけるマグニチュード6以上の地震というのは前回が1889年(明治22年)とのことで、もう今から127年前。ですから、前回の大地震の経験者はもう一人も生きてはおらず、熊本は大きな地震の起きにくい地域という認識が一般的だったと思います。実際、専門家も熊本の活断層が大きな地震を起こす確率は低いと推定していたようです。


それに対して、記録上、西暦684年から90~150年の周期でマグニチュード8クラスの地震が必ず起こっている、南海トラフ地震(被害地域: 関東~四国)については前回が終戦前年の1944年(昭和19年)であったので、既に72年の時が経っていることから、2016年時点で、「30年以内に70%の確率で大地震が起こる」と推定されています。
1944年の更に前の南海トラフ地震は1854年で、1944年の前回の大地震まで丁度90年の間隔がありましたから、仮に前回と同じ周期で起こるとすれば、次は2034年、18年後という計算になります。
また、南海トラフ地震とは別に、1923年(大正12年)に起こった関東大震災(東京震度6、死者10万5385人)と同じく山梨県から神奈川県を震源とする相模トラフ巨大地震が再び起こる可能性もあります。残念ながら現在の科学では、いつどこで大きな地震が起こるかという正確な予知は不可能であり、地震の多い日本列島に住む限り、地震や津波に対する備えは常にしておくべきだろうと思います。



閑話休題
さて、今日もサクっとアップする新シリーズ「乗物絵本棚から」です。新シリーズは手元の本棚や倉庫に多分500冊位?は保管してある過去30年以上かけてコツコツと集めた古い乗物絵本を1冊ずつピックアップしていくというものです。この新シリーズも究極の目標はやはり書籍化なのですが、出版するに当っては著作権の問題をクリアすることが案外大変かもしれません。
第5回の今回は鉄道に興味のない向きには申し訳ないのですが、1960年代前半の日本の鉄道を描いた秀逸な絵本をご紹介します。今回の絵本の一部の頁は、既に過去の鉄道車両カタログの記事中でご紹介しているものですが、今回は全頁をアップいたします。
 




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★凸版印刷株式会社(とっぱんいんさつ:通称トッパン)は、大日本印刷と肩を並べる世界最大規模の総合印刷会社である。凸版印刷の創業は1900年(明治33年)と古く、2015年3月現在の社員数は単体8,900名(連結48,999名)という歴史のある日本の大企業である。
今回ご紹介する絵本はトッパンが1960年代前半に出した「ぴんくまシリーズ」とネーミングされた絵本の1冊「はしれとっきゅう」。梅本 恂(うめもと ひとし)画伯の筆による当時の国内の花形鉄道車輛が計10車種登場する鉄道絵本の傑作。1960年代は国産自動車の世界では、トヨタ2000GT、マツダコスモスポーツ、いすゞベレットGT、ホンダSシリーズ、プリンススカイライン2000GT(S54)、日野コンテッサ1300クーペ等の名車が多数生まれたビンテージ期であったが、国産鉄道車輛の世界においても歴史に残る傑作車輛が多数生まれた時代であった。1960年代に子供時代を過ごした私にとっては幼少期への郷愁とも重なり、1960年代の国産自動車が魅力的なことと同様に鉄道車輛もまたその後の時代の車輛達よりも遥かに魅力的にみえる。


●タイトル: トッパンのえほん ぴんくまシリーズ第5巻「はしれとっきゅう」
●出版社: 株式会社フレーベル館 (東京都千代田区神田小川町3-1)
●発行年: 1963年(推定)
●定価: 100円
●編集兼発行者: 小高龍治
●印刷所: 凸版印刷株式会社
●絵: 梅本 恂
●文: 前川康男
●判型/頁数: B5判・表裏共20頁
●入手時期: 2000年(平成12年)頃
●入手先: 神保町の古書店
●入手価格: 1000円程度



●表紙: 1960年 日本国有鉄道クロ151形パーラーカー「つばめ」 (絵:表紙・中頁全て 梅本 恂 画伯)
表紙は日本の鉄道史に燦然と輝く名車中の名車クロ151形「パーラーカー」。1960年(昭和35年)6月1日ダイヤ改正で実施された国鉄東海道本線の客車特急「つばめ」及び「はと」の電車化に伴い、電車特急「こだま」及び「つばめ」に連結された車両で、客車特急時代の展望車に替わる役割を担った一等制御車。1960年6月1日より大阪方先頭に連結され、当時の日本を代表する最高峰の鉄道車輛となった。1958年(昭和33年)に登場したボンネット型151系(当初の型式名称は20系)こだま形特急電車の先頭車クハ151形と共に日本型HOゲージ(16番)鉄道模型や子供向けのブリキ玩具、絵本のテーマとしても数多く採り上げられた花形車輛であった。1960年から1962年(昭和37年)にかけて計12両が製造されている。室内は定員4名の区分室(個室)と定員14名の開放室があり、視界抜群の幅2mもの巨大なウインドを持つ。1964年(昭和39年)10月の新幹線開業後は事故廃車となった1輌を除き山陽本線特急に転用されるものの超豪華展望車の需要は東海道本線のようには望めなかったことから、1973年(昭和48年)までに全車が普通車に改造され原形車両は現存しない。
(1)表紙つばめ


-以下、中の頁-


【1961年 南海電気鉄道20001系特急電車 こうや号 デラックスズームカー】
1961年(昭和36年)に4両編成1本だけが堺の帝国車両で製造され、南海電気鉄道高野線の特急として運用された車両。編成は難波寄りからモハ20001(A号車)-モハ20100(B号車)-サハ20801(C号車)-モハ20002(D号車)で、この絵の先頭にはモハ20002が描かれている。1985年(昭和60年)1月廃車。併走する大阪ナンバーの1963年プリンス・グロリアS40系は何と実車の存在しない2ドア・コンバーチブルというのが面白い。

文:「とんねる でれば あかるいみどり やまも のはらも ずんずん はしる きょうはどらいぶ おーぷん・かーでぱぱのうんてん たのしいな あかるいとっきゅう こうやとならび すぴーどだして ぐんぐん はしる
(2)こうや



【1959年 近畿日本鉄道 10100系特急電車 ビスタカーすずか(Ⅱ世)】
1959年(昭和34年)12月より上本町駅(現・大阪上本町駅) -近鉄名古屋駅間を2時間20分で結んだ2階建て特急車両。モ10100形(制御電動車)-サ10200形(2階建て付随車)-モ10300形(制御電動車)の3両編成。名阪間のシェアは1963年(昭和38年)時点では近鉄が7割を占めたが1964年10月の新幹線開業後は名阪間を1時間強で結ぶ新幹線には太刀打ちできなくなりシェアは急降下した。1979年(昭和54年)10月、全車が廃車となり現存しない。描かれているのは上本町を出発する情景。並走するチョコレート色の電車は820系奈良線の特急車両で、伊賀鉄道に引き継がれ何と半世紀を経た2012年まで現役という長寿を誇った。


文:「びすた・かーは にかいだて はしっていくよ びるのまち そらにふんわり しろいくも びすた・かーはすてきだな みんなてをふり こんにちは まどにながれる きのみどり
(3)ビスタカー



【1960年 日本国有鉄道 キハ81特急形気動車 はつかり】
1960年(昭和35年)に9両編成2本及び予備8両の合計26両が製造された日本初の特急形気動車キハ81系。独特なボンネットの造形からブルドックと呼ばれる名車。初の特急形気動車であり開発期間も短かったために初期トラブルを頻発させたことから当時のジャーナリズムから、「はつかり、がっかり、事故ばつかり」と揶揄されたと言われる。並んで描かれている馬車はこの時代では純観光用と思われるが、モデルとなった観光地は不明。

文:「おおい おおい さようなら はつかりごうのおともだち あさかぜきって ぐんとはしれ おおい おおい さようなら ばしゃにのってる おともだち のってみたいな ぱかぽこぽ
(4)はつかり



【1961年 名古屋鉄道パノラマカー7000系】
日本で初めて運転室を2階に設置し車輛最前部までを客席として展望席を設けた言わずと知れた名鉄パノラマカー。登場翌年の1962年(昭和37年)には鉄道友の会より第5回ブルーリボン賞受賞車両に選出。改良を加えつつ1975年(昭和50年)まで増備が続き、計116両が製造された。1961年(昭和36年)6月1日、豊橋駅午前9時4分発の特急新岐阜行きから運行が開始され、2009年(平成21年)8月30日の団体専用列車「ありがとうパノラマカー」の最終運行まで半世紀近い長期に亘る運行が続いた長寿車輛であった。絵をよく見るとパノラマカーの展望室では子供に混じりお父さんが8ミリビデオを撮っている。併走するのは国鉄クロ151形つばめパーラーカー。

文:「ぼくらののった ぱのらま・かー きれいなながめの てんぼうしゃ きいろいつばめが やってきた なかよくならんだ とっきゅうれっしゃ
(5)パノラマカー



【1960年 日本国有鉄道クロ151形パーラーカー「つばめ」】
東京タワーをバックに夜の東京を走る大阪発の上りクロ151つばめと併走する101系山手線の何とも魅力的な1枚。もし原画が現存しているならば見てみたい1枚である。101系の山手線投入は1961年(昭和36年)で当初はカナリアイエローであったが、イラストでは中央線のオレンジのように見える。

文:「こんばんわ つばめごう ねおんがひかる よるのまち とうきょう・たわーもむかえてる とうかいどうをまっしぐら ごくろうさん つばめごう
(6)夜の東京



【1959年 EF58牽引 寝台特急さくら】
「さくら」は戦前より存在した列車愛称だが、ブルートレインとしては1959年(昭和34年)から2005年(平成17年)まで、国鉄(及び後継のJR)が東京駅-長崎駅間で運行した寝台特急であった。日立が1958年2月25日に製造したEF58ブルトレ塗装139号機と共に海側を走るのは153系準急。山陽本線の朝霧駅付近を描いたと思われる1枚で山側を走行するのは山陽電鉄2000系ステンレスカー。

文:「とっきゅう じゅんきゅう ならんではしる やまをこえ のをこえ まどからみえる あおいうみ とおくによっとがはしってる ひがしににしに みんなをのせて はしれとっきゅう さくらごう
(7)EF58



【1961年日本国有鉄道 キハ82特急形気動車 白鳥】
白鳥は、1961年(昭和36年)10月に国鉄が、大阪駅-青森駅間などで運行した特急列車である。白鳥には日本初の特急形気動車キハ81の改良型であるキハ82が投入されたことから、キハ82は俗に白鳥形とも呼ばれる。「青森白鳥」は大阪-青森間(1052.9km)を走る、昼行特急列車としては日本一の走行距離を有していた。1960年代にカツミ模型店から日本型HOゲージ(16番)鉄道模型がリリースされヒット商品となったが、個人的にはキハ81に比べるとキハ82はありふれた没個性的なデザインに見える。絵では踏切待ちでバスガールがバスから降りて赤い旗を持っている。1960年いすゞBXの行先表示「十条駅前」というのは京都の十条駅(?)。

文:「『はくちょうごうのつうかです しばらくおまちをねがいます』 しぐなるさんもうでをさげ はくちょうごうに ごあいさつ うんてんしゅさんは にっこりと あいさつかわして いきました
(8)白鳥



【1959年 日本国有鉄道EH10牽引コンテナ特急たから】
「たから」は国鉄が1959年(昭和34年)11月5日より東京・汐留駅-大阪・梅田駅間で運行したコンテナ専用貨物列車で牽引機はマンモス電気機関車EH10形。当時、吹田操車場-梅田間は非電化であったため、この区間のみEH10ではなくD52形蒸気機関車が牽引していたという。チキ5500形コンテナ車(1965年の称号改正後はコキ5500形)24両とヨ5000形車掌車を連結した25両の長大編成で、全長460 m、重量1,000 t、旧規格の5 tコンテナを120個積載して、速度種別は「特急貨甲A」で最高速度85 km/h、10時間55分で汐留・梅田間を結んだ。手前を走る足1ナンバーのトラックは1962年トヨタFAもしくはDA、品4ナンバーのツートンカラーのライトバンは1962年ダットサン320。

文:「でんききかんしゃ こんてなひいて はしっていきます まちからむらへ かもつじどうしゃ にもつをつんで はしっていきます むらからまちへ
(9)EH10たから



【1962年 日本国有鉄道 新幹線1000形試作電車B編成】
1962年(昭和37年)6月より鴨宮基地を研究拠点としてモデル線での新幹線システム全体の試験を開始した際の窓周りをブルーとしたB編成を描いたもの。併走する首都高?には1962年秋のマイチェン後の横目のセドリックが描かれていることから、この絵本に発行年月の記載はないものの1963年以降の発行と推定できる。

文:「はやいぞ とっきゅう ちょうとっきゅう ろけっとみたいに はしってく すごいぞ とっきゅう ちょうとっきゅう だんがんみたいに はしってく ゆめのとっきゅう ちょうとっきゅう とうきょう おおさか 三じかん」 

(10)新幹線



●裏表紙: 1957年小田急ロマンスカー3000形SE車「あしがら」
1957年(昭和32年)7月6日に営業運転が開始された小田急の名車。鉄道友の会の第1回ブルーリボン賞受賞車両。少々見にくいですが上部にトッパンのえほん「ぴんくまシリーズ」として30タイトルが記載されている。何と乗物系は、「ゆかいなのりもの」「たのしいのりもの」「はしれとっきゅう」「きしゃ」「ばすりょこう」「さいれんならして」「ふね」「いろいろなのりもの」「ちからのつよいのりもの」「めずらしいのりもの」「ひこうき」「そらのたび」「うんてんしゅさん」の13タイトルも出ている。絵本はブリキの玩具と同様に子供に与えられ、やがて捨てられる運命を辿ったモノが大半のため、乗物系だけでもこの全てのタイトルの絵本に巡り合うことはなかなか難しい。
(11)裏表紙





★オマケ(その1): 米澤玩具 1/32スケール 1960年国鉄クロ151パーラーカー「こだま」
全長65.5cm。全幅10.5cm。ブリキ製。フリクション動力。米澤製品番号No.356。当時定価:都内770円・全国850円。実車の全長が21250㎜であるので、全長比で1/32スケール程度(全幅比では1/28程度)。天賞堂のHOゲージ16番サイズの鉄道模型やオリエンタルのプラモデルを除けば唯一のクロ151の当時物模型玩具。巨大なサイズで室内シートまで造り込まれた様は壮観。国産自動車のブリキ玩具で言えばバンダイのプリンスグロリア・スーパー6に相当する、国産鉄道ブリキ玩具の頂点に位置する製品。
こだま(1)

こだま(2)

こだま(3)



★オマケ(その2): 米澤玩具 1/32スケール 1960年国鉄クロ151パーラーカー「つばめ」
全長65.5cm。全幅10.5cm。ブリキ製。フリクション動力。米澤製品番号No.357。当時定価:都内770円・全国850円。オマケ1のバリエーション。
つばめ(1)

つばめ(2)

つばめ(3)

オマケ1とのツーショット。一緒に並んだポルシェ356Bはほぼ同じスケールのSSSインターナショナル製品。
つばめ(4)2両1

つばめ(5)2両2



★オマケ(その3): ポプラ社の写真図鑑 第9巻「電車・客貨車」
1962年2月25日発行。B5判134頁。著者:横山勝義・黒岩保美・西尾源太郎ほか。表紙を飾るのはクロ151つばめと名鉄パノラマカー。ジュニア向け図鑑ながらこの本だけのオリジナルな写真も多く内容の良い1冊。
ポプラ社図鑑



★オマケ(その4): 1959年 国鉄151系特急こだま高速度試験 ドキュメント映像
1959年(昭和34年)7月27日~31日に東海道本線 藤枝~島田間(7.5km)において151系こだま形特急電車の高速度試験が実施され、試験最終日の7月31日に狭軌世界最高速度163km/hを記録した際の映像。段々スピードを上げていく様子は一見の価値ありです。

★1957年 新明和/川西タンクローリー トミカダンディ52番日野~自動車カタログ棚から312

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早くも5月、ゴールデンウィークもたけなわですNE!
GWも関係なく勉学やお仕事という人はお疲れ様です!
今日は憲法記念日。日本が世界で初めて憲法において戰爭放棄ということを宣言した重要な日なのですYO!


この連休の前半は遠出をしたりなどバタバタしていて、すっかり更新が遅くなりましたが、東日本大震災の311にちなみ第311回でストップしていた「自動車カタログ棚から」シリーズの第312回として、今回は現在も特装車の製造を行なっている新明和興業(現・新明和工業)が1957年(昭和32年)に発行したと思われる製品カタログの中から各種タンクローリーをご紹介します。   



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★1935年(昭和10年)生まれの叔父は、私より丁度二回り上で今年2016年で81歳になるのだが、とにかく自動車から船舶まで運転に纏わる免許を沢山持っている。自動車関係では普通自動車は勿論、大型、牽引、どんな種類のタンクローリーも運転出来るようにと危険物甲種、1960年代までは普通自動車免許を採ると自動的に付いてきた大型二輪も勿論持っており、昭和30年代にはメグロの大型でカミナリ族をやっていた(らしい)。


★日本の法規上(消防法上)では、ガソリン、LPガス等の危険物を輸送するタンクローリーのことを「移動タンク貯蔵所」という。
一般的に石油系のタンクローリーを運転するには、GSから灯油を小口配達する小型トラックや軽トラでもない限りは、まず大型免許と危険物乙4類、単車でなくトレーラー車の場合には更に牽引免許が必要となる。
タンクローリーの運転業務は荷の積み降ろしをホースのみで行うことが可能で重労働ではないため、普通のトラックの運転業務よりも従事する人の年齢層が高い(らしい)。GSの数が減少している昨今では石油系タンクローリーの未来は危ういと見る向きもあるが、ガソリン自動車の生産が続く限りタンクローリーの需要がなくなりはしないだろう。ガソリン等の石油系ではなく化学薬品等のケミカル系のタンクローリーの運転業務の場合は特定の工場等への納品がメインのため長距離とはなっても走行ルートが一定しており工場が休業となる盆暮れには基本的に休める上に一般的に給与水準が高い(らしい)。運転技術が確かで自動車を運転すること自体が好きな人であるならば、還暦を過ぎても比較的楽に続けられる(らしい)。但し、長距離ルートが多い場合には腰を痛めるケースが比較的多いという。

※(註) 以上はネット上で閲覧し得た情報であり、筆者は業界人ではないため真偽の程は不明です。



★新明和工業の歴史
新明和工業株式会社は兵庫県宝塚市新明和町1-1に本社を置く輸送用機器製造会社である。
新明和工業の前身は川西航空機であり、川西航空機は戦前、九七式飛行艇や二式大型飛行艇等の飛行艇、局地戦闘機・紫電/紫電改等の名機を生み出した関西の名門航空機メーカーであった。戦後、新明和興業(1960年5月に新明和工業に改称)として再建され、民需転換のため2輪、オート3輪、特装車架装等の様々な事業に進出した。航空機については1962年(昭和37年)のYS-11の生産分担に始まり、1966年(昭和41年)には海上自衛隊向けの飛行艇で完成機メーカーとして念願の復活を遂げた。

・1918年(大正7年)5月・・・・・新明和工業の前身である「川西航空機株式会社」の創業者・川西清兵衛が、「中島飛行機」の創業者 中島知久平と共同で日本初の飛行機会社「日本飛行機製作所」を設立。

・1920年(大正9年)2月・・・・・日本飛行機製作所を2年足らずで解散。川西清兵衛は次男の川西龍三を経営者に置き、「川西機械製作所」を創設。若き技術者の「もう一度飛行機を作らせてほしい」という熱意に応え、後に同社内に「飛行機部」を設置、独自に飛行機の設計と製作を開始。


・1923年(大正12年)6月・・・・・国内三番目となる商業航空事業会社「日本航空株式会社」を設立し、国策の「日本航空輸送株式会社」へと営業路線を譲渡するまでの6年間、民間航空輸送事業の発展に貢献。

・1928年(昭和3年)11月・・・・・航空機事業に魅せられた川西龍三が川西製作所・飛行機部の事業を継承した「川西航空機株式会社」を設立。同社は、第二次世界大戦終了まで日本の航空史に残る数々の名機を創出。

・1945年(昭和20年)12月・・・・・終戦に伴い航空機製造の全面禁止を受けるも川西は希望を捨てず、1946年(昭和21年)2月には転換事業の目標を明確にするための新組織を発足。オート三輪「アキツ号」を生産開始。航空機製造で培った技術と技能を生かしてモノ不足・食糧難であった時代のニーズに応えるべく生活用品などの製造も開始。

・1949年(昭和24年)11月・・・・・「新明和興業株式会社」設立。相前後して1949年9月にダンプトラック架装第1号完成。新規事業の立ち上げに成功。


・1952年(昭和27年)4月・・・・・戦後7年を経て航空機製造が解禁となり、航空機専業メーカーから社会インフラ整備に事業領域を広げ、日本の高度成長と共に特装車、産業機器、航空機という3つの事業柱を確立。2輪車ポインター発売。阪神地区ではポインターがモーターサイクルの代名詞となる。

・1960年(昭和35年)5月・・・・・「新明和工業株式会社」に社名変更。航空機事業への本格参入を目標に、揺ぎない経営基盤を築くため株式会社日立製作所の傘下となる。

・1966年(昭和41年)1月・・・・・PX-S飛行艇試作第一号機を防衛庁から正式に受注し、翌1967年に試作機が初飛行する。


★1957年 川西の製品カタログ (A4判・厚紙シート104枚+カバー)
表紙には「川西の製品」「川西モーターサービス」「新明和興業株式会社」の順で大きな文字サイズの印字があり、殊更に「川西」が強調されているのは戦前の川西航空機の知名度を強力な後ろ盾としたものであろう。「川西モーターサービス」は「新明和興業」の一部門だったものと思われる。このカタログには計49枚のシートに原則として1枚に2車ずつ架装完成時の貴重なオフィシャル写真が掲載され、別紙に架装年月や架装の概要・諸元が記載されているが、「あくまで架装例であって他車種にも同様の架装が出来る」という意味合いからかシャシーメーカーの記載は一切されていない。大きく分けて「ダンプの部」、「タンクローリーの部」(バキュームカーを含む)、「特殊車の部」(ミキサー車、架線塔車、救援車等)の3部構成となっており、今回は「タンクローリーの部」の車両写真をご紹介することとしたい。
タンクローリーにはB-1からB-26まで任意に割り振られたと思われるナンバーを持つ計26車が掲載されている。カタログの「まえがき」末尾に「今後生産される特殊車の中で各位の御関心を頂きたいものについては、その都度印刷の上配布申し上げますから本書に御追録下さい。」との記載があり、随時シートを追加するという珍しい形式を採ったカタログである。記載されている架装年月はシャシーの生産年月とは必ずしも合致せず、新車から5年落ち程度で架装されたと思われる車両も含まれている。1950年代に高いシェアを誇った新明和の2輪車「ポインター」は比較的現存するのに対して、このカタログに掲載された新明和の架装した働くクルマ達は恐らく1台も現存はしないと思われる。
表紙

まえがき
まえがき



※凡例: 〈新明和興業独自のカタログ付番〉・架装年月・シャシーメーカー・架装種別・「事業者名」 


〈B-1〉 1954年8月 いすゞ重力式散水車「京都市建設局」
(1)いすゞ


〈B-2〉 1955年11月 トヨタ自給式重力散水車「大阪市土木局」
(2)トヨタ


〈B-3〉 1955年4月 ニッサン洗浄散水車
(3)ニッサン


〈B-4〉 1952年12月 日野 独立エンジン付洗浄散水車
(4)日野


〈B-5〉 1953年3月 トヨタダブルキャブ式 吸水車
(5)トヨタ


〈B-6〉 1957年4月 トヨペット排水車「日本電信電話公社」
(6)トヨペット


〈B-7〉 1957年10月 プリンス ガソリンローリー「日本石油」
(7)プリンス


〈B-8〉 1956年10月 トヨタ ガソリンローリー「丸善石油」
(8)トヨタ


〈B-9〉 1956年12月 ニッサン重油ローリー「出光興産」
(9)ニッサン


〈B-10〉 1956年11月 三菱ふそう ガソリンローリー「日本石油」
(10)ふそう


〈B-11〉 1955年9月 シャシー不詳 航空機燃料給油車「日米商会(ESSO)」
(11)不詳


〈B-12〉 1956年6月 いすゞ 航空機燃料給油車「琉球石油」
(12)いすゞ


〈B-13〉 1957年3月 三菱ふそう 航空機燃料給油車「新三菱重工業 名古屋航空機製作所」・・・・・シャシーは1952年から1953年あたりの三菱ふそうに見えるので4~5年落ちでの架装?
(13)ふそう


