★2015年の第44回東京モーターショーのいすゞブースではショー開催に合わせ10月28日付で21年ぶりにフルモデルチェンジした大型トラック「ギガ」(GIGA)と2015年8月18日に15年ぶりにフルモデルチェンジした大型路線バス「エルガ」(ERGA)という2つのトピックがあり、それに加え、いすゞ自身によってレストアされた戦後間もない時期のTX80型トラックの展示が目を引いた。
今回は新型「ギガ」を中心に日産NV200タクシーやモーターショーで販売されたミニチュアカーなども併せてご紹介することとしたい。
★2015年(平成27年)10月28日(水)、いすゞ自動車株式会社(本社:東京都品川区、社長:片山 正則、以下「いすゞ」)は、大型トラック「ギガ」シリーズで主力の単車系(6UZ1型エンジン搭載車)を1994年(平成6年)以来21年ぶりにフルモデルチェンジし全国で発売した。 (以下、プレスリリース要約・抜粋)
新型「ギガ」は、労働力不足や運行コストの低減などの課題、環境や安全に対するニーズの高まりを受け、車両単独性能の追求から「運ぶ」システムへと進化し、様々なシーンで車両を使用する業務をサポートしていくことを目標に開発された。業界のニーズと次世代トラックのあるべき姿を見据え、1)快適な運転環境の実現、2)省燃費の追求、3)トータルセーフティの追求、4)高積載の確保、5)情報通信による遠隔サポートといった5つの視点から性能を磨き上げた。
主な改良点は以下の通り。
【エクステリア】
•新空力骨格キャブにより、空気抵抗を低減させると同時に、昇降ステップやグリップ等を効率よく、かつ美しくレイアウトするなど、使い勝手と経済性能を両立した。
•機能美を追求したフロントフェイスで、大型フロントグリルおよび大型インタークーラーにより冷却性能が向上した。
【インテリア】
•運転操作性の向上として、セミラウンドインパネを採用した。スイッチ類をメーター・インパネ周りに集約し、また使用頻度に合わせてゾーン分けし機能的に配置することで、運転時の操作性や識別性が向上し、より効率的な操作が可能となった。また、ステアリングスイッチと4インチ液晶モニターのマルチインフォメーションディスプレイを採用することにより、安全で負担のない操作を可能とした。
•シートのホールド感や調整機能、通気性などを改善し、より快適な室内空間となった。
【エンジン】
•6UZ1エンジン本体を改良。ターボチャージャーの仕様変更、インタークーラーとラジエーターの大型化、EGRクーラーの高効率化、サプライポンプの変更、新インジェクターの採用、超高圧コモンレールの採用により低・中回転域のトルクアップを図り燃費も向上。
•通常の運転操作でエンジンの自動停止と再始動が可能な「ecostop」(エコストップ)をカーゴ系およびダンプ系に標準装備し、アイドリング時の燃料消費削減を実現。(一部車型を除く)
【トランスミッション】
•進化した自動式変速トランスミッション「Smoother-Gx」により、スムーサーのシフトショックを低減し、より滑らかな発進を実現。また、エンジンリターダを採用することで補助ブレーキの制動力も向上。
•6UZ1-TCSエンジン、スムーサーGx12段の車両に「Smartグライド」を設定。下り坂などで一定走行中、アクセルを軽く踏んでいる際に自動でクラッチを切り、車両の走行慣性を有効活用した省燃費運転を実現。
【トータルセーフティの追求】
•プリクラッシュブレーキでは、従来の衝突被害軽減ブレーキ機能に加え、移動障害物に対する衝突回避支援機能を追加。障害物を検知する手段をミリ波レーダーによる単独検知から、ミリ波レーダーとカメラを併用する二重検知にすることで、前方の検知精度が大幅に向上。
•車線逸脱警報(LDWS)の採用により、カメラが走行車線を認識し、車両が走行車線から逸脱するとシステムが判断した場合、警報音と4インチ液晶モニターの画面表示で警告。
【高積載の確保】
•フルモデルチェンジによる重量増を最低限に抑制。
【情報通信による遠隔サポート】
•データ通信とインターネットを融合し車両データを遠隔で解析する仕組み「MIMAMORI」(見守り)を標準搭載した。コンプライアンス遵守、エコドライブ指導等に有益な様々なサービスを提供するだけではなく、従来は判らなかった車両コンディションが、インターネットを介して、ドライバーサイドが容易に確認することが可能となった。
•「MIMAMORI」で事前に入手した車両データを活用した高度純正整備「PREISM」により、正規ディーラーでの高品質な整備により車両の安定稼働確保を強力にバックアップ。
<目標販売台数>
8,000台/年間
【主要スペック】2015年いすゞギガGカーゴ (2015 Isuzu GIGA G-Cargo) 車両型式: CYJ77BWX-D23A
全長11950㎜・全幅2495㎜・全高3790㎜・車両重量10920kg(車両総重量24930kg)・最大積載量13900kg・8×4(後軸4輪駆動)・6UZ1-TCS型9839ccエンジン・最高出力380ps/1800rpm・最大トルク185kg・m/1000~1200rpm・最大積載量13900kg・乗車定員2名・変速機:スムーサーGX12速AT・リヤ4バッグエアサスペンション・重量車モード燃費4.25km/L・燃料タンク容量300L・タイヤサイズ:245/70R19.5-136/134J・架装メーカー:日本フルハーフ・東京地区希望小売価格2341万6560円
●2015東京モーターショーの新型いすゞギガ
エンジン搭載位置の関係もあってか現代のトラックの顔は一見どれも似ている。どこか怒ったような顔に見えるが力強さを感じさせるデザインである。
●2015年 新型いすゞギガ 広報写真
新型ギガについては、「MIMAMORI」(見守り)と呼ばれるインターネットを介したシステムで車両コンディション等の情報の把握が可能になったことが、実用上では旧型との大きな差異といえる。
シャシー
運転席
●2015東京モーターショーの1948年いすゞTX80型5トン積みトラック
1985年(昭和60年)まで北海道・帯広にて37年間現役で稼動した後、いすゞに里帰りした車両。自動車歴史研究の第一人者五十嵐平達氏の愛弟子・和田由貴夫氏に伺ったところでは1985年に里帰りした折に五十嵐氏と誌乗した記事が当時のモータービークル誌上に掲載されているとの由。実車カタログについては、本シリーズ第265回記事参照。
七宝焼きの「いすゞ」のエンブレムはレプリカ
テールライトはライセンスランプを兼ねたものが右下に1個のみ。テールライトのオリジナルは丸型と思われるが、リフレクターを組み込んだ時代の新しいパーツが付けられている。
●2015東京モーターショー いすゞTX80型5トン積みトラック 広報写真
腕木式ウインカー
エンジン
運転席内は木製、ルーフにのみ鉄板が張られた構造。
★2015年 第44回東京モーターショー いすゞ自動車プレス用総合カタログと一般配布用総合カタログ
発売されたばかりの新型ギガの本カタログは残念ながら未入手のため、これはモーターショーで配布された新型ギガが掲載された総合カタログ(パンフレット)。同じデザインでA4判の大きい方がプレス用、小さな方(21×21cm)が一般配布用カタログ。何れもレストアされたTX80について頁を割いており、一般配布用には「いすゞ史に残る大型トラックの系譜」と題する略史も掲載されている。
【中頁から】
新型ギガ掲載箇所(プレス用)
ディテール、スペック
エンジン
1948年TX80
いすゞ大型トラックの変遷(一般配布カタログより)
★2014年9月 いすゞGIGA 消防車 専用カタログ (A4判・2つ折4面)
新型GIGAのカタログの代わりに旧型GIGAのカタログを一つ。戦後、TXの時代から連綿と発行されてきた、いすゞ大型消防車専用カタログの最新版だがこれも新型に切り替わるだろう。
★2015年6月 日産NV200タクシー/NV200タクシーユニバーサルデザイン 専用カタログ (縦25×横25cm・16頁)
2014年で生産を終えたセドリックタクシーの後任車だが、「タクシーは昔ながらの普通のセダンでないと」という業界およびユーザーの意識の壁が崩れず苦戦しているようだ。しかし、トヨタもクラウンコンフォート/コンフォートの生産を2017年で打ち切るとしているので、そう遠くない将来にセダンの営業車は個人タクシーかハイヤーだけという時代になるかもしれない。
【中頁から】
【2015年10月28日の東京ビッグサイト・タクシーの列】
セドリックとクラウンが殆どのこの見慣れた光景も2020年に東京オリンピックが行われる頃には様相が一変しているかもしれない。
【2015東京モーターショー 日産車体 一般配布カタログとプレスキット】
日産車体のプレス用オマケは前回2013年のモーターショーと同じガンメタのトミカ1/69スケールNV350。ランチの会場で顔を合わせた、私がミニカー好きであることを知っているプレスの知人から戴いたものを含めて今回だけで3台。しかし、このミニカー、元々タダで戴いたものをヤフオクで3000~6000円程度で転売しているプレス入場の人が大勢いるのは嘆かわしい。
★日刊自動車新聞社 創刊85周年展示
1929年(昭和4年)2月21日創刊の日刊自動車新聞は2014年に創刊85周年を迎えた。日刊自動車新聞社は東京モーターショーの前身である国産自動車展示イベントを1932年(昭和7年)より主催し、戦後1954年(昭和29年)に自動車工業団体にイベントの開催権を譲り第1回モーターショーが開催されて現在に至っている。
この85周年展示ポスターの中で目を引いたのは創業時の社屋前に並ぶ小さな1つ目の自動車達。調べてみると1920年代のドイツ車ハノマーク2 10Ps(Hanomag: 軍用車でも有名)のようだ。都内等の取材で走り回ったのだろうか。ハノマークの輸入元や日本語版カタログが当時発行されたかどうかは不明。
★2015東京モーターショーで販売されたミニカー
・三菱ふそう・・・1/43スケール1932年B46型バスの5400円は格安。
・日野・・・セレガ24800円ほか。
・いすゞ新型ギガ・・・実車デビューと同時のリリース
・マツダ
・トヨタS-FR・・・京商制作レジン製、限定500台(税込1万円)。
・ニッサンGT-R(R35)
トミカプレミアム2種・・・1台1080円ながら長蛇の列に並ぶ気合いがないと入手不可能。
限定トミカ12種
★自動車ガイドブック 第62巻 2015~2016
税込定価1200円。424頁+α。今年の東京モーターショーは、いすゞ以外にも過去を振り返る印刷物が多くみられ、1954年の第1回ショーから数えて2014年に60年を超えたことから、日本自動車工業会発行の自動車ガイドブックVol.62では総頁数424頁+の1/3に近い130頁程が「東京モーターショーと日本の60年」と題する歴史記事となっているほか、1935年の日本デイゼル工業創立から数えて80周年となるUDトラックスの一般配布用モーターショーカタログでも6TW等の古い車両写真と共にその歴史を掲載しており大変興味深い。特にこの自動車ガイドブックは東京モーターショーの過去全てのショーの鮮明な写真やトピックと共に入場者数、会場面積、入場料、ポスターの写真及び作者(第1回および第2回は作者記載なし=作者不詳?)、過去全ての自動車ガイドブックの表紙や販売価格といったデータも掲載されており日本車の歴史に多少でも関心のある向きには必携の書と言える。国産の消防車や救急車を含む4輪・2輪がほぼ網羅され各販売会社の名簿も付いた自動車ガイドブックはモーターショー会場だけでなく全国の書店でも売られ伝統的に通常の書籍と比べ格安で販売されてきたが、過去60年の歴史資料が満載の最新号の税込1200円はこれまで以上に破格のバーゲンプライスといえる。
第62巻に掲載された1954年4月、日比谷公園での第1回ショーのオオタPHの鮮明なカラー。60年以上前の第1回から車両の展示にはコンパニオンが花を添えていたことが判る。2015年現在で61年の時を経ているので仮にオオタの横のコンパニオンの女性が当時20歳としても現在は80代となられているだろう。
★オマケ(その1): 2015東京モーターショーの美女 パートⅡ
あくまで個人的な視点からのピックアップです。
川島なお美似?
パートⅠにも登場の美女
★オマケ(その2): いすゞ自動車特注 1/43スケール 2015年いすゞ新型GIGA
全長28cm。ダイキャスト製。会場価格9800円。500台限定のトヨタS-FRよりこちらの方が遥かにそそられて1台購入。箱に「TOKYO MOTOR SHOW 2015」と印字されているのもポイントが高い。
半世紀の時を経た1965年ベレット1600GTとのツーショット
いすゞミニカー色々・・・ギガと一緒に写っているのはエブロ1965年いすゞベレットGT、エムテックいすゞエルフ佐川急便(旧塗装)、中央道のPA売店で最近購入した中国製エルフWキャブ高所作業車(左ハンドル)。
★オマケ(その3): 書籍「ニッサン セドリック/グロリア」
モーターショー会場で購入した書籍1冊目。2015年12月26日三樹書房発行。定価4500円(税抜)。初版限定1000部全国配本。著者は三樹書房よりメーカー別にヒストリーを追った著作を精力的に世に出している元富士精密(プリンス)~日産自動車所属で自動車史料保存委員会の当摩節夫氏(1937~)。グロリアについては双子車となった230以降のみを掲載。編集作業中にセドリックが生産中止となり奇しくもセドリック54年の生涯を纏め上げた形の書籍となった(今後、セドリックの車名が復活する可能性もゼロではないが)。214頁もの労作で本の厚さは2cm位ありズッシリと重い。簡易カタログまでの全ては網羅されていないにしても珍しい輸出用カタログや営業車カタログも掲載されている上、カタログの顔とも言える表紙写真の掲載を原則としているため、セドグロ・ファンは勿論、自動車カタログ収集家のための資料ともなり得る1冊。
★オマケ(その4): 書籍「キューバの自動車図鑑」
モーターショー会場で購入した書籍2冊目。2015年9月25日ぽると出版発行。定価1700円(税抜)。著者はバス研究の国内第一人者として著名な和田由貴夫氏。戦前から1950年代あたりのアメリカ車が文字通りウジャウジャ実働している現代のキューバで写した自動車達の驚愕の写真集。特に1950年代のアメリカ車に興味がある向きは必見。代替車がないという事情から古いクルマが知恵と創意工夫によって実用として使われ続けているためメーカーオリジナルを保っている車両は少ないが、今後アメリカとの国交回復と共に年式の新しいクルマが大量に流入し、この本に出ているような古いクルマ達が絶滅してしまう前にキューバに行きたい衝動に駆られる人も多いはず。
この本の冒頭には自動車歴史研究の第一人者であった五十嵐平達氏の愛弟子である和田氏が五十嵐氏との縁が生れた経緯も記されており、1924年生まれの五十嵐氏と1953年生まれの和田氏という親子程も歳の離れた子弟関係は少々不思議だっただけに非常に興味深い。けっして和田氏は著述のメインとしてきたバスだけが好きな訳ではなく、五十嵐氏と同様に自動車全般に深い愛着/愛情をもっておられることがよく判る1冊でもある。
★2015年いすゞギガ 21年ぶりのフルチェンジ 東京モーターショー~自動車カタログ棚から292
★1952年 ニッサン380型トラック 最初の戦後型日産大型車~ 自動車カタログ棚から 293
★気づけばもう11月。あっという間に1年が終わりますね。今年はまだこれからライブもあり、仕事も含めて年末までは忙しくなりそうです・・・。
★そう言えば、アメーバでペタがなくなるのも秒読みになりました。
私がアメーバブログを始めた頃、大勢の人からペタを貰えたら嬉しいだろうなあと思っていたのが、いつしかペタがペタを呼び(?)、2年目位には1日300人の恐竜キャラにまで増えてしまって収拾がつかなくなり(あまりにペタ返しが大変になり)、現在はパグキャラの1日15名様限定でお受けしている状況です。今後は「いいね」がペタに替わるとのことですが、あまり記事を更新しない人にはご挨拶が出来なくなってしまいますね。私も確かそうでしたが、ペタがきっかけでブロ友さんが出来た人は多いことと思います。しかし、今後も残る「いいね」や「コメント」は「ペタ」同様に他人から受け入れない設定にも出来ます。現在、「いいね」と「コメント」を拒否にして「ペタ」のみ受入れる設定にしている人には「ペタ」がなくなると記事を読んだことを知らせる術がなくなってしまいます・・・。
・・・・・と書いたのですが、どうもペタ廃止には反対意見が多かったようで何と継続されるようです。ペタ大好きで継続には手放しで喜んでいる人がいる一方で廃止予定日直前の急な廃止取りやめ発表だったため既に廃止モードになっていた人は戸惑っているかもしれませんね。私もちょっと戸惑っています。これまで通り、私は1日15名様まで限定(ペタ帳に残す15名は私が選択、それ以外は心を鬼にして全て削除)でペタをお受けするつもりです。
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★日産自動車の製品の型式番号には、ある法則がある。例えば小型乗用車ならダットサン110、210、ブルーバード310、410、510というように10の位が「1」、小型トラックなら120、220、320、520、620というように10の位が「2」、中型乗用車セドリックなら30、130、230、330、430というように10の位が「3」、そして、100の位はゼロから始まり世代交代する毎に数字が増える。末尾1の位はマイナーチェンジを示し、例えば初代ブルーバードであれば310、311、312というようにMCに伴い数字が増える。
日産の大型トラックは10の位が「8」で戦前の80型から始まり、180型、380型、480型、580型、680型、780型とモデルチェンジに合わせて型式が変更された。
トヨタが日野との業務提携により1970年代に大型トラックの生産から撤退したように、日産も日産ディーゼル(現UDトラックス)との業務提携により1976年(昭和51年)の780型を最後に大型トラックの生産からは撤退した。日産の大型トラックは戦前1937年(昭和12年)の80型から始まり、1976年(昭和51年)に780型が生産中止となるまで約40年に亘り生産されたが、2015年現在、日産が大型トラックの生産を終えてから既に40年近くとなり、生産中止後、既に生産していた期間と同じだけの時が流れたことになる。
【ニッサン大型トラック 車両型式の主な変遷】
・1937年(昭和12年)6月 80型
・1941年(昭和16年)2月 180型
・1952年(昭和27年)1月 380型
・1953年(昭和28年)5月 480型
・1955年(昭和30年)12月 580型
・1959年(昭和34年)3月 680型
・1969年(昭和44年)12月 780型
・1976年(昭和51年) 生産中止
★このニッサン大型トラックの車両型式の変遷の中で280型が飛んでいるのは、型式の10の位が「9」でほぼ同様の変遷を辿った大型バスでは1949年(昭和24年)2月に290型バスがデビューしたものの、280型に該当するトラックは未発売に終わったため。このうち、380型~580型については上記の型式付番の法則によらない同型モデルのマイナーチェンジであり、更に改良に伴い1の位が580、581、582と進化した。今回の「自動車カタログ棚から」では1952年にデビューした380型~580型までの世代のニッサン大型トラックをご紹介することとしたい。
★ニッサン380型トラックは、1952年(昭和27年)1月にデビューした日産初の本格的な戦後型車両。
日産の小型車ダットサンにおいては、380型トラックのデビューから丸3年を経た1955年(昭和30年)1月に110型乗用車及び120型トラックがデビューするまでは戦前型シャシーに間に合わせ的なボディを乗せた過渡期的な車両が販売されていた。トラックにおいては、戦前1941年(昭和16年)にデビューした180型が戦中戦後にかけて既に10年造られ続けていた。戦前の基本設計のまま改良を重ねながら造られていたのは乗用車も事情は同じであったが、日産としては当時まだ需要の少なかった乗用車でなくトラックのフルモデルチェンジを優先したということだろう。380型デビュー当時の印刷物には浅原源七社長(1891年9月1日-1970年8月23日)が頻回に登場し、正に社運を賭けたモデルチェンジであったことが判る。
★戦前1941年デビューの180型トラックと1952年デビューの380型トラックの数値を比べるとホイールベース4000㎜、6気筒3670cc85psエンジン、最大積載量4000kgは同じながら、エンジン搭載位置が300㎜、運転席が250㎜前方に移動し、全長は6473㎜から6858㎜に385㎜伸び、ユーザーにとって重要な値である荷台長は3728㎜から4090mmに362mm伸びている。
外観的には独立していたヘッドライトがフェンダー埋め込みとなり、量感のあるフェンダーと柔らかな曲線で纏められたデザインは戦時中の空白を埋めるが如く一気に近代化した。380型デビューの前年1951年(昭和26年)8月デビューのトヨタの大型トラックBXより若干線が細いながらもスマートさではトヨタに勝るデザインであった。
【主要スペック】 1952年 ニッサン380型トラック (1952 Nissan Truck Type380)
全長6858㎜・全幅2180㎜・全高2160㎜・ホイールベース4000㎜・FR・4サイクル水冷直列6気筒3670ccガソリンエンジン・圧縮比6.4:1・最高出力85ps/3600rpm・最大トルク24kgm/1600rpm・変速機4速MT・電装系6V・最大積載量4000kg・乗車定員3名・最小回転半径7800㎜・燃費5km/L・最高速度75km/h
●1952年 ニッサン380型 トラック 実働写真 (B5判)
三栄書房モーターファン臨時増刊「自動車ダイジェスト1952年版」表紙。札幌を示す「札」ナンバーは1951年7月1日に北海道ナンバーが細分化された際に導入されたもので、それ以前の北海道では全ての地域が北海道を示す「北」ナンバーであった。材木の積み下ろし作業も人力で行っていた時代であることが判る。
●1952年 ニッサン S-380型 ライトバス
三栄書房モーターファン臨時増刊「自動車ダイジェスト1952年版」より。通常の380型のホイールベース4000㎜を3200㎜に縮めた珍車。救急車等の架装もこのショートホイールベースS-380型を使用したようだ。フロントに「NWR CREW TRANSPORTATION」の表示があり、当時、日航から業務委託されていたノースウエストの乗員輸送車らしい。
●1952年1月 ニッサン380型トラック グラフ特集 (B4判・8頁)
同じ判型で出されていたニッサングラフの号外?表紙に浅原社長の写真が入り、日産としても力を入れていたことが判る。飯島 博設計部長、高橋 宏機械設計課長、小林一雄シャシー設計課長、瀬出井正夫事務課長兼設計部次長等と共に、後にダットサン112のデザインで毎日工業デザイン賞を受賞しトヨタスポーツ800プロトタイプのデザインも手掛けた佐藤章蔵氏が車両設計課長として写真入りで掲載されている。イラスト中心のカタログよりも全体に判りやすい構成。
【中頁から】
3670cc85psエンジン
180型と380型の新旧比較
シャシー
ボディー
室内
運転席
開閉式となったリアウインド
後にダットサン110のデザインで有名になった車体設計課長 佐藤章蔵氏
図面・スペック
●1952年1月 ニッサン380型トラック 簡易カタログ (縦17.2×横25.2cm・3つ折6面)
●1952年1月 ニッサン380型トラック 簡易カタログ? (縦18.3×横26cm・4つ折8面)
3つ折、4つ折程度がこの時代の日産以外も含めた日本車カタログのスタンダードだったため、一般に配布していたのはこのカタログあたりだったのかもしれない。
●1952年1月 ニッサン380型トラック 本カタログ (縦18.4×横26.1cm・24頁)
80型~380型の並んだイラストに浅原社長の写真と挨拶文で始まる、当時としては異様に分厚いカタログ。380型の発売前年1951年の夏、自動車史研究の第一人者であり自動車デザイナーでもあった五十嵐平達氏が弱冠27歳の時、日産の宣伝・広報課長だった片山 豊氏から依頼されてデザインし、380型の発売に間に合うよう横浜のクラタボデーで製作された宣伝車もイラストで掲載されている。
【中頁から】
浅原社長と歴代ニッサントラック
五十嵐平達氏デザインの380宣伝車(M390バスシャシー)・・・・・カム教授の流体力学の自動車への応用に五十嵐氏が挑戦した意欲作で同時代のサーブ92やポルシェ356同様に今日の目で見ても美しい。
五十嵐デザイン380宣伝車 実車写真
●1953年2月 ニッサン480型トラック 本カタログ (縦18.4×横25.7cm・20頁)
フロントグリル変更・エンジン出力を85psから95psにアップ・最大積載量を4屯から4.5屯にアップ。これも当時としては分厚い気合いの入ったカタログ。
●1954年 ニッサン480型トラック 簡易カタログ? (A4判・2つ折4面)
つるつるのコーティング紙が使用されたカタログ。スペック頁には新三菱KE-5型85psディーゼルエンジン搭載のM480型も掲載されている。