〈B-14〉 1955年1月 いすゞ 印刷用インクローリー「阪田の印刷インキ」
(14)いすゞ


〈B-15〉 1957年10月 トヨタ ホルマリン ローリー「東洋高圧」
(15)トヨタ


〈B-16〉 1956年10月 いすゞ メタノール ローリー「住友化学」
(16)いすゞ


〈B-17〉 1953年8月 日野 ナイロン液トレーラーローリー「東洋レーヨン」
(17)日野トレーラー


〈B-18〉 1953年3月 日野 濃硫酸ローリー「不二越鉱業」
(18)日野


〈B-19〉 1956年9月 トヨタ 二硫化炭素ローリー
(19)トヨタ


〈B-20〉 1957年8月 三菱ふそう ラテックス ローリー
(20)ふそう


〈B-21〉 1955年7月 ミンセイ 動植物油ローリー「不二製油」
(21)ミンセイ


〈B-22〉 1956年3月 いすゞ牛乳ローリー「明治乳業」
(22)いすゞ


〈B-23〉 1956年12月 三菱3輪バキュームカー
(23)三菱3輪


〈B-24〉 1956年3月 オリエント3輪バキュームカー
(24)オリエント


〈B-25〉 1957年5月 トヨペット バキュームカー「神戸市清掃局」
(25)ダイナ


〈B-26〉 1956年8月 ニッサン バキュームカー「四日市市役所」
(26)ニッサン





★オマケ(その1): トミカダンディ52番 1/60スケール 1975年日野HE355トラクタ牽引セミトレーラータンクローリー各種
全長22cm。1976年10月発売。当時定価1350円~1500円。ダイキャスト/タンク部プラ製。最初にSHELLが市場に出たあと、日石、ESSO、キグナス、TEXACOと怒涛のようなバリエーションがリリースされた。日石は最初に白/空色が出たあと、白/紺のニューデザインに替わった。グリル左右のパーツにメッキと塗装のバリエーションあり。並んで写っている白黄のシェルカラーと似たカラーリングの乗用車は同じ1/60スケールのトミカ26-1番セリカ1600GT「1972年日本グランプリ優勝車」(2001年エアクール特注品)。
ダンディ(1)

ダンディ(2)

ダンディ(3)

ダンディ(4)



★オマケ(その2): 仏CIJ 3/72番 1/55スケール? 1958年ルノー タンクローリー「SHELL」
全長20cm。国内輸入価格:不明。ズッシリと重いオールダイキャスト製。キャブ後部のスペアタイヤ取り外しアクション付。変顔ながら愛嬌のあるキャブです。並んで写っているのはプラスチック時代の独siku品番76 シトロエンDS19。
CIJ(1)

CIJ(2)

オマケ1との並び。
CIJ(3)並び



★オマケ(その3): そんな本日のホットウィール

①ポルシェ356Aアウトロー
最初の黒に続いて出た2ndカラーのシルバー。356なので同じものを3台♪
HWポルシェ356銀

②トヨタ2000GTタイムトライアルカー
日本ヒストリックスは発売即完売の大ショート(市場在庫が需要に比べて大幅に不足している状況)のようですが、トヨタ2000GTだけは外せないので定価+αで入手♪本当はケンメリパトも1台欲しいところ。でも今回出た5台の中では510ワゴンが一番と言う人が意外に多いようです。
HWトヨタ2000GT




※日本のタンクローリーの歴史については本シリーズ第261回記事をご参照ください。



【過去記事 カタログ画像 追加情報】
本シリーズ第240回記事「いすゞBUオバQ」に以下の1966年10月発行カタログを追加しました。

●1966年10月 いすゞディーゼルバス タイプBU 総合カタログ (A4判・10頁)
いすゞカタログNo.LB-2005。何とも魅力的な山中湖ホテル前のオバQの表紙写真。収載型式はBU05・BU10・BU20・BU15・BU20・空気ばね付BU05P・同BU10P・同BU15P・同BU30Pの9車種。
いすゞBU66年

★1949年 オースチンA90アトランティック 英国の三つ目小僧 ~ 自動車カタログ棚から313

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今日はこどもの日ですNE!
祝日法第2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨だそうです。「母に感謝する」ということは大人であっても出来ることですNE!
しかし、父子家庭の場合はこの趣旨では困りますから、「母に」を「両親に感謝する」と変えた方がいいような気もしますNE!
ところで、みなさんの周りではこいのぼりが見られますKA~?
私が子供の頃には大きなこいのぼりを庭に立てる家が多かったですYO~!
日本では子供の数が減り止まらず、年々少子高齢化が進んでいるようですYO!
子供の減少イコール年金財政を支える世代の減少ということになり、これは社会的に深刻な問題です。


もうすぐ50歳となるジャネット・ジャクソンさん(Janet Damita Jo Jackson; 1966年5月16日-)が第1子を妊娠したとのことです!!42歳でジョン・レノンとの子「ショーン」を産んだ小野洋子さん(Yoko Ono、Yoko Ono Lennon; 1933年2月18日-)や46歳で出産した戸川 昌子さん(1931年3月23日-2016年4月26日)を上回る記録になるといいですよNE!

閑話休題
今日は自動車カタログ棚からシリーズの第313回としてオースチンが戦後1949年に市販したアトランティックをご紹介します☆
 



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★長瀬産業の社長を務めた長瀬徳太郎(1986-1972年)は、1923年(大正12年)に米イーストマン・コダック社(Eastman Kodak)の映画用フィルムの輸入販売を始め、1935年(昭和10年)には京都・太秦に極東現像所(後の東洋現像所)を立ち上げた。東洋現像所はフィルムの現像により数々の劇場用映画作品をはじめ東京裁判の記録映像や1964年東京オリンピックの公式記録映画制作等に携わった。
その一方で長瀬徳太郎は1921年(大正10年)に日本での自動車の普及を目標に大阪市北区に資本金50万円で日新自動車株式会社を設立し、米車スチュードベーカー、英車オースチン等の輸入を開始した。

日新自動車は1927年(昭和2年)には円タク用自動車ホイペットの組立生産を開始、第二次世界大戦中の中断を経て1948年(昭和23年)には輸入業務を再開し、日産自動車がオースチンA40のノックダウンを始めた1953年(昭和28年)以降は日産車のディーラーとしての業務も開始した。時は下り2014年(平成26年)11月、日新自動車株式会社は他2社と経営統合し、自動車修理や車検の際に使われる自動車部品や用品、産業用部品を取扱う専門商社「アクセス」として存続しているが、現在は完成車の輸入販売業務はしていない。


★ハーバート・オースチン(Herbert'PA'Austin;1866年11月8日-1941年5月23日)がウーズレー社から独立し、英国ロングブリッジにオースチン・モーター・カンパニー(The Austin Motor Company)を設立したのは1905年(明治38年)のことである。
かつてのオースチンは乗用車・トラック以外に航空機の製造も行なう一大メーカーであった。1928年(昭和3年)に生産された独BMWの第1号車「ディクシー(Dixi )がオースチン7のライセンス生産であったことや、戦後、日産がオースチンのライセンス生産により技術力を身に付けたことは有名な話である。1952年(昭和27年)にオースチンはBMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)の1ブランドとなり、1968年(昭和43年)にはブリティッシュ・レイランド(British Leyland)の1ブランドとなる。時は下り、英国の自動車産業の斜陽化を経た2016年現在は、オースチン、モーリス、MG、バンデン・プラの各ブランドは何と中国の南京汽車が商標権を所有している。今後、もしオースチンのブランドが復活するとすれば、中国製となるだろう。古来、栄枯盛衰は世の習いとは言うものの、アレック・イシゴニスが設計し1959年(昭和34年)にデビューしたミニの時代を知る世代であれば、オースチンやモーリスが中国のクルマになるとは誰もが予想し得なかったのではないだろうか。


オースチンA90アトランティック1948年(昭和23年)秋に開催された戦後初のロンドン・ショーでベールを脱いだ。
アトランティック=「大西洋」の名が示すように、海を渡り、戦勝国とはいえ財政の厳しかった英国に外貨をもたらすことを目標として開発された。英国車としては異例に豪華なコンバーチブルであり、標準で電動トップやパワーウインドを備え、エクステリア・デザインはアメリカ人に好まれるであろう派手さが盛り込まれた。即ち、ポンティアックと似たボディセンターに付けられたメッキモール、タッカーと似た中央にフォグを持つ3灯ライト、ふくよかなボディラインとスパッツを付けた後輪などが目を引いた。全長約4.5mながら全幅は1.8m近いサイズのワイドボディを持ちながらエンジンは4気筒2.6リッターとV8が主流となりつつあったアメリカ車と比較すれば極く控えめであった。
アトランティックはアメリカでのデビューに際して、インディアナポリス・モータースピードウェイで1949年(昭和24年)4月12日~19日の1週間に亘り3人のドライバーが交代で昼夜を問わず走り続け、計63の屋根なしオープンモデルのストックカー国際記録(平均時速113.5km/h等)をつくるという派手なアドバルーンをあげた。


★コンバーチブルのみで出発したアトランティックにデビュー翌年の1949年秋、幌の代わりに鋼製トップを付けた「スポーツ・サルーン」が追加された。
しかし、アトランティックの対米輸出は期待通りには伸びなかった。アトランティックと同年のロンドン・ショーでデビューしたジャガーXK120がアトランティックより小さなボディながらも遥かに高出力・高性能な3.5リッター6気筒DOHCエンジンを備え魅力的なスポーツモデルとしてアメリカで人気を博したのとは対照的にアトランティックはミニ・アメリカ車的な性格を持った一風変わった英国のスペシャリティカーでしかなかった。アトランティックと同じ2ドアスペシャリティであれば、アメリカ車の方が遥かに大きく高性能で装備も豪華だったのである。


★オースチンがBMCの1ブランドとなる直前の1952年初頭まででアトランティックの生産は中止された。
約3年間の総生産台数は7981台、うち輸出3597台(45%)、月産200台程度と低調に終わった。自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924-2000年)の著作によれば、日本にも当時の輸入元・日新自動車の手で少なくとも赤いコンバーチブル1台とブルーメタおよび黒塗りのスポーツサルーン(ハードトップ)の計3台が上陸しているという。黒塗りのスポーツサルーンは3国人所有の3万台ナンバーで何とオーナーが後席に座りショーファードリブンで乗られていたという。1950年代~1960年代にかけての日本の路上で多数の自動車を撮影された浅井貞彦氏の写真集ではフロント左右前端のマスコットが失われた黒塗りと思われる個体が見られるが、五十嵐氏が撮影された3万台ナンバーの車両の後年の姿ではないだろうか。


【主要スペック】 1949年オースチンA90アトランティック コンバーチブル (1949 Austin A90 Atlantic Convertible)
全長4496 mm・全幅1778 mm・全高1524mm・ホイールベース2438mm・車重1282kg・FR・直列4気筒2660cc・最高出力88ps/4000rpm・最大トルク19.35kgm/2500rpm・前輪コイル独立サス・変速機4速コラムMT・乗車定員4名・電装系12V・ボディ標準塗色:緑、赤、青、クリーム(計4色)、最高速度146km/h(91mph)・英本国販売価格・日本国内販売価格:共に不詳



●日本に棲息した赤のアトランティック・コンバーチブル
撮影:五十嵐平達氏。撮影時期、場所共に不詳だが、平仮名の入ったナンバーからすると新車当時ではなく1950年代後半に撮影されたものと思われる。ボンネット左右のマスコットを始めオリジナルの状態が保たれている。
五十嵐氏


●1948年 オースチンA90アトランティック プロトタイプ
フロントウインドーが左右端で分割され3枚のガラスでラップラウンドとされた生産車とは異なり、センター分割の平面ガラスとなっている。
プロトタイプ



●誠文堂新光社「子供の科学」1950年5月号 (B5判・76頁)
表紙と巻頭特集で「世界記録を作ったオースチン自動車」と題してA90アトランティックがフィーチャーされ、1949年4月にインディアナポリスでつくった記録のことなどが解説されている。絵: 藤好鶴之助 画伯。
子供の科学(1)表紙

【中の頁から】
・解説
子供の科学(2)解説

・各部図解
子供の科学(3)図解



●ひかりのくに昭和出版 ひかりのくに絵本「自動車画集」 (B5判・12頁)
表紙にA90アトランティックが描かれた珍しい絵本。絵:上田三郎 画伯。発行年月の記載はないが、ジャガーXK120なども描かれておりアトランティックがまだ新車で売られていた時期に近い1950年代前半の発行と推定される。
絵本



●1949年? オースチンA90アトランティック コンバーチブル カタログ (縦26.6×横20.5cm・英文4つ折8面)
カタログNo.528/E。描かれているクルマが全て左ハンドルの輸出専用カタログ。表紙に記載された「モータリングの新しい時代」のコピーを象徴するような表紙。今回のオースチンのカタログは全て、五十嵐平達氏と親交の深かった内山 勇氏(1930-2013年)よりお譲り戴いたもの。内山氏からは珍しいカタログや資料を無償でお譲り戴いた。この折カタログとは別に厚口の本カタログが出ているかどうかは不明。
コンバチ(1)表紙

【中面から】
下部に4色のボディカラーが記載されている。
コンバチ(2)下部にカラー4色

グラマラスで艶めかしい曲線
コンバチ(3)艶めかしい曲線

皮貼りシートと運転席
コンバチ(4)革貼りシート運転席

トップ及びウインドの開閉は運転席ドアに付けられたスイッチで操作する。
コンバチ(5)トップ開閉機構

4気筒エンジン、4速変速機、フロント独立サスペンション
コンバチ(6)エンジン変速サス

裏面: スペック及び図面
コンバチ(7)裏スペック図面

図面アップ
コンバチ(8)図面アップ



●1950年? オースチンA90アトランティック スポーツサルーン カタログ (縦26.6×横20.5cm・英文2つ折4面)
カタログNo.773/Export。1年遅れで追加されたハードトップボディの専用カタログ。このカタログは表紙の絵は右ハンドル、中は左ハンドル車が描かれている。
ハードトップ(1)表紙

【中面から】
ハードトップ(2)中全面

リアウインドの中央部は昇降可能。
ハードトップ(3)リアウインド下降

運転席
ハードトップ(4)運転席

裏面: スペック及び図面
ハードトップ(5)スペック図面

図面アップ
ハードトップ(6)図面アップ





★オマケ(その1): 英ディンキー106番 1/43スケール 1951年オースチンA90アトランティック
全長9.5cm。ダイキャスト製。黒いボディに赤いホイールとシートが映える魅力的なモデル。赤い牛皮貼りの実車のシートのムードが良く出ている。他に水色ボディのバリエーションあり。ダッシュパネルも正確に彫り込まれた傑作モデル。このディンキーのミニカーを保育社カラーブックス「世界のミニカー」(1967年初版・中島 登著)で見たのがアトランティックとの初めての出会いだった。一緒に写っている赤い車はアトランティックと同時代にデビューしたポルシェ356プリAクーペ(独メルクリン8004番)。
ディンキー(1)正

ディンキー(2)

ディンキー(3)

ディンキー(4)

ディンキー(5)


・プレミアムX 1/43オースチンA90アトランティック
これは最近のミニカー(画像はお借りしました)。税込定価5184円。
プレミアムX(1)

プレミアムX(2)



★オマケ(その2): オースチンA90アトランティック 実車動画
美女がアトランティックを運転し解説する実車動画。2:20位で運転席から昇降操作ができるリアウインドと腕木式方向指示器の動作が確認できます。




★オマケ(その3): 四人囃子 「一触即発」
最後は記事とは関係なく、今日の気分で大好きな曲を1つ。もう40年以上経ちますが高校生の頃、この曲の森園さんのギターをコピーしてよく弾いてました♪シュールな詩、曲共に日本のロック史に残る名曲です。



【一触即発】1974年 リリース
詩/末松康生、森園勝敏 曲/森園勝敏

きもちのいい夕方に
ボタンの穴から
のぞいたらくしゃみなんて 出そうになって
アー空がやぶける
アー音もたてずに アーア・・・・・

あの青い空がやぶけたら
きっとあの海も
せり上がってくるにきまってる
アー空がやぶけて
アー声もきこえない アーア・・・・・

あの青い空がやぶけたら
きっとあの海がせり上って
そうなったら地は走り 風はおちてしまう
アー空がやぶけて
アー声もきこえない アーア・・・・・

アー空がやぶけて
アー声もきこえない アーア・・・・・

そうなったら
もうおしまいだ
だってオレはキンピカの時計をもって
よろこばなけりゃならないんだ

もうちっともこわくなんかないさ
あの空のさけめから
あいつが降りてきたって
もうとってもいい気分さ
キンピカの時計がいったいどうしたって
みかん色の雲がすごい速さで
みんなを乗せてみどり色の星へと

★1971年 マッチボックス日本語版 スーパーファースト発売 ~玩具・模型カタログ棚から 025

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アメーバブログを見ていると、誰からもコメントが入らないのに毎日3回も4回も更新している方、誰からもコメントは入らないのにあたかも日記のように毎日定時更新している方、更新回数はけっして多くはないのに「コメント」「いいね」が怒涛のように付く方、芸能人でもないのにあまりにもコメントが多く入り対応不可能となってコメ欄を閉じてしまっている方など、まあ人それぞれと言いますか、世の中色々な方がおりますあるYO。
私のような独り者の場合では、誰しも怒涛のような「コメント」や「いいね」が付くことが一つの夢と言いますか理想ではありますよNE。でも、恐らくこのブログからも取っつきにくく少々気難しい性格が垣間見えるのか(本当はそんなに気難しくはないんですけどね~)、どうにも皆さんに嫌われてしまっているようですNE(爆)。
例えば、セリカさんだとかクレさんだとかのように誰もが気楽に絡みたくなるような魅力的な人柄が滲み出たブログを目指して頑張りたいものですNE→「無理無理,、絶対無理」と外野の声(爆)
実際、ブログをやっていて幸せか不幸か、あるいは、価値のあるブログか否かは一つにはコメントがどれだけ入るか、とりわけ私のような独り者の場合には異性からのコメントが入るかどうか、そしてアメブロ内にお仲間というか取り巻きがどれだけ大勢いるかで決まるようにも私には思えます。


1,2行の極く極く簡単な記事でもコメント欄が炎上する人もいてみえるのとは対照的に、私のこのブログは例え丸2、3日かけて丁寧に記事をつくってアップしてみても一般にはコメントのしようがないマニアックな内容が多いということに加えて私の人柄が悪いためか、他人様から避けられがちでコメントは沢山貰うことは出来ませんあるYO(爆)。
現在の私のブログはレアカタログ等の画像へのアクセスが多い為か総合順位で2000~3000位、月に何日かは1000~2000位以内と驚くほど順位が高く(5000位くらいまで下がる日もある)、アクセス解析を見るとブックマークからの閲覧が1日1000人程度とアメーバユーザー以外の固定読者が異様に多いのが特徴なのですが、アメーバユーザー以外はコメントが出来ない設定にしてあることもあり、一言も言わずに黙って見ておられる方が大勢いらっしゃることは驚くばかりです。顔も見えないのに見てくださっている方が多いことには本当に驚きます→「そこの貴方、どうか読み逃げしないで、例え一言だけでもいいからコメントしていってくださいね~!特に女性からのコメント大大大歓迎で~す!」
・・・・・というようなことを書くと、益々コメントが入らなくなるあるYONE(自爆)


実は5月6日(金)から急に奥歯が痛み出し、昨夜はロキソニンを飲んで寝ても、ズキンズキンと脳天に響くような痛みで起きてしまい、ロキソニンの規定範囲内の大量投与で何とかしのいでおりやす(汗)
しかし、歯にしてもどこにしても猛烈な身体の痛みというのは辛いものですね。レントゲンと口腔内画像診断の結果は実は痛みの原因はどうも歯ではなく歯茎の炎症のようでした。☆
しかし、こんなに痛いのでは仕事はおろか何もやる気がおきないので、もう少し強度な医療用麻薬(モルヒネ等)の投与や神経ブロックも視野に入れてもよいのかもしれませんNE☆実はこれを書いている今もかなり痛いのですがクスリで痛みが幾分かでも和らいでいるうちに急いで1記事アップしますNE☆


閑話休題
連休中に倉庫整理をしていて、中学生の頃に集めたマッチボックスのダンボール箱(150台位)が出てきましたので、今回は玩具・模型カタログ棚からシリーズの第25回記事としてスーパーファスト初期のマッチボックスのカタログをピックアップします。
まずは、2015年4月12日の
1966年マッチボックスカタログ記事を再録します(一部、加筆修正しています)。
上述の通り、現在少々体調が悪いのでサクっとアップします。  
 


※お知らせ: 今週は5月15日(日)まで出張となるため、次の週末は記事の更新ができない見込みです。



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★1960年代、私が子供の頃に遊んだミニカーの代表格といえば何といっても朝日通商が輸入していたマッチボックス(MATCHBOX)。
1970年(昭和45年)9月、私が小5の二学期に国産小スケールミニカーのトミカが発売されるまで、マッチボックスは子供のお小遣いでも買える安価なミニカー(1960年代後半で1台150円)の代表として全国津々浦々で売られ日本中の子供達に遊ばれた。私の生まれ育った都内でも街のオモチャ屋さんは勿論、模型屋さん、駄菓子屋さん、文房具屋さん、雑貨屋さん、あるいは本屋さんなどでもマッチボックスは売られていた。要するにマッチボックスは置いておけばどこでも羽が生えるように売れる商品だったのだ。


★1972年(昭和47年)4月、中学生になった私は熱狂的なミニカー・コレクターのクラスメイトY君と出会った。
Y君は両親が共働き(両親共に大学教授:御父様はその世界では知らない人はいないという程の著名な哲学者、御母様は英文学者)で御祖母さん子だったのだが、御祖母さんが彼の望むミニカーは何でも買ってもらえる環境にあった。初めて吉祥寺に程近いY君の家に遊びに行った時、オモチャ屋さんにあるのと同じマッチボックスの展示ケース2つ(平面型と判子屋さんにあるような回転式タイプ)に大量に飾られたレギュラーシリーズに文字通り腰を抜かした。何でも近くの文具店で展示ケースごと全部買ってもらったという話だった。Y君はマッチボックスだけでなくモデルペットやダイヤペットといった国産ミニカーも山のように持っており、しかも小学生の頃に買ってもらったモノなのに普通の子供のようには遊ばず、全て箱付の綺麗な状態で保管していることに更にまた猛烈なカルチャーショックを受けた。Y君から故 中島 登JMAC会長の著書カラーブックス「世界のミニカー」(1967年初版)を見せてもらった。それが私がミニカーをコレクション・アイテムとして明確に意識するきっかけとなった。Y君は朝日通商のマッチボックス・コレクションクラブに入会していて、定期的に発行されていた会報に掲載されたコレクター座談会といった記事に彼が顔写真入りで出ていたりしたこともあって、彼から大きな影響を受けた私は絶版となっても当時はまだ市場在庫があって容易に入手出来た旧ホイールやスーパーファストとなった新時代のマッチボックス・レギュラーシリーズを乏しいお小遣いで買い集めたものだった。当時マッチボックスの蒐集に夢中になっていたため、現在高額プレミアモデルとなっている1Aホイールなどの初期トミカは数える程しか入手しなかった。1973年、中2になるとY君はミニカーコレクションよりも音楽に夢中となって、サディスティック・ミカ・バンドやELPやTレックスといったロック・ジャンルのレコードを買って聴き始め、後に音楽プロデュースの道に進むこととなった。中2の時にその彼から譲ってもらったテレキャスター・コピーの国産エレキは記念すべき?私の最初のエレキギターだった(今も手元にあり)。その彼は、1999年(平成11年)、ジョン・レノンと同じ40歳の時に不慮の事故死を遂げた。彼が亡くなったあとの彼の御母様のまるで魂が抜けてしまったかのような顔が忘れられない。美しいY君の御母様に私は中学生の時に何度も英語を教えてもらいにY君の家に行っていたのだが、彼のように親より先に逝く「逆さ仏」ほど親不孝なことは他にないと心底思ったものだった☆☆


★英国レズニー(Lesney)社の最初のマッチボックスは1953年(昭和28年)、エリザベス女王が戴冠式に乗られた8頭立て馬車のミニチュアが始まり。
そのミニチュアが100万台以上も売れたことを契機にマッチボックス・シリーズは順次バリエーションを増やし、1960年(昭和35年)までには1~75番の有名な小スケールのレギュラーシリーズが完成した。その後、イエスターイヤー(Yesteryear:オールドカー)、メジャーパックおよびキングサイズシリーズといった非小スケール・モデルもラインナップに加えた。
マッチボックスの特徴は同一品番で新旧モデルが世代交代をすることで、「The Definitive Guide to Matchbox Toys 1-75 Series 1953-1969」等のコレクター向けガイド本では例えばレギュラーシリーズ34番のVWタイプ2であれば、1a、1b、1c、1d・・・というように市場に出た順にアルファベットが振られて世代区分されている。後年のトミカもマッチボックス同様に同一品番で世代交代させる手法を採り、トミカの場合には一般に1-1、1-2、1-3・・・・というような世代区分の表記がされている。また小スケールのレギュラーシリーズにおいては価格を統一するため概ね箱の大きさを統一した所謂 箱スケールで各モデルのスケールはマチマチとなっている。これも後年のトミカが踏襲した手法である。歴史に「もしも」はないとは言え、もしもマッチボックスの日本でのヒットがなかったら現在のトミカは生まれていなかっただろう。