●1954年 ニッサン480型トラック 本カタログ? (A4判・3つ折6面)
落ち着いたアート紙が使用されたカタログ。このカタログにもM480型ディーゼル車のスペック掲載あり。
●1955年1月 ニッサン482型トラック 簡易カタログ? (縦25×横24.5cm・2つ折4面)
同年同月デビューのダットサン110型乗用車、120型トラックのカタログと同じ判型のカタログ。3960cc105psのニッサンNC型ガソリンエンジン搭載の482型と5812cc95psの新三菱KE-21型ディーゼルエンジン搭載のM482型の2種掲載。最大積載量は5屯にアップ。外観ではボンネット先端の「NISSAN」文字のバッチが大きくなり、その上のオーナメントの意匠も変更された。
【中面から】
●1955年 ニッサン482型トラック 本カタログ? (A4判・4つ折8面)
●1955年9月 ニッサン・ダットサン 特殊車カタログ (縦18.2×横26cm・20頁)
特装車専用の珍しいカタログで実際の架装例が多数掲載されている。この年のニッサン大型車はホイールベース3200㎜のS482型ショート、4000㎜の482型トラックシャシー、4300㎜の492型バスシャシー、4700㎜のA492型バスシャシーと都合4種類のシャシーが用意されていた。
【中頁から】大型特装車の一部をピックアップします。
朝日新聞
バドワイザー
上から三鷹市役所、郵便車、丸石の自転車
銀座・松坂屋
市電架線修理車
神戸市交通局クレーン付き救援車
バヤリース
不二家
森永ドライミルク・バン
東横
殖産住宅 映画班
上から森永ドライミルク・武蔵野市役所バキュームカー・シェル タンクローリー
●1955年12月 ニッサングラフ 580型トラック・トピックス
ニッサングラフの1956年式580型トラック特集号。荷台長4240㎜、全長7008㎜に伸び、クロームメッキのフロントグリルは2分割に戻された。
●1956年7月 ニッサングラフ表紙
岩手県岩泉で稼働中の580型。後続車は2台目が左右のグリルが繋がった482型、3台目はまた580型のようだ。悪路を走破中のエンジン音やギアの唸りが聞こえてきそうなショット。
●1957年 ニッサン580型トラック 本カタログ? (縦20.6×横26.5cm・変則9つ折18面)
5トン積の大きな文字が入った表紙をめくると580の正面が現われる変則折りカタログ。スペック頁に年式1957年と記載があるもののカタログ発行時期を示す印字はなし。
【中面から】
表紙をめくると580正面が現われる。
●1957年7月 ニッサン581型トラック 本カタログ (A4判・8頁)
主にサスペンション等の下回りを強化。2分割のフロントグリルは580と同じ意匠のままクロームメッキから白塗装に替わった。
【中頁から】
白塗装となったグリル
室内
●1958年2月 ニッサン582型トラック 本カタログ (A4判・12頁)
1速以外が漸くシンクロメッシュとなりダブルクラッチの煩わしさから開放された他、下回りが更に強化・改良された。2分割白塗装のフロントグリルには左右のウインカー部を囲む小さな枠が追加された。
●1958年3月 ニッサンM582型ディーゼルトラック 専用カタログ (A4判・8頁)
新三菱KE-25型5812cc110psディーゼルエンジン搭載のディーゼル車専用カタログ。この時期にはディーゼル車がついにガソリン車の出力105psを凌いだ。
●1958年4月 ニッサン582型ガソリントラック 専用カタログ (A4判・6つ折12面)
ディーゼル車のカタログがホチキス留めなのに対してガソリン車は簡素な折カタログ。フルチェンジの680型デビューまで残り1年を切った時期のカタログ。
【中面から】
★オマケ(その1): 1950年代の絵本「働く自動車」表紙に描かれたニッサン582型トラック
ひかりのくに昭和出版刊。当時定価50円。絵:梅本 恂 画伯。よく見るとバックには小さくいすゞBXボンネットバスが描かれています。
★オマケ(その2): 野村トーイ 1/25スケール 1952年ニッサン380型近似 梯子消防車
全長26.5cm、全幅8.5cm。フリクション動力に連動してサイドステップに乗った消防士が赤い旗を振るギミック付。ニッサン480型は当時、日産特注のアンチモニー製シガレットケースが出ていますが残念ながら手元にありませんので代わりに1台。これは日産F-380型消防車の記事でもアップしたモデルなのですが、オマケに立体造形物(ミニカー等)がないのは寂しいということで再度のアップです。国立国会図書館蔵の玩具業界誌「東京玩具商報」によれば1950年代半ばには発売されており、ニッサン380型の実車と発売時期がそう大きくは変わらないことから玩具化に際してニッサン車を参考にした可能性は高いように思えます。ビンテージ玩具市場に出てくるものは輸出用英文箱入りの電動バージョンが多く、この日本語箱入りの手押しフリクション・バージョンはレアです。
(註)ニッサントラックと同じボディを使用したミンセイデイゼル車については本稿では割愛させて戴きました。
【関連の過去記事】
1)ニッサン80型トラック・・・・・第84回記事
2)ニッサン680型トラック・・・・・第258回記事
3)ニッサンボンネットバス・・・・・第96回記事
4)ニッサンF-380型消防車・・・・・第123回記事
★1935年英国フォード10馬力 モデルC 戦前ベビーフォード ~ 自動車カタログ棚から 294
★2015年11月15日(日)は岐阜のエリック・クラプトンことeiichiさんの岐阜ライブですが、残念ながら行けません。しかし何とeiichiさんのライブは夜7時からネットで生配信されるそうです。でもリアルタイムでは見られません。実は何と私も今夜は都内某駅近くのハコで7時過ぎからライブなんです。玄人はだし=プロ真っ青のeiichiさんとは違い私は完全な素人(アマチュア)なのでライブの詳細は内緒ですが、もし出来が良かった時はYoutubeにアップするかもしれません(?)。ハコ代(会場代)が諸々約15万かかるところ、お客様から1人1500円戴き、顔が広いバンドメンバーのお蔭もあって今回はお客様が100人は超えそうだというので幸い赤字ライブにはならないかもしれません。
バンドでは私の担当は鍵盤ではなく実はギター&ボーカルなのですが、特にメインボーカル曲では緊張します。正直に言うと、吐きそうな位に緊張します。ジョン・レノンも1969年のトロント・ライブの前などでは吐きそうな位に緊張したと言われているので、完全素人の私が緊張しない筈がありません。もし緊張しないための、これはという方法を御存知でしたら是非教えてくださいね。
あくまで素人とはいえ、ライブでは一応お客様からお金を戴く立場でもあるので、緊張する一方で実はより良い音楽を創りたいという思いもあります。でも、今から急に歌や演奏をレベルアップさせることは無理なのでジタバタしても始まりませんよね。実力の範囲で自然体で歌い、ギターが弾ければまずはそれで充分なのですが、ステージでその「自然体」になることが意外に私にはハードルが高いのです。イメージトレーニングが上手いと緊張は解けるのでしょうか・・・。実は今は緊張するこの私も高校生位までは数百人を前にライブで演奏していても、先ず緊張することがなかったので、現在は人目を気にし過ぎて自意識過剰になってしまっているような気もします。とりあえず、今日はいつもの呪文、「アイ・ラヴ・ジョンレノン」を呟きながら頑張ります!!
★閑話休題
・・・という訳で今日の夜はブログのアップが出来ないので、朝のうちに「自動車カタログ棚から」シリーズの第294回として戦前の英国フォード10馬力(モデルC)日本語版カタログをサクっとアップします。このシリーズもついに300回が視野に入ってきましたが、日本車でいうと初代カローラ、初代サニー、初代ローレル、初代コロナマークⅡ、スバル1000、ヨタハチ、初代セリカ、初代カリーナ、初代カペラ、ハコスカ、510ブルーバードなど私自身リアルタイムの思い出があり、記事のオマケに載せることが出来るミニカーも沢山存在するメジャーなクルマを実はいまだにピックアップしていません。理由の一つは情報が溢れていて旧車好きなら誰もが知っているようなメジャーなクルマよりも世の中に情報の少ないクルマをピックアップする方がカタログを公開する価値もあると考えているからです。今一つの理由は、いつでも手に入りそうなメジャーな車種のカタログはあまり真剣に集めてこなかった(=あまり手元のカタログ棚にない)ということもあります。尤もメジャーな車種であってもヨタハチの2番目「チェッカーフラッグ表紙」や初代セリカの極く短期間だけ配布された「豹柄表紙」のGT専用など入手の難しいマニア垂涎のカタログも存在しますが。。。
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★イギリス・フォード(社名はFord Motor Co.Ltd)がマンチェスターのトラッフォード・パーク(Trafford Park)に設立登記されたのは1911年(明治44年)3月、第一次大戦前のことである。
これはアメリカ自動車資本の初の欧州進出となった。当初はアメリカ本国と同じ左ハンドルのモデルTが完成車で上陸し、同年10月からは輸送費の安くつくノックダウン方式に切り替えられた。1913年(大正2年)にはモデルTは英国流の右ハンドルに変えられ、次第にパーツの英国内調達率も上がり、1924年(大正13年)には9割までが英国製パーツによるモデルTが年間3万台以上も造られた。
1928年(昭和3年)にはマンチェスター製フォードはアメリカ本国同様にモデルA(本シリーズ第222回記事参照)に切り替えられた。相前後して1921年(大正10年)1月から英国で導入された課税馬力制(ボア径と気筒数により税額が変動)に対応するため、フォードオリジナルの4気筒3285ccのボアを縮め2023ccとしたモデルも製造された。
★イギリス・フォードのモデルT及びモデルAは一応の成功をみたが、1920年代末になると英国市場の主力はオースティン・セブンやモーリスといった1リッタークラスの小型車に移り、英フォードの英国内でのシェアはモーリスの1/3にまで落ち込んでいた。
フランスのシトロエン5CVの例を引くまでもなく、当時英国に限らず欧州市場ではスモールカーが大衆車として台頭していた。モデルAは欧州では大き過ぎたのである。
そこでフォードは欧州市場で広く通用する小型車の開発を進めると共にイギリスでの生産拠点をマンチェスターからロンドン近郊のダゲナム(Dagenham)に移した。1932年(昭和7年)に至り英国では「エイト」(モデルY)、ドイツでは「ケルン」の名称を付したモデルが発売された。4気筒933cc課税馬力8hpのベビーフォードの誕生である。このモデルYは英国内で£120という安価で販売され1933年(昭和8年)には3万台以上を売るヒット作となった。
★1リッタークラス「エイト」(モデルY)で英国大衆車市場での基盤を固めたイギリス・フォードは、1935年(昭和10年)にエイトより一回り大きい1172ccエンジンを搭載した「テン」(モデルC)を追加発売した。
8hpのポピュラーフォード「エイト」に対して10hp「テン」はデラックス・フォードとも呼ばれた。当時のライバルであるヒルマンミンクスが£159であったのに対して、「テン」のベーシックグレードである2ドアサルーンは£135という廉価で販売された。その後のテンは1938年(昭和13年)にモデルチェンジされた際に「プリフェクト」の名称が与えられ、戦中戦後の空白期間を経て、1951年(昭和26年)にフラッシュサイドの戦後型デザインの「コンサル」がデビューし、クリフカットで有名なアングリアが1959年(昭和34年)9月にデビューした後も、驚くべきことに戦前からの基本設計を変えずサイドバルブ1172ccを搭載し旧弊なスタイルのまま最廉価車として「ポピュラー」の名称で1962年(昭和37年)まで連綿と生産された。変化を望まない旧弊な英国流を象徴するようなベビーフォードの生涯であった。
【主要スペック】 1935年 英国フォード・テン 2ドアサルーン (1935 Ford UK TEN 2door Model C)
全長3695㎜・全幅1448㎜・全高1600㎜・ホイールベース2286㎜・車重787kg・FR・水冷4気筒SV1172cc・RAC査定馬力10ps(最高出力32.5ps/4300rpm)・最大トルク:不明・変速機3速MT・乗車定員4名・最高速度110km/h・販売価格:英国内£135(日本フォード国内販売価格:不明)
●1935年 英国フォード「テン」(モデルC) 日本フォード アサヒグラフ広告
二玄社1974年10月25日発行 世界の自動車「ヴォクスホール/イギリス・フォード」より。正月らしい写真からするとアサヒグラフの掲載は1935年暮れ発行の1936年新年号だろうか。フロントに「1936」とあるがグリルが縦線のみの1935年型のようだ。1936年型は船便での輸入ではアサヒグラフの新年号には間に合わなかったものと思われる。左上に「FORD LIGHT CAR」、中央に「新春を迎えて自家用に10馬力フォード軽自動車」のコピー。戦前の日本で雨天時に装着を義務付けられていた「泥除け」装着用のフックが前輪に付いているのが確認できる。撮影場所はどこだろうか。
●1935年 英国フォード「テン」 英国雑誌広告
1842年創刊の週刊誌The Illustrated London Newsに掲載されたテンの広告。サルーン£135、ダブルエントランスサルーン(4ドア)£145の価格が見える。
●1935年 英国フォード「テン」本カタログ (縦19.2×横27cm・日本語16頁)
カタログNo.FJ-10049。横浜子安・日本フォード発行。英本国版カタログを基本に日本語に言語換えしたと思われるカタログ。上質の紙が使われたシックな表紙には「英国製10馬力小型フォード」の文字。横浜の日本フォードではアメリカ・フォードのノックダウン生産をしているが、イギリス・フォード車は完成車輸入のみ。
【中頁から】
概説
「他に比肩するものは有りません」のコピーがカタログの随所に印刷されている。
2ドアセダン
後部座席の乗心地
4ドアセダン
換気装置・・・・・フロントウインドは開閉式
運転席・・・・・操縦の快適さ
トランクは外部に開閉部がなく、リアシートバックを倒して出し入れする。
腕木式方向指示器(アポロ)の操作は何とシフトレバー先端でおこなう。
英国ダゲンハム工場
スペック
●1936年 英国フォード「テン」本カタログ (縦19×横27.2cm・日本語12頁)
カタログNo.FJ-10070。これも横浜子安・日本フォード発行。上掲のカタログとは番号が21も開いていることから、僅か1年間に21種類ものフォードの日本語版カタログが発行されている可能性あり。英本国版カタログを元に日本独自のイラストも加えられた、なかなか魅力的なカタログ。表紙には「英国製10馬力フォード軽自動車」の文字。軽自動車といっても「テン」は全長3695㎜あるので今日の軽自動車よりも一回り大きい。
【中頁から】
テンの通称は「デラックス フォード」
概説
2ドアサルーン
乗員がホイールベース中央に位置するセンターポイズ
4座ツーリングカー・・・・・日本にも上陸しているが輸入台数は不明。同時期のドイツ・フォードではスタイリッシュな2座ロードスターも造られた。
英国ダゲンハム工場・・・・・偉大なる工場と優秀なる製品
スペック
★オマケ(その1): 伊ポリトーイ534番 1/43スケール 1963年フォード・ローラGT
全長9cm。ダイキャスト製。スペックカード付。英国フォードと言えば、1960年代にラリーシーンを席捲したコルティナ・ロータスや1964年春にロンドンでデビューし60年代後半のル・マンを席捲したフォードGT40を思い浮かべます。フォードGT40の開発のきっかけとなったのは、フォード4.2リッターV8を積んだフォード・ローラGT。フォードGT40もミニカーは沢山出ていますが、これは私が子供の頃に遊んだ思い出のGT40ならぬローラGTのダイキャスト製ミニカー。アクションはドア開閉のみながら凝縮感が小悪魔的に魅力的な1台。付属のスペックカードにはV8・4262cc350psマキシマム300km/hと記載されています。戦前英フォード・テンのミニカーは手元になく、しかしミニカーのオマケがないのは寂しいということで最後にアップしておきます。
★オマケ(その2): 1935年フォードV8 コマーシャル映像
TENの映像は見当たらず、これはアメリカ本国の1935年フォードのCM動画。ダッシュボードのデザインや開閉するフロントウインドなどはベビーフォードと共通しています。
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★お台場 旧車天国2015 ~ 高額プラモデル永大スバルレオーネ緊急指令10-4・10-10
★今日、2015年11月22日(日)はお台場・野外特設会場で開催された、「お台場旧車天国2015」(事務局は旧車雑誌オールドタイマーを発行している八重洲出版内)に行ってきました。
イベント開始時刻の午前9時30分より少し前に船の科学館前駅(ゆりかもめ)に着くと既に開場を待つ人達の長蛇の列。入場ゲートから300m~400m位?は列が延びていました。私は行列に並ぶのが嫌いなので(→行列するラーメン屋さんとかには行かないw)、ゆりかもめの駅から行列が短くなるのを待って入場しようと思っていたのですが、20分待っても行列は短くはならず、後から後から人が来て寧ろ行列は長くなり、これは並ばないといつまで経っても会場に入れないと諦めて私も長蛇の列に並び、開場から45分後の10時15分位にやっと会場に入ることが出来ました(@_@)
★あいにく今日は午後から用事があったので、お昼まで2時間位の短い時間で文字通り駆け足で会場を見て回りました。会場が広いため、とても2時間では全部をくまなく見て回ることが出来ず、残念ながら全ては見ないままで会場を後にしました(@_@;)
このイベント、入場料1200円(前売り1000円)を払うと500円分の金券が付いてきます。食べ物屋さん以外の物販ブース(実車パーツ、ミニカー、カタログetc)で金券を使ってお金を落とす仕組みになっています。しかし、欲しいと思うものは高額過ぎて手が出ず、どうしても欲しいというものがなくても金券を使わないで帰るのも勿体ないので(そこが主催者の狙いかw)、古いロングトミカ(富士重工セミデッカー)を1台だけ金券を使って500円引きで買ってきました。
今回はシングルナンバーの展示車両を中心に会場で見たプラモデルなども併せてサクっとご紹介します。
●会場案内図
車両の参加資格は日本車が1985年までの生産車、輸入車および2輪は何と1995年までの生産車と記載あり。僅か20年前の90年代半ばの車が既に旧車の仲間入りとは驚きです。会場は公式参加ブース以外に広大なスペースを使った旧車関連のフリーマーケットがあり、全てをくまなく見て回るのには時間がかかります。
今回のイベントでは朝イチでバンダイのブリキ自動車玩具の名作プリンスグロリア・スーパー6(S41D)赤の美品が10万円、野村トーイのくろがねベビーが5000円、三共ポリマーの名作プラモ130セドリック「特別機動捜査隊」の未組立品が5000円など、驚愕の激安価格で出ていたとのことです。売った人が現在の市場価値を知らなかったのか、余程人が良くて昔入手した値段のままで売ったかの何れかでしょうか。
●会場入場風景・・・・・最後尾が見えない長蛇の列と来場するクルマの列
●会場遠景・・・・・人、人、人、物凄い人出
●1974年ダットサン・キャブスター 1300
少々時代は新しいですが、40年以上も実用に供されてきた自然の佇まいに妙にそそられた1台。
●1926年 T型フォード
何と348万円でFOR SALE。車齢89年ながら、ナンバーが付いていることからすると所沢から自走してきたのでしょうか。
室内
●1933年 ロールスロイス・ファントムⅡ
濱 素紀氏が日本クラシックカークラブ会長を務めた父・徳太郎氏からシャシーの状態で受け継ぎ、FRPボディを自製してレストアした有名な車両。
●1951年 ダイハツ ビー
オリジナルのエンジン
●1956年 フジキャビン
リアビュー
●1960年 スバル360
エンジン
●1960年トヨペット・マスターライン・ピックアップ
初代クラウン後期型ベースの商用車
●1962年 縦目のセドリック(MC後)
特徴的な縦型テールライト
●1965年 ダットサン・ブルーバード1300(DP411)
尻下がりで「醜いアヒルの子」と揶揄されたリア
●1966年 ダットサン・ブルーバード1300(DP411)
この最終型ではリアの尻下がりが修正された。
●1966年 トヨペット・クラウン・デラックス・トヨグライド仕様(MS41)
リア: トヨグライドのバッチ付
●1967年 ホンダLM800
800ccツインカムエンジンを搭載したレアなライトバン
リア周り
●初代 横目のセドリック軍団
●プリンス軍団
●スバル1000軍団
●初代日産チェリークーペ軍団
●1957年サンダーバード & 1960年C1コルベット
●プラモデル各種
田宮模型ジャガーEタイプ(7万5000円也)
●ラジコン各種
ライト点灯がカッコよいです♪但し飾られているのはあくまで完成見本で、売っているのは透明クリアボディのみ。
●ブリキ各種
よく見ると米澤の日本航空バスが埋もれている。
●ミニカー各種
プレイアート「トヨタ2000GT」 (7000円也)
ホットウィール
京商ブース・・・・・1/64スケールシリーズ・ポルシェの通常品は1台2592円とサークルK/サンクスのコンビニ売り1台680円の4倍近い高額設定としている理由を尋ねたら、シートに彩色する手間をかけていることと3桁台(数百台)の少量生産であることが理由とのこと。一見してコンビニ売りバージョンと大差はなく、僅かなバリエーションであっても全てを揃えずにはいられないコアなファン向けということか。
★お台場旧車天国2015に入場する長蛇の列と街道レーサーたち
入場の行列が短くなるのを待ちながら撮影。でも、待っていてもなかなか列は短くならず行列の最後尾に並ぶことに(@_@;)
★オマケ(その1): 永大1/25スケール 1972年スバル・レオーネ・クーペGSR「緊急指令10-4・10-10」高額プラモデル
円谷プロが手掛けた作品の一つ。10-4・10-10と言うとギャランHTを使用したトミカが有名ですが、このエーダイ製プラモデルは映像作品通りにレオーネを使用しています。ヤフオクでは2013年1月に同じエーダイのノーマル版レオーネと2個セットで出品されて25万1000円、2015年11月に緊急指令仕様だけの単品で出品されて24万円という高額となりました。作品のスチール写真を使ったボックスアートには何ともそそられます。でも、激レアだからこそ需要と供給のバランスで高値となっているにしても、個人的には70年代のプラモが25万円前後というのは少々高過ぎるように感じます。(以下の画像は私の持ちモノではありません)
・2013年出品(2個セット:25万1000円)
2015年出品(単品:24万円)
★オマケ(その2): 緊急指令10-4・10-10 「非行少女カオリの巻」
1972年(昭和47年)12月25日NET(テレビ朝日)系列で放映の最終回。制作:円谷プロダクション。電波特捜隊のスバルレオーネ以外にも130セドリック後期バンなど懐かしい日本車が多数登場。
、 投稿者 santoriimanwh
★1957年 マツダ三輪トラック丸ハンドル 小杉二郎 ~ 自動車カタログ棚から 295
★11月も末となり朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。風邪など引かないよう気をつけたいものです。
東京では秋晴れとなった昨日11月28日(土)は神宮外苑「絵画館前」で開催されたトヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルを少し観てきたのですが、日向では半袖でも過ごせるくらいの暖かな陽気でした。この時期、困るのは特に朝晩、外気温が低くコートを着てちょうどよい位でも通勤電車の中などでは室温が高くコートが邪魔になってしまうことです。
★そう言えば、今週は総務省の進めているマイナンバーの通知が私の手元に届きました。みなさんはもうお手元に届きましたでしょうか。マイナンバーの通知を受け取った後はマイナンバー・カードを作ることが推奨されていますが実利面のメリットを見極めてから申し込もうかと思っています。1億総背番号制ということで国に個人情報を一括管理されることを危惧する向きもありますが、行政書類の取得等では便利になる面があることも確かでしょう。
★閑話休題
上述の神宮外苑でのイベントで写したクルマ達の記事をアップしようかとも思ったのですが、意外に目新しいクルマが少ないので、追々、イベントで写した写真はカタログ記事の実車参考画像としてアップしていくこととして、今回は「自動車カタログ棚から」シリーズ第295回記事としてマツダの丸ハンドル三輪トラックをピックアップします。
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★戦後のマツダ三輪トラック、マツダK360軽三輪、マツダロンパー(後のDシリーズ)、マツダR360クーペ、マツダキャロル、マツダB360軽トラックといった東洋工業(現マツダ)製品の個性的かつ魅力的なデザインで知られる工業デザイナー小杉二郎(こすぎ じろう)は1915年(大正4年)3月15日に画家・小杉放庵(こすぎ ほうあん:1881年12月30日-1964年4月16日)の次男として東京市滝野川区田端155番地で生れた。
父・放庵は冒険SF作家・押川春浪(おしかわ しゅんろう:1876年3月21日-1914年11月16日)と親交があり、春浪が主宰・主筆を務めた冒険雑誌『冒険世界』『武侠世界』の表紙や挿絵を描いていたことから、父の絵画の仕事に少なからず影響を受けた所為で二郎はPOPでSF未来的でさえもある優れたマツダ車のデザインを残したのだとする論客もある(但し、二郎の手掛けた自動車デザインは1955年トヨペットマスターなどマツダ以外のものもある)。
小杉二郎のマツダ車のデザインに共通する魅力は、先進的で人目を引く温かさと小動物のような愛くるしさではないだろうか。
★小杉二郎は1933年(昭和8年)4月、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)の工芸科図案部に入学。
当時でも美術を専攻する者にとっては難関であった東京美術学校にストレートで入学した。1942年(昭和17年)3月23日、満州で兵役に就き、1944年(昭和19年)2月に除隊。1945年(昭和20年)3月15日、二郎が30歳の誕生日に父の友人・針重敬喜(はりしげ けいき:前出『武侠世界』の主筆/編集者:1885年2月1日-1952年6月5日)の二女・千鶴子と結婚。1945年(昭和20年)4月13日の米軍による空襲で田端の生家は全焼。1947年(昭和22年)、32歳で駒場に生産工芸研究所を設立し自転車のデザインを手掛けるも生産には至らず。1948年(昭和23年)、縁あって広島の東洋工業(現マツダ)の三輪トラックのデザインを任される。以後、東洋工業の製品デザインを1962年(昭和37年)発売のマツダキャロル、マツダB1500に至るまで多数手掛けた。相前後してJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)の理事および理事長を歴任し日本の工業デザイン界の重鎮となる(理事長には1958年、43歳で就任)。1981年(昭和56年)2月17日、脳出血により逝去。享年65歳。
★オート三輪は積載量が少ないうちはモーターサイクルと同じバーハンドルでも実用上の問題はなかったが、1.5トン、2トンと積載量が増え車体も大型化すると人力で舵を取ることが次第に困難となった。
三輪の丸ハンドルは1947年(昭和22年)のナニワ号が最初と言われる。しかし、このクルマは明石の旧川崎航空機が少量のみ造ったもので一般には馴染みが薄い。本格的な丸ハンドル車は愛知機械工業が1951年(昭和26年)に出したヂャイアント・コンドル号、次いで1954年のヂャイアントAA11型、AA13型と丸ハンドルの普及に先鞭を付けたのはヂャイアントであった。1955年(昭和30年)には三菱みずしま、1957年(昭和32年)に入りダイハツ、オリエント、そしてマツダが相次いで三輪丸ハンドル車を発売した。三輪大手のマツダは意外にも1957年10月の丸ハンドル車登場に至るまでバーハンドルのままで生産が行われていた。三輪大手最後の丸ハンドル車となったマツダには後発ならではの幾つかのセールスポイントが用意されていた。即ち他社がバーハンドル時代のレイアウトのまま丸ハンドル化したため、それまで乗員が跨いでいたエンジンが車体中央にあってエンジンを避け左右2人掛けにせざるを得なかったのに対して、2トン車HBRではエンジン搭載位置を低く後退させることで3人掛けのスペースを生んだこと、ハンドル軸に付いたシフトレバーにより変速するコラムシフト(ハンドルチェンジ)を採用したのである。バーハンドル時代に熟成された空冷エンジンはそのまま使われたが、丸ハンドル化から2年後の1959年(昭和34年)秋には小型四輪トラック「ロンパー」と同様に水冷化が為された。水冷化に際してT1100(1~1.5トン積み)およびT1500(2トン積み)の名称となり、1960年(昭和35年)10月に小型車の排気量制限が1500ccから2000ccに拡大されたことに伴い、1962年(昭和37年)には従来の1~1.5トン積みをT1100からT1500に移行させ2トン積みは1985cc81psエンジン搭載のT2000となった。
★オート三輪のメーカーの多くは1960年代初頭までに三輪トラックの生産を中止し四輪トラックの生産に移行もしくは廃業(アキツ、サンカー等)となったが、マツダとダイハツの最大手2社の三輪は1970年代に入るまで生産が継続された。
ダイハツが1971年(昭和46年)限りで生産を止めたのち、最後まで市場に残った三輪は小杉二郎デザインのマツダ車であり、実に1974年(昭和49年)まで生産が継続された。日本国内の三輪貨物自動車の登録台数はマツダが生産を終了した翌1975年(昭和50年)に4万3000台であったものが、10年後の1985年(昭和60年)には4804台と10分の1近くまで減少した。更に10年を経た1995年(平成7年)に2221台、更に20年を経た2015年(平成27年)8月末現在の統計では1018台となっている。
【主要スペック】 1957年マツダ三輪トラックHBR82 (1957 Mazda 3Wheel Truck Type.HBR82)
全長4363㎜・全幅1685㎜・全高1953㎜・ホイールベース2957㎜・荷台長2382㎜・車重1437kg・FR・強制空冷オートクールV型2気筒OHV1400cc・圧縮比5.7:1・最高出力42ps/3500rpm・最大トルク9.7kgm/2600rpm・始動方式:セルモーター及びキック式併用・潤滑方式:ドライサンプ・変速機4速コラムMT・乗車定員3名・最大積載量2000kg・最高速度:不明・販売価格54万8000円
●1958年 マツダ客貨兼用 三輪車 専用カタログ (A4判・4つ折8面)
丸ハンドル最初期の2トン積み3名乗りのHBR及び1~1.5トン積み2名乗りのMARをベースとして乗員スペースを追加した国鉄向け特注車両専用の珍しいカタログ。カタログにはA・B・Cタイプの3種が掲載されている。荷室全てを客室とした10名乗りのA型(標準型)、ダブルキャブ2列シートとした5または6名乗りのB型(定期巡回サービス用サービス型)、3名乗りHBRをベースに運転席後部に左右向い合せの2人掛けベンチシートを設け7名乗りとしたC型(枕木運搬用建築型)の3種で、表紙に「日本国有鉄道で御採用の」と印字があることから、初めは国鉄から大量発注された特殊車両であったものを私鉄等の民需用にカタログモデル化したものと思われる。荷室部分全てにシートを設けたA型は荷台に設けたシート不要時には折り畳んで荷物が積める貨客両用ではあるが、左サイド及びリアには人員専用の出入り口が設けられており、謂わば三輪のマイクロバスとも言える。表紙はサイドウインドが傾斜した初期型HBRベースのA型。幌には4つの明かり窓が開けられている。1960年代前半までのマツダ車のカタログには発行年月の印字がないため、発行時期は推定。
【中面から】
〈A型〉 (10名乗り標準型)
リア中央にも乗降口が設けられている。
A型図面
〈B型〉 (5~6名乗りサービス型)
B型図面
〈C型〉 (7名乗り枕木運搬用建築型)
C型図面
・裏面スペック
●1957年10月 マツダ三輪トラック2屯積HBR 専用カタログ (A4判・4つ折8面)
マツダ三輪初の丸ハンドル車2トン積みHBRの専用カタログ。茶色とグレイのツートンはバーハンドル時代からのイメージカラー。シート下部にエンジンを搭載し3人掛けとし、リモートコントロールのコラムシフトを採用したのは三輪初。表紙はコラムシフトを強調したイラストとなっている。このカタログと同じ表紙絵柄で白黒印刷の簡易カタログも発行されている。
【中面から】
3人掛けシート
前後
傾斜したサイドウインドが初期型HBRの特徴
運転席
図面(HBR82Nと前長6mを超えるHBR32S)
図面(HBR12)
●1957年10月? マツダ三輪トラック1トン積・1.5トン積MAR 専用カタログ (A4判・4つ折8面)
一見、上掲の2トン積みHBRと同一キャブに見えるが、小杉二郎の基本デザインはそのままに前後で120㎜縮められている。こちらはエンジン搭載レイアウトがバーハンドル時代と同じため、かつて人が跨いでいたエンジン上部が左右シートの中央に出っ張りセパレートの2人掛けとなっている。HBRでは傾斜していたサイドウインドが水平となり上下昇降式に改められた。ダッシュパネルのデザインもHBRとは全く異なり表紙写真の通りセンターメーターとなっている。搭載エンジンは空冷OHV1005cc31.5ps。
【中頁から】
MAR81
MARのキャビンは中央にエンジンの突起があり左右セパレートの2人掛け
●1958年10月? マツダ三輪トラック2トン積HBR 本カタログ (A4判・8頁)
上掲MARと同じ水平上下昇降式のサイドウインドを採用しサイドウインドの傾斜が消えた1959年型HBR。変速機は2~4速をシンクロ化。
【中頁から】
水平となったサイドウインド
●1958年10月? マツダ三輪トラック2トン積HBR 簡易カタログ (A4判・8頁)
白黒印刷でコストを落とした簡易カタログながら、頁数は本カタログと同一で彩色がないだけで内容的には差がない。
●1958年10月? マツダ三輪トラックMBR 本カタログ (A4判・8頁)
HBRと共通キャブを採用し、1~1.5トン積車も3人乗りに変更された。ダッシュパネルのレイアウトもHBRと同一となった。搭載エンジンは1トン積用の空冷1005cc31.5psと1.5トン積用の空冷1105cc32.5psの2種。
【中頁から】
3人掛けキャビン
HBRと統一されたダッシュデザイン
エンジンはシート下に配置
●1959年4月? マツダ三輪トラックMBR 本カタログ (A4判・8頁)
上掲の1958年10月発行と推察されるカタログと基本的には同一ながら表紙の色が異なり、リアビュー写真のナンバープレート文字が1958から1959に変更されている。
【中頁から】
リアビュー・・・・・ナンバーはカタログ発行年を示す1959に換えられている。
●1959年10月? マツダ三輪トラックT1100 本カタログ (A4判・8頁)
エンジンを水冷4気筒1139cc46psのTA型に変更した1~1.5トン積み車。四輪トラック「ロンパー」が水冷化されD1100およびD1500に車名変更されたのと同様にT+排気量が車名となった。水冷による高性能化に伴い、前輪に初めてブレーキが装着された。
【中頁から】
●1959年10月? マツダ三輪トラックT1500 本カタログ (A4判・8頁)
エンジンを水冷4気筒1484cc60psのUA型に変更した2トン積み車。
【中頁から】
●1960年? マツダ三輪トラックT1100 本カタログ (A4判・8頁)
カタログ改訂。上掲の1959年10月版T1100カタログと内容に変更はなし。
●1962年? マツダ三輪トラックT2000 本カタログ (A4判・8頁)
小型車の排気量制限の引き上げに伴いクラウンやセドリックに1900cc車が追加されたのと同様にマツダの三輪にも水冷1985cc81psを搭載した2トン積み車が追加された。この初期型ではフェンダーミラーが運転席側のみ設置。
【中頁から】
水冷2000cc81psエンジン
瀬戸内海をバックに疾走
●1963年5月? マツダ三輪トラックT2000 本カタログ (A4判・8頁)
上掲のT2000のカタログと似た表紙だが背景は異なり、左右にステーの長いフェンダーミラーが装着された。
【中頁から】
ダートを3名乗車で飛ばすT2000
●1963年5月? マツダ三輪トラックT1500 本カタログ (A4判・8頁)
2トン積みT2000のデビューに伴いT1100は製造中止となり、それまで2トン積みであった水冷1484cc60psエンジン搭載のT1500は1~1.5トン積みに降格された。
【中頁から】
透視図・・・・・フレームの構造やエンジンレイアウトが判る。
●1964年? マツダ三輪トラックT2000/T1500 本カタログ (B5判・8頁)
外観上はフェンダーミラーが丸型から視界の広い小判型となり、ブレーキはハイドロマスター(真空倍力装置)付となった。
【中頁から】
三輪の恩恵で小型車枠ながら6mを超える長大なボディに長い材木を積むというのが代表的な利用方法。
●1969年3月 マツダ三輪トラックT2000/T1500 本カタログ (A4判・12頁)
マツダ三輪トラックの最終カタログ。国鉄貨車をバックにした印象的な表紙。ルーフが鋼製化された軽三輪マツダK360とは異なり、Tシリーズはキャンパス・ルーフのままで終焉を迎えた。マツダ・高速テストコースのバンクを走る写真が面白い。このカタログの時点では既にコスモスポーツやRX85ファミリアロータリークーペがデビューしている。マツダが未来的なコスモスポーツなどと同時期に三輪を造っていたことは興味深い。
【中頁から】
遥か眼下に小川の流れの見える峠道
牧場のT1500
マツダテストコースのバンクを疾走
★オマケ(その1): 萬代屋(現バンダイ) 1/30スケール 1958年マツダ三輪トラックHBR
全長15cm。当時定価:不明。ブリキ製。当時物のマツダ丸ハンドル三輪トラックとしては、この萬代屋以外にグリコのオマケが出ている。萬代屋ではサイドウインドが傾斜した初期のHBRをモデル化しているが販売量が少なかったのか、各種バリエーションがリリースされた同じ萬代屋のバーハンドルのマツダ三輪に比べてあまり市場に出てこない。ヤフオクでは2013年12月に箱と説明書のみ本体なしの出品で26万円の値が付いた。当時の東洋工業の広報誌「マツダニュース」に萬代屋のマツダ車特別斡旋販売の頁があり、その販売は東洋工業宣伝課が行っていたことから、このモデルも実車の販促用に使われたと思われる。
・萬代屋マツダ三輪トラックHBRとマツダロンパーで遊ぶマツダ帽子を被った子供(東洋工業広報誌「マツダニュース」1959年7月号より)
★オマケ(その2): トミーテック・トミカエブロ1/43スケール マツダT2000「日本通運」
全長14cm。2008年発売。定価:税抜5400円。ダイキャスト製。トミカリミテッドヴィンテージやタイムスリップグリコのオマケなど近年造られた丸ハンドル・マツダ三輪トラックのミニチュア・モデルは数多く存在します。
★オマケ(その3): 現存するマツダ三輪の画像
2015年11月22日(日)お台場 旧車天国での展示車両より。現存する実車は60年代以降のT1500とT2000が多く、1950年代の丸ハンドル空冷車両は絶滅している模様。
・1967年 マツダT1500
・1966年 マツダT1500 「駅前通運」
【過去の関連記事】
小杉二郎デザインのマツダ車については過去に以下の記事がありますので御参照ください。
・1956年マツダ三輪トラック(バーハンドル)・・・・・第183回記事
・1958年マツダロンパー・・・・・第9回記事
・1959年マツダK360けさぶろう・・・・・第92回記事
・1959年マツダT600・・・・・第227回記事
・1960年マツダR360クーペ・・・・・第61回記事
・1962年マツダキャロル・・・・・第66回記事
・マツダB360・・・・・第268回記事
★1957年 ダイハツ三輪トラック丸ハンドル 日本通運 ~ 自動車カタログ棚から 296
★もう師走ですね。
本当に1年が過ぎるのが早く、12月の次に13月や14月があったらいいのに、まだ1年が終わって欲しくないと思う今日この頃です(笑)。
年末は仕事が忙しい上に忘年会も幾つかあり慌ただしくなりそうです。それに加えてバンドではオリジナルの新曲が2曲ありギターパートのアレンジを次のスタリハまでに仕上げなければならないなど、やるべきことが多くて結構大変です。とは言っても、嫌なら初めから投げ出してしまえば済むところなのに、ヤル気だけはあるので投げ出せない、でも時間がないという感じです(笑)。
★「自動車カタログ棚から」の記事作りも自分の中では一つの大きな課題なのですが、当面は年内300回目がギリギリいけるかどうか危なくなってきました。現状では記事をアップするまでにはかなりの時間がかかるので(カタログを整理することから始めるので下手をすると1日では出来上がらず2日かかることもあります)、他のやるべきこととのバランスでまあ焦らずに出来る範囲で進めたいと思います。
今回は前回のマツダに続き、1970年代に入るまで生産されたダイハツの丸ハンドル時代の三輪トラックをピックアップします。ダイハツ三輪のカタログは、基本的に型式別に発行されている上に消防車・衛生車・ダンプ等の専用カタログもあり、丸ハンドル時代に限ってもおそらく私のカタログ棚にあるものは半分程度だろうと思います。それでも手元のカタログ棚には結構な数の丸ハンドル時代のダイハツ三輪カタログがありますので、今回もカタログを蒐集する際の資料ともなるようカタログの顔である表紙画像を中心に出来るだけサクッとご紹介したいと思います。
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★1907年(明治40年)3月1日に創立されたダイハツは国内では最も歴史の長い量産自動車メーカーであり、元々は大阪高等工業高校(1931年に内地旧七帝大の一つであった大阪帝国大学となり、現在は大阪大学工学部)の研究者が中心となって「発動機製造株式会社」の名称で設立された。
現在も存続する社名の「ダイハツ」は、創業後、後発メーカーで社名に「発動機」を冠する会社が多数現われたため、「発動機製造株式会社」の製品を他社製品と区別・識別するため顧客サイドから「大阪の発動機」と呼び始め、やがてそれが略されて「大発(=ダイハツ)」と言われるようになったものである。
発動機製造株式会社として設立された当初は工業用ガス燃料発動機の製造を手掛け、自動車については1919年(大正8年)3月に軍用貨物車を完成させたのが最初であった。戦前・戦後に連綿と製造されたダイハツの三輪トラックは1930年(昭和5年)12月に完成したHA型が第一号車であった。その後、ダイハツの三輪トラックは1953年(昭和28年)に生産累計10万台、それから僅か3年後の1956年(昭和31年)には生産累計20万台を突破して、東洋工業(マツダ)と比肩する大手三輪メーカーとなった。1957年(昭和32年)には創立50周年を記念し、軽三輪トラック「ミゼット」(本シリーズ第85回記事参照)と共にダイハツ初の丸ハンドル三輪をデビューさせた。
★ダイハツの三輪丸ハンドル化は前項のマツダの三輪よりも多少早く、1957年(昭和32年)1月の水冷2トン車RKO型、次いで同年5月には1.5トン車RKM型、1トン車RKF型が相次いで丸ハンドル車としてデビューした。
最初の丸ハンドル車はドアが下半分だけで上部はビニールの窓を必要に応じて取り付けるという半ドア構造で、これは謂わば「乗員が落下等の事故に遭わないよう運転室を外界と仕切るドアを一応付けました」といった風情のシロモノで、1958年(昭和33年)8月デビューの1959年型1トン車PL型からは三角窓と上下スライドする窓を備えた一般的なドア付となった。
また丸ハンドル車も1959年まではバーハンドル時代のレイアウトを踏襲した2名乗り、1960年(昭和35年)からは運転席と少しリア側に移動して設置した2人掛けの助手席シート(これをダイハツでは「ロマンスシート」と呼称したが、運転席側に掛ける1人はエンジンの突起部に足が当りゆったりくつろぐことは困難だったと思われる)を設けた変則3名掛けとなった。この際、助手席シートを移動した影響でドア後方に小さな縦長のウインドが取り付けられたが、この変則3名乗りレイアウトは1961年までの僅か2年のみで1962年には一般的な3名掛けベンチシートとなり、窓配置も当初の形に戻された。搭載エンジンは丸ハンドルのデビュー当初から水冷で、2トン車の場合、1480cc45psで始まり、1962年に1490cc68ps、1963年には三輪最強のFB型1861cc85psとパワーアップが図られた。激動の1960年代を生き延びた後、ダイハツはマツダより一足早く1972年(昭和47年)に三輪トラック製造から撤退した。1930年の三輪トラック製造開始から数えて実に42年目の生産中止であった。ダイハツの丸ハンドル三輪トラックは1957年~1972年までの15年間と製造期間が長いことから比較的多くの車両が現存している模様(初期の半ドア車は絶滅?)。
【主要スペック】 1957年 ダイハツ三輪トラック2トン積みRKO8型 (1957 DAIHATSU 3Wheel Truck Type.RKO8)
全長4455㎜・全幅1670㎜・全高1830㎜・ホイールベース2945㎜・荷台長2500㎜・車重1410kg・FR・水冷4サイクル90°V型2気筒OHV1480cc・圧縮比6.3:1・最高出力45ps/3600rpm・最大トルク:不明・始動方式:セルモーター及びハンドクランク式併用・潤滑方式:ドライサンプ・変速機6速フロアMT・乗車定員2名・最大積載量2000kg・最小回転半径4500㎜・最高速度:不明・新車販売価格:不明(参考:1960年のUM8型では50万円)
●三栄書房モーターファン1957年8月号 表紙 「ダイハツRKM10型三輪トラック」 (B5判)
絵: 佐藤泰治 画伯(1915年1月13日-1960年3月11日:45歳没) 。この号にはNEW MODELとしてダイハツミゼット(バーハンドル)とダイハツ丸ハンドル三輪が掲載されている他に何と三和自動車が輸入したポルシェ356Aスピードスターが掲載されている。
●日本通運広告「駅の日通」 (平凡社 月刊誌「太陽」1966年4月号より) 縦29×横21cm
ダイハツの三輪は全国の国鉄駅前に無数に存在した日本通運が大量に使用したため、濃黄の日通カラーのダイハツ三輪が思い出に残っているという向きもおられることだろう。日通では狭い駅構内で稼働できることが絶対条件であり、三輪は小回りが利くことからマツダやヂャイアントもかなりの数が納入されているが、日通への納入台数はダイハツが群を抜いて多かったようだ。この広告に写っている車両のドアには「船橋支店」の文字がみえるので、国鉄・船橋駅で撮影されたものだろうか。
●1957年1月 ダイハツ三輪トラック水冷2屯車RKO型 専用カタログ (18.3×25.8cm・4つ折8面)
ダイハツの三輪と言えば思い出すこの顔の最初のモデル。まだ鋼製は下半分だけの半ドアでサイドウインドはビニールを付けるタイプ。RKO8型の4455㎜からRKO13T型の6080㎜まで全長の異なる4型式を掲載。搭載エンジンは全て水冷1480cc45ps。
なお、この時期のダイハツのカタログには発行年月が印字されているものと印字がないものとがあり、以下、年のみを記載したカタログは推定発行年。
【中面から】
シャシー。バーハンドル時代に運転手が跨ったエンジンの突起部分を避け、左右に座席を配した。
運転席と水冷45psエンジン
スペック
図面
●1957年5月 ダイハツ三輪トラック水冷1.5屯RKM型/1屯車RKF型 専用カタログ (18.3×25.8cm・8頁)
丸ハンドル化を強調した表紙。ミラーは表紙に描かれた運転席側だけに丸側が付く。搭載エンジンは1.5屯積みのRKM型が1135cc35ps、1屯積みのRKF型が1005cc30ps。
【中頁から】
「バックオーライ」
●1958年6月 ダイハツ三輪ダンプカー2屯積み(RKO8D2型・RKO10D2型) 専用カタログ (18.3×25.8cm・2つ折4面)
ダンプ専用カタログ。このカタログでは車両型式の末尾に「2」が付くことからRKOの初期型ダンプは単に「RKO8D」とダンプを示す「D」を加えただけの型式名称だったものと思われる。
【中面から】
ダンプ機構取扱い要領
●1958年8月 ダイハツ三輪トラック水冷1屯車PL型 専用カタログ (A4判・変則8頁)
半ドアではなく三角窓と上下に昇降するウインドを備えた全鋼製ドアとなった。PL型はコンパクトでどこでも誰でも使える「ポピュラーカー」の意味。全長4030㎜・751cc25psエンジンと非力。
【中頁から】
●1958年12月 ダイハツ三輪トラック水冷1.25屯車PF型 専用カタログ (A4判・変則8頁)
橋を渡る風景を描いた印象的な表紙のカタログ。PF型は全長4030~4420㎜まで3型式あり搭載エンジンは何れも水冷1005cc33ps。
●1958年12月 ダイハツ三輪トラック水冷1.5屯車PM型 専用カタログ (A4判・変則8頁)
全長4435~5115㎜まで4型式あり搭載エンジンは何れも水冷1135cc35ps。
【中頁から】
キャンパスルーフの下には骨組み2本が見える。
●1959年1月 ダイハツ三輪のせかえ車 1.25屯積・2屯積 専用カタログ (A4判・2つ折4面)
荷箱の裏に2本のレールを取り付け、シャシーのリフトローラーと台車を使って荷箱の脱着を行うPF8C型1.25屯積とテールボードローダー(テールゲート・リフト)機構を備えたPO10C型2屯積という荷卸し積み替え作業の効率化を図った車両。