★1968年(昭和43年)9月にアメリカのマテル社が発売したホットウィール(日本語での表記は國際貿易取扱時代は「ホットホイール」、バンダイ取扱時代以降が「ホットウィール」)は、「他社の如何なるミニカーよりも速く走るミニカー」というそれまでミニカーメーカーがあまり重視しなかった走行性能に着目し、摩擦抵抗の少ない細いピアノ線を使用した車軸とサスペンションを採用、圧倒的な走行性能は最大のセールスポイントとなった。1968年の発売に際して「ホットウィール」は、アメリカ国内でテレビCMに1000万ドルを投じ、他のどのミニカーよりも速く走る特徴をアピールした広告展開を行って世界中でヒットし競合他社に多大な影響を与えることとなる。
それまで3インチ・小スケールのミニカーの分野で世界的に圧倒的なシェアを誇っていたマッチボックスもホットウィールの影響は避けきれず、1970年にスピードホイール「スーパーファスト(Super fast)」に順次移行した後、ホットウィールばりのキャンディカラーに塗られたホットロッドや実車とはかけ離れたモデルが相次いでラインナップに加わった。このようなホットウィール寄りの路線は結果としてマッチボックスの世界的なシェアの低下を招き、1982年(昭和57年)のレズニー社経営破綻に繋がった。しかし、マッチボックスは現在もホットウィールと同じマテル傘下でブランドは存続している。


★1971年 マッチボックス カタログ 日本語版 (縦10.8×横14cm・64頁)
表紙は1回の充電で400m走るという新たなスコーピオン(さそり)シリーズの2台。スコーピオンシリーズは現物未見のため、スケール、材質等不明。緑の車「ポルシェカレラ10」はレギュラーシリーズ68番でも出ている。この時代のマッチボックスの日本語版カタログは全国で大量に配布されたので現在でも比較的容易に入手できる。
(1)表紙


-以下、中のページより抜粋(イエスターイヤー、モーターウェイ等は割愛)-


●マッチボックス1~75 レギュラーシリーズ(各定価170円)
マッチボックスのカタログの美点はスケール表示があること。しかし、62番のラットロッド・ドラグスターが1974年にルノー17TLと交代するまでカタログではHOスケールに近い1/86となっているなど誤りが結構みられる。この時期のマッチボックスはまだレギュラーホイール(旧ホイール)時代のタイヤ履き替え版が多い。

1971年のマッチボックスシリーズは変りました。カラフルで車種も増えました。頑丈でタフな車、スマートなイタリアのスポーツカー、エンジンを剥き出しにした未来派のドラッッガー、カリフォルニアのカスタム・ファンカー、ラット・ロッド・・・・・等75種類もあり、君が夢見る車は何でも揃っています。マッチボックスは君が手に入れられる最高の車です。最高の車マッチボックスを揃えましょう。
(2)レギュラー扉


1番 1/87 メルセデスベンツ トラック
2番 1/87 メルセデスベンツ トレーラー
3番 1/69 メルセデスベンツ救急車
4番 1/86 家畜運搬車
5番 1/55 ロータスヨーロッパ
6番 1/67 フォード集荷トラック
7番 1/85 フォード清掃トラック
8番 1/65 ワイルドキャット・ドラグスター
9番 1/125 ボートトレーラー
(3)メルセデス連接他


10番 1/92 パイプ運搬用トラック
11番 1/91 スキャホルドトラック
12番 1/100 セトラコーチ
13番 1/85 BPレッカー車
14番 1/61 イソグリフォ
15番 1/59 フォルクスワーゲン1500
16番 1/82 ブルドーザー
17番 1/92 競走馬運搬車
18番 1/64 フィールドカー
19番 1/65 ロードドラグスター
20番 1/58 ランボルギーニ マーツァル
21番 1/89 フォーデン・コンクリートミキサー
(4)パイプトラック他

(5)ミキサー他


22番 1/55 フリーマンインターシティーコミューター
23番 1/63 フォルクスワーゲンキャンパー
24番 1/67 ロールスロイス・シルバーシャドー
25番 1/62 フォードコツチナGT
26番 1/86 GMCティッパートラック
27番 1/60 メルセデスベンツ230SL
28番 1/118 マックダンプカー
29番 1/53 レーシングミニ
30番 1/53 ビーチバギー
31番 1/74 リンカーン・コンチネンタル
32番 1/92 レイランドタンクローリー「BP」
33番 1/62 ランボルギーニ・ミウラ
(6)コミューター他

(7)ミウラ他


34番 1/55 フォーミュラ1レーシングカー
35番 1/86 メリーウェザー消防車
36番 1/63 ホットロッド・ドラガー
37番 1/86 家畜運搬車
38番 1/41 ホンダオートバイとトレーラー
39番 1/56 フォード・トラクター
40番 1/56 干し草用トレーラー
41番 1/61 フォードGT40
42番 1/80 鋼材用クレーン車
43番 1/63 牛馬運搬用トレーラー
44番 1/86 冷凍車
45番 1/56 フォードグループ6
(8)F1他

(9)グループ6他


46番 1/66 メルセデスベンツ300SE
47番 1/94 DAFティッパーコンテナートラック
48番 1/85 ダンプカー
49番 1/68 ウニモグ・トラック
50番 1/67 ケネルトラック
51番 1/92 8輪ティッパートラック
52番 1/62 ダッジチャージャー・マークⅢ
53番 1/66 フォードゾディアック・マークⅣ
54番 1/59 フォードカプリ
55番 1/72 マーキュリー・ポリスカー
56番 1/64 BMC1800ピニンファリーナ
57番 1/76 エクレスキャラバン
58番 1/94 DAFガード付トラック
59番 1/73 消防指揮車
60番 1/92 小屋付トラック
61番 1/96 探検車「BP」
62番 1/86 ラットロッド・ドラグスター
63番 1/86 ダッジクレーン車
(10)メルセデス他

(11)クレーン車他


64番 1/57 MG1100
65番 1/65 刈取脱穀車
66番 1/159 グレイハウンドバス (外国型Nゲージスケール)
67番 1/61 フォルクスワーゲン1600TL
68番 1/54 ポルシェ910
69番 1/64 ロールスロイス・クーペ(コーニッシュ)
70番 1/85 砂利トラック
71番 1/78 フォードヘビーレッカー車
72番 1/63 スタンダードジープ
73番 1/72 マーキュリーコミューター
74番 1/121 ダイムラー2階建バス
75番 1/56 アルファカラボ
(12)MG他

(13)カラボ他


●スーパーキング (Super Kings)
旧キングサイズ商用車シリーズのスピードホイール衣替え版。スピードホイール化されていないモデルも含まれている。
マッチボックス スーパーキングはボディもタイヤも大きくて丈夫な建設車、運搬車のシリーズです。ダイナミックなアクションでダイナミックに楽しもう。


K-2番 1/69 スキャメルレッカー車 (550円)
(K1)レッカー


K-1番 1/62 O&Kパワーシャベル (600円)
K-3番 1/45 マセイファガーソントラクター・トレーラー (650円)
(K2)パワーシャベル他


K-4番 1/56 レイランド ティッパートラック (500円)
K-6番 1/58 セメントミキサー車 (600円)
K-8番 1/50 キャタピラー®トラックスカベーター (600円)
(K3)ティッパーミキサーキャタピラ


K-5番 1/54 レーシングカー運搬車 (550円)
K-7番 1/66 SD清掃車 (550円)
(K4)レーシングカー運搬車


K-11番 1/66 DAFカートランスポーター (850円)
K-13番 1/66 ユニットハウス運搬車
トランスポーター


K-10番 1/66 パイプ運搬トラック (600円)
K-12番 1/63 スキャメルクレーントラック (650円)
(K5)パイプトレーラー他


K-14番 1/64 フレイトトラック (750円)
K-15番 1/60 メリーウェザー消防梯子車 (650円)
(K6)フレイト消防車


K-16番 1/54 ティッパー2台付ダッジトラクター (950円)
K-17番 1/54 ブルドーザー付フォードブルドーザー運搬車 (950円)
(K7)ティッパーブル2台積


K-9番 1/80 刈取車 (550円)
K-18番 1/63 馬運搬トレーラー (750円)
(K8)刈取り馬運搬


K-19番 1/69 スキャメル ティッパートラック (500円)
K-20番 1/62 トラクター3台付トラクター運搬車 (950円)
(K9)ティッパートラクタ3台積


●スピードキング(Speedkings) 
スピードホイール版乗用車シリーズ。

K-21 1/40 クーガー・ドラグスター (450円)
K-22 1/48 ダッジ・ドラグスター (500円)
(K10)クーガーダッジ


K-23 1/50 マーキュリーポリスカー (500円)
K-24 1/43 ランボルギーニ・ミウラ (450円)
(K11)ポリスミウラ


K-25 1/43 シーバースト パワーボートとトレーラー (370円)
K-26 1/45 メルセデスベンツ救急車 (500円)
K-27 1/48 キャンピングカー (500円)
(K12)ボート救急他


K-28 1/50 ドラグスターレースカーセット (950円)
K-29 1/43 ランボルギーニ・ミウラとボートトレーラーセット (750円)
(K13)セット2種


●スーパーセット (Super Sets)
イエスターイヤーシリーズ以外はスピードホイール化された魅力的なギフトセット。
マッチボックススーパーセットは素敵な贈り物になります。5種類のセットがあり、それぞれ違うタイプの車がセットされています。さあ、お店にどんどん行って好きなセットを選びましょう。どれも素晴らしいから選ぶのが大変です。

G-1 サービスステーションセット (2000円)
G-2 トランスポーターセット (1800円)
セット(1)


G-3 スーパーファーストレーシングカーセット (1250円)・・・ステッカー35枚入り
G-4 トラックセット (1550円)
G-5 イエスターイヤーシリーズセット (1900円)
セット(2)





★オマケ(その1): 1972年に購入したマッチボックスレギュラーシリーズ各種
倉庫から出てきたマッチボックスは大体150台位あり、今回とても1台ずつアップはできないので、画像をちょっとだけ。ほぼ西欧型Nゲージスケールの66番グレイハウンドバスあたりは旧ホイール時代よりスーパーファースト版の方が販売数は少ないのでは。
レギュラー(1)

レギュラー(2)



★オマケ(その2): 1972年 マッチボックス・スピードキング&スーパーキング
K-21クーガーとK-22ダッジの両ドラッグスターはスピードホイールになって登場した新規金型モデル、K-25メリーウェザー梯子消防車とK-26メルセデス救急車はキングサイズ旧ホイール時代のホイール履き替え版。
キング(1)

ウインドパッケージは裏側が箱絵
キング(2)

キング(3)



★オマケ(その3): 1957 「マッチボックス」 ポール・マッカートニー リハーサル・バージョン
マッチボックス記事のお約束で最後はこの曲。オリジナルは1957年のカール・パーキンスで1964年にビートルズがリンゴのボーカルでカバー。これは、ポールがレスポールを弾きながら歌っているバージョン。何度見てもカッコイイ(≧∇≦)
最初のマッチボックスが1953年に発売された時、1942年生まれのポールは11歳だったことになります。





【自動車カタログ棚からシリーズ過去記事 カタログ画像 追加情報】
自動車カタログ棚からシリーズ第187回記事「ヂャイアント三輪トラック」に以下の1959年5月発行カタログを追加しました。

●1959年5月発行 ヂャイアント三輪 総合カタログ (縦18.3×横25.2cm・8頁)
何とも魅力的な日本通運四日市支店の幌を付けたAA24Tトラクタ+AT2Bトレーラーの天然色カラーの表紙写真。一見、トレーラー車専用カタログのようにみえる表紙だが内容は総合カタログで収載型式はAA26F(1屯車)・AA11(1.5屯車)・AA14(2屯車)、AA24L(2屯車)、軽三輪コニー、各種トレーラー等。
ヂャイアント1

★1975年 330セドリック/グロリア タクシー トミカ28-3 ~自動車カタログ棚から314

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若葉が出始め、そよぐ風にも若芽の香りがするような風薫る5月。気づけば、もう5月も半ばですね。夜風はまだ冷たい日があるものの日中は汗ばむ陽気の日も多くなりましたね。
昨日夜、出張から帰ったのですが、出張先で入ったとある乗降客の多い駅構内のドトールで面白い光景を見ました。その駅構内で喫煙できる場所はドトールの中だけなのですが、広々とした禁煙エリアは人が疎らでガラガラなのに狭い喫煙エリアは芋を洗うような混雑でしかもエリア入口の自動ドアの前には喫煙エリアに入るための行列が出来ているのです。これは、禁煙エリアと喫煙エリアの面積を逆転させるべきだろうと誰もが思うような光景でした☆


出張のため週末の更新ができず遅くなりました。今日は久しぶりの平日休みです。トミーテックさんから330セドリックタクシーさん(→maroさんコピー)が発売されたので今回は自動車カタログ棚からシリーズ第314回記事として330セドリック/グロリアのタクシーをサクっとご紹介します☆ 



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★1971年(昭和46年)2月のフルモデルチェンジでセドリックとグロリアは双子車となった。230セドリック/グロリアの誕生である。
セドリックは1960年(昭和35年)の初代から数えて3代目、グロリアは1959年(昭和34年)のプリンス時代の初代から数えて4代目に当たる世代の230から今日の言葉で言うところのバッジエンジニアリング(Badge engineering)による一卵性双生児となった。各々の個性を持つ1960年代の国産高級車のビッグネームが1966年(昭和41年)の日産とプリンスの合併の影響により、基本構造や車種体系が同じで細部の意匠が異なるだけの事実上同じクルマになってしまったのである。


シンプルなルックスの230は日本車初の4ドアHTを出すなどして4年余り造られた後、1975年(昭和50年)6月27日に330セドリック/グロリアにフルモデルチェンジした。
330型は230のキープコンセプトながらもアメリカ車の影響の色濃いオーバーデコレーションとも言えるディテールに加え抑揚の効いた押し出しの強いボディデザインとなった。マイナーチェンジやディーゼル車の追加を経て1979年(昭和54年)6月に430に替わるまで丸4年間製造販売されたが、現在の目で見ると平凡でシンプルな230よりもゴテゴテとした330の方が外観的なインパクトは強く1970年代という時代の日本車らしいテイストに溢れている。


セドリックタクシーのカタログについては過去の本シリーズでは初代横目G31タクシー(第27回記事)、2代目130タクシー(第97回記事)をご紹介していますが、順序としては次の230型を1世代飛ばし、今回は2016年5月にトミーテックのトミカリミテッドヴィンテージ・ネオで330セドリックタクシーがリリースされたことに因んで330タクシーをご紹介します。
330タクシーのカタログはセドリック、グロリア共に4種類、計8種類程度が発行されたと思われますが、残念ながら手元には計3種類しかありません。手元にある3部は全て自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924-2000年)と親交の深かった内山 勇氏(1930-2013年)より無償にてお譲り戴いたもので、内山氏は330のタクシーカタログのうちの3種類については同じものを5,6部ずつもお持ちだったことに驚いたものです。内山氏が如何にして当時同じカタログを沢山入手されていたのかはお伺いしなかったので謎ですが、何度もディーラーに足を運んだという訳ではなく恐らく日産の大手ディーラーでごっそり一度に貰ったものだったのではと想像しています。


【主要スペック】 1975年 日産セドリック 営業車 (330V)
全長4690㎜・全幅1690㎜・全高1440㎜・ホイールベース2690㎜・車重1390kg・FR・L20型水冷直列6気筒OHC1998cc・最高出力115ps/5600rpm・最大トルク16.5kgm/3600rpm・変速機4速コラムMT・前輪ディスクブレーキ・乗車定員6名・電装系12V・燃料タンク容量67ℓ・タイヤサイズ6.95-14-4PR・最小回転半径5500㎜・最高速度165km/h



●渋谷駅前の330タクシー 実働写真
1977年 世界文化社 科学ブック9「りくののりもの」より。330タクシー実働中のカラー写真は意外に少なく、個人が撮影し保存しているものではない公の出版物であれば、こうした子供向けの図鑑もしくは都電等路面電車の写真と共に写っているものを探すのが良いと思われます。写真の右手側が国鉄(現JR)渋谷駅、左手側には2015年に惜しくも取り壊された1965年開館の東急プラザがあった地点です。

・手前右の客ドアを開けている330の他、東急バスを背にした最後尾にも330が確認出来る。クラウンは既に5代目の時代だがクジラの姿も見える。
渋谷(1)

右1台目と4台目に330が確認出来る他、510クーペや左端に少し写ったダルマセリカ、後方のはとバスなど今となっては非常に魅力的な1枚。
渋谷(2)



●1975年6月 グロリア タクシー専用カタログ (縦30×横25.5cm・8頁)
カタログNo.G35A。グレード構成は6気筒L20型115psを積むガソリン車がスタンダード、デラックス、カスタムデラックスの3種、4気筒H20P型80psを積むLPG車がスタンダードとカスタムデラックスの2種。
75(1)表紙

【中頁から】
シンプルなスタンダードが最も魅力的にみえる。
75(2)std

デラックス
75(3)DX

個人タクシー、ハイヤー用途を狙ったカスタムデラックス
75(4)カスタムDX

LPG充填口及びLPGボンベ
75(5)LPG充填口ボンベ

330初期のエンジンは2種のみでディーゼルはなし
75(6)エンジン2種のみ

裏面: スペック
75(7)裏スペック



●1976年3月 セドリック タクシー専用カタログ (縦30×横25.5cm・8頁)
カタログNo.6034T。4気筒SD20型ディーゼル60psを積むディーゼル(Q330)のデラックスとスタンダードが加わり、車種構成は6気筒L20型115psを積む3種(A330)、4気筒H20P型80psLPG車(N330)の2種を加えて7種となった。
76(1)表紙

【中頁から】
スタンダード
76(2)std

デラックス
76(3)DX

カスタムデラックス
76(4)カスタムDX

ディーゼルが加わりエンジンは3種
76(5)エンジン3種

グレード3種(カスタムデラックス・デラックス・スタンダード)
76(6)グレード3種

裏面: スペック
76(7)裏スペック



●1977年6月 セドリック タクシー専用カタログ (縦30×横25.5cm・8頁)
カタログNo.8093T。マイナーチェンジを受けた後期型。4気筒SD20型60psディーゼルがスタンダード1種のみとなり、新たに2164ccSD22型65sを積むディーゼル(R330)のデラックスとスタンダードが加えられ、車種構成は6気筒L20型115psを積む3種(E332)、4気筒H20P型80psLPG車(C-N331)の2種を加えた計8種のワイドバリエーションとなった。
77(1)表紙

【中頁から】
スタンダード
77(2)std

デラックス
77(3)DX

カスタムデラックス
77(4)カスタムDX

DS22型2200ccディーゼルエンジン追加
77(5)SD22型追加

裏面: スペック
77(6)裏スペック





★オマケ(その1): トミカリミテッドヴィンテージ NEO 1/64スケール 1975年 ニッサン セドリック スタンダード タクシー
全長7.5cm。2016年(平成28年)5月発売。トミーテック品番LV-N123a。定価税抜2300円。ダイキャスト製。トミカに存在しない車種をリリースするというトミカリミテッドヴィンテージ発売当初のスタンスとは少々外れるような気がしますが、330の実車とリアルタイムに発売されたトミカ28-3(オマケ2)等の往年のトミカタクシーのカラーリングを模倣した製品。
TLV(1)

TLV(2)

TLV(3)



★オマケ(その2): トミカ28-3 1/65スケール ニッサン セドリック タクシー各種
トミカ13-3の330セドリック2800SGLの金型を流用し1977年(昭和52年)3月に発売。当時定価240円~280円。ダイキャスト製。当時の単品売りは1980年8月に430タクシーと交代し3年余りで絶版。通常品でチェッカーカラーとトミカのタクシー伝統カラーである黄/オレンジツートンが出たあと、1979年10月発売の魅力的なギフトセットG60「トミカプレイセットみんなのまち」で白/赤ツートンが出た。トミカの当時物としては他に1979年2月に47-3の空港タクシーとしてもリリースされ、28-3の絶版後の1981年2月までの2年間のみ販売されていた。今回、47-3は残念ながら見つからず、28-3のみ当時入手したままだったトミカを35年以上ぶり?に久々に撮影のため開封してみました。330タクシーの当時物はトミカ以外にもトミカダンディ、ダイヤペット個人タクシー、永大グリップテクニカなどもありました(当時その殆どを入手していますが残念ながらすぐには見つかりません。何れ出てきた際には画像を追加します)。
左端の個人タクシーは2008年に東京都個人タクシー協同組合創立45周年記念として発売されたアイアイアド特注品(中国製)。
トミカ(1)

トミカ(2)

・1stチェッカー
トミカ(3)チェッカー

・2nd 黄橙ツートン
トミカ(4)ツートン

・ギフトセットG60「トミカプレイセットみんなのまち」
330タクシーの色違い白/赤以外に日野トレーラータンクローリー「ESSO」、いすゞエルフFF郵便車、ED75直流機風青塗装なども入っているので、タンクローリーファン、郵便車ファン、鉄道ファンにとっても魅力的なセットでは。
トミカ(5)セット1

トミカ(6)セット裏

・39年の時空を隔てたオマケ1との並び。ベンチレーターの筋彫りなどは最新のTLVネオより昔のトミカの方がくっきり出ていて良い感じです。
トミカ(7)並び1

トミカ(8)並び2

★1983年ドレグメーラー2階建はとバス トミカ42番 新製品 ~ 自動車カタログ棚から 315

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英雄色を好むと言うが、舛添センセイも結婚3回目、愛人2人に認知した子2人、事務所のスタッフは大半が若い女性でセンセイがくまなく手を付けていたとの噂もある。
まあ、実は私もスタッフを採用する時は容姿的に自分が好みの女性しか採用しないのだがw。私の部署では1人募集すると大抵150人位の応募があるので、言葉遣いがきちんとしていてPC操作が普通に出来た上で、最後に何を人を選ぶ際のポイントにするかとなると、どうしても最後の最後は実は容姿の好みとなってしまう。もしかすると、これは近頃ハヤリのセクハラとか言われるものなのかもしれない。でも、表情を含めた容姿というものは内面を反映している面もあり、見た目で生理的に好きになれないような人と一緒に仕事をしていても、どうにも気持ちが落ち着かないのだからこれは仕方がないw
しかしまあ、ブロ友のルイちょろも言う通り、やはりセンセイのように目付きの悪い、所謂、眼光鋭い男はモテる。モテる。モテまくる。眼光鋭い男というのは、いかにも男らしい強引さと押しの強さを併せ持ち、意思が強く、頼り甲斐がある(ように見える)からモテるのだろう。所謂、黙ってオレに付いてこい!とグイグイ引っ張っていってくれるタイプだ。押しが強いから基本仕事もプライベートも何でも自分の思い通りに事を進めることが出来る。正反対に私のようにニヤニヤとニヤけて優しい目をして、ちびまる子ちゃんに出てくるヒョウタンのような顔をした中野さんみたいに気弱な性格ではまるでモテない。優しい目をしていては世界中の誰も愛してはくれないのだ。私もセンセイのように眼光鋭く押しの強い、女性に愛される男になりたい。そうだ。眼光鋭く、いかにも意思が強く頼り甲斐のある男にみえるように、優しい顔から怖い顔に整形しようwww


閑話休題
2016年5月21日(土)にトミカさんの新製品「三菱ふそうエアロキングはとバス」さんが発売になったことに因んで、今回は自動車カタログ棚からシリーズ第315回記事として1980年代前半の最初の2階建てはとバスのカタログをピックアップします。
 



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★1964年?東京駅丸の内口前のスーパーデラックスはとバスAタイプ
トッパンのカメラえほん「たのしいのりもの」より。はとバスに因んで、まずはこの1枚。1964年東京オリンピック用に開発された、ライセンスナンバー「品2い24-27」の1963年三菱ふそうAR470SスーパーデラックスはとバスAタイプ(通称:金魚鉢)の左に白/赤茶ツートンの1963年秋MC後の1964年式セドリックが写っているので、撮影は1964年乃至1965年と思われる。左手前に懐かしい濃黄に青帯の初代クラウン最終30系と思われる東京駅構内タクシー、右手にも同じカラーリングの初代最終型スカイライン・スーパーの東京駅構内タクシー。スカイラインの横に410ブル初期のクリーム、その隣に白茶ツートンの縦目セドリックバン、遠方には2代目40系クラウンのタクシーの姿も見える。1960年代の空気を感じさせる非常にインパクトのある1枚。はとバスの乗客が厚手のジャケットを着ているので季節は冬かもしれない。
東京駅

※1963年三菱ふそうAR470Sスーパーデラックスはとバスについては、本シリーズ第121回記事を御参照ください。



★2階建てバスと言えば誰しも英国のルートマスター(通称ロンドンバス)を一番に思い浮かべるであろう。ルートマスターは英国のみならず大英帝国の支配下にあった香港やシンガポール、インドでも運行された。
日本国内での最初の2階建てバスは、近畿日本鉄道自動車局(現近鉄バス)が1960年(昭和35年)に日野シャシーと近畿車輛製車体にて試作した「近鉄ビスタコーチ」(本シリーズ第44回記事参照)である。この車両は浅草玩具がリリースしたブリキ玩具が大ヒットした他、同時代の児童向け絵本にも多数描かれており当時の人気の程が伺い知れる。
半2階建てセミダブルデッカーは近鉄ビスタコーチの登場より更に6年遡り、1954年(昭和29年)11月に日野ブルーリボンBD11シャシーに後部2階建て構造の車体を載せた西日本鉄道のバスである。この車両はバスの世界にセンセーションを巻き起こしたアメリカGMCのグレイハウンド向け「シーニクルーザー」の日本版的な車両であった。但し、厳密には客室後半のみを高床としたセミダブルデッカーは日本でも戦前から一部に存在した。



●西日本鉄道・日野セミダブルデッカーバス
西鉄の最初のセミダブルデッカーは当時の絵本に描かれた例は散見されるものの実車の写真は非常に少ない。Web上を検索して確認出来たのはこの1枚のみ。撮影日は1963年(昭和38年)4月20日、撮影場所は福岡・西鉄二日市駅前の二日市カトリック幼稚園前とのこと(出典記事)。
西鉄バス



★時は流れ、80年代が目前に迫った1979年(昭和54年)に至り大阪の中央交通が西ドイツのネオプラン製の2階建バス「スカイライナー」を輸入したことに始まり、1981年(昭和56年)4月には東京都交通局が台東区の委託により上野広小路-浅草雷門間にてスカイライナーの運行を始めた。
この時期に日本では2階建てバスブームに火が付き、1983年(昭和58年)には日野・日産ディーゼル・三菱の3社が2階建てバスの開発・製造に着手した。国産2階建てバスの構造要件の策定に当ってはスカイライナーを参考とした。いすゞ自動車のみは2階建てバスの自社開発を行わなかった代わりに、西ドイツのドルグメーラー社及びケスボーラ社と提携し、東京いすゞ自動車株式会社が2階建てバスの販売を行った。輸入元は1950年代からヒルマンの販売等でいすゞと長年業務連携してきた伊藤忠商事であった。


【主要スペック】 1983年ドレグメーラーE440型2階建てバス「メテオール」 (1983 Drögmöller Type.E440 Double Decker Bus Meteor)
全長12000㎜・全幅2500㎜・全高3800㎜・ホイールベース6850(5600+1250)㎜・RR・ダイムラーベンツ製水冷直接噴射式V型ターボチャージャー2基付きディーゼルOM422A型14620cc・最高出力330ps/2300rpm・最大トルク143kgm/1200rpm・変速機8速(2~8速シンクロ)・最小回転半径10080㎜・輸入元:伊藤忠商事株式会社・総販売元:東京いすゞ自動車株式会社



●1983年9月 ドレグメーラーE440型2階建てバス「メテオール」 リーフレット(A4判・日本語・表裏1枚)
ドレグメーラーの輸入元が伊藤忠商事、総販売元が東京いすゞ自動車株式会社であったことはWeb上にも情報はあるものの物証は見当たらない。その証拠となるのがこの1枚物カタログ。いすゞのカタログとしても珍品の部類に入るだろう。厚口の日本語版カタログが少数の極く限られた事業者向けに発行されたとも考えにくいため、日本語印刷物はこれのみ?

サイトシーイングは、もっとリッチに。バス観光を席巻する、ダブルデッカー旋風。いま、バスのロールスロイス、日本に上陸。リッチな風格に御社の特徴を盛り込めるうれしい二階建バス、ドレグメーラー。いま、貸切観光バス業界では二階建バス(ダブルデッカー)が人気上昇中です。物流の主役を担う東京いすゞでは、この状況にいちはやく対応すべく、二階建バスの本場、西ドイツのドレグメーラー社と提携しました。ドレグメーラーの二階建バスは、欧州バス業界のロールス・ロイスと言われ、ユニークな技術によるハンドメイド方式で一台一台注文に応じて生産されます。そして、エンジンはベンツを搭載。その技術力、品質、信頼性など高い評価を誇っています。
ドレグ(1)

【裏面】スペック・図面
ドレグ(2)



●1983年9月 ケスボーラ・セトラS216HDS型 特殊2階バス リーフレット(A4判・日本語・表裏1枚)
これも上掲のドレグメーラーと同時期に同じ伊藤忠・東京いすゞのダブルネームで発行された1枚物カタログ。
ケス(1)

【裏面】スペック・図面
ケス(2)



●1983年10月 はとバス 車両カタログ (A4判・日本語・3つ折6面)
はとバスでは季節毎に夥しい種類のコース案内パンフレットを出しており、それをコンプリートに集めてみるのも、現在ではスカイツリーが周遊コースに組み入れられるなど時の移り変わりが感じられて面白いものなのだが、種類が多いので全て集めるのは案外苦労する。これはそのようなコース案内パンフではなく、車両の案内に重点を置いた珍しい一般向け印刷物。表紙は、特殊2階バス「スーパーデッカー」と称されたケスボーラ・セトラS216HDS型。その他、ニューパノラマ、ニューデッカー、中型デラックス、デラックスとはとバスにより命名された各車種が掲載されており、私の年代では1980年代はつい昨日のことのようでもあるのだが、30年以上の時を経てみるとさすがにどのバスも懐かしく思える。
(1)表紙

【中頁から】
スーパーデッカー
(2)スーパーデッカー

ニューパノラマ
(3)ニューパノラマ

ニューデッカー、ハイデッカー
(4)ニューデッカーハイデッカー

中型デラックス、デラックス
(5)中型DX&DX

車種・定員・保有台数・装備・全長等一覧
(6)車種メーカー全長等一覧





★オマケ(その1): トミカ42-?番 1/156スケール 2012年 三菱ふそうエアロキングはとばす「オー・ソラ・ミオ」
2016年5月21日(土)発売製品。全長7.8cm。ダイキャスト製。定価税抜450円。いすゞガーラはとバスと入れ替わる形でリリースされた(トミカ42の何世代目でしょうか?)。「オー・ソラ・ミオ」にはベース車が複数存在するが、トミカでは2010年で製造中止となったエアロキングを2012年にオープン化改造した車両をモデル化している。先代のガーラも今回のエアロキングもスケールは1/156なのでNゲージのレイアウトにも使える。最近のトミカ恒例の初回限定は今回は色違いではなくルーフ付の通常のエアロキングはとバス。ルーフの開いた通常品「オー・ソラ・ミオ」の方がより華があり魅力的にみえる。リアエンド等はユーザーがシールを貼る形ながら、トミカにしてはズッシリと重く魅力的なミニカー。定価の3割引き以下の1台税込340円で販売しているヨドバシカメラでは、新宿店は西口・東口共に発売日の午前中でブリスター以外は通常品まで完売。ところが吉祥寺ヨドバシでは夜になっても初回限定も1ダース以上在庫していた。4か所まわり通常品5台と初回限定1ダース(12台)購入。早速、初回限定を1台600円、700円といったプレミア価格で売っている商魂逞しい人を見かけますが、私が沢山買っているのは、実ははとバスが本当に好きなだけで転売目的ではありません。ちなみに最近のトミカは、はとバスやポルシェでもなければ新製品でも1台も買わないことが多いのです。でも、墓場までミニカーを持ってはいけないので遠い将来は売ることになるのでしょうね(笑)。
トミカ42(1)

トミカ42(2)


・2016年マクドナルド・ハッピーセット トミカ 1/96スケールいすゞガーラはとバス
全長9cm。プラ製。これも今回のトミカと同様の新製品のため、一緒にご紹介。2016年4~5月限定、マックのハッピーセット トミカ8種のうちの1台。昔の飛行機のブリキのように窓がスライドし乗客が見えたり隠れたりするギミック付。中身が見えないブラインドパッケージ入りのため、例えハッピーセットを10セット買っても、はとバスが当るとは限らず、このはとバスだけを入手することは意外に難しい。後方はエアロキングと交代して絶版となったトミカ42番のいすゞガーラはとバス(1/156スケール)。
ハッピーセット(1)

ハッピーセット(2)



★オマケ(その2): トミカ1-2番 1/147スケール 1971年三菱ふそうスーパーはとバス
1974年10月発売。全長7.8cm。ダイキャスト製。当時定価220円。輸出用の「SCHOOL BUS」やギフトセット「公用車シリーズ」に入っていた黄緑などのバリエーションがある他、トミカ発売30周年時期の復刻やトミカリミテッドとして細部に彩色されたバージョンが出ている。またトミカダンディでも拡大スケール版が出ている。
トミカ1(1)

トミカ1(2)

最新のトミカ42番エアロキング(オマケ1)との並び
トミカ1(3)1との並び



★オマケ(その3): ダイヤペット159番 1/90スケール 三菱ふそうスーパーデラックスはとバスAタイプ
1967年1月発売。全長12cm。ダイキャスト製。当時定価550円。日本初の国産バスのダイキャストミニカー。息の長いミニカーで汎用のプラホイールキャップを付けた末期製品は1980年代初頭まで市場在庫が見られた。

被せ箱も味わい深い初版
159番初版(1)

159番初版(2)

プラバンパーとなった2ndモデル(1972年製)
159番2ndプラバンパー



★オマケ(その4): ダイヤペット B-17番 1/80スケール程度 2階建てはとバス
1992年発売。全長12cm。当時定価1100円。ドア開閉アクション付。実車不明ながらカラーリングは90年代初頭のはとバス。
ダイヤペット2階(1)

ダイヤペット2階(2)



★オマケ(その5): 米澤玩具/山崎玩具 1/32スケール程度 1960年 いすゞBC? はとバス
全長26cm。全幅8cm。1960年頃のブリキ製。当時定価:不明。最後に1963年(昭和38年)9月に株式会社はとバスとなる以前の新日本観光株式会社時代と思われる1台。発売時期は1960年前後と推定されるブリキ製品。恐らく、はとバス以外のバスにも金型が使い回されているでしょう。けっして上手いとは言えない箱絵には国会議事堂、東京タワー、二重橋が描かれています。これは1992年の夏、大阪出張の折、心斎橋の骨董屋で見かけて入手。はとバスのブリキ玩具だけ集めても軽く50種類位はあると思われ(現在手元にあるブリキのはとバスは30種類位?)、古くから大人のコレクターが存在したミニカーとは異なりブリキ玩具の大半は子供のオモチャとして遊び倒され消滅している上に資料が少なく発売されたモノの全貌がなかなか分からないこともあって例え時間をかけても集めることは大変です。
米澤(1)

米澤(2)

米澤(3)



★オマケ(その6): 2013年はとバス 公式プロモ
例え東京に住んでいても、たまにはブラッとはとバスに乗ってみるのも面白いものです♪

★1972年 スカイライン2000GTケンメリ流星人間ゾーン広島 ~ 自動車カタログ棚から316

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2016年5月27日(金)、陽が傾き西日の射す日没前の広島は25度を超え、あの日の朝のような蒸し暑さであった。あの8月6日の暑い真夏の朝からあと2ヵ月ちょっとで丸71年が経つ。伊勢志摩サミット後に岩国基地経由で広島入りしたアメリカのオバマ大統領(1961年8月4日-)は、1時間弱という僅かな滞在時間ながら広島平和記念資料館の見学、原爆死没者慰霊碑での献花、そして数分だろうとの大方の予想を遥かに超える17分もの長いスピーチをおこなった。本土決戦、1億総玉砕も止む無しとして突っ走った当時の日本の軍部を止めるには原爆投下以外に戦争を終わらせる手段がなかったというアメリカで大勢を占める歴史認識に沿う形でエノラゲイが原爆投下したことについての謝罪や米国自身も保有する核兵器の廃絶に向けた具体的な方策についての言及はされなかったものの、全体としては平和を志向した素晴らしい内容のスピーチであった。
現職のアメリカ大統領の初の広島訪問自体がある意味では謝罪に当るとの見方もあり、中国メディアなどでは侵略戦争を起こした日本がこれでは逆に被害者のように見えてしまうという批判的なものもあるが、全世界のメディアによりオバマ大統領の広島訪問が報道され、スピーチの内容や涙が溢れた被爆者の肩を抱き背中を優しくさする映像が流れたことは、世界史上、核兵器廃絶に向けて大きな意義があったのではないだろうか。


★2016年5月27日 オバマ大統領の広島でのスピーチ(抜粋/意訳)
よく晴れた雲のない朝。空から『死』が舞い降り、一瞬にして世界が変わってしまいました。閃光と炎の壁が街を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです。なぜ私たちがここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くはない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。
・・・わが国のような核保有国も、恐怖の論理から逃れ『核兵器のない世界』を追い求める勇気を持たなければなりません。もしかすると私が生きている間に、この目標は達成できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力で迫り来る大惨事を避けることができます。
・・・時間が経ち、いつかは証言する被爆者の声が聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。
・・・だからこそ、私たちは、広島に来るのです。そして、自分の愛する人々に、思いをはせるのです。朝一番の子どもたちの笑顔、愛する人と食卓を囲む安らぎのひととき。両親からの抱擁。そのようなかけがえのない瞬間が、そう遠くはない過去、71年前のこの場所にもあったのだと思い知らされます。人々はけっして戦争を望んではいません。科学の力を人々の生活を消し去るためではなく、向上させるために使ってほしいと思います。世界のリーダーたちが、その選択をした時、広島の教訓を生かすことができます。きょう、この町の子どもたちは、1日を平和に過ごしています。それは尊く価値のあることです。そして、それは、全ての子どもたちに与えられるべきことで、わたしたちが選択できる未来です。広島・長崎は、将来にわたって、核兵器使用の夜明けではなく、人類の道徳的覚醒のスタート地点として記憶されるでしょう



閑話休題
週末更新の予定がバンドのスタリハなどでどうしても記事をつくる時間がとれず月曜朝となりましたが、出来るだけ週1アップのペースを崩さないよう1記事アップしておきますNE。
倉庫を整理していたら自分でも購入して持っていたことをすっかり忘れていた珍しいケンメリのミニカーが出てきましたので、今回は自動車カタログ棚からシリーズ第316回記事としてケンメリ2000GTハードトップをピックアップしますYO。生産台数僅か197台で名機S20型エンジンを搭載したケンメリのフラッグシップたる2000GT-R(KPGC110型)については、当時物も含めミニカーやプラモデル等も非常に多いため項を改めてご紹介することとしますNE☆
 




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★1972年(昭和47年)10月の第19回東京モーターショーの帰りに晴海の会場近くの日産プリンスのディーラーでケンメリ2000GTのカタログを貰ったのが、今に至る私の自動車カタログ蒐集の始まりだった。
私が中1の2学期のことである。尤も厳密には、家にクルマを売り込みにきたセールスマン氏が置いていった初代セリカや初代カリーナ、ブルーバードUあたりのカタログが既に手元にあったので、自分で積極的にカタログを貰いに行くという形で入手したのはケンメリが最初だったということになる。

久々のスカイライン記事ということで、まず初代から8代目までのスカイラインの発売時期と生産台数を整理しておく。

・初代スカイライン (ALSI型:生産台数3万3,759台)
・・・・・1957年(昭和32年) 6月1日発売

・2代目スカイライン (S50型:生産台数11万4,238台)
・・・・・1963年(昭和38年) 11月2日発売

・3代目スカイライン (C10型=ハコスカ:生産台数31万447台)
・・・・・1968年(昭和43年) 8月1日発売

・4代目スカイライン (C110型=ケンメリ:生産台数67万562台)
・・・・・1972年(昭和47年) 9月20日発売

・5代目スカイライン (C210型=ジャパン:生産台数53万9,727台)
・・・・・1977年(昭和52年) 8月8日発売

・6代目スカイライン (R30型=ニューマン:生産台数40万6,432台)・・・・・1981年(昭和56年) 8月?日発売

・7代目スカイライン (R31型=7th:生産台数30万9,716台)
・・・・・1985年(昭和60年) 8月31日発売

・8代目スカイライン (R32型=超感覚:生産台数29万6,087台)
・・・・・1989年(平成元年) 5月23日発売


このデータを見て判ることは、初代は日本のモータリゼーション黎明期で元々の生産台数が非常に少なく、2代目、3代目とモータリゼーションの進展に合わせて生産台数を伸ばしたこと、突出して生産台数が多かったのは67万台を超えた4代目のケンメリで、7代目R31と8代目R32を足した台数よりも多かったこと等である。ケンメリの生産期間は1972年9月~1977年7月までの約4年10カ月=約58ヶ月であったので、コンスタントに月11500台位が売れていたという計算になる。ケンとメリーのイメージCMによるマーケティングの成功により、爆発的なヒット作となったことで、スカイラインの車名を日本では知らない人はいないという程に有名にしたのが4代目ケンメリであった。個人的には、私は世代的に初代のリアルタイムの記憶は殆どなく、リアルタイムで見てきたのは2代目以降である。


【ケンメリの特徴】

1) 前世代C10型ハコスカのシンプル&クリーンなデザインを一変させた、豊かでふくよかな1970年代的な新しさを感じさせるインパクトのあるデザイン(同時代の国産他車同様、ハードトップにおける斜め後方視界の悪さは特筆される)。

2) スカイラインのアイデンティティとなる丸型4連テールライトの採用(一部車種を除く)

3) 派手なサーフィンライン

4) ローレル2代目 C130型とのプラットフォーム共通化

5) モータースポーツへのワークス(PMC・S)不参戦



【主要スペック】 1972年 ニッサン スカイライン ハードトップ2000GT‐X (1972 Nissan Skyline Hard Top 2000GT-X;Type KGC110TKF)
全長4460㎜・全幅1625㎜・全高1385㎜・ホイールベース2610㎜・車重1150kg・FR・L20型水冷直列6気筒SOHC1998cc・圧縮比8.6:1・SUツインキャブ・最高出力130ps/6000rpm・最大トルク17.0kgm/4400rpm・四輪独立懸架・変速機5速フロアMT・前輪ディスクブレーキ・最小回転半径5200㎜・電装系12V・タイヤ6.45S14-4PR(前後共)・乗車定員5名・パワーウインド、チルトステアリング、オーバーヘッドコンソール標準装備・燃料タンク容量:ハイオク55ℓ・最高速度180km/h・標準ボディカラー4色(ブルーメタ・シルバーメタ・グリーンメタ・ホワイト)・東京標準現金価格102万5000円


●1973年4月 ニッサン スカイライン ハードトップ2000GT 雑誌広告
豊島区西池袋のモーターワールド社が出していた月刊誌「モーターワールド」1973年4月号より。ケンとメリーのイメージ広告。GT・GT-R・1800/1600/ワゴン・バンと出ていたセールス・カタログを一通り集め終えたら、こうしたケンメリの当時の雑誌広告をコンプリートに集めてみるというのも面白いだろう。
広告



●1972年9月 ニッサン スカイライン 総合カタログ(縦29.6×横25.5cm・16頁)
カタログNo.S-16。L20搭載の2000GTの他、G18型105ps搭載の1800(HT/セダン/ワゴン)、G16型100ps搭載の1600(HT/セダン)、4ナンバーのバンまで掲載された総合カタログ。売れたケンメリとはいえ、2000GT以外の1600スポーティデラックスといった低グレードの現存率は低いだろう。表紙はハードトップのイメージスケッチ。
総合(1)表紙

ハードトップ2000GT-X
「日本中の期待と、あつい信頼にこたえて 技術者の知識と愛を注ぎ込んだ あのスカイラインのフル・チェンジです。『日本』として誇れる名車の誕生を ここに、自信をもってお知らせします。」
総合(2)HT

開発段階のクレイモデル・・・・・改造車のようなワンテール
総合(3)ワンテール



●1972年9月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・28頁)
カタログNo.NP-S13。表紙は前期ケンメリのケン役 長身ハーフモデル 陣内たけしさん。陣内さんは1956年1月17日横須賀生まれというからカタログ発行の時点でまだ16歳、程なくしてバイクで事故死したという。御存命なら2016年で還暦ということになる。
72(1)表紙

【中頁から】
初期のケンメリ2000GTは2ドア・ハードトップと4ドアセダン(現在の通称:ヨンメリ)のボディ2種にL20型SUツインキャブ130psのGT-Xとツーバレル120psのGTの2グレードの計4車種(本記事では原則としてハードトップをご紹介します)。

GT独自のマスク
72(2)前斜め

リア
72(3)リア

室内
72(4)室内

7連メーターのダッシュパネル
72(5)7連メーター

L20型ハイオク仕様エンジン2種(ハイオク仕様はこの初期型のみ)
72(6)ハイオクエンジン2種

グレード2種、ボディカラー4色
72(7)グレード2種カラー4色

裏面: スペック+図面
72(8)裏スペック図面



●1973年10月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・28頁)
カタログNo.S13A。1972年のデビュー版と一見同じ表紙ながら右下の文字が消えた。中の頁は一部クルマの彩色が替えられているが、デビュー版と殆ど同じ。L20型エンジンはハイオク仕様が消え、ツインキャブ130psはレギュラーガソリン仕様となり125psに若干出力が落ちた。
73表紙



●1974年9月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・24頁)
カタログNo.S13D。上掲の1973年10月のカタログNo.がS13AでこれはS13Dということは、間に13Bと13Cが発行されているのかもしれない。車両自体には変更のないカタログ改訂でオイルショックの影響か頁数が減っている。
74表紙



●1975年3月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・24頁)
カタログNo.S13E。GT-XとGTの中間に位置するGT-Lタイプを追加。GT-XとGT-Lタイプには電動式リモコンミラーや間欠ワイパーが新たに装備された。ボディカラーは、セダン・ハードトップ各4色だったのが、ボディタイプを問わず7色となった(HTではラベンダー、パープル、紺を追加)。
75(1)表紙サングラス

【中頁から】
電動リモコンミラーと間欠ワイパーを追加
75(2)リモコンミラー間欠ワイパー

GT-Lタイプが追加されグレードは3種に
75(3)グレード3種Lタイプ追加



●1975年10月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・32頁)
カタログNo.S13F。マイナーチェンジ。フロントグリル意匠変更。ホイルキャップを廃止しキャップレス化及びアルミホイールをオプション設定。エンジンは昭和50年排ガス対策済のEGI/NAPSのL20E型となり、リアディスクブレーキ・リアウインドワイパー・175SR14ラジアルタイヤを装備したGTX-E・Sタイプ、GTX-E、GT-Lタイプ、GTの4グレード体制となった。
76(1)シルバー表紙

【中頁から】
フロントマスク変更
76(2)マスク変更

リアワイパー付のGTX-E・Sタイプ
76(3)リアワイパー付Sタイプ

L20型EGIエンジン(130ps)
76(4)L20EGIエンジン

GTX-E・Sタイプが加わりグレードは4種に
76(5)グレード4種Sタイプ追加



●1977年3月 ニッサン スカイライン2000GT 本カタログ (縦29.6×横25.5cm・32頁)
カタログNo.S13I。上掲の1975年10月のカタログNo.がS13FでこれはS13Iということは、1976年に13Gと13Hが発行されているのかもしれない。ボディカラーに赤と茶メタが加わり、GT-E・LタイプとGT‐LタイプにFMマルチラジオとカセット付ステレオ装備のエクストラ仕様を追加。この最後のケンメリGTのカタログのみヨンメリ表紙。
77(1)表紙ヨンメリ

【中頁から】
赤いスカG追加
77(2)赤いスカG追加

オーディオが異なるだけのエクストラ仕様が加わり、グレードは7種と少々複雑になった。
77(3)グレード7種複雑

77(4)グレード7種その2

ケンメリGT最後のボディカラー7色。赤と茶メタが加わった代わりに初期のイメージカラーだった明るい青は消えた。
77(5)最後のカラー7色青なし



※(註): ケンメリを含むスカイライン・パトカーのカタログについては本シリーズ第4回記事「スカイラインGTパトカーの系譜」、ケンメリを含むスカイライン・タクシーのカタログについては本シリーズ第5回記事「スカイラインタクシー」をご参照ください。