【中面から】
●1960年11月 ダイハツ三輪トラック1.25屯車UF型 専用カタログ (A4判・4つ折8面)
全長4225~4630㎜のUF型3型式掲載。搭載エンジンは全て水冷1005cc33ps。運転席とは独立しリア側にずらして設置した2人乗り助手席シート「ロマンス・シート」により3人掛けとなりサイドウインド後ろには縦長の小窓が付いた。
【中面から】
ロマンスシート右側に座ると足がセンタートンネルに当ってしまう。
ロマンスシート解説
キャビンサイド後部に小窓を設置
●1960年5月 ダイハツ三輪トラック1.5屯車UM型 専用カタログ (A4判・変則6つ折12面)
全長4620~5310㎜のUM型4型式掲載。搭載エンジンは全て水冷1135cc35ps。これもロマンスシート3人乗りサイド小窓付。
●1960年7月 ダイハツ三輪トラック2屯車UO型 専用カタログ (A4判・8頁)
全長4655~6060㎜のUO型4型式掲載。搭載エンジンは全て水冷1480cc45ps。これもロマンスシート3人乗りサイド小窓付。
●1960年2月 ダイハツ三輪衛生車UO8E型 専用リーフレット (A4判・表裏2面)
ロマンスシート3人掛けでサイド小窓付のバキュームカー専用リーフレット。
●1960年7月 ダイハツ三輪2屯積ダンプカーUO8D/UO10D型 専用リーフレット (A4判・表裏2面)
ロマンスシート3人掛けでサイド小窓付のダンプカー専用リーフレット。
●1960年4月 ダイハツ三輪 軽トレーラーKNLB型 専用カタログ (A4判・変則4つ折8面)
ロマンスシート3人掛けでサイド小窓付のトレーラー車専用カタログ。トレーラーTNL型を牽引した全長は7340㎜ながらトレーラーが90°に曲がり最小回転半径は4.2m、Uターンに必要な道幅9.5mと小回りが利く。
【中面から】
●1961年11月 ダイハツ三輪トラック1屯車PL型 専用カタログ (A4判・変則4つ折8面)
全長4030㎜・荷台長2090㎜の最小タイプ。搭載エンジンは751cc25psと非力。これはロマンスシートなし2人乗りでサイド小窓なし。なかなか洒落た表紙のカタログ。
裏表紙の写真も洒落てる。
●1962年 ダイハツ三輪トラック1.25屯車BF型 専用カタログ (A4判・8頁+α)
全長4470㎜・荷台長2470㎜。搭載エンジンは1135cc35ps。エンジン搭載位置が変り普通のベンチシート3人掛けとなり、メーターパネルはモダンで立体的な扇型に変更された。外装ではルーフがキャンパス貼りから鋼製に変更された。マツダの三輪(T1500/T2000)が最後までキャンパスルーフだったのに対しダイハツは早期にルーフが鋼製化された。
【中頁から】
全鋼製キャブに変更
一般的な3人掛けベンチシートに変更
●1962年9月 ダイハツ三輪トラック1.25屯車CF型 専用カタログ (A4判・8頁+α)
全長4475㎜・荷台長2470㎜。エンジンは水冷Vツインから水冷4気筒1490cc68psに換装され、上掲のBF型と比べほぼ2倍のパワーとなった。ベンチシート3人掛け。表紙はどこの港でしょうか。
●1962年9月 ダイハツ三輪トラック1.5屯車CM型 専用カタログ (A4判・8頁+α)
全長4475~5155㎜までCM型4型式を掲載。荷台長2470~3150㎜。これもエンジンはVツインから4気筒1490cc68psに換装され、上掲61年の同じ1.5屯積みUM型と比べほぼ2倍のパワーとなった。ベンチシート3人掛け。サイドミラーはこのカタログでは運転席側のみに長楕円のものが付いているが、1963年4月の法改正で左右にミラーが装着された(「1963年4月以降の納入車には左右にバックミラーを標準装備」とカタログ内に記載あり)。
●1962年5月 ダイハツ三輪トラック2屯車BO型 専用カタログ (A4判・8頁+α)
全長4480~6065㎜までBO型5型式を掲載。荷台長2470~4060㎜。これもエンジンはVツインから4気筒1490cc68psに換装された。表紙はどこの橋でしょうか。
【中頁から】
68psエンジン
●1963年 ダイハツ三輪トラック2屯車CO型 専用カタログ (A4判・8頁+α)
全長4485~6080㎜までCO型5型式を掲載。荷台長2470~4060㎜。マツダT2000に対抗すべく、エンジンは水冷4気筒1861cc85ps・最大トルク15.5kgmに換装された。T2000の81psを僅かに上回り三輪最大のパワーを誇った。
【中頁から】
85psエンジン
シャシー
●1966年11月 ダイハツ4輪ダンプカー/3輪ダンプカー/4輪ウェットミキサー 専用カタログ (A4判・8頁)
ダンプとミキサー車の専用カタログ。3輪は全長4305㎜のCO8D型と4805㎜のCO10D型を掲載。搭載エンジンは三輪最強の水冷4気筒1861cc85ps。
★オマケ(その1): 野村トーイ 1/19スケール ダイハツ三輪ダンプRKO10D型「日本通運」
全長27cm。当時定価:不明。ブリキ製。野村トーイの傑作モデルの一つ。ダイハツ三輪の当時物立体造形物はこの野村トーイ製のみ。この日通仕様以外に日本地図がプリントされたバージョン違いが出ている。
★オマケ(その2): トミーテック・トミカエブロ 1/43スケール 1962年 ダイハツ三輪トラックCM型「日本通運」
全長12cm。定価:税抜4800円。ダイキャスト製。2008年4月発売。近年、ダイハツ三輪のミニチュアはトミカリミテッドヴィンテージや津川洋行等からも出ている。
★1966年 トヨタ カローラ1100 最初のカローラ ~ 自動車カタログ棚から 297
★12月9日に鬼籍に入られた野坂昭如氏原作のアニメ映画「火垂るの墓」について、韓国では「日本は戦争加害国であるのに、この映画は切々とした描写で日本国民も被害者であるという誤った印象を強烈に残す」「謂わば日本が戦争被害者を装うための映画」と一部で強く主張されている。
他国を侵略し、満州国をつくり、真珠湾で太平洋戦争を仕掛けたのが日本であったのは紛れもない事実ですが、日本の一般国民、少なくとも「火垂るの墓」に登場するような子供達や広島や長崎の被爆者が戦争の加害者ではなく被害者であったことも、これまた事実ではないでしょうか。そのことにまでは想像が及ばず、日本人は全て悪いというのは如何なものでしょう。
★12月も早くも半ば。今年を振り返るにはまだ半月残っていますが、みなさんはどんな1年でしたでしょうか。私はライヴが一応成功したことなど良いこともあれば、怪我など悪いこともありの1年でしたが、残り半月余りでは今年もまた独り者のまま年を越す確率99.9%でしょう(汗) 除夜の鐘を一人で聞くのは寂しいものです。
「独り者は人間のクズ」とも言いますが(→言ってるのは私ですがw)、考えてみると今やアラフォーとなったスマップのメンバーもキムタク以外はクズという話になってしまいますよね。キムタク以外は結婚できなくて当然みたいなことを言う知人(女性)がいるのですが、私には中居くんなどが結婚できなくても当然の「難有臭プンプン男」(ブロ友さん曰く、結婚出来ない男は「これゃ結婚できなくて当然だわ」というような難有臭がプンプンするそうです)にはみえなかったりもします。その知人によれば、少し頑張れば私はまだイケるかもしれない?とのことです。多分、御世辞だとは思いますが(爆)
でもまあ、しかし、定年退職が4年後に迫ったこの歳でまだ結婚したいなんていうのはキチガイ沙汰というのが世間の常識というものかもしれません(汗)
★閑話休題
「自動車カタログ棚から」シリーズも300回が目前に迫ってきました。しかし、ベスト300に当然入るべきなのに入っていない(記事にしていない)クルマが沢山残っています。今回はそんな未紹介のままだったメジャーな1台、トヨタの「カローラ」。日本でカローラの車名を知らない人はまずいないだろうと思います。今回の「自動車カタログ棚から」では来年2016年に生誕50周年を迎える1966年デビューの初代カローラをピックアップします。例によってカタログは発行されたもの全ては手元にないため、あるものだけを駆け足でご紹介します。
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★「カローラ」(COROLLA) の車名は、英語で「花の冠(花の中の最も美しい部分、花びらの集合体)」を意味し、「人目をひく、美しいスタイルのハイ・コンパクトカー」をイメージして名付けられた(トヨタ自動車75年史より)。王冠の意味の1955年デビューのクラウン(CROWN)、太陽の光冠の意味の1957年デビューのコロナに次ぐ、3番目の冠を表わすトヨタの車名となった。クラウン、コロナの車名の流れを汲み、同じ冠系の言葉が車名に選ばれた。
★初代カローラ(KE10型)がプレス発表されたのは1966年(昭和41年)10月20日であった。同年10月26日~11月8日に東京・晴海で開催された第13回東京モーターショーが事実上の一般へのお披露目の場となり、モーターショー会期中の11月5日に全国発売された。
当時の1リッタークラスでは日産が同年4月に発売し既に市場で好評を博していたサニー1000のトヨタの対抗馬であり、1000ccではなく100ccプラスの1100ccとしたことは、当時のトヨタ自動車販売の社長で「販売の神様」の異名を持つ神谷正太郎(1898年7月9日-1980年12月25日)が日産の1000cc大衆車開発中との情報を得て、セールスでは絶対有利となる排気量の100ccプラスを開発陣に強力に要請した結果、急遽1100ccに設計変更されたものであった。そのエンジンは、アルミ製のシリンダーヘッド、5ベアリング支持のクランクシャフトなど先進的なメカニズムを持つ新設計のK型直列4気筒ハイカムシャフトOHV1077ccで、これをキャブ側に20°傾けて搭載しエンジン全高と重心の低下を図り、サニーの56psを上回る当時としてはクラス最強の60psの出力を得た(最高速度もクラス最高の140km/h)。更にカローラは前輪サスペンションをマクファーソン・ストラット独立懸架とし、コラムシフト3速が一般的だった時代にあって全車フロアシフト4速としたことでも先進的であった。
堅実過ぎて日本人の一般大衆がクルマに持つ上昇意識とのギャップにより失敗したパブリカ(本シリーズ第195回記事参照)の苦い経験も積んだが故に当初から日本の一般大衆に「プラスαの魅力」を訴えるモデルとして開発され、クルマとして元々非常に優れた総合バランスを持っていたカローラは、果たして神谷正太郎の思惑通り、「プラス100ccの余裕」を派手に宣伝・広告フレーズとし発売後すぐにベストセラーカーの座に付いたのであった。
【初代カローラの変遷】
・1966年(昭和41年)11月5日: 2ドアのみ3グレード(デラックス・スペシャル・スタンダード)新発売
・1967年(昭和42年)5月13日: 4ドアモデルとライトバンおよびオートマチック(カローラ専用2速トヨグライド)仕様を追加
・1968年(昭和43年)4月5日: ツインキャブ装着により出力73ps最高速度155km/hに引き上げたスポーツグレード「SL」(Sporty&Luxuryの意味)を追加
・1968年(昭和43年)5月1日: ファストバック・ボディの「カローラ・スプリンター」を追加(別項にてご紹介予定)
・1969年(昭和44年)2月12日: 64psエンジン搭載の新グレード「ハイデラックス」追加
・1969年(昭和44年)9月1日: 3K型1166ccエンジン搭載の「1200」を追加
・1970年(昭和45年)5月6日: 2代目KE20系カローラにバトンを渡し生産終了
この間、1970年3月にカローラは発売開始から僅か3年5ヵ月にして100万台目をラインオフした。この記録は正に驚異的なもので日本車のミリオンセラー達成の最短記録となった。初代カローラは1968年12月10日に東京・府中で発生した三億円事件で犯人が盗難車を複数台使用したことでもよく知られる。
【主要スペック】 1966年 トヨタ カローラ1100デラックス KE10D型 (1966 Toyota Corolla 1100 DX Type.KE10D)
全長3845㎜・全幅1485㎜・全高1380㎜・ホイールベース2285㎜・車重710kg・FR・モノコック2ドアボディ・K型水冷4気筒OHV1077cc・圧縮比9.0・最高出力60ps/6000rpm・最大トルク8.5kgm/3800rpm・前輪独立サス・変速機4速フロアMT・ブレーキ4輪ドラム・乗車定員5名・燃料タンク容量36L・平坦路定速走行燃費22km/L・パワーウェイトレシオ11.83kg/hp・ゼロヨン19.7秒・最高速度140km/h・東京店頭渡販売価格49万5000円
●1966年10月 トヨタ自動車 乗用車総合カタログ (A4判・12頁)
第13回東京モーターショーのトヨタ乗用車ブースで配布された総合パンフ。デビュー直後のカローラが表紙を飾り、発売を翌年に控えたトヨタ2000GTも見開きで掲載されている。
●1966年10月 トヨタ カローラ 本カタログ (縦297×横242㎜・24頁)
カタログNo.30023。最初の本カタログ。表紙の文字配置に発行時期によりバリエーションがある他、トヨタ博物館発行の復刻版も出ている。この時期のトヨタではカタログNoの2桁目が「0」(ゼロ)の場合が本カタログ、2桁目が「1」(イチ)の場合が簡易カタログまたは特定グレード等の専用簡易カタログと区分けされている。
【中頁から】
デラックス
中間グレード「スペシャル」
サイドモールが付かずハブキャップもシンプルなスタンダード
丸型2連メーターのダッシュボード
K型1100cc60psエンジン
透視図
テールライトとホイルキャップ。ウインカーがテールライトと同色の赤が主流だった時代に視認性の高い橙色とした。
初期のボディカラーは9色
スペック&図面
●1967年7月 トヨタ カローラ 本カタログ (縦297×横242㎜・28頁)
カタログNo.30027。初版は67年5月発行と思われる本カタログ。同じカタログで印刷時期の違いから発行年月の印字が異なるカタログはトヨタ以外でも多数存在する。4ドアとオートマ「トヨグライド」仕様を追加。
【中頁から】
4ドア・デラックス
4ドア・スタンダード
●1967年7月 トヨタ カローラバン 簡易カタログ (縦297×横242㎜・3つ折6面)
カタログNo.31018。デビューから半年少し遅れて追加されたバンもよく街で見かけるクルマだった。バンはデラックスとスタンダードの2グレード。エンジンはセダンと同じK型1100cc60ps。
●1967年7月 トヨタ カローラバン 本カタログ (縦297×横242㎜・16頁)
カタログNo.30028。
【中頁から】
バン・デラックス
バン・スタンダード
●1967年7月 トヨタ カローラ2ドア 専用カタログ (縦297×横242㎜・3つ折6面)
カタログNo.31019。新たに追加された4ドアの専用カタログも出ている模様。
●1967年12月 トヨタ カローラ オートマチック専用カタログ (縦300×横240㎜・3つ折6面)
カタログNo.31017。オートマチック新発売の文字と上掲のバン簡易カタログと連続するカタログNoからして初版の発行は67年5月~7月と思われる。クラウンやコロナのトヨグライドとは異なりカローラ専用に開発された2速オートマで外観上はトランク左側に「Toyoglide」のバッチが付く。
【中面から】
トヨグライド・セレクトレバー
ゴーストップの多い市街地でもオートマなら楽です。
踏切通過も楽々。横切る車両は小田急旧塗装?
トランク左側にオートマ車を示す「Toyoglide」のバッチ
●1968年5月 トヨタ カローラ 本カタログ (縦297×横242㎜・20頁)
カタログNo.30040。マイナーチェンジ。フロントグリルのパターンが繊細な縦線から縦線2本ずつが並んだ力強い印象のデザインに変り、フロアのみだった変速機にコラムシフトを追加。ボディカラーはデビュー時の9色から7色に減少。
【中頁から】
デラックス
スタンダード
4速コラムシフトを追加
運転席の美女
ボディカラーは7色に減少。
●1968年4月 トヨタ カローラ 簡易カタログ (縦297×横242㎜・3つ折6面)
カタログNo.31023。
●1968年4月 トヨタ カローラSL専用本カタログ (縦297×横242㎜・12頁)
カタログNo.30039。圧縮比を10.0に上げツインキャブを付けた73psエンジン最高速度155km/hのSL。運転席は3本スポークの木目ステアリング・ホイールと木目シフトノブにタコメーターが付き、外観上は砲弾型フェンダーミラーを装着。
【中頁から】
「SL・・・そこにすわるとき、誰もが若者になる!」
●1968年7月 トヨタ カローラSL専用簡易カタログ (A4判・2つ折4面)
カタログNo.31026。上掲SL専用の簡易版。表紙には73馬力・155キロ・ゼロヨン17.5秒の文字が躍る。
●1969年4月 トヨタ カローラ 本カタログ (縦297×横242㎜・24頁)
カタログNo.30044。2回目のマイナーチェンジ。フロントグリルは中央に太いバーが入り左右2分割のイメージとなった。SLとデラックスの間に64psエンジン搭載の新グレード「ハイデラックス」を追加。初版は69年2月と思われる。
【中頁から】
デラックス
1969年4月1日に道路運送車両の保安基準が改正され、日本国内で生産された普通乗用車の運転席にシートベルトを設置することが義務付けられたことにより、シートベルトは全車装備標準となった。
●1969年2月 トヨタ カローラ 簡易カタログ (縦297×横242㎜・12頁)
カタログNo.31032。上掲の簡易版。
●1969年3月 トヨタ カローラ ハイデラックス・SL 専用本カタログ (縦297×横242㎜・12頁)
カタログNo.30046。新グレード「ハイデラックス」と「SL」だけが掲載された変則カタログだが、カタログNoの2桁目が「0」(ゼロ)であることから簡易でなく本カタログとして発行されたようだ。
【中頁から】
SLとトヨタ7
SL運転席とトヨタ7
★オマケ(その1): 米澤玩具 ダイヤペット160番 1/40スケール 1966年 トヨタ カローラ1100
全長9.7cm。アンチモニー製(?)。当時定価550円。グリルがプラ製となった2ndモデルも出ています。ダイヤペットでは同時期に162番のトヨタ2000GTも定価550円で売られており、実車の世界では当時5倍近い価格の差のあった2車がミニカーの世界では同じ価格で売られていたということになります。初代カローラのミニカーは近年、エブロ、トミカリミテッドヴィンテージ、国産名車(ノレブ)からもリリースされていますが、当時モノはダイヤペットのみ。このミニカー、よく見ると経年変化でルーフの塗装に無数のひび割れが発生しています(バリッと塗膜が剥がれる前に全体にクリアーを吹くなどするのが良いものでしょうか)。カラーバリエーションは赤、紺、グレイなど。
★オマケ(その2): 寺井商店 1/12.8スケール 1966年 トヨタ カローラ1100
全長30cm。ブリキ製。当時定価:都内350円。菱型にDAIYAの商標で有名な台東区寿の寺井商店=ダイヤ製のカローラ。これは1970年代の終わり頃に玩具店で発掘したモデル。初代カローラのブリキモデルの中では一番スケールが大きく、全体の造形も実車のイメージをよく捉えた傑作。ボディ上部を別パーツとせず一体プレス仕上げ。「5・1100」のライセンスナンバーのプリントが魅力的。カラーバリエーションは白灰、赤茶。初代カローラはブリキモデルとして今回のオマケで御紹介する通り各社で競作されているが、全てデビュー当初の2ドアをモデル化しており、67年に追加された4ドアのモデル化はされていない。
★オマケ(その3): 高徳商事 1/14.5スケール 1966年 トヨタ カローラ1100デラックス
全長26.5cm。ブリキ製。当時定価:全国330円。菱型にT.Tの商標でマスコミ玩具でも有名な「タカトク」のカローラ。これも70年代の終わりに玩具店で発掘したモデル。オマケ2と同様にボディ上部まで一体プレスされ、実車通りに3色にプリントされたテールライトが特徴。カラーバリエーションは白、赤。タカトクのみ箱および本体ナンバープレートにデラックスの表示あり。但し他社製品も明記がないだけで、サイドモールが付いていることなどからデラックスグレードをモデル化している。
★オマケ(その4): 野村トーイ 1/14スケール 1966年 トヨタ カローラ1100
全長27cm。ブリキ製。当時定価:都内300円・全国330円。品番248。カラーバリエーションは赤、青メタ。警視庁パトカーのバリエーションあり。
野村トーイのカローラ警視庁パトカー仕様
★オマケ(その5): 米澤玩具 1/13.2スケール 1966年 トヨタ カローラ1100
全長29cm。ブリキ製。当時定価:都内350円・全国380円。品番544。これも警視庁パトカーのバリエーションあり。1stモデルはサイドマーカー、プリントされたホイルキャップ(実車とは異なるセンターに「T」の文字入りながら良い雰囲気)、赤塗りのテールライトだったものが、2ndモデルではコストダウンが図られサイドマーカーが省かれて汎用のホイルキャップを付け、テールライトがメッキパーツに変更された。フェンダーミラーも1stは実車の「SL」グレードのような砲弾型、2ndモデルでは寺井商店や高徳と同じ角型汎用パーツに変更されている。カラーバリエーションは白、赤。
サイドマーカー等が付く1stモデル
コストダウンが図られた2ndモデル
米澤2ndモデルのバリエーション「カローラ警視庁パトカー」(品番545)はビンテージ玩具市場に殆ど現れないレアモデル
★オマケ(その6): バンダイ 1/17スケール&1/21スケール 1966年 トヨタ カローラ1100
全長22.5cm(大)、18cm(小)。ブリキ製。当時定価:大=都内670円・全国700円、小=都内600円・全国630円。バンダイは初代カローラを大小2サイズの何れもリモコン仕様のみでリリースした。大サイズは1960年代のバンダイのヒット商品「ハンドルリモコンシリーズ」、小サイズは「ポケットリモコンシリーズ」の1台。カラーバリエーションは大サイズが赤と白、小サイズが赤・白・空色など。
★オマケ(その7): 1966年トヨタ カローラ1100 テレビCM
デビュー時のテレビ・コマーシャル。まだ白黒テレビの時代でカラーテレビは普及していなかった。カラーテレビが白黒テレビの数を初めて上回ったのは1973年。
★オマケ(その8): 1967年トヨタ カローラ1100 テレビCM
ジョン・レノンと同じ1940年生まれで当時26~27歳の竜 雷太さん出演。弓矢より出足の速いカローラという内容の有名なコマーシャル。
★1966年 ダットサン サニー1000 CS戦争の始まり ~ 自動車カタログ棚から 298
★もう今年も残すところ10日。年末は普段会えない人に年賀状を書いたり家の大掃除をしたりお正月の準備をしたりと何かと忙しい人が多いと思います。私も年末は何かとやるべきことが多くて忙しく、それでも時間をつくって何とか「自動車カタログ棚から」の300回目アップを目指して頑張りたいと思います。
これまで1円の収入にもならないにも関わらず空いた時間にコツコツと時間をかけて記事をつくりアップしてこられたのは不思議と言えば不思議なのですが、公開されていない古いカタログなどの情報を出来る限りWeb上に記録として残しておきたいことと、顔は見えなくとも記事のアップを楽しみにしてくださっている人がいることが継続できた理由のような気がします。でも、実は300回を区切りに自動車カタログの記事は一休みしたい気持ちがあります。自動車カタログも未紹介のものがまだ沢山ありますが、来年は自動車カタログの記事よりもミニカーやブリキ自動車の紹介記事、玩具・模型カタログの記事、古い乗物の描かれた絵本の紹介記事などが増えるかもしれません。
★閑話休題
今回は前回記事「初代トヨタ カローラ」のライバル「初代ダットサン(日産)サニー」をご紹介します。カローラのライバルであったサニーの車名は惜しくも日本国内では2004年(平成16年)に消滅しているので、あるいは今ではサニーの車名を知らない人が多いのかもしれません。個人的にはサニーというと、6代目サニーB12型(1985年9月~1990年1月生産)のテレビCMでビートルズやジョン・レノンの曲が使われていたのが思い出深いです。
最初のサニーは初代カローラと同じ1966年(昭和41年)=ビートルズ来日の年にデビュー、来年2016年には生誕50周年を迎えます。例によってカタログは発行されたもの全ては手元にないため、あるものだけを駆け足でご紹介します。また初代サニーには、セダンの他にクーペ、バン、トラックのボディ・バリエーションがありますが今回はセダンのみをご紹介することとします。
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★「サニー」(SUNNY) の車名は、英語で「太陽の光」「太陽がいっぱい」「陽気で快活」といった意味。日産が新型コンパクト・ファミリーカー発売に向けて1965年(昭和40年)12月~1月にかけて全国紙等にて車名が一般公募され、応募総数848万3105通の葉書の中から選考され、1966年(昭和41年)2月19日に東京・千駄ヶ谷の東京都立体育館で「サニー」の車名発表会が開催された。その発表会には、何と日産自動車の創業者で当時満85歳の鮎川義介(1880年11月6日-1967年2月13日)も立ち会った。サニーの車名決定は日産初の車名公募というスタイルによる発売前のティーザー(teaser=じらす)キャンペーンとなった。最初のカタログには、「SUNNY!お日様のように陽気で快活。誰からも愛されたいのです。サニー!この名は永遠に・・・史上最大のご応募850万通の賜物です。」と記載されている。
★初代サニー(B10型)がプレス発表されたのは1966年(昭和41年)4月7日であった。追って4月23日より「ダットサン・サニー」の名称で全国で発売された。
1965年の日本ではマツダファミリア、ダイハツ・コンパーノベルリーナ、三菱コルト800/コルト1000、スズキフロンテ800といった800~1000cc大衆クラスの新車が続々と生まれていたが、日産には1300ccクラスのブルーバードより下のクラスの乗用車が存在しなかった。SV750ccでスタートした戦後のダットサンも初代310ブルーバードの時代に1200ccが販売のメインとなり、2代目410ブルーバードでは最初のMC後に1300cc(および1600SSS)となり、1000cc以下の庶民に手が届く大衆車が存在しなかったのである。
そこで開発されたのが、プレーンかつクリーンなボディに新開発の4気筒1000ccA型エンジンを搭載したサニーであった。機構的にはオーソドックスながら、癖がなく万人向けであり、軽くよく回るA型エンジンによりキビキビとよく走るスポーティーな味わいを併せ持っていた。
★しかし、トヨタがプラス100ccのカローラ1100を約半年遅れで市場に投入するとサニーは少々苦戦を強いられることとなった。
初代サニーのカタログでは、「我が国の税制では1000ccを例え1ccでも超えると税金が跳ね上がります」「馬力当り重量11.2kgはクラストップ」「サファリラリーのような過酷な競技に参加したメーカーのクルマだけが本当に信頼できます」といった明らかにカローラを意識したと思われる文章表現が見られる。カローラより65~85kgも車重が軽く、キビキビと走るのがサニーのセールス・ポイントであった。
カローラ同様、サニーも当初は2ドアセダンのみでデビューし1967年(昭和42年)4月に4ドアとオートマを追加、1968年(昭和43年)3月に若者向けのスポーティーなクーペを追加、1969年(昭和44年)8月にデラックスの更に上のグレード「GL」を追加という変遷は殆ど初代カローラも同じであり(時期的には何れもカローラの方がやや遅い)、如何に当時のCS戦争(カローラVSサニー販売合戦)が熾烈であったかが窺い知れる。
初代サニーは、3年9ヵ月生産された後、1970年(昭和45年)1月6日に2代目B110型にバトンを渡した。これは初代カローラが同年5月6日に2代目にフルチェンジするより丁度4ヵ月早く、サニーは1200ccがメインとなり今度は日産が「隣のクルマが小さく見えます」とカローラを意識したキャンペーンをおこなったのであった。
【初代サニーの変遷】
・1965年(昭和40年)12月: 車名を一般公募
2ドアのみ3グレード(デラックス・スペシャル・スタンダード)新発売
・1966年(昭和41年)2月19日: 車名を「サニー」と公表
・1966年(昭和41年)4月23日: 2ドアのみ2グレード(デラックス・スタンダード)にて新発売
・1966年(昭和41年)10月22日: 改良(ボディカラー追加他)
・1967年(昭和42年)4月12日: 4ドアモデルと4速フロアシフトの「スポーツ」およびオートマチック(3速ニッサンフルオートマチック)仕様を追加
・1967年(昭和42年)7月8日: マイナーチェンジ(フロントグリル等意匠変更)
・1968年(昭和43年)3月2日: ファストバック・ボディの「サニー・クーペ」を追加(別項にてご紹介予定)
・1968年(昭和42年)10月21日: マイナーチェンジ(フロントグリル等意匠変更)
・1969年(昭和44年)8月20日: 豪華かつスポーティーな新グレード「GL」(Grand Luxury)追加
・1970年(昭和45年)1月6日: 2代目B110系サニーにバトンを渡し生産終了
【主要スペック】 1966年 ダットサン サニー1000 (1966 Datsun Sunny 1000 DX Type.B10)
全長3820㎜・全幅1445㎜・全高1345㎜・ホイールベース2280㎜・車重645kg・FR・モノコック2ドアボディ・A10型水冷4気筒OHV988cc・圧縮比8.5:1・最高出力56ps/6000rpm・最大トルク7.7kgm/3600rpm・変速機3速コラムMT・ブレーキ4輪ドラム・前輪独立懸架・乗車定員5名・燃料タンク容量35L・平坦路定速走行燃費23km/L・最小回転半径4m・電装系12V・パワーウェイトレシオ11.2kg/hp・ゼロヨン20.6秒・最高速度135km/h・東京店頭渡販売価格46万円
●週刊サンケイ臨時増刊「1000万人の乗用車 1966年春季 4月10日号」 表紙 (A4判)
表紙は紺色のサニー1000デラックスと浜 美枝さん(?)。シンプルな横線基調のフロントグリルは同時期の日産車、プレジデント150型、ブルーバード411後期、シルビアCSP311ともよく似ている。この写真の車両はどうやら試作車のようでグリル中央の「D」文字のエンブレムが付かず市販車以上にシンプルに見える。
●1966年4月 ダットサン サニー1000 発売直前広告 (A4判)
1966年3月26日印刷・4月1日発行 日産広報誌「ニッサングラフ1966年4月号」より。この広告写真ではフロントグリル中央に市販車と同じエンブレムが付いている。
●1966年4月 ダットサン サニー1000 簡易カタログ (A4判・2つ折4面)
この時期の日産のカタログには発行ナンバーや発行年月の印字がなく、発行時期は全て内容から推定。サニーのカタログはグレード毎等の簡易版の数も多い。
●1966年4月 ダットサン サニー1000 準本カタログ (縦24×横24cm・12頁)
詳しいスペックの掲載がなく頁数が少な目の簡易カタログと本カタログの中間のようなカタログ。末尾には「ボーナス月を中心に月々4000円の日産ローンで・・・お求めは冷蔵庫より簡単。日産信用保証株式会社がご便宜をお図りします」との記載あり。当時の4000円は2015年現在ならざっと10倍の4万円位だろうか。
【中頁より】
駅の改札で(上)、雨の日の幼稚園のお迎えで(下)
リアビュー。テールライトは、プレジデント、シルビア、2代目ブルーバード最終型とも似たシンプルな横長デザイン。
家族でドライブ
裏表紙
●1966年4月 ダットサン サニー1000 本カタログ (A4判・20頁)
最初の本カタログ。シンプル&クリーンなサニーのキャラクターがこのカタログのデザインにも表れている。初期のボディカラーは赤、白、青の3色のみ。
【中頁から】
デラックス
スタンダード
運転席。メーターパネルは2代目ブルーバードとも似たデザイン。
回転半径4mを活かして410ブルーバードと130セドリックの間に縦列駐車
A型1000cc56psエンジン
図面&スペック
●1966年? ダットサン サニー1000 販売会社発行チラシ (B5判・両面1枚)
日産サニー岐阜の発行。裏面には岐阜市東興町39の競輪場電停前の日産サニー岐阜本社、羽島郡岐南町の岐阜女子高前の岐南営業所、大垣市南頬町5丁目の名神入口近くの大垣営業所、多治見市前畑町3丁目の多治見営業所、高山市松本町249の高山営業所の地図が印刷されている。約半世紀を経た同地点が現在も日産の営業所として残っているかどうか調べてみるのも面白そうだ。
●1966年? ダットサン1000 英文カタログ (A4判・2つ折4面)
NISSAN MOTOR FOREIGN TRADE DIVISION発行。2ドアセダンとバンを掲載。エンジン出力は62HP。輸出向けにはサニーのペットネームが付かない。
●1966年10月 ダットサン サニー1000 簡易カタログ (縦22×横23cm・3つ折6面)
ボディカラー変更。ニッサンレッドと呼んでいたのがサンライズレッド、ニッサンホワイトと呼んでいたのがサンシャインホワイト等と呼称が変った上、グレイとブラウンが追加され計5色に。呼称が変ったカラーは色合いも変ったように見える。
●1966年10月 ダットサン サニー1000 本カタログ (縦30×横25cm・20頁)
上掲の簡易カタログと同時期のボディカラーが変更された際の本カタログ。
【中頁から】
デラックス
スタンダード
ボディカラーが3色から5色に増加
●1967年4月 ダットサン サニー1000 本カタログ (縦30×横25cm・22頁)
4ドア、3速コラムのニッサンフルオートマチック仕様、4速フロアシフトの「スポーツ」を追加。
【中頁から】
4ドアを追加
4速フロアシフトの「スポーツ」を追加
コラム3速オートマを追加
●1967年4月 ダットサン サニー1000 「ニッサン フルオートマチック」専用カタログ (縦26×横24cm・8頁)
ニッサンフルオートマチックの専用カタログ。表紙の女性が時代を感じさせるが、女性でも楽に運転できることをアピールしている。ニッサン フルオートマチックはセドリックやブルーバードに採用していたボルグワーナー(B-W)自動変速機の経験を活かし、日産が独自開発した3速フルオートマ。出力や燃費のロスの多い2速オートマ(ライバルのカローラが採用)に比べて加速も燃費もよいと記載されている。
【中頁から】
オートマ車はトランク左端に「Full Automatic」のバッチが付く。
●1967年10月 ダットサン サニー1000 本カタログ (縦30×横25cm・20頁)
マイナーチェンジ。フロントグリルが複雑なパターンとなり初期のシンプルな味わいが消えた。グリル中央のエンブレムとステアリングホイール中央のマークはダットサンを示す「D」からサニーを示す「S」に変更された。メーター周りも小変更され、ダッシュパネルには安全パッドが入った。
【中頁から】
2ドア
4ドア
スポーツ。トランク左には「SPORTS」のバッチが付く
コラム3速オートマ
安全パッド入りダッシュなど内装を変更
●1967年10月 ダットサン サニー1000スポーツ 専用カタログ (縦30.5×横22.5cm・3つ折6面)
カローラが全車フロアシフトでデビューしたのに対して、サニーはコラムシフトのみでデビューし、サニーの4速フロアシフト車はノーマルの56psエンジンのままで「スポーツ」を名乗った。カローラSLがツインキャブを付け出力を大幅に上げたのとは対照的だが、このカタログには「1100cc国産C車」がゼロヨン19.7秒なのに対してサニーは19.6秒とコンマ1秒カローラより速いことが謳われている。
【中面から】
ゼロヨン19.6秒
●1968年10月 ダットサン サニー 総合本カタログ (縦30×横25cm・24頁)
2度目のマイナーチェンジで再びフロントグリルが変り、前年よりはシンプルな印象のデザインとなった。1968年3月発売の「サニー・クーペ」も掲載された総合カタログ。1968年5月の第5回日本グランプリの優勝車ニッサンR381も掲載されている。
【中頁から】
サニーのA型1000ccエンジンと第5回日本グランプリの覇者ニッサンR381
ストライプ等スポーツオプション装着車
バリエーション4種(4ドア・2ドア・スポーツ・オートマ)
●1969年8月 ダットサン サニー 総合本カタログ (縦30×横25cm・24頁)
クーペと似たグリルを付け砲弾型フェンダーミラーを付けたGLを追加。しかし、何故かエンジンはクーペの60psを載せず、セダンは最後まで56psのまま変えられなかった。1969年の第17回サファリラリーに出場したサニー1000の写真も掲載されている。同年のサファリでは510ブルーバードが総合3位となった。
【中頁から】
4ドアGL
2ドアGL
1000ccエンジンと第17回サファリラリーの赤塗装に黒ボンネットのサニー1000。
裏表紙
★オマケ(その1): 米澤玩具 ダイヤペット154番 1/40スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長9.3cm。アンチモニー製(?)。当時定価500円。1967年4月発売。ボンネット、トランク、ドア開閉アクション付。初代サニーのミニカーは近年、エブロ、書店売りの日産名車(ノレブorイクソ)からもリリースされていますが、当時モノはダイヤペットのみ。プラモデルでは三共が1/32スケールの国産車シリーズで出来の良い製品を出しています(緑商会の再販版あり)。この時期のダイヤペットはホイールが経年劣化で曲がって折れてしまうことがしばしばあり、画像のターコイズも前輪が完全にハの字となり、いつポキっと折れてもおかしくない状況。薄茶の方は70年代の終わり頃に八丁堀のミニカーショップ「コジマ」で入手後35年以上を経ていますが、あまり劣化は見られないので個体差が大きいようです。カラーバリエーションは赤、薄茶、ターコイズなど。
★オマケ(その2): 増田屋齋藤貿易 1/13.5スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長28.3cm。ブリキ製。当時定価:都内280円・全国310円。初代サニーをモデルとした玩具では最も大きな製品で出来も良い。初版はテールライトの周囲にメッキパーツ付。カラーバリエーションは赤、紺。初代サニーはモデル玩具として今回のオマケで御紹介する通り各社で競作されているが、全てデビュー当初の2ドアをモデル化しており、カローラの玩具と同様に67年に追加された4ドアのモデル化はされていない。
右の赤ボディがテールライトにメッキ枠付きの1stモデル、左の紺ボディが2ndモデル。
★オマケ(その3): 野村トーイ 1/17.5スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長26.5cm。ボディ:ABS製、シャシー:ブリキ製。当時定価:都内210円・全国230円。品番228。プラ系素材で再現された出来の良いモデル。これは20年程前に札幌の某テレビ局の倉庫で複数発見されたもので、おそらく番組撮影用の小道具として使われたものが用済後にそのまま長期間倉庫に眠っていたものと推察。ボディカラーは赤のみ。
★オマケ(その4): バンダイ 1/17スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長22.3cm。ブリキ製。当時定価:都内230円・全国250円。このフリクション版の他に都内売価500円のリモコン版もリリースされている。カラーバリエーションは赤、白、空色等。
★オマケ(その5): イチコー(一宏工業) 1/16スケール 1966年 ダットサン サニー1000デラックス
全長23.8cm。ブリキ製。当時定価:都内300円・全国330円。70年代後半まで市場在庫が見られた製品。初版はドアが開閉しドアには内貼りが付きシートがリクライニングしホイルキャップが専用のプリントパーツが付く。70年代の再販品ではドア開閉はなくなりホイルキャップはメッキの汎用タイプに変更されている。カラーバリエーションは赤、青、緑。
★オマケ(その6): アサヒ玩具 1/21スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長18.5cm。ブリキ製。当時定価:都内110円・全国120円。駄玩に近いチープな造り。一応サニーには見えるといったレベルの製品。元々、グリルや窓枠のメッキが薄く、綺麗に残っているものは見かけない。カラーバリエーションは赤、白、青メタ。
★オマケ(その7): 日産名車コレクション No.2 1/43スケール 1966年 ダットサン サニー1000
全長9cm。ダイキャスト製。これは近年、書店売りされたシリーズの1台。1/43スケールではエブロからもリリースされているが、細身なフォルムと実車を彷彿とさせる濃紺のボディカラーが何とも秀逸でエブロより遥かに安価ながらもエブロ以上に出来が良いモデル。
★オマケ(その8): 1969年 子供の頃につくった自動車図鑑のダットサン サニー1000
1969年夏、小4の夏休みに自動車ガイドブック等を参考にして自分で作った自動車図鑑に描いたサニー(下)。上はフェアレディ2000(SR311)。今でも子供の頃とやっていることがあまり変わらないです(笑)。
★オマケ(その9): 1966年~1970年 サニー&カローラ TVコマーシャルル
1966年4月の初代サニーとプラス100ccの余裕のコピーで登場した初代カローラ1100、そして1970年の「隣のクルマが小さく見えます」でカローラに巻き返しを図った有名な2代目サニー1200のテレビCM集。
★1966年 スバル1000 革新的なFF小型車デビュー ~ 自動車カタログ棚から 299
★東京も年の瀬らしく寒くなってきました。今回の記事をアップしようとしたところ、何と「記事内容は半角4万字以内で作成してください」という表示が出てアップ不能でしたので大幅に内容を削った上でアップすることとします。
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★スバルのルーツである中島飛行機は、1917年(大正6年)、中島知久平(なかじまちくへい:1884年1月1日-1949年10月29日)により群馬県尾島町に「飛行機研究所」の名称で設立された(相前後して東京帝国大学に同名の研究機関が出来たため、1918年に「中島飛行機研究所」と改名)。
研究所設立時に33歳だった中島知久平は、「航空機こそが日本の未来を拓く」と予見していた。その後、中島は1930年(昭和5年)には政治家に転じ、鉄道大臣、商工大臣等を務めた。中島は豊富な欧米視察の経験がありアメリカの国力をよく知っていたことから、日本の力ではアメリカには太刀打ちできないと当初は太平洋戦争には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝で浮く日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる超大型爆撃機「富嶽」)の製造を提言するも終戦前年の1944年まで政府に無視された後、計画は破棄された。何と中島和久平は65歳で亡くなるまで独身を通し、妻を娶らなかった(但し、和久平の身の回りの世話をしていた女性との間に生まれた子供2人を長女・長男として自分の籍に入れた)。
★戦後、中島飛行機は富士産業と社名を変更したが、民需転換は文字通りゼロからのスタートとなった。
ギリシャ神話に登場するイカロスの如く航空機製造という翼を失った中島の技術者達は暗中模索の中で自転車、リヤカー、小型モーター、製粉機といった様々なモノ造りを始めた。
1950年(昭和25年)8月、旧中島飛行機の富士産業は財閥解体の対象となり12の会社に分割されたが、1953年(昭和28年)7月にはそのうちの5 社が合併して富士重工業が誕生した。その前年の1952年(昭和28年)に「航空機製造法」が成立し、航空機工業再開への見通しも僅かながら開けてきた。そこで中島飛行機時代の旧友達が集まり、一緒に自動車を作りつつ、やがては再び飛行機を開発しようという機運が生まれ、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮冨士工業、宇都宮車両の5社の共同出資により「富士重工業」が設立されたのである。現在のスバルのマークである「六連星」(むつらぼし)は6つの会社が統合したのではなく、5つの会社を統合して富士重工業という更にひとつの大きな会社が生れたことを意味している。マークの星がひとつだけ大きいのはそのためである(プレアデス星団=すばる星団の中で最も明るく輝くアルキオネに当る)。富士重工創業50周年記念の2003年7月15日を期に従来の丸にフの字のマークより認知度の高くなったこの六連星が新たなコーポレートマークとして使用されることとなった。
★スバルの名称が初めて使われたのは1954年(昭和29年)2月から1955年(昭和30年)にかけて計20台が試作された初の乗用車「スバル1500」(開発コード:P-1)である。
20台のうち6台は太田、伊勢崎市内のタクシー会社に特別に販売されタクシーとして実用に供され乗心地の良さが好評であった。しかしスバル1500(P-1)は量産化されることはなかった。トヨタのクラウンと肩を並べるモデルを量産するには、当時の富士重工では生産能力も販売力も弱く時期尚早、余りにもリスクが高いと判断されたからである。
正式な市販車として最初にスバルの車名が使用されたのは1958年(昭和33年)5月発売の名車「スバル360」(本シリーズ第54回記事参照)であった。そして、スバルの名称はスバル450、軽商用車スバルサンバーと相次いで使用された後、1966年(昭和41年)5月14日にFFの革新的な小型車が「スバル1000」(開発コード:63A)の名称で発売された。
★スバル1000は、RR(リアエンジン・リアドライブ)のスバル360とは一転してFF(フロントエンジン・フロントドライブ)となり、その技術力の高さは専門家達を唸らせた。
ボディ前端に縦置きされた軽量かつ低重心の水平対向4気筒エンジンで前輪を駆動する極めて合理的なレイアウトは後年アルファスッドにより忠実に模倣され、戦前より日本車は欧米車のコピーとも言われてきた歴史の中で反対に海外に技術をコピーされる日本車が生まれたのである。スバル1000の開発統括責任者はスバル360と同じ名技術者・百瀬晋六(ももせしんろく:1919年2月20日-1997年1月21日)であった。百瀬が心酔していたと言われるシトロエンDSの存在がスバル1000の開発に影響を与えたとも言われるが、「等速ジョイント」の完成形の一つと言えるダブル・オフセット・ジョイント(D.O.J)を世界で初めて実用市販化しFF(FWD)の欠点を克服したスバル1000を完成させた百瀬の功績は大きい。
★スバル1000の発売により富士重工は、それまでの軽自動車メーカーの枠を超えて小型車市場へのエントリーを果たし、本格的な自動車メーカーとしての第一歩を踏み出した。
確実に時代の数歩先をいくスバル1000であったが、普通・凡庸であることを美徳とする日本人には敬遠される結果ともなり当初の販売は苦戦した。しかし、伊藤忠商事との販売連携やスバル360からの乗り換え需要が増えたこと、市場での高評価が浸透した1969年(昭和44年)3月には月4000台以上を売る存在となった。市場に出た数はけっして少なくはなかったスバル1000シリーズだが今日ではパーツの供給状況が絶望的に悪く旧車として維持することは難しいクルマの一つと言われる。
スバル1000の発売された1966年(昭和41年)はサニー、カローラのデビューした年でもあり、モーターリゼーションが爆発的に進展した「マイカー元年」とも言われる。サニー、カローラより技術的には遥かに先進的であったスバル1000はやがてスバリストというコアなファンをも生むこととなり、水平対向エンジンやFF(という語も元々はスバル社内で使われていたものという)といった技術は現在のスバル車にも受け継がれている。
【スバル1000/スバルff-1/スバル1300Gの変遷】
・1963年(昭和38年)9月: 社内開発コード「63-A」として小型車の開発スタート
・1964年(昭和39年)11月: 第一次試作車4台完成
・1965年(昭和40年)10月21日: プレス発表(東京赤坂ヒルトンホテルにて)
・1965年(昭和40年)10月29日~~11月11日: 第12回東京モーターショーにて一般公開(東京・晴海)
・1966年(昭和41年)5月14日: 4ドアのみデラックス・スタンダード・スーパーデラックスの3グレードで発売
・1967年(昭和42年)2月25日: 2ドア発売
・1967年(昭和42年)9月: バン発売
・1967年(昭和42年)11月25日: ツインキャブ67psの「スポーツ」発売
・1968年(昭和43年)8月1日: デラックスのフロアシフト仕様追加
・1968年(昭和43年)11月1日: スーパーデラックスのフロアシフト仕様追加
・1969年(昭和44年)3月1日: 1088ccのff-1にマイナーチェンジ
・1969年(昭和44年)10月6日: 4ドアのスポーツグレード「スーパーツーリング」追加
・1970年(昭和45年)7月10日: 1267ccのff-1・1300Gにマイナーチェンジ
・1971年(昭和46年)4月22日: マイナーチェンジ
・1971年(昭和46年)10月15日: レオーネ1400クーペ発売に伴い、スポーツを生産中止
・1972年(昭和47年)2月19日: レオーネ4ドアセダン発売に伴い、1300Gおよびスーパーツーリングを生産中止
・1972年(昭和47年)4月22日: レオーネ2ドアセダン発売に伴い全車生産終了
【主要スペック】 1966年 スバル1000スーパーデラックス (1966 Subaru 1000 Super Deluxe)