★オマケ(その1): ダイヤペット08-0814番 1973年 流星人間ゾーン マイティライナー大小2台+人形セット
大:1/40スケール全長11cm。小:1/56スケール全長8cm。米澤玩具1973年発売。ダイキャスト+ソフビ(人形)製。当時定価1000円。ミニカー、プラモデル、一宏工業(イチコー)のHT2000GTとワゴンのブリキに至るまで、実車人気を反映して夥しい種類がリリースされたケンメリのミニチュアの中でこれは恐らく最も珍しいものの一つ。ダイヤペットの年次カタログには掲載がなく、1973年4月に始まった日テレの流星人間ゾーンの放映が視聴率低迷により半年弱で打ち切りとなったことから極く短期間の生産に終わったようだ。箱には東宝映像・萬年社の版権シールが付く。1/56サイズの小さいダイヤペット・チェリカ80シリーズのマイティライナーは単品売りバージョンもあるが、1/40サイズの方はこのセットのみで販売された(?)。1/40スケールがオーバーフェンダー付GT-Rの金型に改修される前の初期GTの金型を使用したバリエーション。
私はこのセットをたまたま入ったとある都内の玩具店で70年代終わりに見つけて入手したものの、普通のミニカーコレクターはまず手を出さなかった製品と思われることから、子供が遊ばず未使用のまま残っているケースは少ない(?)。同じようにセットでしか入手出来なかったマスコミ系ダイヤペットとしてはミラーマンの人形が付いた初代ローレルHTのスタビライザー付などもあり、マスコミ系のダイヤペットは大半が短期間で生産を終えたため1970年代当時でも入手には苦労した。
ゾーン(1)

ゾーン(2)

ゾーン(3)

ゾーン(4)

東宝映像の丸い版権シールが箱の隅に貼られている。
ゾーン(5)版権シール

初めて箱から出してみました(ブログアップでもなければ一生出さなかったかも)。
ゾーン(6)箱から出す1

ゾーン(7)箱から出す2

ゾーン(8)箱から出す3

ゾーン(9)箱から出す4



★オマケ(その2): ダイヤペット 1973年 ニッサン スカイライン ハードトップ2000GT
オマケ1のノーマル版。共にダイキャスト製。大きな1/40スケールの方は汎用ホイルキャップに出来の甘い前後グリルを付けているもののプロポーションは良い。ボンネット、トランク、ドア開閉アクション付。実車人気の波に乗り爆発的に売れたモデルだが、すぐにオーバーフェンダー付のケンメリGT-Rに金型が変えられたため初期のGTバージョンは少ない。ボディカラーは赤、青メタの他、新宿小田急デパートオリジナルの白、東急デパートオリジナルの空色などが出た。発売は1973年8月、当時定価750円。米澤の品番はD-16→0116→G-3と目まぐるしく変遷した。
小さな1/56スケールのチェリカ80シリーズの方が発売はやや早い1973年5月で当時定価は200円(後年は220円)。こちらはドアのみ開閉。他に初期のケンメリHTのダイキャストミニカーはトミカ82-1番が1974年9月にリリースされている。
ダイヤペット(1)

ダイヤペット(2)

ダイヤペット(3)



★オマケ(その3): 1972年9月~1977年2月 ケンメリ テレビCM集(全16話)
当時弱冠20歳の2人組フォークグループ「バズ」(BUZZ)の歌ったCM曲「ケンとメリー~愛と風のように~」もヒットした。




★オマケ(その4): 1973年 流星人間ゾーン 予告
流星人間ゾーンは1973年(昭和48年)4月2日より同年9月24日まで日本テレビ系列で毎週月曜日19:00からの30分枠で全26話が放送された、東宝映像制作の特撮テレビドラマ。視聴率が伸び悩み、ゾーンファイターとガロガバラン星人との戦いに決着がつかないまま中途半端な形で強制終了した。




★オマケ(その5): 2016年5月27日 オバマ大統領 広島スピーチ
アメリカが率先して核保有をなくす、あるいは段階的に減らしていくといった具体的な核廃絶へ向けての内容が含まれなかったのは惜しまれるが、全体としては核兵器を使わない平和な世界を希求する内容のスピーチ。







【自動車カタログ棚からシリーズ過去記事 画像追加情報】
本シリーズ第34回記事の「1962年プリンス スカイライン スポーツ」のオマケ画像に以下の一宏工業(イチコー)と旭玩具製作所(アサヒ)のブリキ製モデル2種を追加しました。


★一宏工業(イチコー) 1/17スケール 1962年 プリンス スカイライン スポーツ
全長28cm。一宏工業製品No.5762。1962年発売。当時定価:都内300円・地方最低小売330円。ブリキ製。カラーバリエーションはウエストラインから下のボディは全てクリームでルーフが赤・緑・青の3色。初版はホワイトリボン別パーツに専用のホイールキャップ、2ndモデルではコストダウンのためかホワイトリボンが省かれ一宏製プリンス グロリア デラックス(S40D型)のホイールキャップが流用された。ナンバープレートの文字は片仮名(日本語表記)のものとローマ字(英字表記)のものとが入り混じっており、アトランダムに取り付けられていたようだ。トランク上のアンテナ有無のバリエーションもあり。

1stモデル
イチコー(1)1st

イチコー(2)1stリア

イチコー(3)1st箱横

グロリアのホイールキャップを付けた2ndモデル
イチコー(4)2nd

イチコー(5)2nd後ろ



★旭玩具製作所(アサヒ) 1/18スケール 1962年 プリンス スカイライン スポーツ
全長26cm。旭玩具製品No.3595。1962年発売。当時定価:全国売価250円。ブリキ製。カラーバリエーションは青銀メタ、ホワイトの2色。上掲のイチコー製より一回り小さく、造りもパーツが少な目で出来も若干甘い。当時の価格は同じ旭玩具のモデルペット16番として市場に出ていたダイキャスト製ミニカー スカイライン スポーツ クーペと同額であった。しかし、当時のコレクターはダイキャストミニカーの蒐集が主流でありブリキ製モデル(金属モデル玩具)にはまず手を出さなかったため、モデルペットに比べてこのブリキ製は現存する個体が少ない。
アサヒ(1)

アサヒ(2)

アサヒ(3)


★1964年 日野RA100-P高速バス 帝国ボディ 名神高速 ~ 自動車カタログ棚から 317

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もう6月ですね。6月といえば、梅雨、そしてジューンブライド=6月の花嫁ですよね。古来、西欧では6月に結婚すると一生幸せな結婚生活が送れるとの言い伝えがあり、日本には戦後、1960年代後半になってこの西欧発の慣習?が持ち込まれたそうです。
ジューンブライドの由来は3つあるそうで、一つは結婚をつかさどる女神(ギリシャ神話のヘラ)の記念日が6月1日であること、もう一つは3月~5月は農業の繁忙期で式を挙げる余裕がないため結婚が禁じられ6月になれば結婚してもよいとされたというもの、今一つは6月は単に気候が良い時期というもの、だそうです。
日本では1967年(昭和42年)頃からホテルやブライダル業界が閑散期の6月の売り上げ向上を狙って「ジューンブライド」を広めたとのこと。しかし、この国では結婚式を一度も挙げないで他界するといった世にも不幸な人も近頃は増えているらしい。昔は30にもなれば、早く結婚しなければと本人も周りも焦って躍起になっていたものが、近頃は悠長に構えて、気が付いたら私のような高齢未婚者になっていたなどという不幸なケースが案外多いらしい。
いや、近頃は例え一生独り者でも自分を特に不幸だとは思わないという人も増えているというから驚くばかりですYO。世の中、価値観が昔とは変ってきたということなのでしょうNE。


閑話休題
前回はこのブログにしては珍しいメジャーどころのケンメリでしたので、今回は原点に立ち戻って?、自動車カタログ棚からシリーズ第317回記事として1960年代半ばの日野の高速バスと日野系列のボディメーカー・帝国自動車工業(帝国ボディ)の珍しいカタログをピックアップしますNE。
 



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★日本初の高速道路「名神」
1957年(昭和32年)10月、建設省は国土開発縦貫自動車道建設法の規定に基づき小牧~西宮間について、日本道路公団(現 各NEXCO)に対して施工命令を出し、名神高速道路の建設が着手された。これにより、日本初の高速道路建設がスタートすることとなった。
東京オリンピック開催/東海道新幹線開業の前年1963年(昭和38年)7月16日に名神高速道路の 栗東インターチェンジ~尼崎インターチェンジ間71.7kmが開通し、日本で最初の高速道路が開通した。自動車が時速100kmの高速度で連続走行できる道路の誕生は、1960年代の日本において新幹線開業に比肩する出来事であった。


★黎明期の日本の高速バス
名神高速が着工された年の翌1958年(昭和33年)、高速道路の開通に向けて高速度での連続走行に耐え得る性能と安全性を備えた高速道路用専用バスを完成させるため、まず日本国有鉄道(国鉄)が日野BC10型センターアンダーフロアエンジンバスによる試験を自動車専用の白棚線で開始した。この時のデータを元に1960年(昭和35年)には軽合金製流線形ボディを持つ日野RX10型(帝国自工ボディ)リヤアンダーフロアーバスが造られた。DK20-2型直列6気筒ターボ付エンジンは最高出力230psを叩き出し最高速度120km/hであった。翌1961年(昭和36年)、この日野RX10型と同じボディをいすゞBU20PA型及び三菱ふそうMAR820型に載せた車両も製作された。
1963年(昭和38年)、名神開通が秒読みとなり国鉄では名神での営業運転用に三菱ふそうMAR820型(290ps)及び日野RA120P型(320ps)を生み出した。何れも従来のバスより高出力で平地での走行性能も安定し、10列40人定員として設計された車両であった。特に日野RA120P型はノンターボで初めて300psオーバーのエンジンを搭載した画期的な車両であった。1964年(昭和39年)にはRA120Pのホイールベースを5800㎜から6250㎜に拡大し、全長を法定限度の12mに近い11950㎜とした日野RA100-P型が誕生した。


★1964年 三菱ふそうMAR820?国鉄ハイウェイバス 実働写真
きくや書店(大阪市住吉区我孫子東2-15-6)発行ファミリーえほん「ぼくらのじどうしゃ」(1969年?)より。恐らく1960年代後半の京都駅前。お客を降ろしている最中の神戸ナンバーを付けた国鉄バスの手前にはバスガールさんが立っているのでワンマン運行ではない。和装の女性の上方に見える時計は10時10分を指しているが撮影年月日は不詳。画像内には3代目コロナRT40、いすゞベレット、吊り目の三菱コルト1500バン等が写り込んでいる。バス停には、「名神高速バス」「京鶴線国鉄バス」の文字が読める。これは本題の日野車ではない、富士重工製のR13型ボディーでしょうか。何れにしても1960年代の貴重な国産高速バスのカラー写真。
京都駅



【主要スペック】 1964年 日野RA100-P型 高速バス (1964 Hino Express bus Type.RA100-P)
全長11950㎜・全幅2490㎜・全高2950㎜・ホイールベース6250㎜・車両重量10365kg・RR・DS120型水冷12気筒15965ccディーゼル・噴射順序1-9-5-12-3-8-6-10-2-7-4-11・圧縮比17.4:1・最高出力320ps/2400rpm・最大トルク103m・kg/1600rpm・変速機5速MT・最小回転半径11m・主ブレーキ:エアブレーキ・タイヤサイズ11.00-20.12PR・電装系12V・乗車定員:座席リクライニングシート48+乗務員2=50名・冷暖房完備・最高速度141km/h




●1963年5月 日野RA100-P型試作車 ポストカード
日野自動車がRA100-P試作車の完成記念に配布したポストカード。ボデーメーカーは、金沢産業。
試作車



●1964年3月 日野RA100-P型/RA100型 リヤアンダーフロア高速バス専用カタログ (A4判・8頁)
日野カタログNo. B 118。4灯ヘッドライトと室内照明を点灯させた夜景のバスを写した魅力的な表紙の下部には、「世界最高の性能を誇る・・・・・日野RA100-P 画期的な高速ディーゼル・バスRA120P・・・RA120 リヤ・アンダー/水冷12気筒320馬力/最高速度141キロ/アンチ・スキッド装置付」の印字がされている。
日野(1)表紙

【中頁から】

真横からの伸びやかなプロポーションは半世紀以上を経た現在の目で見ても魅力的だ。
全国的に高速道路網が整備されつつある今日 輸送を高速化する大型バスが要求されるようになりました。こうした時代の要望に応えて日野自動車では長い伝統を誇るディーゼルバス製造の技術と経験を結集 研究と実験をかさねて ここに超高性能ハイウェイ・バスRA型を完成 発売致しました。
日野(2)サイドビュー


『5つの特長』
1)世界最高の出力を誇る水平向合・水冷12気筒320馬力エンジンを搭載

2)最高時速141キロ 加速性能は抜群・・・高速でも静かな長時間走行が可能

3)安全度の高い高速バス・・・強力で確実なエアブレーキのほか 排気ブレーキ及びMGM安全装置を装備・・・・特に高速制動に備えアンチ・スキッド付

4)軽合金ボデーを採用・・・軽量化によって性能向上・燃費は経済・耐久性も増大

5)客室内部はすべてデラックス調製 高速走行時の乗心地は快適そのもの
日野(3)特徴室内ラゲッジ


『安全度の高い高速バス』
このバスは常用速度100キロ前後を基準に設計された高速バスですから、安全走行には万全の新機構を備えています。研究と実験を重ねて決定されたボデー・スタイルは空気抵抗が少なく重量配分も理想的なため素晴らしいロードホールディングを示します。
また高速走行に最も重要なブレーキ装置は信頼できるエア・ブレーキ、MGM安全装置、エキゾースト・ブレーキ、駐車用ブレーキと独立した4系統のブレーキを備え、その上、制動時の危険なスリップ事故を防止するため軸重に応じて自動的に最大制動力を調整する世界的新機構アンチ・スキッド装置が付いています。この装置は道路の状況に合わせてドライとウェットの2段切換えができます。


『運転しやすい設計』
冷暖房調整をはじめ、各部に自動コントロールシステムを採り入れ運転者がハンドル操作に専心できるよう取扱い操作の簡略化を図ってあります。ハンドルはパワー・ステアリング ・・・クラッチにはエア・サーボ式を採用しており運転は軽快で疲労度も少なく長時間走行に最適の条件を備えております。
日野(5)運転席


『快適な室内』
デラックス・ムードの明るい室内は湿度調節もできる冷暖房装置付ですから常に爽快な気分が味わえます。可変絞り型空気バネとクッションの良いリクライニング・シートは長途の旅行にも全く疲れを感じさせません。
手回り品以外の荷物類は床下の独立したパッケージ・ルームに格納されます。このほか個人用の読書灯などバス旅行を楽しくする新機構が完備しております。

日野(4)室内2人


『世界最高出力のバス用エンジン』・・・・・何とポルシェ917のような水平対向12気筒であることに注意。
DS120型ディーゼル・エンジンは画期的な水平向合・水冷12気筒・320馬力エンジンです。加速性能は抜群、100キロ前後のスピードではエンジン音を感じないほど静かで快適です。
また高出力ながら、車両重量・エンジン回転数・スピードの3要素が良く調和され、その上、冷却水を常に最適な温度に保ち動力の無駄を省くファン・カット装置の採用により、燃料消費は驚くほど経済的です。

日野(6)DS120型エンジン


日野(7)図面&サイド前


図面(RA100-P型:WB6250㎜・全長11950mm)
日野(8)図面100P


図面(RA120型:WB5800㎜・全長11500㎜)
日野(9)図面120短尺


スペック
日野(10)スペック


走行性能曲線(RA100-P型)
日野(11)曲線100P


走行性能曲線(RA120型)
日野(12)曲線120


後方には白/茶赤ツートンの日野コンテッサ900がみえる。
日野(13)後ろにコンテッサ900


裏表紙
日野(14)裏表紙



●1964年?帝国自動車工業 日野RC100-P型 カタログ (A4判・8頁)
帝国自動車工業は日野系列のボディーメーカーで、1908年(明治41年)4月に脇田兼太郎の個人経営で東京芝浦にて自動車車体製作を開始し、1930年(昭和5年)3月に脇田自動車工業、1938年(昭和13年)に帝国自動車工業となった後、戦後1975年(昭和50年)に金産自動車工業と合併し日野車体工業株式会社となった。これは帝国自動車工業が名神開通後の1960年代半ばに発行したと思われるボディメーカーによる日野RC100-P型(WB5500㎜・全長10730㎜)の珍しいカタログ。表紙及び裏表紙は同じ写真でリベットが何とも魅力的な国鉄バス。最後部にトイレを備えた12m車のようだ。
帝国(1)表紙

【中頁から】

名神高速道路をはじめ各地道路が年々整備され長距離観光も容易になりました。車両のスピードアップも要求され、従ってボデーラインも機能上これに沿ったものに変りつつあります。一方、美しい道路、美しい風光にマッチした美しボデーは見る者の目を楽しませ車体にクッキリ浮き出されたマークを強く印象づけることでしょう。内装も冷暖房完備、シートクッションからトイレに至るまで居住性を最優先に考え、益々デラックス化されました。高速タイプデラックス観光バス!!これこそピッタリです。

写真右奥には日野ルノー4CVがみえる。
帝国(2)日野ルノー右奥


フロント&リアビュー
帝国(3)前&後


スペック
帝国(4)スペック


仕様明細
帝国(5)仕様明細


運転席
帝国(6)運転席


室内前方(上)と室内後方(下)
帝国(7)室内前方&後方


裏表紙
帝国(8)裏表紙


帝国自動車工業の横浜本社・東京営業所・大阪営業所・広島営業所の所在地等
帝国(9)裏本社大阪広島





★オマケ(その1): トミー工業 1/21スケール1964年 日野RA120型風「はとバス」
全長45cm・全幅12cm。ブリキ製。当時定価:不明。商品名は「トミーのハンドルおはなしはとバス」。米澤玩具が1960年代に出したトーキングシリーズの類似商品でルーフ上のレバーを廻すと内蔵されたソノシートが音を出す仕組み。1970年のトミカ発売より恐らく5年程度古いトミー製品。
トミー(1)

トミー(2)

トミー(3)

「ハンドルを右に廻すとおはなしをします」
トミー(4)箱ハンドルを右に

タグ2枚
トミー(5)タグ



★オマケ(その2): 1963年7月16日 名神高速道路 開通式 ニュース映像
2代目40系クラウン、初代パブリカUP10が式典に大量に登場するのはトヨタがバックアップしたのでしょう。




★オマケ(その3): そんな本日のホットウィール 「1969年オールズモビル442イエローキャブMAXI TAXI」&「フェラーリ312P」
全長オールズ7.5cm、フェラーリ7cm。ダイキャスト製。本題とは関係なしのオマケを最後に。私がホットウィールの写真を載せると「意外!」と言われるので、あえて意表を突いて、こんなのも手元にあります的な?カウンターパンチ的な?ミニカー2台ですYO。赤いリボンタイヤなのでレッドラインと謂われる初期のホットウィールなのでしょうか?裏板にはどちらにも、「1969 MATEL.INC Hong Kong」と刻印されています。2ドアHTのタクシー仕様というのは、1970年代前半のダイヤペットやモデルペットといった国産ミニカーでも見られましたが、年式的にはホットウィールの方が先だったということになりそうです。フェラーリはリアが大きく開いてV12が飛び出すギミック付。残念ながら2台共に少し遊ばれてチップ傷あり。市場価値は不明ながら、歳月を経たビンテージ物なので最新のホットウィールよりも個人的には魅力を感じます。
HW(1)

HW(2)

HW(3)






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★1954年 カツミ模型店 三線式Oゲージ鉄道模型の時代 ~ 玩具・模型カタログ棚から 026

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もう6月も半ばになりますNE。東京はもう充分暑いですが、ワタシの勤め先では「例え35度の日でも自宅ではエアコンをつけない」と豪語する方がいらしたりして、「暑くて能率が下がるし目が回るからエアコンつけますYO!」と言って、エアコン嫌いの人に気を使って設定温度を28度位と高目にしてエアコンをつけても、「寒い、寒い」と言ってすぐに消されて、またワタシがつけるというイタチゴッコになったりしますYO。確かに過度にエアコンが効いていると足元が冷えてきたりして体に良くないことも分かるのですが、過度のムシ暑さはワタシにはどうも我慢できませんYO。エアコンをつけて、せめて除湿だけでもしたいですYO。しかし、まぁワタシが子供の頃は特急列車や新幹線にでも乗らないとフツーの家やフツーの家のクルマにはエアコンはなかったのに、よくもまぁみんな暑さを我慢していたものですよNE。でも、1970年代あたりまでは、この日本の夏も今ほど暑くはなかったとの話もありますがホントなんでしょうKA。

以前にも書きましたが、リアルの世界でワタシの周りのスポーツカーやモータースポーツが好きな人は大抵バスや鉄道には興味がなかったり嫌いだったりしますYO。バスや鉄道も好きだなんて言うと、「ポルシェが好きなのに、どうしてバスやら鉄道やらそんなオタクっぽいダサい乗物まで好きなの?」と怪訝な目で見られがちです。反対に鉄道好きの知人にうっかりポルシェの話などすると「どうしてポルシェだなんて、そんな軽薄なモンが好きなの??」などと怪訝な目で見られがちなのですNE。
これと似たことは音楽の世界にもあり、クラシックが好きな知人にうっかりロック系音楽の話などすると、「ショパンが好きなのに、どうしてそんな低俗な音楽まで好きなの?」と怪訝な目で見られがちなのです。反対にロック好きの知人にうっかりクラシックの話などすると、「ライブもやってるロックンローラーなのに、どうしてそんなお高く留まった眠くなるような音楽が好きなの??」と怪訝な目で見られがちなのですNE。
まあ、良いものは良い、好きなものは好きということで堂々と胸を張っていればそれで済むことなのですが、スポーツカーやレーシングカーが好きな人でバスや鉄道も同レベルに好きというのはワタシのリアルの世界では滅多にはいないのですYO。
ところが、このアメブロを始めて、世の中にはワタシと同じようにスポーツカーもバスもトラックも、そして鉄道も同列に好きという人が意外に大勢いることが判って溜飲を下げる思いでおりますYO。


閑話休題
という訳で、乗物の中でスポーツカーとレーシングカーだけが好き!という人には大変申し訳ないのですが、今回は「玩具・模型カタログ棚から」シリーズ第26回記事として1954年カツミ模型店の鉄道模型カタログをご紹介します。
 




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★1960年代後半、小学生だった私は専ら自転車が日常の移動手段だった。自転車で行くことが出来る範囲には鉄道模型を扱う模型店が意外に沢山あった。
国鉄(現JR)西荻窪駅北口から程近い路地裏の「ニットー教材」、吉祥寺駅北口の中央模型(現在のサンロードの西友蓮向かい辺り)と歌川模型(ハモニカ横丁内)、三鷹駅北口のトリオ商会(三鷹電車区横、線路沿い)、武蔵野市立大野田小学校 校門前の「わだちや」などである。
それらの店に行って、鉄道模型やプラモデル、ミニカーなどをいつかは手に入れたいと思って指をくわえて見るのが私のような貧乏小学生の日常であったのだが、誕生日やクリスマス、あるいはお正月にお年玉を貰った後などに実際に欲しいモノを買うことが出来た時には胸がトキメいて、生きる幸せを噛みしめ天にも昇るような幸せな気分にさせられた。そのトキメキや幸福感は好きだった女の子の笑顔を見る幸せとどこか似ていた。実は私は小1で同級生に初恋をしてその子の顔見たさに毎日その子の家に遊びに通い詰めるという(今で言うストーカー的?)行動に出たマセガキだったのだ。


★私が鉄道模型を手に入れたのは1967年(昭和42年)の秋、先天性心疾患の手術のために東大病院・胸部外科(当時の講座主宰・木本誠二 初代教授:1907-1995)に入院する直前のことであった。
どうしても欲しいものがあるか?と親に言われて、カツミのHOゲージの鉄道模型をねだったのだった。親にしてみれば、当時の医療レベルでは成功率5割以下の難手術であり、手術室から二度と生きては帰らないかもしれないということもあって、高価な鉄道模型を買い与えたのだろう。入院した東大病院のベットの下にレールを敷きつめて、ED58を走らせて遊んだことを今でも鮮明に覚えている。名医と言われた木本教授の執刀で幸い手術は成功し私は今こうして生きている訳なのだが、私と同時期に入院し一緒に遊んだ子供の中で手術が失敗し命を落とした子が少なくとも2人いた。ある日を境に顔を見なくなったので、「〇〇ちゃん、どうしたの?」と訊いても、私の親は子供の私にはあえて死んだとは言わなかったのだが。
「高価な」とは言っても、本当に高価なスケール機を買ってもらうことは到底出来ず、東大病院入院前に最初に手に入れたのはゴハチの自由形ED58とレール及びパワーパックのセットである。カツミのED58はOゲージ(0番)時代からのヒット商品であったが、1967年当時のHO版の定価は2750円(塗装済み組立キット2500円)。機関車1両が、相前後して発売された夢のプラモ、今井科学のサンダーバード秘密基地セット=初版1800円より1000円近くも高かったのである。レールとパワーパックを併せたセット価格は5000円前後はしただろう。
1967年と言えば、自動車の世界ではトヨタ2000GTが238万円で発売され、ブルーバードやコロナのデラックスが60万円前後、大卒初任給はまだ2万5000円程度の時代であったので、現在の貨幣価値では8倍程度、5000円の鉄道模型セットも2016年現在に置き換えれば4万円といった子供に買い与えるにはかなり高額な品物であったのではないだろうか。


★今回ご紹介するカツミ模型店の鉄道模型カタログは1954年(昭和29年)の日本語版である。株式会社カツミ模型店は1996年(平成8年)に株式会社カツミに社名変更し、カツミは現在も日本の鉄道車輛の真鍮製HOゲージ(16番)モデルを主な製品とするメーカーとして存続している。
カツミ模型店の創業は戦後2年目の1947年(昭和22年)8月30日であり、2016年、同社は創業70年目を迎えた。カツミより2年遅れて1949年(昭和24年)に鉄道模型の世界に参入した天賞堂その他同業他社と同様、当初は進駐軍を主な顧客とするアメリカ型鉄道模型の製造・販売で業績を伸ばし、追って国内市場向けにも0番(Oゲージ:軌間32㎜)のC62、EF58(旧型)等の国産スケール機の製造や入門向け自由形機関車の製造も始めた。1959年(昭和34年)には現在まで続くカツミの主力商品である16番(HOゲージ:軌間16.5㎜)の製造も始め、特にNゲージブーム以前の1960年代~1970年代にかけてはカツミの製品で鉄道模型に入門したというジュニア層が日本中に存在した。勿論、私もその一人だった訳である。
日本の住宅事情も手伝い、カツミにおける軌間32㎜の0番(Oゲージ)は1960年(昭和35年)の151系こだま形の製造を境にスケール機の生産を取りやめ、ジュニア向けの自由形・ショーティーのみが1966年(昭和41年)頃まで製造・販売された(最後の製品は0系新幹線ショーティー)。
なお、0番(Oゲージ)のスケールは外国型鉄道模型で1/43(英国型)~1/48(米国型)、日本型では1/45が採用された。1/43スケールのミニカーが当初、英国で鉄道模型のアクセサリーとして出発したことは有名である。軌間16.5㎜のHOのスケールは基本が1/87、英国型(OOゲージ)1/76、日本型1/80(広軌の新幹線は1/87)となっている。


★1947年の創業から7年を経た1954年のカツミは交流三線式Oゲージの時代である。
カツミ・ホームページ内の「カツミ資料館」資料室2には1950年の部品カタログの表紙と1956年と思われるカタログが掲載されているが、この1954年版カタログは掲載されていないので、これはあるいはメーカーでは保存されていないものなのかもしれない。内容は一部製品のグラフ写真、ED14の組立図に続き、機関車、電車、客車、貨車、モーター(電動機)、トランス(変圧器)、レール、ホーム・信号機・踏切・車庫・鉄橋等ストラクチャー、車輪・車軸・ボディ・電関のデッキ・台車・電球等の分売パーツまでが製品番号と共に掲載されている。しかし、製品の写真は一部に限られ、例えば展望車スイテ49は製品番号277と記載があっても製品写真が掲載されていないことが惜しまれる。
カタログの定価欄は価格変更に備えてか価格は印字がされておらず、付属の価格表に記載されている。但し、貨車以外の車輛の完成品欄は全て空欄でキット価格のみが掲載されており、この時代にはキット組立が主流であって機関車等の完成品は各模型店が独自に作り顧客に売っていたようである。このカタログの中には、「カツミでは従来部品キットのみでしたが、御要望に応じ完成品をも発売」とのくだりがあり、この時期からメーカーであるカツミ自らも注文生産に近い形で完成品をつくり始めたものと思われる。
1954年(昭和29年)に初任給の5分の1に当る定価5000円のC62のキットを買い求めることが出来たのは、裕福な家庭の中高生以上の学生もしくは大人であったと想像されるので、昭和20年代末にカツミのOゲージC62を製作したという人は戦前、それも1940年(昭和15年)以前あたりに生まれた世代ではないだろうか。



●1954年 カツミ模型店 日本語版カタログ (縦18.2×横26cm・日本語26頁)
カタログの発行時期は表紙の「1954」以外の印字がなく、1953年秋口~暮れあるいは1954年に入ってからの発行であったのかは不明。表紙は当時の国鉄を代表する80系湘南電車・C62(227号機)・EF58(35号機・流線形新型車体)の並んだイラスト。右下に画家のサイン(凸萬出?)。
(1)表紙


【中頁より抜粋】

Oゲージ(32㎜)最高水準をゆく カツミ製機関車の勇姿
国鉄が世界に誇る最新鋭のF級電機EF58!そしてC62蒸機!カツミが誇るのもこのEF58、そしてC62であり模型界にその真価を問う代表車で、台車等は実物同様精巧を極め板バネによる全軸可動で、実物某設計家よりも激賞された程であります。
(2)2両雄姿


性能を誇るカツミ製模型機関車はアメリカにても活躍しています。
(3)C62他

C62アップ
(4)C62アップ


初歩向けにお作りしたカツミB形電気機関車
(5)B形他

EB16
(6)EB16

EB50
(7)EB50


模型界最高電動機SP20をDC用として特製 強力マグネットの威力を遺憾なく発揮 OゲージD.C運転はこれによって完璧です。
(8)新製品

カツミが贈る新製品・・・EF58形をED化した斬新のスタイル!54年カツミが放つ初、中級者向の新形機関車です。」
(9)ED58アップ


Oゲージ(32㎜)最高水準を行く カツミ製模型機関車群!
日頃 皆様の御引立に酬いますため、電動機、変圧器等 肩を並べての優秀製品です。皆様の機関庫に配属し、運転されたその時にカツミ製機関車の真価は遺憾なく発揮することでしょう。カツミでは従来部品キットのみでしたが、御要望に応じ完成品をも発売 日浅くして各方面より大好評を得て居ります。御子様への御進物には是非カツミ製模型機関車をお選び下さい。尚、機関車キットは車体、台車、車輪、伝導用歯車、連結器、パンタグラフ、スイッチ等が揃っておりますので、学校の教材には最適の品かと存じます。
(10)機関車群


ED形電気機関車の組立図
(11)組立図


電車と客車
電車!!そして電車!!都市から郊外へと湘南電車は日毎活躍する、列車顔負けの16輌編成実に320米の堂々たる電気列車!加速度の向上は日本の現状によく適するのでしょう。世をあげての電車時代です。模型鉄道愛好家の中で電車ファンの占める数の多いのもこれが因と存じます。カツミ模型店ではファンの皆様の要望に応じ各形式を続々模型化致して居ります。電車運転は列車運転と異なり、単独でよし重連でもよし、これこそ電車の持つ独特の味です。
(12)電車と客車


貨車
私達の鉄道ではあまり作られない様です。きっと機関車や電車の様に動力車でないからでしょうが、土手の上を多数連結した貨物列車が車掌車を最後部にテールを灯し走り去るのを想像しますと、例え貴方が電車ファンであっても作り走らせたくなりましょう。また、米国形も各種完成致しましたので列車運転の夢は容易です。米国形機関車をお持ちの方は是非共 御用命をお待ち致しております。
(13)貨車


電動機」(モーター)
電動機!運転の最高能率を発揮させるには先ず優秀な電動機を装置しなければなりません。模型電動機は実物とは条件が大変異なりますので設計通りには参りません。これはひとえに不断の研究と惜しまざる努力に依って初めて実を結ぶのであります。・・・
(14)電動機モーター


強力.高能率!カツミ変圧器
模型鉄道の電源!最も重要なものであります。 従って是を選択するには慎重な注意が肝要です。短時間の運転にも、すぐに熱を持ったりする様では危険です。強出力、耐久、実用性を完備して、しかも廉価なカツミ特製の変圧器をお選び下さい。そして出来るだけ大容量なものをお求め下さい。
(15)変圧器トランス


保線
ブリキ製ガラ完成レール
(16)ガラ完成レール


高級引抜レール」 
銅製、真鍮製 曲線は御注文に応じ製作致します。御注文の際、直径及び材質を御指定下さい。
(17)高級引抜レール踏切信号


カツミの車輪と車軸
フランジの形状は車輪の生命です!カツミの高級車輪は模型標準規格寸法により正確に旋盤仕上げされ、材質も特に吟味して上質真鍮を使用製作してあります。
(18)車輪と車軸


カツミ特製 車体部品
キットは生きている!日本唯一の模型鉄道専門雑誌「鉄道模型趣味」によって叫ばれている「キットは生きている」とはカツミが発売の部品によって生れます。貴方が御自作されるお好みの形をお分かちする事によって・・・・・蒸気機関車の部分品は種類が多数ありカタログには掲載致しかねます故、御製作の節、御面倒ながらお問い合わせ下されば好都合です。キットは貴方の手で容易に生かされます!
(19)車体部品


カツミ特製 台車部品
(20)台車部品


全国を模型で結ぶ カツミ製品!
御注文方法について カツミ製品は全国有名百貨店、模型店にございます。郵便に依る直接御注文すべて前金、為替にてお願い致します。・・・・・
(21)カツミ製品

印字されている「東京都港区芝白金志田町3番地」は往年のカツミを知る世代には懐かしい魚籃坂下の住所。
(22)住所アップ



●カツミ模型店 価格表 (1955年)
1954年版カタログと一緒に出てきた価格表は1955年と印字のある手書きガリ版刷りの12頁。当時の初任給程度に当る1万円を出せば、C62とEF58(新型)のキット2両を買ってお釣りがくる計算。
定価表

凡例: 製品番号・車両型式・キット定価

【電気機関車】
・品番101「EF56」 3350円
・品番102「EF58(旧型)」 3100円
・品番103「EF58(新型)」 4200円
・品番111「ED14」 1170円
・品番112「ED16」 1450円
・品番113「ED17」 1200円
・品番114「ED19」 1500円
・品番115「サウスショアー」 1350円
・品番121「EB50」 740円
・品番122「EB54」 740円
・品番123「EB55」 820円
・品番124「EB58(旧型)」 900円
・品番125「EB58(新型)」 870円
・品番126「EB16」 820円
・品番127「EB17」 800円
・品番128「EB19」 840円
・品番129「B凸型」 600円

【蒸気機関車】
・品番151「C62」 5000円
・品番152「4-6-4 ハドソンタイプテンダーロコ」 4300円
・品番153「4-6-2 パシフィックテンダーロコ」 4300円
・品番154「4-4-2 アトランティックテンダーロコ」 3900円
・品番155「キャメルバック」 4100円
・品番156「0-4-0 B&Oスイッチャー」 2450円
・品番157「2-8-2 ミカドタイプテンダーロコ」 4800円
・品番158「0-4-0 ドックサイドサドルタンクロコ」 1900円
・品番159「0-4-0 B15タンクロコ」 1050円
・品番160「0-6-0 C15タンクロコ」 1150円
・品番161「0-4-0 森林型タンクロコ」 1150円
・品番171「0-4-0 ディーゼルスイッチャー」 700円

【電車】
・品番202「モハ40」 ボディ完成品480円
・品番203「モハ43」 ボディ完成品480円
・品番204「モハ60」 ボディ完成品480円
・品番205「モハ63」 ボディ完成品480円
・品番206「モハ80」 ボディ完成品480円
・品番207「モユニ81」 ボディ完成品480円
・品番208「クハ86」 ボディ完成品480円  

【客車】
・品番271「スハニ35」 ボディ完成品330円
・品番272「フハフ43」 ボディ完成品330円
・品番273「スハ44」 ボディ完成品330円
・品番274「スロ60」 ボディ完成品330円
・品番275「スロ53」 ボディ完成品330円
・品番276「カシ36」 ボディ完成品330円
・品番277「スイテ49」 ボディ完成品550円
・品番278「スイテ37」 ボディ完成品350円

【貨車各種】
・品番301~318 「トム・ワム・ワフ・タム・ヨ他」 完成品価格130円~220円
 
【トランス各種】
・品番501~512 定価530円~大理石造り1450円

【レール各種】
・品番601~668 
ガラレール直線/曲線300㎜:1本4円、ガラレール直線/曲線500㎜:1本8円、ポイント大250円、ポイント中210円、ポイント小180円、平行ポイント450円、X字クロス160円等





★オマケ(その1): カツミ模型店 1/45スケール Oゲージ自由形EB58
全長:21.5cm。1954年当時の定価:キット870円。HO時代にも大量に売られたゴハチのショーティー版。Oゲージ時代の大ヒット商品で販売期間も長かったのか現在でも中古市場にゴロゴロしている。実機の4号試験塗装の他、水色/紺などのカラーバリエーションあり。カツミの三線式Oゲージ車輛のモーターは丈夫で2016年現在でも火花を散らしながら豪快に良く走る。ミニカーは1/43スケールの英ディンキー・オースチンA40サマーセット(水色)と独メルクリン・ポルシェ356(赤)。
EB58(1)

EB58(2)



★オマケ(その2): カツミ模型店 1/45スケール Oゲージ自由形ED60
全長34cm。当時定価:不明。これは0番時代だけでHOでは作られなかったゴハチ・ショーティー。1958年に国鉄のED60が登場する以前にカツミがED60の名称で発売した製品で実機とは無縁のモデルだが、EB58やED58より先台車が付く分、ゴハチのムードが出ている。
ED60(1)

ED60(2)



★オマケ(その3): カツミ模型店 1/45スケール Oゲージ ED14
全長25cm。1954年当時の定価:キット1170円。ブリキ製と真鍮製あり。安価だった故かスケール機の中では比較的現存しているモデル。
ED14(1)

ED14(2)



★オマケ(その4): カツミ模型店 1/45スケール Oゲージ ED17
全長28cm。1954年当時の定価:キット1200円。ブリキ製と真鍮製あり。
ED17(1)

ED17(2)

ED1717とKTM(カツミ)のプレート
ED17(3)プレートKTM



★オマケ(その5): カツミ模型店 1/45スケール Oゲージ 0系新幹線ショーテイー
全長1輌36cm。1965年12月発売(?)の最後のカツミ製三線式Oゲージ製品。カツミのHOスケール0系新幹線は販売期間も長く中古市場でも見かけるのに対して、このOゲージ版は販売期間が短かった上にジュニア向けショーティーのため大人のファンは買っていないと思われ、あまり残っていない。最初は先頭車だけ向い合せに連結するM+Tの2輌セットで販売され、後に中間車も少数が市場に出た。ミニカーは0系新幹線デビューと同時代のダイヤペット120番の1965年セドリック・カスタムとモデルペット30番の1964年ファミリア。
新幹線(1)

新幹線(2)

中古市場では殆ど見かけない中間車
新幹線(3)中間車


●月刊誌「模型と工作」1966年1月号(技術出版)掲載のカツミ模型店 広告
「新発売!!」としてOゲージ新幹線2両編成3900円と掲載されている。HO版のカツミ製0系新幹線はパンタ付東京寄り先頭車12号車22形式1輌が4000円もしたのに比べて安価。「模型と工作」は1961年~1968年に発行されていたジュニア向け雑誌。
模型と工作1966





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★1969年 ホンダドリームCB350二輪消防車 赤バイ戦前 ~ 自動車カタログ棚から 318

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昨日2016年6月18日は1942年(昭和17年)生まれのポール・マッカートニー74回目の誕生日、そして、今日6月19日は1909年(明治42年)生まれの太宰治107回目の誕生日です。太宰は1948年(昭和23年)6月13日に愛人・山崎富栄と三鷹近くの玉川上水で入水自殺しましたが、遺体が見つかったのは奇しくも太宰39回目の誕生日当日でしたので、太宰の生まれた日=他界した日でもあります。聖路加の日野原重明さんが1911年(明治44年)生まれで今年10月の誕生日には105歳になられるので、太宰は日野原さんより学年で2年上ということになります。今回の記事に登場する本田宗一郎さんは1906年生まれ(現在御存命なら110歳)ですので、太宰は本田宗一郎さんより3年下、日野原さんは5年下ということになります。

若い頃は信号グランプリで負けると悔しい思いをしていたのが、近頃はせかせか焦って走るのは気疲れするし燃費も悪くなるしで、めっきり派手なスタートをしなくなっているワタシですYO。実は若い頃に免停〇回、簡易裁判所に行ったり高い罰金を払うのには懲りたしということもありますが。でもまぁ、あまりにとろとろと過剰にゆっくり走る(制限速度60kmの道路をゆっくり40kmで走るとか)のは、実は今でも苦手なんですけどNE。しかし、信号グランプリでは、例えポルシェ911ターボに乗って挑んでも排気量が大き目の単車にはまず勝てません。車重が軽くてパワーウェイトレシオが極めて良好な単車には、余程のモンスターでもない限りなかなか四輪では勝てるものではないですNE。フツーの四輪では下手をすると気合いの入った原チャリ号にもスタートでは負けますYO。

閑話休題
私は普段スクーター以外の2輪に乗ることはなく、カタログの蒐集も基本は四輪で戦前など余程珍しいもの以外の2輪のカタログはあまり集めていないのですが、そんな中で今回は初の2輪のカタログ記事です。「自動車カタログ棚から」シリーズ第318回記事として、珍しい1969年?のホンダドリームCB350赤バイのカタログをご紹介します。
 



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★日本大百科全書(小学館1984年初版)による自動車の定義は次の通りである。
「原動機を内蔵して車輪により陸上を自力で走行し、人や物を運び、あるいは各種の作業を行う機械の総称。英語でmotorcar、アメリカ英語でautomobile、フランス語でautomobile、ドイツ語でKraftwagenといい、中国語では汽車と記す。」


ここ日本では道路交通法第1章第2条9項に於いて、自動車を次の通り規定している。
自動車とは原動機を用い、かつ、レール又は架線によらないで運転する車であって、原動機付自転車以外のものをいう

また、道路運送車両法第1章第2条2項に於いては、自動車を次の通り規定している。
自動車とは、原動機により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条もしくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具であって原動機付自転車以外のものをいう

即ち、日本の法規上ではバスに近い構造を持ちながらも軌道上を走るレールバスや架線集電により走行するトロリーバスは自動車ではなく、その他の陸上を走る原動機付機械は原付を除くモーターサイクル(自動二輪)や、空気入りタイヤを持たないロードローラー等の建設機械や無限軌道(キャタピラ)を持つ建設機械、戦車等の車両も全て自動車ということとなる。
日本の法律に於いては、自動車を車輪で走行するものとは全く規定していないため、1960年代の少年雑誌の未来予想図によく描かれたエアカーが出現すれば、これもまた自動車ということになる。


★しかし、現代の日本人が普段「自動車」や「クルマ」と言う場合、通常は乗用車のことを指す。
例えば「吉祥寺でいっぱい飲んだ帰りはクルマを呼ぼうか」と言えばタクシーか代行を呼ぶとの意味となり、「君、そろそろボーナスも入ることだし、その15年落ちのボロぐるまは買い替えたらどうなんだい?」などと言えばマイカー=乗用車の意味となり、狭義での自動車は自動二輪やバスやトラックや建設機械を全く想定してはいない。
今回の記事では、初のモーターサイクル(自動二輪)のカタログとなることからタイトルを「自動二輪カタログ棚から」に変えるべきか少々考えあぐねた結果、狭義での自動車の語意に拠らず(本シリーズでは既にオート三輪やバスやトラックも記事としていることもあり)、国内法規上での定義を踏まえ従来通りのタイトル「自動車カタログ棚から」を踏襲することとした。

(以下、本題となります。)



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★本田宗一郎(1906年11月17日-1991年8月5日)が1946年(昭和21年)に浜松で創立した本田技研は、自転車用補助エンジンを搭載した二輪の生産で出発し、1949年(昭和24年)には自社開発のフレームにエンジンを搭載したドリーム号を生み、更に1958年のスーパーカブC100のヒットにより1960年代初頭には世界的な二輪メーカーへと成長した。ホンダの四輪への進出は創業から17年を経た1963年(昭和38年)の軽トラックT360(小型車バージョンはT500)、ミニスポーツS500の発売まで待たねばならなかった。


ホンダ・ドリーム(DREAM)は、本田技研工業が製造販売する二輪車の名称であり、命名の由来は創業者の本田宗一郎の夢(=DREAM)の通りの優れた二輪車とすることであった。
最初のドリームは初の自社開発フレームに98ccエンジンを搭載して1949年(昭和24年)8月に発売されたが、1950年代の国産二輪の百花繚乱期以降は主に250cc以上の上位モデルや最上級フラッグシップモデルに冠されたペットネームであった。ドリームを冠したホンダ二輪の代表格は何と言っても1969年(昭和44年)に世界初の4気筒エンジンを搭載して量産されたCB750FOUR(K0モデル)であろう。CB750のK0は模型の世界では、チェーンまで1個ずつ組む田宮模型の名キットでも有名である。


★俗に白バイと言われるものの歴史を紐解くと、日本の警視庁が初めてオートバイを取締りに使用したのは1918年(大正7年)の元旦からであり、この時の車体塗色は赤であった。
そのため、当時は白バイではなく「赤バイ」と呼ばれ、現在のような白塗装の「白バイ」が登場したのは赤バイ登場から18年を経た1936年(昭和11年)8月1日であった。2016年で白塗色の警察取り締まり用白バイは生誕80周年ということになる。
今回のカタログの赤バイは、この白バイ登場以前の取締り用の赤バイではなく、二輪消防車の「赤バイ」である。消防用赤バイの登場時期は史料的な裏付けが難しく特定が困難であるが、手元のカタログ棚に大正末もしくは昭和初期と思しきハーレーダビッドソンに側車と消防用器具を装備した車両のカタログがあるため、消防用赤バイの登場は恐らく警察用赤バイ登場と大きくは違わない大正期のことではないかと想像される。



●1926年?ハーレーダビッドソン 東洋消防機製作所 A型 専用カタログ (A4判・日本語2つ折4面)
表紙には東京市本所区亀澤町二丁目三番地「東洋消防機製作所」や特許番号の印字。本所区は現在の墨田区南部に当る東京の下町地区である。ハーレーはVツイン20馬力と強力で、カタログには「出火最初の1分間に出動する殊勲者は常に本機なり」との記載がされている。
戦前(1)表紙


【中面から】
側車に「浅舞」の文字が読めるので「秋田県浅舞町消防組」に納入された車両らしい。側車2名乗りの何と4名乗り。
戦前(2)浅舞


「本機の五大特徴」
戦前(3)五大特徴


「主なる本機納入個所」
本機納入個所として「東京警視庁第六消防署押上派出所」「神奈川県横浜市消防署」「埼玉県川越市消防組」「千葉県木更津町消防組」「茨城県磯原町消防組」等多数の納入先が印字されている。戦前の日本では所謂「警察消防」と言われ、消防は警察組織の一部であった。
戦前(4)納入箇所



【主要スペック】 1969年ホンダCB350 赤バイ (1969 Honda CB350 Red Motercycle)
全長2040㎜・全幅775㎜・全高1075㎜・ホイールベース1320㎜・車重149kg・空冷4サイクル2気筒OHC325cc・最高出力36ps/10500rpm・最大トルク2.55kg-m/9500rpm・最小回転半径2100㎜・変速機5速・乗車定員1名・舗装平坦路60km走行燃費:45km/ℓ・ゼロヨン13.8秒・最高速度170km/h・販売価格:不明(ノーマル車:19万2000円)



●1969年?ホンダCB350 二輪消防車「赤バイ」 専用カタログ (A4判・日本語8頁)
表紙には「ホンダ二輪消防車〈赤バイ〉のご案内」との印字があり、全国の消防本部や消防団等向けに配布されたカタログと想像される。発行時期を示す印字は見当たらないが、サイドリフレクターの付かない車体写真から1969年乃至1970年と推定される。
赤バイ(1)表紙