全長3930㎜・全幅1480㎜・全高1390㎜・ホイールベース2400㎜・車重695kg・FF・EA52型水冷4サイクル水平対向4気筒OHV977cc・最高出力55ps/6000rpm・最大トルク7.8m・kg/3200rpm・圧縮比9.0:1・デュアルラジエター(冷却ファンなし)・変速機4速コラムMT・最小回転半径4800㎜・乗車定員5名・燃料タンク容量36L・時速40km定速燃費24km/L・電装系12V・青色熱線吸収ガラス・パワーウエイトレシオ:12.2kg/hp・最高速度130km/h・東京店頭渡価格58万円
●1965年10月 第12回東京モーターショーのスバル1000
二玄社「CARグラフィック」1965年12月号より。
●1966年 スバル1000 雑誌広告
二玄社「CARグラフィック」1966年12月号より。独特なルーフからリアにかけてのラインの良さとFFの特性を活かし雪道に強いことがアピールされている。
●1965年10月 スバル1000 モーターショーカタログ (縦25.2×横36.8cm・2つ折4面)
第12回東京モーターショーで配布された巨大なカタログ。スペックの掲載はなし。白地のため汚れやすく、巨大なため折れやすいという良い状態での保存が難しいカタログ。
中面: ホイールベースの長いプロポーションはダックスフントを思わせる。ホイールベース2400mmは当時の2代目50系スカイライン1500や2代目410系ブルーバードより長く、FFによりフロアがフルフラットであることもあり室内の広さは1.5リッタークラス以上であった。
裏表紙:リアビュー
●1966年5月 スバル1000 簡易カタログ (縦28×横29.8cm・8頁)
【中頁から】
広い室内
コンパクトな水平対向4気筒1000ccエンジン
ダッシュボード
スペック
●1966年8月 スバル1000 本カタログ (縦26.3×横30.4cm・20頁)
上掲の簡易カタログと同じ写真の表紙だが上部の文字の色が異なり、カタログ自体の判型も異なる。このカタログの初版は恐らく1966年5月。
【中頁から】
家族で洗車。お祖母さんが和装。
初期のボディカラーは4色のみ
●1967年2月 スバル1000 2ドアセダン専用 簡易カタログ (縦26.3×横30.4cm・3つ折6面)
2ドアが先に出たサニー、カローラとは反対にスバル1000は4ドアでデビューし2ドアが後から追加された。同時期に2ドアセダンのみの本カタログも出ている。
●1967年6月 スバル1000 本カタログ (縦26.3×横30.4cm・24頁)
2ドア追加後の総合本カタログ。このカタログは表紙を開くと「時代をひらく世界のFF車」と題して、ミニやシトロエンを始めとする世界のFF車が描かれている。
●1967年5月 スバル1000 簡易カタログ (縦26.3×横30.4cm・3つ折6面)
2ドア追加後の総合簡易カタログ。
【中面から】
ボディカラーはデラックス11色、スタンダード9色に増加
●1968年1月 スバル1000 簡易カタログ (縦26.3×横30.4cm・3つ折6面)
上掲の67年5月版簡易カタログの表紙左上にあった「新発売」の文字が消え、SUBARU1000の文字色が変わり、中面には67年11月に追加されたスポーツセダンも掲載された改訂版カタログ。
●1968年2月 スバル1000バン 専用本カタログ (縦26×横30.4cm・16頁)
初版は1967年9月と思われる、追加されたバン専用の本カタログ。バンは4ドアのみで2ドアの設定はなし。2名乗車時の最大積載量400kg。レガシィ・ツーリングワゴンや現在のレヴォーグの先祖に当るクルマ。
【中頁から】リアビュー
●1968年5月 スバル1000バン 専用簡易カタログ (縦26.3×横30.4cm・4つ折8面)
初版は1967年9月と思われる、追加されたバン専用の簡易カタログ。
●1968年5月 スバル1000スポーツセダン 専用簡易カタログ (縦26.3×横30.4cm・4つ折8面)
初版は1967年11月と思われる、ツインキャブ67psの追加されたスポーツ専用の簡易カタログ。EA53型977cc67psを搭載し、最高速度150km/h、ゼロヨン17.7秒(2名乗車時)。
【中面から】
スポーツのテールライトにはバックライトが組み込まれた。
丸型3連メーター
●1968年6月 スバル1000スポーツセダン 専用本カタログ (縦26.3×横30.4cm・22頁)
初版は1967年11月と思われる、スポーツ専用の本カタログ。
●1968年9月 スバル1000スポーツセダン 専用本カタログ (縦26.3×横30.4cm・12頁)
上掲の68年6月版カタログと一見同じ表紙だが、「Sports Sedan」の文字が赤から黄色に変わり、中の頁も一新された。このカタログ以前はライセンスナンバーが「品川5」だったものが、このカタログから「品川51」と二桁に変っている。
【中頁から】
ベレG同様、ルーフアンテナがそそる。
●1968年7月 スバル1000 フロアシフト 専用カタログ (縦26.3×横30.4cm・2つ折4面)
スポーツセダンと同じフロアシフト仕様がデラックス(4ドア/2ドア)に追加された際の専用カタログ。
●1968年11月 スバル1000 本カタログ (縦26.3×横30.4cm・24頁)
スポーツセダンと同じフロアシフト仕様をデラックスに続きスーパーデラックスにも追加した際の本カタログ。スポーツセダンを含むバン以外の全てのスバル1000が掲載され、60年代末のムードも現れた秀逸なカタログ。
●1969年3月 スバルff-1 本カタログ (縦33.5×横25.6cm・20頁)
EA61型1088ccを搭載したff-1にマイナーチェンジ。掲載グレードはスーパーデラックス、デラックス、スタンダード、スポーツ・セダン。
【中頁から】
●1969年7月 スバルff-1バン 専用本カタログ (縦33.2×横25.5cm・12頁)
バンもEA61型1088ccを搭載したff-1に変り、従来の4ドアバンに加えて2ドアバンも追加された。
【中頁から】
2ドアバンを追加
●1969年12月 スバルff-1 本カタログ (縦33.5×横25.6cm・20頁)
上掲の69年3月版カタログと同じ白い表紙のまま、中頁にスポーツと同じエンジンを積んだ4ドア版スポーツの「スーパーツーリング」が追加されたカタログ。グレードはスーパーデラックス、デラックス、スタンダード、スーパーツーリング、スポーツセダンの5種となった。
【中頁から】スーパーツーリング(上)を追加
●1970年1月 スバルff-1スポーツ 専用本カタログ (縦33.2×横25.5cm・16頁)
EA61S型1088cc77psエンジンを搭載したff-1スポーツ(2ドア)の専用カタログ。最高速度160km/h、ゼロヨン17.2秒。同時期にスーパーツーリング(4ドア)の専用カタログも発行されている。
【中頁から】
ボディカラーは白赤黄の3色
3連メーターが1つのフードに入れられた。
●1970年6月 スバルff-1 1300G/1100 本カタログ (縦31.5×横24.5cm・24頁)
マイナーチェンジ。EA62型1267cc80psエンジン搭載した「ff-1 1300G」がメインとなり、1300GにはGL・カスタム・デラックス・スタンダードの4グレード。セダン系は他に93psエンジンのスポーツ(2ドア)、スーパーツーリング(4ドア)と従来のEA61型1088ccエンジンを搭載したff-1 1100デラックスとスタンダードの計8グレード体制となった。このカタログは総合本カタログでセダン系に加えて1300Gバン、1100バンまで掲載。内外装は良くも悪くも70年代的になり、オリジナルのシンプルな味わいは消えた。
【中頁から】
超ミニの女性
ダッシュボード一新
バリエーション
●1970年6月 スバルff-1 1300Gスポーツセダン/スーパーツーリング 専用本カタログ (縦31.5×横24.5cm・12頁)
93psエンジン搭載のスポーツ(2ドア)、スーパーツーリング(4ドア)というスポーツ系2種のみの専用カタログ。
【中頁から】
フロントスポイラーやボンネットストラップがオプション
スーパーツーリング
スーパーツーリングのリアと豪華な室内
●1970年6月 スバルff-1 1300Gバン/1100バン 専用本カタログ (縦31.5×横24.5cm・12頁)
バンもA62型1267cc80psエンジン搭載し、4ドアの「ff-1 1300Gバン・デラックス」がメインとなり、1100バン4ドア/2ドアも併売された。表紙及び中の全編に美女が登場するナイスなカタログ。
【中頁から】
2ドア1100バン スタンダード
ミニスカ美女
●1971年6月 スバルff-1 1300G/1100 本カタログ (縦31.5×横24.5cm・24頁)
スバル1000のプラットホームを使用した車両の最後のマイナーチェンジ。この年の秋には新世代のレオーネ1400クーペがデビュー。最終年式では2本のクロームが左右に走るフロントグリルが基本となり、スポーツ系は左右に独立したクロームの囲いが付いた。2ドアのスポーツはキャップレスホイールとなった。変化のための変化といった様相を呈しており、オリジナルから比べると厚化粧が目立ちシンプルな美しさは影を潜めた。依然として1088cc62psを搭載したff-1 1100デラックスとスタンダードが残されセダン系は8グレード。このカタログは1300Gバン/1100バンも掲載された総合版。
【中頁から】
GL
スーパーツーリング
スポーツはキャップレス・ホイールとなった。
バンもセダンに準じた変更
●1970年 スバルff-1 スター・シリーズ カタログ (縦21.5×横28cm・英文2つ折4面)
SUBARU OF AMERICA発行の北米輸出向け車のカタログ。北米向けは「スター」(STAR)の車名で販売された。搭載エンジンはEA61型1100cc、ボディタイプは2ドア・4ドア・4ドアワゴンの3種。国内向けの69~70年型ff-1のグリルを付けた左ハンドル車。ドアミラー、サイドマーカーが大きいことなどが国内向けとは異なる。4ドアワゴンは国内向けバンの乗用仕様で国内では売られなかった。価格はワゴンが$1899と最も高く、次いで4ドアセダン$1799、2ドアセダン$1699と続く。表紙に「`71 make it with a star」の文字が追加された改訂版カタログあり。
【中面から】 ワゴン
★オマケ(その1): 米澤玩具 ダイヤペット148番 1/40スケール 1966年スバル1000
全長9.8cm。アンチモニー製。1966年10月発売。当時定価430円。ボンネット、トランク開閉。カラーバリエーションは緑金、茶、クリームなど。このモデルもホイールの白い部分が経年劣化で変形してきている。
★オマケ(その2): 米澤玩具 ダイヤペット191番 1/40スケール 1969年スバルff-1
オマケ1のマイナーチェンジモデル。全長9.8cm。アンチモニー製。1969年10月発売。当時定価430円。ボンネット、トランク開閉。カラーバリエーションは緑金、赤、クリームなど。
オマケ1との比較
★オマケ(その3): 尾高模型 1/32スケール 1966年スバル1000スーパーデラックス プラモデル
全長11.7cm。当時定価200円。オリジナルは1960年代の三共でこのオダカ製は1970年代の再販品。スバル1000のプラモデルとしては、他に山田模型(ヤマダ)が1/24スケールでスバル1000スポーツ・セダンをリリースした。
★オマケ(その4): 富士重工特注 1/19スケール 1966年スバル1000 シガレットケース
全長20.5cm。アンチモニー製。富士重工が上客等に配布した非売品。シガレットケースは車輪が回らず子供の玩具にはなりにくいことから、子供に遊び倒されることが宿命のブリキ玩具等に比べて年数を経ても現存率が高い中で富士重工のものはトヨタ、ニッサンあたりに比べると数が少ない。通常、シガレットケースはガラス・パーツが透明のプラ系素材が多い中でこのスバル1000はブルーで実車の青色熱線吸収ガラスを付けたスーパーデラックスを彷彿とさせる。
★オマケ(その5): 1967年 スバル1000 TVコマーシャル
デビュー2年目のテレビ・コマーシャル。残念ながら画質劣悪ですが貴重なフィルムです。
★1960年代のポルシェ356B/356C ジャニス・ジョプリン ~自動車カタログ棚から 300
★2016年 新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
★東京はあまり寒くもなく例年になく穏やかな新年となりました。
今年は新年早々1月中にまたバンドのライブがあるなど公私ともに忙しく更新頻度は落ちるかもしれませんが、アメブロも無理のない範囲で出来る限り資料性の高い記事をアップしていきたいと思います。
★当初、2015年の年末アップを目指していた、「自動車カタログ棚から」の第300回ですが、年末は家の大掃除やら門松の設置作業やらで残念ながら時間切れとなってしまい、また記念すべき300回は年末よりむしろ新年の方がいいかもとも考えて元旦のアップとなりました。
このシリーズも2012年6月2日に2代目クラウン・タクシー・カタログの第1回記事をアップしてから3年7ヵ月。自分でも300回もよく記事をつくったなという気もします。最近は過去にどんな車種を記事にしたか、自分でもすぐには思い出せなくなってきています。でも、いつどんな記事をつくりアップしたかは過去記事を辿れば全て判ります。過去記事の画像追加や加筆修正をすることはあっても記事の削除をすることはないので、アメーバのサーバーが完全にダウンでもしない限りは、もし私が死んでも記事はそのまま残るでしょう(?)。
「自動車カタログ棚から」へのアクセス数は始めた当初と比べると飛躍的に増えています。実際、このブログを通して歴史のある国内の自動車メーカーやテレビ局からカタログの貸し出し依頼があったことには自分でも驚きました。
「自動車カタログ棚から」は、私としては書籍化が究極の目標なのですが、Web上でいつでも無料で閲覧できる情報(アメブロの画像や記事はコピーも保存もプリントも誰でも自由にできます)を紙媒体にしても果たして需要があるのかという問題があります。また、もし今、これまでの300回を1冊の本にするとして1回の記事を無理矢理1頁に収めた場合でも300頁、2頁に収めた場合には600頁という大著となってしまい、あまり現実的ではありません。そもそも1記事当りの画像数が50枚前後というケースも比較的多いので、それを紙で1頁に収めるには虫眼鏡で見るレベルまで余程小さく縮小するか大幅にカットをしない限りほぼ不可能とも思われます。
バス、オート三輪、タクシー、消防車といった確実にコアなファンやマニアが存在すると思われる分野の記事だけをピックアップして随時本にする(例えば「自動車カタログ棚から~懐かしのバス編」「自動車カタログ棚から~懐かしのオート三輪編」というように)という方法も考えられなくもありません。
まあ、人生、夢は何であれ、ないよりはあった方が良いですよね。夢を追い続けていればいつかは叶うかもしれません☆☆
★閑話休題
今回は300回目の記事ということで、これまでの50回(930ターボ)・100回(904)・150回(356カレラ2)・250回(928)の節目と同じく私の一番好きなメイクス「ポルシェ」です。実は今回はポルシェではなくフェイントをかけて別の誰もが知っているメジャーどころの国産車をとも思っていたのですが(実は200回の時もポルシェではなく特別な理由があって好きな2代目ブルーバード411後期型としました)、「もし300回が最後の記事になるとしたら?」とよく考えてみて、やはりポルシェにしようという結論になりました。今回は1960年代のポルシェ356Bおよび356Cをご紹介します。アメブロ1記事当りの文字数制限4万字を超えないように出来るだけサラっとご紹介したいと思います。
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●ジャニス・ジョプリンと1965年ポルシェ356Cカブリオレ「サイケデリックペイント・バージョン」
1)ロック史に燦然と輝く女性シンガー ジャニス・ジョプリンは「神様、私にメルセデス・ベンツを買って」と歌ったが、1968年、彼女が音楽シーンで成功し実際に購入したのは1965年製の最終型ポルシェ356Cカブリオレであった。彼女の356にはジョン・レノンのサイケデリック・ロールス・ロイスに触発された派手なサイケデリック・ペイントが施されていた。
「宇宙の歴史」と題するアート作品が描かれたそのポルシェ356Cカブリオレが、2015年12月、ニューヨークで行われたRMサザビーズ社のオークションに出品されて、予想落札価格の40万ドル(約4800万円)から60万ドル(約7300万円)を大きく上回る、176万ドル(約2億1300万円)で落札された。7名がジャニスの356の購入を争い、入札しては抜かれまた他の者が再入札・・・というオークションを延々と繰り広げたことで、当初予想より大幅に値が吊り上がり、「ポルシェ356」の落札価格としては史上最高額となった。尤もジェームス・ディーンが1950年代に所有した356スピードスターが市場に出たとしたら更なる高値が付くことも十分ありそうではある。有名人所有といったプレミアがなければ、356は稀少かつ極めて魅力的な356AカレラGTでさえ5000万円程度までというプライスでトヨタ2000GTのように億の値がつくケースは少ない。
2)RMサザビーズ社によれば、ジャニスは1968年に3年落ちのポルシェを中古で購入すると、すぐに当時参加していたバンド「ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー」のツアー・マネージャーで芸術的才能にも長けたデイブ・リチャーズに塗装を依頼した。塗装は車体全面におよび、そのモチーフは様々なものが散りばめられていた。助手席側には風景画が広がり、運転席側のドアでは蝶が舞う。後部は虹が2つの顔をつなぎ、ボンネットには「神の目」。左フロント・フェンダーにジャニスをはじめとするバンド・メンバーの顔が描かれた。ジャニスは1970年10月4日に27歳の若さでこの世を去るまで、どこへ行くにもこの356に乗っていた。
3)彼女の死後、ポルシェ356は彼女の妹と弟の所有するところとなり、何とサイケデリック・ペイントを剥ぎ落としてドルフィングレーに塗り直されてしまった。のちに、それがいかに愚かなことだったかということに気づいた彼らは、2人のアーティストに依頼し残された写真を元にサイケデリック・ペイントを再現させた。そのため、現存するジャニスの356は車体そのものはオリジナルだが塗装は1960年代のジャニスが乗っていた当時のオリジナルではない「レストア・バージョン」である。再びサイケデリック塗装とされた356は1995年にオハイオ州クリーブランドにあるロックン・ロールの殿堂博物館に貸し出され、2015年末にオークションにかけられるまで20年間展示されていた。オークション終了後は個人所有となるため、これまでのように誰もが博物館で気軽に見ることができなくなってしまうのは少々残念である。
★ポルシェ356Bのデビュー
1959年(昭和34年)9月のフランクフルト・ショーに展示されたポルシェはポルシェファンに賛否両論を巻き起こした。否、どちらかと言えば否定論が多かった。或る者はもう新車のポルシェは買わないと言い、また或る者はポルシェもついに純粋さを捨て時代に負けたと主張した。論争の焦点は専ら356Bと名付けられた新型ポルシェのフロントスタイルにあった。356はAからBに変って、それまで最大の特徴としてきたどの角度から見ても美しい完璧な流線形のラインを失ったのである。前後のバンパーは10cm近く取付位置が上がり、以前より無骨なオーバーライダーが標準とされた。また、それまでフェンダーの曲線の中に自然に溶け込んでいたヘッドライトも取付位置が上がり、お椀を伏せたような完璧な半球形から普通の(もっと言うならば俗な)クルマ達と大して変わらない曲線に変えられてしまった。
356のボディラインは元々ポルシェの「完璧な流線形」という理想主義により完成されたものであったので、これは当然の意見とも言えた。356Bは誰がどう見ても356Aより美しいとは言えなかったし、ポルシェの機構面からスタイリングにまで一貫していた理想主義からは離脱して見えた。ポルシェの理想主義・完璧主義を信奉してきたポルシェファンの目からすると356Bは堕落以外の何者にも見えなかったのである。
しかし、それでもポルシェAGは新しい356Bに絶対の自信を持っていた。スタイルの変化は主に北米を中心に求められる安全性への配慮から低すぎたヘッドライトを高位置にしたものであったが、機構的にはブレーキは冷却フィン付軽合金ドラムとなり、フロントブレーキ冷却のためにフロントバンパー下にはエア・インテークが新設された。エンジンは60psの1600および75psの1600Sに加え、従来のツインカムを積んだカレラに近い性能を発揮する90psの1600 S-90(スーパー90)が追加された。コクピットでは安全性向上のためステアリング・ホイールがコーンタイプとなり、ライト及びワイパースイッチは操作性の良いコラムレバー式に改められた。また従来カブリオレにのみ付いていた通風のための三角窓が全車に付けられた。
★1959年9月にデビューした356Bはポルシェ社内で「T-5」と呼ばれる新ボディを纏っていた。
1960年8月デビューの1961年型ではフロントフード下のスクリプト(Porsche文字)が省かれた程度の変更に留まったが、1961年8月デビューの1962年型356Bでは再び大きな変更が施された。即ち356最終の「T-6」ボディに変更され、T-6ボディでは、以下の変更を受けた。
(1)フロントフードの開口部下側を大きく広げ四角に近いフード形状に変更
(2)それまでフロントフード内にあった給油口を右フェンダー上に移動
(3)リアウインドを大幅拡大
(4)リアエンジングリルを2枚に変更
356はこのT-6ボディのまま終焉を迎えるが、1963年7月に四輪ディスクブレーキを標準装備した「356C」に変更となった。356Cでは従来の1600ノーマル60psはラインナップから消え、75psの356Cと改良により従来より5psアップの95psとなった356SC(356Bスーパー90の後継グレード)の2種のみとなった。ボディは356Bでは1962年までクーペ、カブリオレの他にかつてのスピードスターの流れを汲む低く美しいロードスターの3種が造られ、1962年のみは取り外しの出来ない、カブリオレボディに直接熔接されたルーフを付けたハードトップ・ボディが作られた。356の終焉まで残ったのはクーペとカブリオレの2種のみであった。
911デビュー後も356は平行して生産され、1965年(昭和40年)9月に1948年(昭和23年)の試作車から数えて実に17年に及ぶ生涯の幕を落とした。356シリーズの累計生産台数は76303台。そのうち、1959年9月以降の356Bが31192台、356Cが16674台の合計47866台と6割以上の台数をBとCが占めており、356A以前の車両は生産台数も少ない。モダンな911より356が欲しいという熱烈なファンのために356シリーズの生産を中止したと言われる1965年の翌年、1966年に入っても10台の356Cの新車がデリバリーされたという。
【主要スペック】 1963年 ポルシェ356B 1600 S-90 クーペ (1963 porsche 356B 1600 S-90 Coupe)
全長4010㎜・全幅1670㎜・全高1330㎜・ホイールベース2100㎜・車重856kg・RR・616/7型空冷水平対向4気筒OHV1582cc・ソレックス40Pll-4ツインキャブ・最高出力90ps/5500rpm・最大トルク12.3mkg/4300rpm・圧縮比9.0:1・変速機4速MT・乗車定員4名・電装系6V・燃料タンク容量52L・最高速度185km/h・ポルシェ社日本総代理店三和自動車国内新車販売価格:275万円(ノーマル1600/235万円・1600S/250万円:カブリオレは一律20万円高)
●1960年 ポルシェ オフィシャル・カレンダーより
356Bがデビューした直後に発行された1960年のポルシェ・オフィシャル・カレンダーに掲載された写真。ポルシェのオフィシャル・カレンダーの写真は今も昔もクォリティが高い。1950年代~1960年代のポルシェのオフィシャル・カレンダーは滅多に市場に出ることがなく入手は難しい。私は1985年に発行された1986年版からは毎年ディーラーで入手しており、その年が過ぎても全て捨てずに保存してきているので、2016年版で早くも31年分のカレンダーが手元に集まってしまった。
グラマー美女と356B
356Bハードトップ
ソリド550スパイダーなどのミニカーで遊ぶ子供達と356B
1960年版ポルシェ・オフィシャルカレンダーの表紙
●1959年10月 ポルシェ広報誌クリストフォーラス(Christophorus) ポルシェ356B特別号より
1952年7月よりポルシェAGが隔月刊で発行している広報誌の356Bデビューに際して発行された増刊号。A4判、52頁。クリストフォーラスはポルシェの歴史を研究する上での第一級資料と言えるが、1950年代のものは非常に入手が難しい。時たま海外のコレクターが纏めて手放すことがあっても非常に高価。クリストフォーラスは三和自動車時代には日本語訳抜粋を付けて配布されていた。現在では、日本語版の他、中国語版や韓国語版等9ヵ国語版が発行されている。