【中頁から】

ごあいさつ
ますますご清祥のこととお慶び申しあげます。昼夜をわかたぬご活躍、心より感謝いたしております。さて、最近の火災による被害の傾向は、生活環境の近代化に伴い、複雑化・大型化しつつあるように思われます。都市部では人口の集中・高層建築の増加が進む一方、交通事情は全国的に日々切迫し、みなさまの敏速な消火活動の妨げとなっていることは全く残念でなりません。
そこで弊社では、去る昭和38年より、ホンダ2輪車がこのような状況においてその特性を充分に生かしうる点に着目、2輪消防車〈赤バイ〉を開発してまいりました。特に最近、横浜市消防局にご採用いただいて以来、急速に各方面からご注目いただき、テレビ・ラジオ・新聞などマスコミに大きく採り上げられ反響を呼んでおります。
現在弊社は年産150万台の2輪車を生産し、国内の60%に及ぶほか、海外140ヶ国へ輸出するに至っておりますが、トップメーカーの使命としても陰ながら社会のお役に立ちたいと2輪消防車の開発、製作に取り組んでまいりました次第です。
ここに、その多用途にわたる使用例および性能諸元・装備仕様書などを添え、ご案内させていただきます。何卒ご検討ご審議の上、是非共ご採用賜りますようお願い申しあげます。

赤バイ(2)ごあいさつ


〈赤バイ〉の使用例
赤バイ(3)使用例

ラッシュ時代の消火活動に抜群の機動力
赤バイ(4)ラッシュ時代の


車体画像
赤バイ(5)車体アップ


2輪消防車に搭載する7つ道具 (横浜市消防局)
赤バイ(6)7つ道具


横浜市消防局が2輪消防車を採用し、消防レインジャー機動隊を組織したのは、主として交通ラッシュによる消火活動の困難さが生んだ方策といえます。ただ、私たちの目的はそれのみに止まらず、特に訓練したレインジャー隊員による、より積極的的な防災活動を新しく行うことにありました。2輪車の機動力とあいまって、市民のみなさまにも好評を得ております。当初は2輪車ということで、採用までにはかなりためらいもありましたが、結果的には成功であったと思っています。今後ともさらに充実をはかる予定です。横浜市消防局消防司令消防レインジャー機動隊々長 高橋宗行氏
赤バイ(7)高橋氏


ホンダ2輪消防車の標準装備 (標識版、サイレン、回転式赤色灯等10種)
赤バイ(8)10の標準装備


ナイロンロープを使って救助作業
赤バイ(9)ナイロンロープ救助


無線と粉末消火器による初期消火
赤バイ(10)無線と粉末消火器


ホンダ2輪車の性能は〈赤バイ〉に最適です
ホンダ2輪車は、すでに〈白バイ〉に多数採用され、高い評価をいただいていますが、〈赤バイ〉でも、その本来の性能から、最もふさわしいとされてご採用いただいております。
ホンダの2輪車をご選択くださる第一の理由は、ホンダ独自の4サイクルOHCエンジンです。強力かつ耐久性に富むばかりか、燃費の経済的なことも大きなポイント。特に4サイクルならではの始動性のよさと出力の安定性は、消防車の資格充分です。さらに排気ガスの清浄さも、選択理由にあげられています。このほか加速性・高速性・操縦性のよさや回転半径の小ささなど、すべての条件が抜群です。他にさきがけて〈赤バイ〉を手がけた実績とあいまって、ホンダの2輪車は〈赤バイ〉に最適任です。

赤バイ(11)ホンダが最適


外観四面図
赤バイ(12)四面図


裏面: スペック
赤バイ(13)裏スペック



●1970年3月 ホンダCB250/CB350 専用カタログ (A4判・日本語2つ折4面)
表紙のカップルのうち女性はヘルメットなしというのが時代を感じさせます。左側に乳母車を押す和装の女性を配した写真の意図は果たして何でしょうか。この時代としては渋いルックスがそそります。
乳母車(1)表紙

【中面から】
シックなルックス
乳母車(2)中面

車輪の陰からデートする2人
乳母車(3)車輪の影デート



●1970年11月 ホンダCB250/CB350 専用カタログ (A4判・日本語2つ折4面)
フロントフォークにリフレクターが追加された。
男の表紙





★オマケ(その1): マルカ1/18.5スケール 1969年ホンダドリームCB750 FOUR
全長11cm。プラ製。当時定価:不明。CB350赤バイのスケールモデルは手元にないため、昭和臭がプンプンする赤いCB750の駄玩具を一つ。4本出しマフラーも何気に再現されている。長時間ゼンマイ付。補助輪なしで真っ直ぐ走るのかどうかは未開封のため不明。
マルカ(1)

マルカ(2)

マルカ(3)

裏側はCB750の解説
マルカ(4)裏解説



★オマケ(その2): トミカ4-?番 1/32スケール ホンダVFR白バイ&黒バイ
全長6.5cm。ダイキャスト製。オマケが一つではちょっと寂しいということで、これは現在どこでも入手可能なトミカの現行品(定価税抜450円)。黒バイと千葉県警の白バイはギフトセット専用品。改めて見ればカッコ良くて結構魅力的なトミカです。
トミカ(1)

トミカ(2)



★オマケ(その3): 宇宙人からの贈り物 「プレイアート7144番 1/64スケール ポルシェ911Sタルガ」
ゼットン1

ゼットン星人これをしかと見るがよい、君が逆立ちしたって手には入らないミニカーだ!

ワタスうわぁぁぁぁ~~~、凄い凄い~!!プレイアート・ナロー911タルガ旧ホイールのシート色違い3色!!しかも品番7144がスタンプされた元箱付!!さすがは宇宙人!参りました(@_@)

ゼットン星人そうか、これしきのミニカーで参ったか!地球人なんてチョロイものだな。ハッハッハッハッハッハッ~!!!!!

ゼットン2

・・・・・・ゼットン星人さんから思いがけず届いた驚愕の香港プレイアート7144番ポルシェ911Sタルガ(全長6.5cm)のシートカラー違い元箱付き3台セット。このミニカー、ボディの色違いも多いですが、同じボディカラーでシートの色違いを3色揃えるのは実際至難の業です。ゼットン星人さん、ホントにありがとうございます!

ゼットン3

ゼットン4

★1958年トヨタランドクルーザー救急車・自衛隊 岐阜車体 ~ 自動車カタログ棚から 319

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6月も残り1週間を切りましたね。一歩一歩、日本の暑い夏が近づいてきていますNE。
1966年(昭和41年)のビートルズの来日公演からもうすぐ丸50年です。当時、私は小1、誕生日を迎える前だったのでまだ6歳でした。家にはビートルズに関心のある人は一人もいなくて、日本公演のテレビ放送も見ませんでしたし、ビートルズの「ビ」の字も知りませんでした。当時の私はビートルズよりウルトラマンに夢中でした。
あれから50年=半世紀とは時間が経つのは本当に早いものです。来日時に高1で武道館公演を観たチャボ(仲井戸麗市氏;1950年10月9日生れ=ジョン・レノンとは10年違いの同じ誕生日)がインタビューで、「公演が終わったあと、何故だかビートルズにはもう二度と会えない気がして堪らなく悲しかった・・・」という趣旨のことを話していたのが妙に心に響きました。私はビートルズが死ぬほど好きであっても、一度も見れないまま死ぬ運命が既に確定していますが。



ところで、結婚情報サイトに登録している方の公開情報を閲覧していると、ある事実に気付きます。それは、多数の方の自己紹介文に「年齢より若くみえます」という旨が書かれていることですYO。まあ、実際誰が見ても若く見えるという人も世の中いるとは思いますが、10人中8人位までが「若く見えます」とアピールしているということは、人間というものは自分がまだまだ若いと思いつつ日々生きているのが普通であって、特に婚活しているような人は気持ちも若いと自分では思っているケースが多いということなのでしょうね。
婚活サイトでは物凄い人数の男性のプロフィールを無料で閲覧することが出来ます(女性のプロフィールの閲覧は通常有料)。もし、以下の2つのケースのようなプロフィールがあって、どちらか1人を選ばなければならないとしたら、貴女ならどちらを選びますか?二者択一ですので、どちらもパスという選択は出来ません。(1)と(2)の何れかを必ず選ばなければいけません。(1)(2)のどちらを選ぶか、その理由と一緒に是非コメントくださいね!女性ではなく男性の方の目から見た選択結果をコメント戴くことも大歓迎です!戴いたご意見は私の今後の婚活の参考にさせて戴きますNE!!→フツーのサラリーマンで定年も迫ったその歳になって、まだ結婚したいだなんて気が狂ったのかと周りには言われますがwww



ケース(1) 55歳男性
・血液型:A型
・続柄:長男
・結婚歴:2回
・地域:首都圏
・職業:会社役員
・学歴:大卒
・年収:2850万円
・親との同居: 不要(同じ敷地内ですが親は別棟に住んで生計を別にしていますので普段顔を合わさなくても大丈夫です)
・趣味:競馬
・お酒:家では飲まない(酒席では多少)
・煙草:吸わない
・ペット:大型犬
・クルマ:メルセデスGクラスAMG
・希望する年齢:30代以下の方(見た目が若ければ40代前半までなら可)
・アピールポイント: バツ2ですが、子供は成人して独立しています。これからの人生を一緒に歩むパートナーを探しています。歳よりも若くみえます。休日には競馬場などに手を繋いで行きましょう。年1、2回は海外旅行に行きます。お金で苦労をすることはないと思います。30代以下の方が希望です。


ケース(2) 54歳男性
・血液型:O型
・続柄:長男
・結婚歴:なし
・地域:東北地方
・職業:アルバイト(軽作業)
・学歴:高校中退
・年収: 155万円、月収では税込13万円位です。
・親との同居: 必要(田舎ですが12部屋の広い家と先祖代々の広い土地があります)
・趣味:読書(主に推理小説)
・お酒:飲む(晩酌程度)
・煙草:吸う
・ペット:なし
・クルマ:軽ワンボックス
・アピールポイント: 初婚です。田舎でなかなか出会いもなく気づいたらこの歳になっていました。歳よりは若いと自分では思っています。口下手で性格はおとなしい方です。アルバイトで収入は低目ですが、周りは農家が多いので野菜など食べる物には不自由しません。いざとなれば先祖代々の土地を売ってお金にすることもできます。フィーリングが合えば相手の年齢は問いません。外見よりも人に心遣いのできる優しい方がいいです。空気のいい田舎で一緒に人生を歩みましょう。そろそろ結婚して年老いた両親も安心させたいです。


閑話休題
今日は「自動車カタログ棚から」シリーズ第319回記事として1958年(昭和33年)岐阜車体工業の珍しいランクル等のカタログをご紹介します☆
 




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岐阜車体工業株式会社(Gifu Auto Body Co., Ltd.)は、岐阜県各務原市鵜沼三ツ池町6-455に本社を置くトヨタ系の車体等の製造メーカーである。2016年現在はトヨタ車体が全株式を保有し、ハイエースを主な製品としている。
岐阜車体の歴史を紐解くと、創業は戦前1940年(昭和15年)10月(ジョン・レノン生誕の8日前)、当初の所在地は岐阜市長森岩戸であった。(以下、ウィキペディアより抜粋加筆)。

★岐阜車体は、十六銀行柳ケ瀬支店の川合利之支店長の紹介で星野鍵太郎、川島信雄、野尻藤吉の3名が知り合った縁により3名が協力して、1940年(昭和15年)10月1日に岐阜市長森岩戸に「岐阜車体工業株式会社」を設立したのが始まりである。
この創業者3名のうち、野尻藤吉は野尻自動車工場、川島信雄は川島ボデー製作所を経営しており、この2名は共に岐阜車体創業以前からトラック車体の製造及び修理業を営んでいた。しかし、1936年(昭和11年)に公布・施行された「自動車製造事業法」により自動車の製造が政府の許可制となり、大日本帝国の軍用トラック生産拡大のために企業合同による再編を進め自動車産業を育成・拡大することが国策とされたことから、事業を統合することに至ったものである。但し、創業者3名の中で最年長であったことから初代社長に就任した星野鍵太郎は、岐阜車体創業以前は鉄骨工事と軍の砲弾を旋盤加工する鉄工所を営んでおり自動車車体製造については未経験であり、岐阜車体設立後も星野は自身の会社「星野商店」(後年の星野鋼機)を並行してして経営した。設立時の資本金は15万円で本社を岐阜市長森岩戸に置いたが、1940年10月創業時の従業員は社長などの経営陣を含めてもわずか23名であった(2016年3月現在は1970名)。

★設立から5ヵ月後の1941年(昭和16年)3月には岐阜市祈年町に月産30台の生産能力を持つ本社工場を完成、主にトヨタ製トラック車体を一貫製造する体制を構築し同年には従業員45名の手により320台のトラック車体を生産した。
更に、1943年(昭和18年)には同じ岐阜市内の二軒屋(現在の金園町)にあった岐阜合同車体を吸収合併して第2工場とし、岐阜県内では唯一の自動車車体メーカーとなった。1943年(昭和18年)には政府の自動車技術委員会により、戦時型トラック規格が正式決定され、トヨタ自工はその規格に沿い従来のトラックと比較して鋼材を3割(300kg程度)減らしたトヨタKC型を同年11月に発表したが、その木材を多用したキャブや荷台の製造には岐阜車体が当たった。

★この時の木材加工技術を活かし、終戦後、岐阜車体では家具や建具といった木製品の製造も行なった。
しかし、戦後の物流復興には、トラックが不可欠であったことから、当時は各都道府県に存在した自動車配給会社からトラック車体の注文が入ることとなり、戦後は比較的早い時期にトラック車体の製造を再開した。
後に岐阜車体の一部となる「星野商店」(創業時の社長・星野鍵太郎の持つ別会社、後の星野鋼機)は、1948年(昭和23年)にプレス機を導入して岐阜車体に鋼材やボディー部品を納入することとなり、翌年1949年(昭和24年)には「トヨタ自動車工業」へプレス加工部品を納入し始め、トヨタグループとの取引が正式に始まった。まず、バッテリーハンガーやラジエターグリル等のトラック向けの部品をトヨタから受注したものの、岐阜車体の生産技術がトヨタの規格に着いていけず不良品が続出した。そのため、最悪時には従業員の半数以上が不良品の修正作業に従事し、売上が4分の1まで落ち込み大赤字となって従業員給与の遅配が3ヶ月にも及ぶという危機的な状況に陥った時期もあった。

★トヨタとの戦後の事業立ち上げには苦戦したものの、朝鮮戦争(1950年6月25日-1953年7月27日)に伴う特需の際にはトヨタ自動車工業から警察予備隊(後の自衛隊)制式3/4t軍用トラックBQ型/FQ型を大量受注することに繋がった。
1950年代半ば、岐阜車体が主力としていたトラック車体の製造は、各自動車販売店などから個別に受注する多品種少量生産がメインであったことから、岐阜車体の経営陣は将来の事業展開には限界を感じるようになっていた。そのため、完成車メーカーであるトヨタとの取引拡大に取り組むこととなり生産体制の大幅見直しに着手した。その一環として、1956年(昭和31年)9月には「星野鋼機」を吸収合併して岐阜車体吹上工場とし、プレス加工技術を採り入れ金属製トラック車体の製造に円滑に対応する体制を整えた。更に1957年(昭和32年)には、2016年現在、岐阜車体の全株式を保有するトヨタ車体に金属製(鉄製)ボディ製造技術を習得するための研修生を派遣したのを皮切りに、その後は設計部門にも実習派遣するなど、金属製ボディ生産の技術習得を進めた。

★その後の岐阜車体は1950年代に日本電信電話公社(現・NTT)や日本国有鉄道(現・各JR)などの特装車を多数生産した技術をも生かし、トヨタランドクルーザーのバンタイプとして販売された「FJ28型」のボディを大量受注することに成功した。
この「ランドクルーザーFJ28型」のボディ製造での実績が認められた結果、「ランドクルーザー」用の牽引トレーラーである「T10トレーラー」を正式受注することになり、1959年(昭和34年)8月から晴れて「トヨタ自動車工業」本社と岐阜車体との直接取引が始まることとなった。


【主要スペック】 1958年 トヨタ ランドクルーザー 患者輸送車「救急車」 FJ28VA型 (1958 Toyota Land Cruiser Patient transport vehicles「ambulance」 Type.FJ28VA)
全長4635㎜・全幅1690㎜・全高1860㎜・ホイールベース2430㎜・室内長2550㎜・車重1800kg・4WD・F型水冷6気筒OHV3878cc・・最高出力110ps/3400rpm・最大トルク27.5kgm/2000rpm・全鋼製ボディ・乗車定員5名・変速機4速MT・最小回転半径6400㎜・電装系12V・燃料タンク容量40ℓ・平坦路燃費7km/ℓ・最高速度100km/h・車体製造:岐阜車体工業・販売価格:不明



●1958年 トヨタ ランドクルーザー 患者輸送車「救急車」 FJ28VA型 専用カタログ (A4判・日本語・表裏1枚)
トヨタ自販が発行したシート式カタログ。手元のカタログ棚にあるものは加除式の「トヨタ特殊車カタログ」と書かれた専用バインダーに9枚のシートが入っており、全てのシート表側の右上に黒丸に白文字で「岐阜ボデー」、シート裏面下とバインダーの裏表紙には「車体製造・岐阜車体工業株式会社」と印字されている。
救急車(1)

見るからにスマートな新しい患者輸送車
急患の往診に、清潔な白色の美しい赤十字のマークも鮮やかなトヨタ・ランドクルーザー患者輸送車は、泥濘でも山野でもどんな悪条件な道でも走破する強力車です。医師、看護婦、患者、付添者も同時に輸送出来ます。寝台は折畳式で倒せば広いベッドとなり、起てれば多人数が乗用出来る便利な装置になっております。然も乗心地は乗用車の様な快適な車です。

裏面: 図面及びスペック
この時代の岐阜車体の住所は「岐阜市祈年町10丁目55番地」(裏面下に印字)。
救急車(2)

図面
救急車(3)図面

スペック
救急車(4)スペック



●1958年 トヨタ ランドクルーザー ライトバン(2ドア) FJ28VA型 専用カタログ (A4判・日本語・表裏1枚)
この2ドアライトバンは通常のランクルのカタログにも掲載されていた車両。

万能用途の強力車
1)強力で経済的なエンジン
最も効率のよい頭上弁式で6気筒、最高出力110馬力を発揮し、強力経済として定評のあるものです。
2)強力で機動性に富んだシャシー
強力なエンジンと四輪駆動により、山間僻地砂利等の悪路も楽に突破し然も無理に耐えるよう設計してあります。
3)美しいスタイル、頑強なボデー
5人がゆったり乗れる座席は乗用車の乗心地で後部には荷物(400㎏)も積める実用車です。シャシーに相応しい設計に依る頑強なボデーは如何なる悪路にも耐えられます。
4)凡ゆる用途にトヨタランドクルザー・ライトバン
警備、輸送、連絡、報道を始め用途に応じ、放送用スピーカー、取材用ステージ等特殊取付も致しますので其の御用途は広く凡ゆる分野に活躍出来る車です。

2ドア(1)

裏面: 図面及びスペック
2ドア(2)



●1958年 トヨタ ランドクルーザー ライトバン(4ドア) FJ28VA型 専用カタログ (A4判・日本語・表裏1枚)
この4ドアライトバンは通常のランクルのカタログには掲載されていない特殊車両。リアドアが異様に狭い。
※注: この時代の通常のランクルのカタログについては、本シリーズ第179回記事を参照ください。

4ドア(1)

凡ゆる用途に活躍するトヨタ・ランドクルーザー・ライトバン
輸送、警備、連絡、報道、取材、放送と凡ゆる分野に活躍するランドクルーザー・ライトバンは御使用目的にて各資材機械の取付に依り一層多くの利用価値があり四扉で乗用車としても御愛用頂けます。強力な四輪駆動の機動力は頑強でスマートなボデーと相俟ちどんな悪路でも走破します。ランドクルーザーライトバン(4ドア)こそ万能車の名の下に広く使用されております。

裏面: 図面及びスペック
4ドア(2)



●1958年 トヨタ 4輪駆動 人員輸送車ウェポンキャリャー FQ10型 専用カタログ (A4判・日本語・表裏1枚)
基本的には民間には売られていない自衛隊制式車両「3/4tトラック」で、トヨタ製以外にも殆ど同一仕様の車両がニッサン製やいすゞ製も存在した。ニッサン製は民需用には「キャリアー」4W70型として販売された。「3/4tトラック」は1952年(昭和27年)に生産が開始され20年程度生産が継続された(いすゞ製は極く少数のみ)。トヨタ製は、BQ、FQ、HQの順で改良を受け車両型式が変更となった。この他にトヨタ製には6輪駆動のFW10型も存在した。最終型のHQ15ではトミカでモデル化されたことでも有名(オマケ参照)。このカタログのFQ10型はホイールベース3000㎜・全長5080㎜のショート版(ロング版の型式はFQ15)。エンジンはランクルと同じF型110psを積む。
キャリアー(1)

不整地に悪路に威力を発揮する四輪駆動のウエポンキャリャー
強力110馬力エンジンと四輪駆動の人員輸送車は12名の人員または1屯の資材荷物を載せ、山野不整地、泥濘等如何なる悪条件の道路も走破して、現地に直行出来る車です。建設に開拓に林業に凡ゆる事業に活躍出来る頑丈な車体と軽快な乗心地の人員輸送車です。

裏面: 図面及びスペック
キャリアー(2)裏

図面
キャリアー(3)図面

スペック
キャリア-(4)スペック



●1958年 トヨペット・ライトバン RK35VA型 専用カタログ (A4判・日本語・表裏1枚)
スタウトを名乗る以前のトヨペット・トラックRK35型をベースとしたライトバンで自動車ガイドブック等には掲載されていない珍車。フロントデザインは初代マスターライン・ライトバンと共通だが、リアスタイルはプリンス流のフィンが跳ねたアレンジが面白い。カタログの写真からすると2ドア・4ドアの2種が生産されたようだ。エンジンはR型58ps。
ライトバン(1)

乗用と運搬と宣伝を兼ねる実用万能車がライトバンです
スマートな外観と軽快な乗心地は乗用車として申し分ありません。6人がゆったりと座れ、更に1000kgの荷物も積めます。スピーカー等の放送設備の取付、ボデーを利用した美麗な色彩広告は動く看板として宣伝効果が満点です。大切な商品を雨露から守り迅速に輸送配達する他、お客の送迎とライトバンこそ万能型の実用車として広く御愛用頂いております。

裏面: 図面及びスペック
ライトバン(2)



●1958年 トヨペットトラック/ルートトラック コーチ型 RK35/RK75型 専用カタログ(A4判・日本語・表裏1枚)
トヨペットトラックRK35型とルートトラック(初代ダイナ)RK75型ベースの簡易人員輸送車。何れも荷台部分にロングシートを設け、幌には窓を設けて10名乗りとしている。国鉄を中心に納入された車両と思われる。
コーチ型(1)

人員輸送に資材の運搬に最適の実用車です
スマートなスタイルと頑強なボデーは、人員資材の輸送に連絡用に活躍し広く利用されております。後部荷台は丈夫な防水用幌とラテックススポンジのシートが装備され乗心地よく、運転席2名(3名)の他に8名(7名)の人員が乗れます。

裏面: 図面及びスペック
コーチ型(2)



●1958年 トヨペットルートトラック ダブルキャブ RK70/RK75型 専用カタログ(A4判・日本語・表裏1枚)
トヨペット・ルートトラック(初代ダイナ)RK70型(WB2530㎜)とRK75型(WB2750㎜)ベースのダブルキャブボディ。この時期の国産小型トラックでダブルキャブが正式なカタログモデルであったのは初代トヨエースSKB型のみで、このルートトラックのダブルキャブは自動車ガイドブック等にも掲載されていない珍車。
Wキャブ(1)

実用車としてのご利用に最適のダブルキャブ・トラック
5人がゆったり乗れて、後部荷台には1750(1500)kgの荷物が積載出来ます。商店、会社の荷物の運搬に、また、お客の送迎に絶好の実用車です。後部荷台は幌の取付も出来ますので大切な商品が雨や埃から完全に保護されます。

裏面: 図面及びスペック
Wキャブ(2)



●1958年 トヨペット宣伝車 RK70/RK75型 専用カタログ(A4判・日本語・表裏1枚)
トヨペット・ルートトラック(初代ダイナ)RK70型(WB2530㎜)とRK75型(WB2750㎜)ベースの宣伝車。マイクロバスのような車体ながら乗車定員は5名。
宣伝車(1)

販路拡張にトヨペット宣伝車を
都会の路地でも農村の悪路でも軽快に走るトヨペット宣伝車こそ、熾烈な販売戦には絶対に必要です。各企業に応じたスタイル、強力な放送設備、ショールーム利用の商品展示広告、ボデー利用の美麗な色彩の動く看板。凡ゆる効果を備えるトヨペット宣伝車こそ、お店の繁栄を約束する商戦最大の武器です。ボデーのスタイル、放送設備其の他御希望は気軽に最寄りのトヨタ販売店に御相談下さい。

裏面: 図面及びスペック
宣伝車(2)