フェリー・ポルシェと356B
KLM機と
両手に花と356
上:ハードトップ、下:ホワイトウォールタイヤを履いたクーペ
オプションのラゲッジキャリアをエンジンルーバーに取り付けてスキーを積んだ姿。この角度からは左右のオーバーライダーを貫通したマフラーとリアバンパー下のバックライトといったディテールがよく判る。
クリストフォーラス2012年6・7月号・通巻356号は356特集
●月刊誌CARグラフィック1963年9月号「ポルシェ特集」
二玄社発行。恐らく日本で最初のポルシェの特集本。小林彰太郎編集長による356B S-90クーペのロードテストやポルシェの歴史、ポルシェ・クラブ・オブ・ジャパン創立時の主要メンバーと愛車の紹介など興味深い記事が多い。表紙の赤い356はポルシェ・クラブ・オブ・ジャパンの創立時の副会長の一人キヌタ内燃機製作所社長・伊東平次郎氏(当時60歳)が所有していた356B1600 S-90サンルーフ付クーペ。伊東氏は1963年当時60歳ということは1903年のお生まれということになる。
中頁から: 浮谷東次郎の父・浮谷洸次郎氏(ポルシェ・クラブ・オブ・ジャパンの創立時の副会長の一人:当時55歳)と珍しい356Bハードトップ。千葉ナンバーが確認できる。
●1959年9月 ポルシェ356B カタログ (A4判・4つ折8面)
最初の356Bのカタログ。
【中面から】
カブリオレとハードトップ
スペック
●1960年4月 ポルシェ356B カタログ (A4判・4つ折8面)
上掲の1959年9月版と一見同じ表紙ながら、「1960」のナンバーが消え右上に「356B」の文字が入った。中面の構成は大幅に変えられている。
●1961年6月 ポルシェ356B カタログ (A4判・12頁)
表紙に「March 1961」と印字があることから、初版は1961年3月発行かもしれない。この年だけ生産された取り外しが出来ないハードトップを掲載。
【中頁から】
港のカブリオレ
61年にだけ生産された脱着できないハードトップ
●1961年11月 ポルシェ356B カタログ (A4判・16頁)
リアエンジングリル2枚の最終ボディ「T-6」となった356B後期型カタログ。このカタログにはDOHC1966ccのカレラ2(2000GS)も掲載されている。
●1962年1月 ポルシェ356B カタログ (A4判・12頁)
上掲の1961年11月版と一見同じ表紙ながら、表紙の文字周囲の色が変り、中頁からはカレラ2の掲載が省かれたカタログ。
【中頁から】
フロントフード開口部を大幅に拡大しスクエアな形状となった。
リアエンジン・ルーバーを2本に変更
給油口をトランク内から右フェンダー上に移動し給油の度にトランクを開ける必要がなくなった。
●1962年1月 ポルシェ356B 色見本 (縦21.6×横10.6cm・2つ折)
カタログとは別に発行されていた色見本。標準色が7色、特別注文色4色。この手の色見本はトヨペットクラウン等の日本車においても1950年代から発行されていた。
●1963年1月 ポルシェ356B カタログ (A4判・12頁)
【中頁から】
美女と白い356Bクーペ
●1962~1963年 ポルシェ356B 北米向けカタログ (縦27.8×横20.8cm・8頁)
アメリカ印刷の356B後期型カタログ。
【中頁から】
メカニズム図解
●1963年9月 ポルシェ356C カタログ (A4判・12頁)
ディスクブレーキが付いた356Cの最初のカタログ。
【中頁から】
四輪ディスクブレーキ
●1963年6月 ポルシェ356C 色見本 (縦21.6×横10.6cm・2つ折)
標準色が7色、特別注文色4色、計11色というのは356Bと同じ数ながら、構成は変り鮮やかなシグナルレッドが標準色となった。
●1964年3月 ポルシェ356C カタログ (A4判・12頁)
【中頁から】
クーペ
カブリオレ
●1964年 ポルシェ356C 北米向けカタログ (縦27.8×横20.8cm・16頁)
アメリカ印刷の356Cのカタログ。
【中頁から】
クーペ、後ろにハードトップ
カブリオレ
●1964年? ポルシェ356C カタログ (縦28×横28cm・24頁)
10インチレコードのような判型の大判カタログ。表紙は「porsche」の文字で埋め尽くされている。発行年月の印字なし。
【中頁から】
運転席
【ポルシェ356に関する過去の記事一覧】
1)1953年ポルシェ356・・・・・第38回記事
2)1956年ポルシェ356A・・・・・第7回記事
3)1958年ポルシェ356A・・・・・第270回記事
4)1962年ポルシェ356カレラ2・・・・・第150回記事
★オマケ(その1): 洋書「PORSCHE FACTORY TOUR SUMMER 1960」
縦20.2×横25.5cm、52頁。1982年3月にニューヨークで限定1000部が出版された1960年夏のポルシェ工場を見学した際の非常に魅力的な写真集。356Bカブリオレやロードスターの幌にビニールが被せられていることが、真っ新な新車であることをリアルに示している。
★オマケ(その2): SSSインターナショナル 1/28スケール 1960年 ポルシェ356B
全長14cm。ブリキ製。1961年頃発売。品番1276。当時定価:不明。恐らくカナメ産業の356Aハードトップに次ぐ2番目の356の日本製ブリキモデルで1960年代には小学館の「交通の図鑑」の裏表紙のブリキ自動車を並べた写真の中に写っていた。SSSインターナショナルの「TINY GIANT」シリーズの1台。同シリーズには欧米の名車群に混じり初代・縦目のセドリック、初代310ブルーバード、2代目PT20コロナといった国産もラインナップされていた。白が初版で青メタの再販品ではフロントの窓枠とリアのporscheのパーツが省略され金型も大分潰れてしまっている。
★オマケ(その3): 伊ブラーゴ 1/18&1/24スケール 1962年 ポルシェ356Bクーペ
全長:白の1/18スケール24cm、赤の1/18スケール18cm。ダイキャスト製。1990年代の製品。ブラーゴからは同じ356Bのカブリオレも出ている。カラーバリエーションは多数あり。箱等の年式表記は1961となっているが1962年以降の最終のT-6ボディをモデル化している。各部が開閉しコストパフォーマンス抜群のモデルだったが、大量に売れたことと現在の1/18スケールなど大スケールモデルカーの標準からすると少々トイ然とした造りの所為か2015年現在の市場での評価は極めて低いようだ(専門店の90年代ブラーゴの買取り価格は1台100円以下との話もある)。
★オマケ(その4): 中国製 1/24スケール 1962年 ポルシェ356Bクーペ
全長18cm。ダイキャスト製。ファミレスのレジ前やサービスエリアの売店などで売られていた356。一見、ブラーゴのコピーに見えるが金型は全く異なり、ブラーゴの1/24スケールでは開閉しないフロントフードがこれは開閉しスペアが現われる。青メタリックの塗装が美しい。カラーバリエーションは他にあずき色など。
★オマケ(その5): ミニチャンプス 1/43 1961年 ポルシェ356Bハードトップ
全長9.2cm。ダイキャスト製。近年の製品。ミニチャンプス製品番号400 064320。実車ではレアな取り外しが出来ないハードトップのミニチュアモデル。
★オマケ(その6): ミニチャンプス 1965年 ポルシェ356Cクーペ&カブリオレ
全長9.2cm。ダイキャスト製。近年の製品。ミニチャンプス製品番号:クーペ400 062325、カブリオレ400 062334。カラーバリエーション多数あり。手前の小さいモデルは京商製1/64スケールの356Cクーペ。
★オマケ(その7): TRUE SCALE 1/43スケール 1965年ポルシェ356Cカブリオレ「ジャニス・ジョプリン所有車」
全長9.2cm。レジン製。2015年発売製品。国内定価:税抜11000円。ジャニスのサイケデリックペイントの356がミニカーになるとはレジン製ならでは。繊細なペイントもよく再現された好モデル。
同じTRUE SCALE製のジョン・レノンの1965年サイケデリック・ロールス・ファンタムⅤとのツーショット
★オマケ(その8): ジャニス・ジョプリン「Ball and Chain」
ジミヘンと共に出演した1967年モントレー・ポップフェスティバルのライブ映像。
★オマケ(その9): ジャニス・ジョプリン「Move Over」
この曲は知らない人がいないという程の代表曲。
★オマケ(その10): ジャニス・ジョプリン「BIRTHDAY MESSAGE FOR JOHN LENNON」
ジャニスが高純度ヘロインの摂取により1970年10月4日に亡くなる直前、ジョンの30歳の誕生日を祝って録音されたもの。ジャニスは3才年上のジョン・レノンを心から慕っていた。
★オマケ(その11): ジャニス・ジョプリン「ベンツが欲しい」
ジャニスの死後にリリースされヒットしたア・カペラの曲。60~70年代のメルセデス・ベンツは高級車の代名詞のような存在で余程のブルジョアでない限り買えるクルマではなかった。「神様、私にベンツを買って。だって友達はポルシェに乗ってる。だから私にはベンツを買って・・・・・」とジャニスは歌った。だが実際には成功して手に入れたお金でポルシェを買った。
★1970年 トヨタ セリカ 未来からやってきた車 ~ 自動車カタログ棚から 301
★あっという間に正月三が日も過ぎて、今日1月4日(月)ないし明日1月5日(火)からは仕事という方も多いのではと思います。勿論、最近は年中無休の小売店なども増えていますし、医療関係等仕事柄、三が日も関係なく仕事をしているという人もおられるとは思いますが、みなさんは充実した年末年始だったでしょうか。
初詣は済ませましたか?私は例年通り近所の神社に行ってきました。毎年、今年こそは○○出来ますようにと神頼みする訳です。
私は基本的に仕事人間ではないので、仕事をしてるよりも年末年始に限らず休みの日の方が遙かに好きなのです。ところが、仕事の鬼というべきか仕事中毒というべきなのかメチャクチャ忙しい訳でもないのに家にいるよりは仕事してる方が気分が落ち着いていいと言って、超勤手当も出ないのに基本三が日も出勤しているなんて知人もいます(@ ̄Д ̄@;)
休みは何が一番嬉しいかと考えてみると、私の場合は、時間に縛られず目覚まし時計を付けずに「起きるまで寝る」ことが出来る点でしょうか。1月~4月にかけて私の仕事は繁忙期で、当面1月下旬までに終えなければならないことも山積みしていて、今年はその合間にライブも入りちょっと気が重いのですが、まあ焦っても仕方がないので出来る範囲で頑張りたいと思います。アメブロも週末1記事を目途にアップ出来ればと思っていますが、もしかすると時間切れでアップ出来ないこともあるかもしれません。
今回は「自動車カタログ棚から」の301回目。実は当初300回目の記事にするつもりで準備していた記事です。70年代を知る世代なら知らない人はいないであろう初代セリカです。
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★日本初のスペシャルティカー(Specialty car)を謳った初代セリカは、1970年(昭和45年)12月1日に発売された。
セリカは既存の乗用車をベースとしたクーペやハードトップではない斬新なルックスと外装・エンジン・トランスミッション・インテリア・各種オプションを顧客が自由に組み合わせることができるフルチョイス・システム(但し一番人気のGTはシステム対象外)の導入で和製マスタングとも言われた。セリカはトヨタの優れたマーケティングが1970年代という時代の風にも乗りヒットした。
セリカという車名はスペイン語で「天上の」「聖なる」「神々しい」を意味し、セリカの最初のカタログには、「無限の宇宙空間を駆け巡るこの車の全てを象徴した車名」と書かれている。
【1970年10月23日付 トヨタ プレスリリース「セリカ新発売」より抜粋】
トヨタ自動車販売㈱は、10月23日、9月末の車名及び取扱店の発表に続き、セリカの仕様、スタイル、価格等の詳細を発表した。
この車は10月30日から11月12日に開催される第17回東京モーターショーに出品し、12月1日より発売する。
セリカは、従来のセダンとかクーペ、ハードトップあるいはスポーツカーといった区分の何れにも該当しないパーソナル・ユースを狙った全く新しい種類の乗用車であり、我が国初登場の本格的なスペシャルティカーである。
1969年の第16回東京モーターショーにトヨタが出品したショーカー「EX-1」のイメージを母体としてワイドかつ車高の低い先進的なスタイル、1400から1600DOHCに至る4種類の高性能エンジン、5速ミッションを含むシフトフィーリングの良い新型ミッション、豪華な雰囲気に溢れた5人乗りの室内など極めてユニークな設計思想を持つ画期的な新型車である。
しかも、ユーザーの希望に応じて、エンジン、ミッション、外観、内装等を幅広く選択でき、57万円台からフルオプションでは最高100万円まで、更に好みに応じた仕様を選択できる新商品体系を採用することにより極めて幅広い価格帯をカバーしている。
国内販売台数は当初4000台/月、月販最高で10000台を目標としている。
~スペシャルティカー・セリカの特徴~
1)本格的なパーソナルカー・マーケットをつくる車
セリカはファミリーセダンを母体としたクーペやハードトップとも、また走行性能本位のスポーツカーとも異なり、1970年代のカーライフを考え本格的なパーソナルユースを目的に造られた車である。
2)あらゆる年代の若々しいハートを持った人々の要求に応える独特のスタイル・性能・居住性
セリカは活動的で趣味性豊かな若いハートを持った人々に相応しい品格とフィーリングを持った車である。1970年代の流行を創る躍動感溢れた先進的なスタイルと高度なドライブ・フィーリング、多目的な使用にも適う十分な居住空間を持った車である。
3)セリカ・フルチョイス・システムを採用
需要の多様化に対応してユーザーの個性を更に生かすために従来のワイドセレクションとは異なる、更に多様な欲求に応えられるセリカ・フルチョイス・システムを採用した。外観、内装、エンジン、ミッションなど出来る限りユーザーの嗜好に合わせて選ぶことができるシステムである。なお、このフルチョイスシステムは1971年春より本格的に稼働の予定である。
4)合理的な価格とワイドな価格帯
セリカはユーザーの予算に合わせ、個性を十分生かした車を積極的に選ぶ出すことが出来る、幅広い価格帯を採用した。これはコンピューターをフルに活用した生産と販売の管理システム(=日本で初めてのデイリー・オーダー・エントリー・システム及びデイリー・プロダクション・システム)を採用した量産システムによる効果である。デイリー・オーダー・エントリー・システムとは、ユーザーのオーダー(注文)を毎日受け付け、販売店、トヨタ自動車販売、トヨタ自動車工業の間をコンピューターで結び、生産計画を毎日組み替えることにより顧客の欲する車両を最も短い時間で届けるためのシステムである。
【初代セリカの変遷】
・1969年(昭和44年)10月24日~11月6日・・・・・第16回東京モーターショーにセリカのフロントデザインの元となったショーカー「EX-1」を展示
・1970年(昭和45年)9月28日・・・・「セリカ」の車名と販売チャンネルを公表
・1970年(昭和45年)10月23日・・・・プレス発表(同じシャシーを使ったカリーナも同時発売)
・1970年(昭和44年) 10月30日~11月12日・・・・・第17回東京モーターショーに展示
・1970年(昭和45年)12月1日・・・・発売(同じプラットフォームを用いたセダン「カリーナ」も同時発売)
・1971年(昭和46年)11月26日・・・・1400に5速ミッション追加・ボディカラー追加
・1972年(昭和47年)8月21日・・・・1600GTVを追加、ワンテール廃止、給油口の位置変更
・1973年(昭和48年)4月2日・・・・排ガス48年規制クリア
・1973年(昭和48年)4月6日・・・・LB(リフトバック)およびクーペ2000追加
・1974年(昭和49年)1月21日・・・・マイナーチェンジ。2000EFIモデル及びクーペ2000GT追加
・1975年(昭和50年)10月24日・・・・マイナーチェンジ。ホイールベース70㎜延長。LB2000GTに衝撃吸収バンパーをオプション、1600GTVを廃止しクーペ2000GTVとLB2000GTV追加
・1976年(昭和51年)5月1日・・・・排ガス51年規制クリア(1600cc車)
・1976年(昭和51年)6月21日・・・・排ガス51年規制クリア(2000cc車)
・1977年(昭和52年)3月?・・・・特別仕様車「ブラックセリカ」発売
・1977年(昭和52年)8月22日・・・・2代目セリカのデビューに伴い販売終了
【主要スペック】 1971年 トヨタ セリカ1600GT (1971 Toyota Celica 1600GT)
全長4165㎜・全幅1600㎜・全高1310㎜・ホイールベース2425㎜・車重940kg・FR・2T-G型水冷直列4気筒DOHC1588cc・ソレックス型ツインキャブ・圧縮比9.8・最高出力115ps/6400rpm・最大トルク14.5kg-m/5200rpm・変速機5速フロアMT・前ディスクブレーキ・乗車定員5名・プレミアムガソリン使用・最小回転半径4800㎜・ゼロヨン16.5秒・最高速度190km/h・販売価格:名古屋87万円・東京87万5000円・大阪87万5000円・福岡89万4000円・札幌92万円(札幌の価格は名古屋の5万円高)
●1971年 トヨタ セリカ1600ST 広報写真
自動車工業振興会発行「自動車ガイドブック第18巻」(1971~1972)より。この青緑メタリック(オリオン・ターコイズ・メタリック)が初期のイメージカラー。セリカは最高グレードのGTに人気が集中し、このSTやET、LTといった下位グレードの現存車両はレア。
●1973年 トヨタ セリカ1600GTV 雑誌広告
二玄社「CAR GRAPHIC」1973年2月号より。足回りを硬めた1600GTVの広告(V=VICTORY=モータースポーツで勝つことの意味)。
●1970年11月 トヨタ セリカ 簡易カタログ (縦24.5×横29.7cm・16頁)
カタログNo.30097。
【中頁から】
未来からやってきた車
ST
運転席
グレード4種、エンジン4種
ボディカラー6色
ボディ同色バンパー(オプション)
●1970年11月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦30×横30cm・24頁)
カタログNo.31069。最初の本カタログ。正方形の大判で傷みやすい。
【中頁から】
未来からやってきた車・1969年ショーカーEX-1
ST
初期の給油口はリアパネル中央
スペック&図面
●1971年7月 トヨタ セリカGT 専用カタログ (縦30.3×横30.3cm・20頁)
カタログNo.30099。これも正方形の大判。1974年までの初代セリカのカタログは全車を掲載した総合本カタログとGT系のみの専用カタログの2種が出されていた。
【中頁から】
ニチモのプラモデルの箱絵にも使用された写真
2T-Gツインカムエンジン
オプションのカラードバンパーとレザートップ(白・赤・黒3色)
リアビュー
●1972年1月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・28頁)
カタログNo.30105。1400に5速ミッションが追加され、ボディカラーが6色から9色に増えた。このカタログの初版は1971年11月で、初版にのみリアスポイラー付き車両が掲載されていた。
【中頁から】
ボディカラー9色に増加
ST
LTとET
GT
●1972年1月 トヨタ セリカGT 専用カタログ (縦25.3×横25.3cm・24頁)
カタログNo.30106。このカタログの初版は俗に「アニマル表紙」と言われる表紙でリアスポイラーを装着した写真が問題となり早々に回収されたと言われる幻のカタログ。
【中頁から】
フロント
シンプルなワンテールのリア
●1972年9月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・28頁)
カタログNo.30125。リアがワンテールではなくなり、GTVが追加された際のカタログ。
【中頁から】
GTV
ST
ET
ツーテール
●1973年 トヨタ セリカ 欧州輸出向けカタログ (縦24.5×横29.5cm・英文16頁)
カタログNo.88460。左ハンドルと右ハンドルの両方が掲載された、LBデビュー以前の輸出向けカタログ。
【中頁から】
ST。輸出向けにはツインカムのGTは生産されなかった。
左ハンドル運転席
●1973年4月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・38頁)
カタログNo.141016。LB(リフトバック)及びクーペ2000が追加された際の総合本カタログ。
【中頁から】
LB各種
LB図面
●1973年4月 トヨタ セリカ GT専用本カタログ (縦24.5×横29.5cm・28頁)
カタログNo.141026。LBが追加された際のGT専用本カタログ。LB2000GTはカタログ上の最高速度が205km/hとセリカでは初めて200kmの壁を超えた。
【中頁から】
LBリア
LBフロント
●1974年1月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・34頁)
カタログNo.141048。マイナーチェンジ。2000EFI(電子制御式燃料噴射装置付) モデルとクーペ2000GTを追加。GT系以外のグリルは珍妙なデザインに変更された。オイルショック直後で心なしかカタログの紙質も落ちている。
【中頁から】
珍妙なグリルとなったET
ST
●1973年12月 トヨタ セリカ GT専用本カタログ (縦24.5×横29.5cm・26頁)
カタログNo.141058。LBは1600GTと2000GT、クーペは2000GT・1600GT・1600GTVとGT系は5車種となった。
【中頁から】
クーペ2000GT
レースシーン
●1975年11月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・30頁)
カタログNo.141081。ホイールベースを70㎜延長し、LB2000GTには衝撃吸収バンパーがオプションとなった他、これまでの1600GTVは消えて2000GTVとなり併せてLBにも2000GTVが登場した。
【中頁から】
LBビッグバンパー
クーペ2000GTV
●1976年8月 トヨタ セリカ 本カタログ (縦24.5×横29.5cm・28頁)
カタログNo.141102。初代セリカ最後の本カタログ。
【中頁から】
LB4車種
クーペ5車種
LB2000GTVビッグバンパー
★オマケ(その1): 日本模型(ニチモ) 1/20スケール 1970年トヨタ セリカ1600GT プラモデル
全長20.5cm。1971年発売。当時定価800円。私が小6の時に作った想い出のプラモ。ボックスアートには実車カタログの写真が使われている。初版は画像のものより横幅が広い巨大な箱だった。1/20スケールの初期セリカのプラモはバンダイからも発売され、後のLBは永大(エーダイ)や中村産業(ナカムラ)から出ていた。初代セリカの模型、ミニカーは実車の人気を反映してか当時物から最近の物まで文字通り大量にあるため、個人的に想い出のあるものと少々珍しいと思われるものをピックアップして今回のオマケとして掲載します。
★オマケ(その2): 永大(エーダイ) 1/25スケール 1970年トヨタ セリカ1600GT プラモデル完成品
全長15cm。1972年発売。当時定価200円。これは、1972年、私が中1の時に素組みしたプラモの現物。作ったあと箱に仕舞ったまま永年眠っていた。前輪がステアし開閉式のボンネットにはそれらしいエンジンが収まりゼンマイ走行する。プロポーションはなかなか良い。1/25の印字があるもののサイズは同じ永大のダイキャストミニカー「グリップテクニカ」と同じ1/28スケール程度。
★オマケ(その3): 米澤玩具ダイヤペット・チェリカ80シリーズ 1/52スケール 1970年 トヨタ セリカ1600GT 各種
全長8cm。ダイキャスト製。1972年9月~1973年6月発売。当時定価200~230円(仮面ライダー)。ノーマル2色、JALサービスカー仕様、ラリーカー仕様、仮面ライダーバージョンの計5種は全て70年代に定価で購入したもの。ダルマセリカのミニカーの中では、メジャーなトミカ26番に比べると昔も今も人気薄ながら個人的には好きなミニカー。トミカもこのダイヤペット・チェリカも実車のイメージカラーの青緑メタではなく草色メタでリリースした理由は謎。ダイヤペットからは1/40スケールでもダイキャスト製とABS製とでセリカが出ていた。集合写真の左端はトミカ26-1。
ノーマルにシールを貼っただけのバリエーション「ラリーカー」