図面
宣伝車(3)図面



●1958年 トヨタトラック パネルバン FA(DA)70型 専用カタログ(A4判・日本語・表裏1枚)
1951年(昭和26年)に戦後型にフルモデルチェンジしたトヨタ大型トラックの特装パネルバン仕様。
大型(1)

大切な商品の輸送に安全で確実なパネルバン
パネルバンは大切な商品を雨露や塵埃より護り安全確実に輸送出来る車です。各扉には厳重な施錠が出来ます。御使用に応じて冷房車・保温車の設備、商品棚等各工事を実施致します。大きなボデーは美麗な色彩の記入に依り動く広告看板として100パーセントの宣伝効果を得られます。

裏面: 図面及びスペック
大型(2)



●専用バインダー
発行はトヨタ自販、裏面には車体製造として岐阜車体の住所等が印字されている。
バインダー(1)

バインダー裏面
バインダー(2)






★オマケ(その1): トミカNo.2-3番 1/60スケール トヨタ ランドクルーザー40系
全長6.8cm。ダイキャスト製。1975年5月発売。当時定価220円。トミカのランクル40の通常品は1979年8月には多田野クレーンと交代して絶版となった後もギフトセット専用色や特注品等のバリエーションが近年に至るまで大量に出ている。1976年5月には76-2番として道路公団パトロールカー仕様も出た。画像は倉庫から出てきた比較的初期のもので、当時の通常品(これは中国製となってから復刻カタログ付で再版)、トミー仙台営業所特注の黄色い東北電力仕様、横浜高島屋特注の紺色のワイドタイヤ仕様の3種。
トミカランクル(1)

トミカランクル(2)

東北電力仕様(これは今となってはレア?)
トミカランクル(3)東北



★オマケ(その2): 仏マジョレット277番 1/53スケール トヨタ ランドクルーザー40系左ハンドル「PINDER」馬運搬トレーラー
全長7.5cm(トレーラー連結14cm)。ダイキャスト製。定価税抜500円。岡山市のカバヤ食品が販売しているマジョレット生誕50周年記念の現行品。魔女のことなのでカラーバリエーション多数?近所で魔女売ってる店を何とか発見できても、近頃は3インチコレクターが増えているのか欲しいモノはすぐに売り切れるのはトミカ初回限定と似た状況のようです。
魔女(1)

魔女(2)



★オマケ(その3): 伊ポリスティルCE72番 1/43スケール トヨタ ランドクルーザー40系左ハンドル
全長8.8cm。ダイキャスト製。1978年発売。国内当時定価800円。ポリスティルもカラバリは多数あり。
ポリトーイ(1)

ポリトーイ(2)

ポリトーイ(3)



★オマケ(その4): トミカNo.67-2番 1/81スケール トヨタHQ15V型 自衛隊救急車
全長6.5cm。ダイキャスト製。1978年4月発売。当時定価240円。黒ホイールに赤いサイレンの物は2002年の中国製復刻「トミカミュージアム緊急車館」の1台。「Special Weapons Police Van」はUS輸出専用品。この金型を転用して、1978年7月にNo.77-3としてトヨタ自衛隊ロケット車、1980年3月にはNo.69-3として大砲を牽引するトヨタ自衛隊トラックもリリースされている。
トミカ67(1)

トミカ67(2)

トミカ67(3)



★オマケ(その5): 「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」 (邦題:ノルウェーの森)
ビートルズ来日50周年ということで、今日の1曲。何とも魅力的なジョンのボーカル。

【データ・ファイル】
・作詞作曲: Lennon/McCartney(ジョンがメインの作品)
・録音スタジオ: アビイ・ロード第2スタジオ
・録音日時: 1965年10月12日
・日本発売日: 1966年3月15日LP「ラバー・ソウル」A面2曲目収録
・使用楽器:
Gibson J-160E(John)
Rickenbacker 4001 (Paul)
Sitar (George)  etc


I once had a girl, or should I say she once had me
She showed me her room, isn't it good, Norwegian wood

She asked me to stay and she told me to sit anywhere,
So I looked around and I noticed there wasn't a chair.

I sat on a rug, biding my time, drinking her wine.
We talked until two and then she said "It's time for bed".

She told me she worked in the morning and started to laugh.
I told her I didn't and crawled off to sleep in the bath.

And when I awoke I was alone, this bird had flown.
So I lit a fire, isn't it good, Norwegian wood

(和訳)
昔 ちょっとひっかけた女の子がいた。
いや 僕のほうがひっかけられたというべきか。
彼女は自分の部屋を見せてくれた。
 「素敵でしょ、ノルウェーの森」

「ゆっくりしていって どこに座ってもいいわよ」と彼女が言うので
あたりを見まわしてみたけれど、
椅子なんて1つも置いてなかった。

だから僕は敷物の上に座り、チャンスをうかがいながら
ワインを飲んだ。
午前2時までおしゃべりをしたところで 
彼女が言った。
 「さあベッドに行く時間よ」

「わたし、朝から仕事があるの」
と彼女は言うなり笑いだした。
僕は「特に朝に用事はない」と言って、
バスルームまで這って行き眠った。

目覚めると彼女はいなかった。
鳥は飛び去っていってしまったんだ。
僕はドラッグに火をつけた。
「素敵じゃないか、ノルウェーの森」

★1952年キャデラック 生誕50周年 御料車 エルドラド ~ 自動車カタログ棚から 320

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いや、まあ、しかし(笑)、ホントに7月になると同時に暦通りにこの東京では暑い夏がやって来たような感じですYO。今日7月3日の東京の最高気温は34度(八王子は38度)の予報とは参りますNE。夏はエアコンをなるべく使わず、汗を滝のように流してミネラルウィーター(あるいはビール)をガンガン飲むのが気持ちいいもんだなんて言う人も世の中にはいますNE。ワタスの場合は、日本の夏の湿度にはどうにも耐えられずエアコンはガンガン付ける方なのですが、世の中には一定数エアコンが苦手の方がいるらしく、電車などには「弱冷房車」なんて車両まであってビックリンコですNE。


崖っぷち女子が年収1000万円超の男性と結婚する方法」なんてタイトルの本が出てるらしい。「崖っぷち」という意味は、女子の場合だと35歳オーバーあるいはアラフォー世代を指すのだろうか。女子でバツなし未婚で45歳オーバーとか50歳とかだったら、ワタスと同じで既に崖っぷちは通り越して、世間の常識では「もう崖から落ちている」と思われるだろう。それにしても、本のタイトルが「崖っぷち女子が男性と結婚する方法」ではなく、「年収1000万円超の」が入っているところが笑いを誘いますNE。例え崖っぷち年齢でも、もしお金持ちの男性と結婚できれば、ハイレベルな生活が保証されバラ色の未来が開けるといった、ある種ステレオタイプの見方が見えて可笑しい。お金持ちだって、事業をしている場合には表向きの資産は10億でも負債が12億あって実資産はマイナス2億だという人とか、清原クンのようにシャブ漬け人生になる人だっているし、飲んで暴れるような人だって世の中には必ずいるはずなのであるYO。お金持ちと結婚すれば必ず幸せになれるというのは幻想であって、例え、相手がワタスのようなフツーの(=特別に高収入ではない)サラリーマンが相手であっても笑いのツボも何もかもピッタリの相性抜群で「世界一幸せな人生」が送れる可能性だって大いにあるのだ。
えええええっーー、「そんなこと思うのはポルシェさん、アンタだけ、お金がなけりゃあホントに幸せな結婚は無理無理、キホン無理なのYO」だって??
確かに必ずしもお金持ちでもなくても良縁さえあれば幸せな結婚は出来るはずと思うワタスの方が世間常識的にはジョン・レノンばりの夢想家なのかもしれませんNE。



このブログの固定読者とアクセス数が自分でも驚くほど多くなっていることから、所謂アフィリエイト広告を貼って不労所得を得ようという考えが頭をよぎることあります。例えば、空冷ポルシェをメインとして扱うショップの広告を貼って、このブログがきっかけでクルマが売れた場合には1台1万円の報酬が入るとか、あるいは、自動車カタログの専門店やミニカーショップやアンティークトイショップといったこのブログの内容と関連のある業種の広告を沢山貼ってこのブログからのお客様が買い物をされた場合に税込価格の3%(=1万円の買い物で300円)が貰えるといった形のシステムです。数年後には定年退職となり現在のフツーのサラリーマンのままでは手取り10数万の初任給まで給料が下げられてしまう訳で、自己所有のアパートやマンションがあり家賃収入(不労所得)が月に500万あるといった恵まれた環境にある訳でもないため、何れにしても事業をイチから始めるか何かしら集金可能な安定した副業がないと現在の生活が立ち行かなくなることは目に見えています。ところが、調べてみるとアメブロでは楽天とアマゾン以外のアフィリエイトが基本認められておらず、例え報酬が発生したとしても、それがバレるとブログ自体をアメブロ運営会社である株式会社サイバーエージェントにより削除される可能性が高いことが判りました(汗)。どうしてもアフィリエイトで稼ぎたいならばアメブロ以外のブログサービスに移行するしか手がないようです。


閑話休題
実は先日、このブログのマニアック過ぎる本文よりも前段部分の方がワタスの人柄が垣間見えて面白いと言われる方がいてみえたので、また前段がつい長目になってしまいましたが、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第320回記事として久々にアメリカ車、戦後1950年代初めのキャデラックをピックアップします。
 




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★アメリカを代表する高級車キャデラック(CADILLAC)の1号車は1902年(明治35年)10月に完成しているので、その歴史は2016年10月で丸114年となる。
日本におけるキャデラックは、梁瀬商会(現ヤナセ:当初は三井物産の一部門)が大正期、1910年代半ばにビュイック等と共に完成車輸入を開始したことに始まる。しかし、戦前の日本におけるキャデラックの輸入台数は少数に留まり、CG誌初代編集長の小林彰太郎氏(1929年-2013年)によれば都内でさえ路上で見かけることは稀で日本での高級車としての知名度は宮内庁や華族等への納入が多かったパッカードの方が高かったようである。
ところが、第二次世界大戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のダグラス・マッカーサー
(Douglas MacArthur;1880年1月26日-1964年4月5日)が専用車として、戦前最終の1942年型キャデラック・フリートウッド75リムジンを使用する姿がマスコミを通じて広く情報が流れたことから日本人に一躍キャデラックの車名が知られるところとなり、梁瀬による輸入の再開と在留米軍属が持ち込んだキャデラックの国内市場への流失もあり、日本の(特に東京の)路上で戦前以上に見かけるクルマとなっていった。
こうしてキャデラックの車名は日本人にアメリカの富の象徴的なアイコンとして認知されるところなったが、それが決定的となったのは、梁瀬による1950年型の御料車としての納入というニュースであっただろう。力道山の1958年式キャデラック・エルドラドの愛用(後にプロレス界では力道山に続き馬場や猪木もキャデラックを愛用した)や、1966年のビートルズ来日時に少々古いキャデラックがメンバーの移動に使用されたといったキャデラックに纏わるトピックも有名であり、それらが相乗効果を得て、戦後の日本では極めてメジャーな(=その名を知らぬ人はいない)高級車の銘柄となった。

★キャデラックは同じアメリカの高級車リンカーンやパッカードと並び歴代の大統領専用車にも採用されてきたアメリカを代表する高級車である。
1919年(大正8年)、第一次世界大戦の戦勝パレードの際に当時のウィルソン大統領(Thomas Woodrow Wilson・1856年12月28日-1924年2月3日)がキャデラックに乗ったのが大統領とキャデラックの結びつきの最初と言われ、その後、1928年(昭和3年)にキャデラックが大統領専用リムジンとして正式採用され、今日のオバマ大統領(Barack Hussein Obama II・1961年8月4日-)に至るまでキャデラックが大統領専用車として連綿と採用され続けている。大統領専用車と言うと1963年(昭和38年)11月22日のジョン.F.ケネディ大統領暗殺時の1961年リンカーン・コンチネンタルも非常に有名だが、歴代専用車としてはリンカーンよりもキャデラックの採用例の方が多い。

★自動車史的に見たキャデラックは、セルモーター、シンクロ付き変速機、前輪独立サスペンション、パワーステアリング、エアコンといった今日の自動車では当たり前となった装備を世界で初めて採用したことで高く評価されている。エンジンも先進的であり、V8やV16エンジンの量産車への搭載はキャデラックが世界初であった。
今回ご紹介する1950年代前半のキャデラックはマッカーサーが愛用した戦前最終の1942年型(生産は1942年2月で終了)より10年時計の針を進めた時代のもので、美しい曲線で構成されたグラマラスでバランスの取れたボディと現在でも通用するレベルの各種装備を充実させたこと、キャデラック生誕50周年の1952年型では豪華なコンバーチブルボディのコンセプトカーが「1952 Cadillac's Golden Anniversary」の名で登場し、1952年秋からエルドラドの名で532台が生産されたことなどが特徴である。

★自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924年-2000年)は、著作の中でこの時代のキャデラックについて次のように記している。
戦前のキャデラックは戦前の東京では丸の内で1台か2台見られるだけであったが、1950年代に入ると駐留アメリカ人及び第3国人の持ち込んだ新車が大量に路上に現れて昔を知る者を驚かせたのだが、デトロイトの情報では年産10万台を突破した異例の高級車=アメリカ的にはハイクラスの実用ファミリーカーへと成長していた。~中略~ 何れにしても戦後型乗用車の中では文句なしの傑作と言うべき出来栄えのクルマで、GMのデザイン部門を仕切っていたハーリイ・アールとビル・ミッチェルの才能がマッチしたデザイン黄金時代の代表作である。


【主要スペック】 1952年 キャデラック 62クーペ・ド・ヴィル (1952 Cadillac 62Coupe de Ville Hydra-Matic)
全長5601mm(220.5in)・全幅2035 mm(80.1in)・全高1600mm(62.7in)・ホイールベース3200 mm(126in)・車重1883 kg(4151lbs)・FR・V型8気筒5425cc(331.1cui)・最高出力192ps・最大トルク44.5kg-m(437Nm)・変速機4速コラムAT・乗車定員6名・燃費4.8 km/ℓ・ゼロヨン19.8秒・最高速度166km/h(103mph)・米国内販売価格:$3540~



●1950年キャデラック75リムジン「御料車」
ヤナセ創業者の梁瀬長太郎氏(1879年12月15日-1956年6月11日)が終戦後、昭和天皇が全国巡幸中に激しい雨の中で御料車に雨が漏って陛下の洋服がずぶぬれになっている写真を目にし、GHQの自動車輸入担当官に「天皇陛下が車の中でずぶぬれになられている姿を日本国民に示すより、アメリカの車にお乗りになっている姿を見せる方が日本国民に良い影響を与えるはずです」と言って説得し、外貨割当を特別に取得することに成功しシルバーグレイの1950年式シリーズ75リムジンを御料車として宮内庁に納入した。この御料車の写真は意外に少なく、これは自動車文化史研究の第一人者であった弱冠28歳の五十嵐平達氏が中心となり1952年に出版された玉川こども百科「自動車」に掲載された1枚。この本の写真は五十嵐氏以外に内山 勇氏、松林清風氏、鯉沼 正氏の計4名と奥付にあり、個々の写真には撮影者のクレジットがない為、この皇居前の写真の撮影者は不明。
御料車(1)

これは五十嵐平達氏が1959年3月に宮内庁ガレージを訪れた際に撮影された皇6号車で正面には菊の紋章が確認出来る。
御料車(2)



●絵本に描かれた1952年キャデラック
ひかりのくに絵本「電車と自動車」の表紙。ひかりのくに昭和出版発行。絵:木村定男 画伯。1950年代前半の日本の乗物絵本では表紙にキャデラックよりもビュイックが描かれた例が圧倒的に多く、キャデラックが表紙のこの絵本は貴重な存在。背景には同時代の緑色のナッシュ、高架線には3つ扉の70系スカ電が描かれている。この絵本は内容も秀逸なため、何れ「乗物絵本棚から」シリーズで詳しくご紹介することとしたい。
絵本



●1951年キャデラック 簡易カタログ (縦28×横28cm・英文6つ折12面)
1950年12月発行。この年のキャデラックはV8・5425cc160psを積み、ラインナップは75インペリアル・リムジン(WB3733mm)、60スペシャル(WB3302mm)、62セダン(WB3200㎜)、62クーペ・ド・ヴィル (同上)、62クーペ(同上)、62コンバーチブル(同上)、61セダン(WB3098㎜)、61クーペ(同上)の8種であった。
今回のカタログは何れも、1990年代半ばに国産車カタログコレクターのバイブル的な書籍である「自動車カタログ・ガイドブック」(全5巻:現在絶版)を編集・発行した神戸の草村泰仁氏(1956-2015)より譲り受けたものだが、1950年代のキャデラックの厚口本カタログの入手はなかなか難しく、これらは全て1枚の紙を折り畳んだ形式の簡易カタログである。
51(1)表紙

【中面から】

フロントビュー
51(2)正面

上位グレード「60スペシャル」
51(3)60スペシャル

中級グレード62セダン(上)、62クーペ・ド・ヴィル
51(4)セダン・クーペドビル

62クーペ(上)、62コンバーチブル(下)
51(5)クーペ・コンバチ

ホイールベースの短い下位グレード61クーペ(上)、61セダン(下)
51(6)61クーペ・セダン

御料車ともなったフラッグシップ「75インペリアル・リムジン」
51(7)リムジン

運転席
51(8)運転席

裏面: エンジン及びスペック
51(9)裏スペックエンジン



●1952年キャデラック 簡易カタログ (縦30.7×横29.3cm・英文6つ折12面)
キャデラック生誕50周年の年に当り、表紙には「GOLDEN ANNIVERSARY」の文字。エンジン出力は192psに上がり、ハイドロマチック・オートマやパワステが標準装備された。ラインナップからショートホイールベースの61シリーズが落ち全6種となった。外観上はグリル左右のデザインが変った程度の小変更に留まる。
52(1)表紙50周年

【中面から】

上位グレード「60スペシャル」
52(2)60スペシャル

62クーペ(上)、62コンバーチブル(下)
52(3)クーペ・コンバチ

62クーペ・ド・ヴィル
52(4)クーペドビル

62セダン
52(5)62セダン

75インペリアル・リムジン
52(6)リムジン

リムジン後席
52(7)リムジン後席

運転席
52(8)運転席

リアビュー
52(9)リアビュー

裏面: 52年型の3つのポイント(190psエンジン、ハイドロマチック・オートマ、パワステ)及びスペック
52(10)アピール3点スペック



●1953年キャデラック 簡易カタログ (縦29.5×横29.3cm・英文6つ折12面)
この年もグリル左右にスモールライトが付くなど外観的には小変更に留まったが、エンジン出力はついに200の大台を超えて210psとなった。1953年の日本ではトヨペットセダン28psがトヨペットスーパー48psに大幅にパワーアップして神風タクシーと騒がれたが、同時代のキャデラックは日本人の想像を遥かに超える強大な出力を持っていたのである。
53(1)表紙

【中面から】

2回目の半世紀に突入した自動車界のリーダー
53(2)二番目の半世紀に

フロントビュー
53(3)フロントビュー

リアビュー
53(4)リアビュー

上位グレード「60スペシャル」
53(5)60スペシャル

62セダン
53(6)62セダン

62クーペ
53(7)62クーペ

62クーペ・ド・ヴィル
53(8)クーペドビル

62コンバーチブル
53(9)コンバチ

75インペリアル・リムジン
53(10)リムジン

リムジン後席
53(11)リムジン後席

裏面: スペック他
53(12)スペック他







★オマケ(その1): マルサン商店 1/18スケール 1951年キャデラックが紹介された毎日グラフ1956年1月22日号より

当時は戦後日本のブリキ製金属玩具の黄金時代に当り、ドイツGAMA製のコピーまで出た有名なマルサン製1951年式セダンやアルプスの名作1952年式コンバーチルを始めとして、1950年代前半には夥しい種類のキャデラックの日本製金属玩具が作られることとなった。それらの金属玩具は筆者も以前収集し、そこそこの台数が手許にあったのだが、日本車の金属玩具とのトレード等で全て手放してしまい残念ながら現在は手許に1台も残っていない。その代わりに、これは1956年の毎日グラフに掲載されたマルサン商店をメインとして当時の金属玩具(ブリキ玩具)業界の飛ぶ鳥を落とす勢いの景気の良さと製造工程等を紹介したグラフ記事よりの1枚。日本製(マルサン商店=右)が出てから半年後にこれをそっくり真似たドイツ製(GAMA=左)キャデラックが売り出され、日本製はドイツ製に優るとも劣らぬという証拠として掲載された写真。マルサン製はヘッドライト点灯バージョン。(この毎日グラフは表紙も夥しい数のブリキの自動車の写真で、このマルサン等の生産工程等の記事も非常に興味深いので項を改めてご紹介したい)
マルサン電動ライト




★オマケ(その2): 英DINKY TOYS 131番 1/48スケール 1953年キャデラック・エルドラド
全長12cm。ダイキャスト製。1960年のディンキー正規輸入開始前の製品。JAMC会長の中島 登氏(1930-2008)の名著「世界のミニカー」(保育社カラーブックス)には1955年キャデラックとの記載があるが、フロントグリル左右にスモールの付いた造形から1953年型をモデル化したものと思われる。カラーバリエーションはピンクとイエロー。裏板には、「CADILLAC ELDORADO」の刻印があるが、箱には「CADILLAC TOURER」他、英仏独語の印字がされている。また箱の短辺には初期トミカのような本体カラーを示す丸印も印刷されている。サイズは1/43より小さいアメリカ型Oゲージ鉄道模型と同じ1/48スケール。同時代のエルドラドは伊マーキュリーからもリアルタイムで出ている。このディンキーも2016年現在で既に60年以上の時を経たミニカーながら、日本では殆ど人気=需要がなく、絶版トミカの人気車種(最近ではフェラーリ・テスタロッサやハイエース牧場トラックなど)よりも遥かに市場価値は低いようです。箱付ミント未使用品とチップ多少ありの2台が手元にあり、チップありは手放そうと思い買取価格を訊いたところ、「こんな傷あり箱なしのディンキーは誰も買わないから頑張っても1500円」と言われて、トミカリミテッドヴィンテージ1台より安い値段で手放すのはどうにも勿体なく可哀想に思えてしまい、そのまま手元にある。

●ヤフオクに出せばある程度の値段となる可能性もあるが、私はヤフオクの評価では「非常に良い」ばかりが4ケタあるにも係わらず、何故か「無期限出品停止処分」(但し、買うのは無制限に可)とされているので山のようにある不要となったミニカーやカタログも自分ではヤフオクに出品することが全く出来ない。ログインしてヤフオクの画面を開くたびに「出品禁止」と表示が出るのにも、何か犯罪者の烙印を押されたような暗い気分にもなり悲しくて涙が出そうになることがある。ヤフージャパンに出品停止処分となった理由を何度真剣に訊ねても、「理由は開示出来ません」という回答以外は一切貰えず本当に困っている。しかし、世の中にはヤフオクの出品代行をしている業者もあり、その場合には、良心的なところに依頼すれば3~4割程度のマージンで売って貰えるという情報もあります(それでも自分で手間暇かけて売れば、もし1000万になるところが手取り600~700万に落ちますNE)。最近、猛烈な量のミニカーや模型等をヤフオクに出品している「トイズキ○グ」とか「うさ○の森」とかの買取りに出すと不人気商品は下手をすれば流通価格の1割まで買取値は落ちるとの話もあり、買取りというのは基本ホントに安いようです。買取りと言えば、ノレブやイクソの書店売り「国産名車」の第1号~204号までの未開封品が手元に山積みになったまま放置してあり、買取値を訊いてみたら、何と、「プリンスホーミーだとか車種によっては多少は買えるモノもありますが、基本置いておいてもなかなか売れない上に場所を取るのでタダでも買取りは出来ません」旨を言われて、そうなると、本当に喜んで貰ってくれる人にタダでプレゼントするか、あるいは、副業として自分でミニカーやカタログをメイン商品とするネットショップをOPENする以外には手がないということになりますNE。
ディンキー(1)

ディンキー(2)

ディンキー(3)

裏板にはELDORADOの刻印
ディンキー(4)エルドラド裏板


ねー、あなたぁ!このピンクのキャディ、ウチに2台もあるんだから1台は売っちゃいましょうよ!
いや、実はこの前、査定してもらったんだけどね、たったの1500円にしかならないって言われたから、それじゃあんまり勿体ないからもう暫くは売らずに2台乗ることにしよう。
ディンキー(5)カップル会話




★オマケ(その3): 1951年キャデラック 当時物動画
驚愕の縦列駐車からの脱出方法。これはさすがのキャデラックでも純正オプションではなく、当時の技術者が撮影用につくった装置らしい。

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