JALサービスカー
東映アニメーションの版権シール付の仮面ライダー
★オマケ(その4): 香港プレイアート 1/45スケール 1975年 トヨタ セリカLB 2000GT
全長9.7cm。ダイキャスト製。1977年頃発売。当時国内定価:不明。初代セリカはLBのミニカーもトミカ、ダイヤペットの大小、エーダイグリップテクニカと出ていた中で、これは国内では殆ど見かけなかったモデル。5マイルバンパーとオーバーフェンダーを付けた最終型LBの右ハンドル車をモデルにしているものの、残念ながらボディとホイールのバランスが悪い。70年代のプレイアートだけに塗装の品質も劣悪。このプレイアートのメインであった小スケールでなくこの準標準スケールの国産車としては他にホンダZ、230セドリックHT、初代フェアレディZが出ていた。シルバーは同じ1/45スケールのトミカダンディ3-2番セリカレーシング。ダンディとプレイアートとでは出来も品質も雲泥の差がありますが、プレイアートにはキッチュで妖しい魅力が溢れています。
★オマケ(その5): 永大(エーダイ) 1/40スケール 1972年セリカ スキーキャリア
全長10.5cm。プラ製。当時定価:不明。ゼンマイ搭載のため室内が省かれているものの、同じ1/40スケールのダイヤペットより出来はシャープ。
★オマケ(その6): ミニチャンプス 1/43スケール 1975年 トヨタ セリカ&セリカLB 輸出モデル
全長10cm。ダイキャスト製。これは近年の製品ながら珍しいドアミラー左ハンドルの初代セリカ後期型モデル。
★オマケ(その7): 1971年 トヨタ セリカ テレビCM 「恋はセリカで」
★1968年 初代サニークーペ 魅惑のファストバック ~ 自動車カタログ棚から 302
★昨年は私の知人で自殺する人が多く、何ともやりきれない気分となりました。何より残された家族の魂が抜けたような姿を見るにつけ、もし自死が本人にとっては幸せになるための決断だったとしても周りの人々に大きな痛みを残すことは確かだろうと思います。
尤も私のような世界中の誰からも愛されていない独り者の場合には、もし自殺しても誰一人悲しむ人はいないので世界中の誰にも迷惑はかからないかもしれません・・・・・(爆)
不慮の事故や延命不可能な病気でもないのに、与えられた自らの生に自ら終止符を打つことは何よりも悪いことだというようなことを言われる方もいますが、私は単純に悪いこととも思えません。自死した日本の有名人には以下のような人がいますが、例えば芥川龍之介を悪い人間、ダメな人間と言い切れる人が果たしているでしょうか。
【日本の著名人自殺者一覧 (個人的な抜粋) 】
芥川龍之介(作家、35歳、睡眠薬)、有島武郎(作家、45歳、首吊り心中)、太宰治(作家、38歳、入水心中)、三島由紀夫(作家、45歳、切腹)、川端康成(作家、72歳、有毒ガス)、田宮二郎(俳優、43歳、猟銃)、沖雅也(俳優、31歳、飛び降り)、沖田浩之(俳優、36歳、首吊り)、岡田有希子(アイドル、18歳、飛び降り)、日高富明(元ガロ音楽家、31歳、飛び降り)、可愛かずみ(女優、32歳、飛び降り)、井上大輔(音楽家、58歳、首吊り)、今野雄二(音楽評論家、66歳、首吊り)、中村とうよう(音楽評論家、79歳、飛び降り)、藤圭子(歌手、62歳、飛び降り)、加藤和彦(サディスティックミカバンド音楽家、62歳、首吊り)
★この週末は土日月と3連休という人も多いことと思います。近々バンドのライブが都内某所であり、この連休はかなりの時間を都内のスタジオでリハーサルをして過ごしています。プロではないので実力の範囲でやれば良いことなのですが、数曲仕上がりが甘い曲があり出来るだけ良い音楽がつくれるようにガンバリンコしたいと思います☆
★閑話休題
今回は「自動車カタログ棚から」の第302回記事として日産自動車の初代サニークーペをピックアップします。時間がないため、出来るだけサクッとアップすることにします。
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★核家族化が進んだ現在では余程の子沢山か大型犬を飼ってでもいない限り通常フルに使うことがないにも関わらず、「大きいことはいいことだ」あるいは「お隣さんもミニバンだから、ウチも押し出しの強いミニバンにでもしようか」といった日本人特有の右に倣えムード故か3列シートの大きなミニバンが売れ、2016年現在、販売台数1位のトヨタ・アクアも2位のホンダ・フィットも今や昔ながらの独立したトランクルームを持たない2ボックスという時代では想像できないことではあるのだが、少なくとも1970年代までの日本では3ボックス(ボンネット、乗員スペース、トランクの各々が独立したスタイル)のセダンが乗用車の主流を占めていた。そしてセンチュリーやプレジデントといった超高級車を除けば大抵の乗用車にはスポーティーでオシャレなクーペ乃至ハードトップボディが用意されていた。下はカローラ、サニーから上はクラウン、セドリック/グロリアといった高級車に至るまでクーペやハードトップボディが存在したのである。
★日本における乗用車をベースとして誕生したクーペ乃至ハードトップボディの発売時期を時系列で纏めると以下の通りとなる。
1) いすゞベレット1600GT・・・・・1964年(昭和39年)4月28日
2) トヨタ・トヨペットコロナ・ハードトップ・・・・・1965年(昭和40年)7月1日
3) マツダ・ファミリア1000クーペ・・・・・1965年(昭和40年)11月15日
4) 日産サニークーペ・・・・・1968年(昭和43年)3月2日
5) トヨタ・カローラ・スプリンター・・・・・1968年(昭和43年)5月1日
6) トヨタ・コロナマークⅡハードトップ・・・・・1968年(昭和43年)9月21日
7) トヨタ・クラウン・ハードトップ・・・・・1968年(昭和43年)11月1日
8) 日産510ブルーバード・クーペ・・・・・1968年(昭和43年)11月20日
9) マツダ・ルーチェ・ロータリークーペ・・・・・1969年(昭和44年)10月15日
10) ホンダ1300クーペ・・・・・1970年(昭和45年)2月23日
11) マツダ・カペラRE/1600クーペ・・・・・1970年(昭和45年)5月13日
12) 三菱コルトギャラン・ハードトップ・・・・・1970年(昭和45年)5月19日
13) 日産ローレル・ハードトップ・・・・・1970年(昭和45年)6月22日
14) 日産230セドリック/グロリア2ドアハードトップ・・・・・1971年(昭和46年)4月1日
上記のうち、6)のマークⅡ、11)のカペラ、14)の230セドリック/グロリアはセダンが先行して市場に出たのではなく、同時発表(厳密には230セドグロHTの発売はセダンの5週間後)されたもので、セダンとクーペ/ハードトップが当初から同時に開発された車種である。また、9)のルーチェ・ロータリークーペはセダンのデザイン・モチーフを継承しているが、FFであることなど機構的にはセダンとは全く異なる設計の車両である。
1970年代に入ると日本の乗用車ではオーソドックスなセダンとスポーティーなクーペ/ハードトップが同時に開発され同時発売されるという例がごく一般的となったのである。戦前のダットサンやオオタのクーペの例があるにしても、1930年代よりクーペボディの設定がごく一般的となり1950年代初頭にはハードトップボディも登場したアメリカ車と比べれば、自動車が大衆に普及した時期(=モータリゼーションの進展時期)が1960年代以降と欧米に比べて遅かった日本においては自動車のスタイリングも大幅に立ち遅れていたとみることができる。
今回の「自動車カタログ棚から」では上記4)のサニークーペをご紹介することとしたい。
★1966年(昭和41年)4月23日に発売された初代サニー(本シリーズ第298回記事参照)は、1967年(昭和42年)4月12日に4速マニュアル仕様の「スポーツ」を加えたのち、1968年(昭和43年)2月17日にスポーティーなファストバックボディを纏った「サニークーペ」をラインナップに加えた(発売は同年3月2日)。
サニークーペの最大の魅力はスタイリングにあり、元々シンプルかつクリーンなサニーに流麗なボディラインの魅力が加わった。ホイールベースはサニーセダンと同じ2280㎜ながら全長は30㎜短い3770㎜、全高は35㎜低い1310㎜と低くコンパクトなボディとなった。セダンと比べてフロントオーバーハングは20㎜長い645㎜、リアオーバーハングは60㎜短い815㎜となり、バランスのよいプロポーションとなった。
エンジンにも若干の手が入れられ、セダンと同じA-10型エンジンの圧縮比を8.5から9.0に引き上げデュアルエクゾーストも採用しプラス4psの60psのパワーを得た。またフェアレディ2000(SR311)と基本的に同じF770のコンロッドメタルを採用し耐久性を高めた。
サニークーペは4速フロアシフトと3速日産フルオートマチックの2種が選べるだけの必要最小限の装備を持つ「デラックス」のモノグレードで登場し、タコメーターを始め、砲弾型ミラー、ナルディタイプステアリング、木目シフトノブ、フォグライト、チェック柄シート、レーシングストライプ等がオプションとされた。
【初代サニークーペの変遷】
・1968年(昭和43年)3月2日・・・・・発売
・1968年(昭和43年)10月21日・・・・・内外観には影響しない小変更。2系統式ヘッドライト、可倒式フェンダーミラー、脱落式室内ミラーを採用したほか、前後ヘッドレストがオプションに加わった。
・1969年(昭和44年)8月20日・・・・・セダンと同時にGL(Gland Luxury)グレードを追加(車両型式KB10G型、東京渡店頭価格53万5000円)。同時に1969年4月1日施行の道路運送車両法に基づく道路運送車両の保安基準の改正により運転席のシートベルト及びヘッドレストが全車標準装備となった。追加されたGLではタコメーター、砲弾型フェンダーミラー、黒塗りラジエターグリル、木目ステアリング、木目シフトノブ、黒塗りホイールキャップ、打音式方向指示器等が標準装備となった。ボディカラーにシルバーが加わり計5色となった。60psのエンジンには最後まで手が加えられず、また、同時期のスバル1000スポーツセダンでは標準であったラジアルタイヤは全車オプションのままであった。
・1970年(昭和45年)1月6日・・・・・B110型2代目サニー(セダン及びクーペ)のデビューに伴い販売終了。初代サニークーペは僅か1年10カ月という極く短命な生涯に終わった。
【主要スペック】 1968年 日産サニークーペ KB10型 (1968 Nissan Sunny Coupe Typ.KB10)
全長3770㎜・全幅1445㎜・全高1310㎜・ホイールベース2280㎜・車両重量675kg・A10型水冷4サイクル4気筒988cc・圧縮比9.0:1・最高出力60ps/6000rpm・最大トルク8.2kg-m/4000rpm・変速機4速フロアMT・前後ドラムブレーキ・最小回転半径4000㎜・乗車定員5名・平坦路定速燃費23km/L・燃料タンク容量36L・電装系12V・ゼロヨン18.4秒・最高速度140km/h・東京店頭渡価格50万円
●1968年 サニークーペ 広告
週刊サンケイ1968年4月26日臨時増刊「1000万人の乗用車」より。
●1969年 サニークーペ 広告
二玄社「CARグラフィック」1969年8月号より。デビュー2年目のサニークーペはタフで男っぽいクルマというイメージ戦略が採られた。
●1969年 サニークーペ 広告
週刊サンケイ1969年11月7日臨時増刊「1000万人の乗用車」より。これもワイルドな男っぽさを強調したイメージ広告。少々線が細く華奢とも言えるサニーのイメージを打破する意図だったのだろうか。カタログにはDATSUNの文字が一切なしだが、この広告にはDATSUNの印字あり。
ジャンプ!
フェンダーミラーとドアミラーの2つを装着
雨に濡れても。
山の湧水は美味い。
★1968年3月 日産サニークーペ 簡易カタログ (縦30×横25cm・3つ折6面)
デビュー時の簡易カタログ。
【中頁から】
サイドビュー
リアビュー
ダッシュパネルはセダンとは全く意匠が異なる。
図面・ボディカラー4色(白赤緑黄)・スペック
★1968年3月 日産サニークーペ 本カタログ (縦30×横25cm・16頁)
デビュー時の本カタログ。
【中頁から】
「日本でいちばんオシャレな車です」
「走る楽しさ、持つ喜びを、これ以上に与えてくれる車は他にありません」
「我国のカーデザインに一大センセーションを投げかけた魅惑のF.B.ルックです」
橙色ウインカー、白色バックライトが組み込まれた4分割テールライト
ホイールキャップ
ガソリン給油口はセダンの左後フェンダー上からリアナンバー裏に移動
運転席
リアシートを倒すとトランクと貫通しフルフラットとなる「マジックスペース」
A-10型エンジン、前後サスペンション
オプション装着車
★1968年10月 日産サニークーペ 簡易カタログ (縦30×横25cm・3つ折6面)
2系統式ヘッドライト等の改良が施された際の簡易カタログ。
【中頁から】
流行のレザートップをオプションに追加
オプション
★1968年10月 日産サニークーペ 本カタログ (縦30×横25cm・16頁)
上掲の本カタログ。
【中頁から】
「ドラマチックなカーライフをつくる魅惑のクーペ!!」
夜更けのデート
運転席
オプション装着車
木製3スポークステアリング他オプション各種
A-10型1000cc60psエンジン
スペック・図面・ボディーカラー4色
★1969年8月 日産サニークーペ 本カタログ (縦30×横25cm・16頁)
新グレード「GL」が追加された際の本カタログ。初代サニークーペは2年弱と販売期間が短かったため、本カタログは計3種類しか出ていないが、この最後のカタログは比較的残っているものが少ない。
【中頁から】
GLでデート
「男の世界をよりダイナミックに、より華やかにするサニークーペGLデビュー!!」
GL運転席
法改正により前席シートベルトを標準装備
トランクスルーのマジックスペース
リアの境界線が複雑な線を描くレザートップ
図面・ボディカラー5色(シルバーを追加)
★オマケ(その1): 米澤玩具ダイヤペット182番&223番 1/40スケール 1968年 日産サニークーペ KB10型
全長9.3cm。1969年2月発売。当時定価550円。ダイキャスト製。サニークーペはモータースポーツで活躍した2代目がモデルカーの世界でも圧倒的に人気が高く、初代のミニカーは現在に至るまでダイヤペットのみ。182番として発売された後、トランク開閉機構を省いたモデルが1971年4月に223番として発売された(画像の白は223番)。プラモデルではアリイなどから数種類出ている(プラモデルが倉庫から出てきましたら追加掲載いたします)。
フル開閉アクション
初期のダイヤペットと同じ被せ箱の1stは稀少
1980年代まで連綿と使われたウインド箱が2nd
左:旧被せ箱、右:新ウインド箱
★オマケ(その2): 日産自動車特注 1/20スケール 1968年サニークーペ KB10型 シガレットケース
全長21cm。東京銀座一丁目・山崎商店製。アンチモニー製。非売品。箱には「納車第一号記念」の熨斗紙が付いている。自動車形シガレットケースは指紋が付いたところからメッキの変色等の劣化を起こしやすいが、これは未開封・未展示だったため状態は良い。
箱に付けられた「納車第一号記念」の熨斗紙と製造元・山崎商店のカード
★オマケ(その3): 1969年 初代サニークーペ テレビCM
峰岸 徹氏(1943年7月17日-2008年10月11日)出演の男っぽさを全面に打ち出したイメージCM。
★1959年 ニッサン ジュニア消防車 デヴィッド・ボウイ逝く ~ 自動車カタログ棚から 303
★初対面の人からは小心で人前苦手のちびまる子ちゃんに出てくる中野さんのようなキャラに思われがちな、この私がどうして人前で音楽をするのかと考えてみると、
「いい音楽を人に聴かせたい」なんていうのは実は表向きの理由なんです(゜д゜;)
中学生の時にビートルズのコピーバンドを始めた時から一番の理由は「女の子にモテたい」であって、それがこの歳になっても基本変わってないんですよね(゜д゜;)
今でも「ポルシェさ~ん!」と客席から女性の黄色い声が飛んでくると、嬉しくてすぐにニヤけてしまいます(;´▽`A``
そんな動機が原動力になっているので、もし私が独り者ではなくて愛する人が一緒にいたならば、もしかすると音楽を人前ではしていないかもしれません(((( ;°Д°))))
愛する人のためだけにギターやピアノを演奏することで充分満たされそうな気もします。
でも、電気楽器を使うロックバンドの場合には大きな音でギターを弾くのが凄く気持ちよかったりもするので、やはりライブ独特の快感というものもあります。
★明日の夜はまた都内某所でライブに出ます。
やる以上は出来るだけよい音楽をつくりたいのですが、若い頃のように例えば1時間で10曲演奏する場合に全ての楽曲のコード進行や歌詞を覚えきれていなかったりして、まだまだ練習不足です。
まあ、ジョン・レノンも歌詞が覚えられなくて歌詞を書いた小さな紙をギターの裏に貼ってたなんて有名な話もあるので、私ごときが完璧を目指すのは無理ってものなのかもしれません。
明日は昼間からライブのリハもあり、ブログを書いてる場合でもないんですが、なるべく週一更新を崩さないように今日はホントにサクっとアップしちゃいます☆☆
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★1956年(昭和31年)8月、日産自動車は戦前から製造されてきた小型のダットサントラックと大型のニッサントラック(180系~580系)の間を埋める中型トラックとして「ニッサン ジュニア」を発売した。
最初のジュニアは、ノックダウン生産車ニッサン オースチンA50ケンブリッジのIH型1500ccエンジンを搭載し、1.75トン積として発売された。板ガラスが主流だった当時、フロントウインドがセンターで分割されずに左右まで回り込んだ1枚の曲面ガラスであったことがデザイン上のトピックであった。
初代ジュニアがデビューした時点では既にトヨペットRK型・オオタKD型・プリンスAFTF型など各社が中型のボンネットトラックを製造販売していたが、日産は後発ながらも信頼性の高いオースチンのエンジンや強力な販売網により国内中型トラック市場でのシェアを一気に伸ばした。
【初代ニッサン ジュニアの変遷】
・1956年(昭和31年)8月・・・・・B40型(1750kg積)デビュー
・1958年(昭和33年)3月・・・・・ジュニアと同じシャシーを利用したキャブオーバートラック「ニッサン・ジュニア キャブオールC40型」(2000kg積)発売
・1958年(昭和33年)8月・・・・・エンジンをオースチンと同様、57pにパワーアップしたB42型にマイナーチェンジ。1.25トン積のNB42型、消防車「ジュニアFB42型」、ジュニアのシャシーに大型トラックやニッサンパトロールと同じ強力なNCF型3956cc105psエンジンを搭載した消防車「ニッサンFPB42型」を追加。
・1959年(昭和34年)12月・・・・・B43型にマイナーチェンジ(B43型のセールスカタログの存在は未確認)
・1960年(昭和35年)8月・・・・・同年春にデビューした初代縦目のセドリックと同じG型14880c71psエンジンに換装したB140型にマイナーチェンジ。1.25トン積はNB140型、消防車はジュニアと同じG型エンジン搭載車「ジュニアFB140型」とPF型3956cc125psエンジン搭載の「ニッサンFRB140型」に変更された。
・1962年(昭和37年)1月・・・・・2代目ジュニアのデビューに伴い生産終了
★今回は初代ジュニアの変遷の中で1958年の夏に追加された消防車のカタログを幾つかご紹介します。通常のジュニア(トラック)については本シリーズ第65回記事をご参照ください。
【主要スペック】1959年 日産ジュニアFB42型 消防車 (1959 Nissan Junior Fire Engine Typ.FB42)
全長4590㎜・全幅1680㎜・全高1910㎜・ホイールベース2620㎜・車両重量2455kg・FR・1HF型水冷OHV4サイクル4気筒1489ccガソリンエンジン・最高出力57ps/4400rpm・最大トルク11kg・m/2400rpm・変速機4速MT・乗車定員11名・最小回転半径5700㎜・電装系12V・消防ポンプ型式:二段バランスタービン・放水能力:毎分1.7㎥以上・パワーウエイトレシオ:43kg/ps・最高速度80km/h・販売価格:不明
●1959年 ニッサン ジュニア消防車FB42型 天然色写真
日産自動車カレンダー1960年版より。カレンダーのサイズ: 縦45.5×横39.5cm。日産自動車では戦前より毎年カレンダーを制作していた形跡があるが、その性格上、古いカレンダーは現存しているものが少ない。しかし、カレンダーにはセールス・カタログ等他の印刷物では見られない特別な写真が多く貴重な史料といえる。子供2人とジュニア消防車の非常に珍しいカラー。車両のライセンスプレートは日産お膝元の神奈川を示す「神」。
●1958年 ニッサン ジュニア消防車FB42型 写真
1958年10月 自動車工業振興会発行「自動車ガイドブック第5巻1958年版」より。上がジュニア消防車FB42型、下は4WDのニッサンキャリヤーF4W72型。
●1959年5月 ニッサン中型消防車FPB42型 専用リーフレット (A4判・表裏1枚)
ジュニアB42型の1500cc57psではなく、大型トラック用のNCF型水冷直列6気筒SV3956cc105psエンジンを搭載した車両。車両重量2570kg。パワーウイエトレシオ:24.5kg/ps・最高速度110km/h・放水能力:毎分2800L以上。すぐに125psのFRB42型に変更されたため、このカタログは手書きで「125馬力」と修正されている。このFPB42型はジュニアB42型の全長4610㎜・全幅1675に対して全長4670㎜・全幅1780㎜と一回り大きな車体を持つ。しかし、ホイールベース及び前後輪トレッドの数値はジュニアB42型と全く同じで全長及び全幅が大きいのは専ら消防装置を積んだ後部の架装設計によるもの。
解説
エンジン
エンジンクーラーはオプション
スペック
図面
●1959年11月 ニッサン中型消防車FRB42型 専用リーフレット (A4判・表裏1枚)
エンジンがPF型3956cc125psにパワーアップされたFRB42型。車両重量2595kg。パワーウエイトレシオ:20.7kg/ps。最高速度110km/h。放水能力:毎分3.2㎥以上。
特長
リアビュー
エンジン解説
図面&スペック
●1960年8月 ニッサン中型消防車FRB140型 専用リーフレット (A4判・表裏1枚)
エンジンはPF型3956cc125psのまま、標準のB140型ジュニアに準じたフェイスリフトを受けた。車両重量2560kg。パワーウエイトレシオ:20.48kg/ps。最高速度110km/h。放水能力:毎分3.2㎥以上。
アップ
国家消防本部消防研究所長名の「消防ポンプ機関機関型式試験合格証明」及び解説
スペック
エンジン・クーラー及び図面
●1960年8月 ニッサン ジュニア消防車FB140型 専用リーフレット (A4判・表裏1枚)
縦目のセドリックと同じG型14880c71psエンジンに換装されたB140型ジュニアと同じ71psエンジンを搭載した大人しい消防車。全幅もジュニアと同じ当時の小型車枠内の1680㎜に納まるよう架装されている。車両重量2455kg。パワーウエイトレシオ:34.5kg/ps。最高速度85km/h。放水能力:毎分1.7㎥以上。
解説
国家消防本部消防研究所長名の「消防ポンプ機関機関型式試験合格証明」。この時代の消防車のカタログには、どのメーカーでもこの合格証明が水戸黄門の印籠の如く掲載されるのが定番であった。自治体等の消防車の購入担当者もこれが掲載されているとスムースに購入出来たのかもしれない。
車両正面
スペック&図面
図面アップ。全幅が1700mm以下の小型車枠内に収まっているのが分る。
★オマケ(その1): 米澤玩具1/18スケール 1958年 ニッサン ジュニア梯子消防車
全長33cm・全幅9cm。ブリキ製。当時定価:不明。初代ジュニアのモデル玩具は萬代屋や野村トーイ、SSSインターナショナル商事からも発売された中で米澤玩具からはトラック、幌付きトラック、ダンプ、ロケット発射台付軍用車両、消防車等の夥しいバリエーション展開がされた。後年、同社のミニカー「ダイヤペット」で同一金型流用品が多数造られたことの古い前例と見ることも出来る。実車にすれば全長6m程度の梯子車となるが、ジュニアベースの梯子車は玩具の世界だけのもので実在はしないだろう。この消防車にはドアの「F.D.」文字パーツ有無のバリエーションあり。
フロントナンバーの「N.58」は、ニッサン1958年の意味だろうか。
ドア部分の「F.D.」文字パーツ有無のバリエーション
★オマケ(その2): David Bowie 「Fame」 1975
惜しくも鬼籍に入ったデヴィッド・ボウイ(1947年1月8日-2016年1月10日)とジョン・レノン(と黒人ギタリスト、カルロス・アロマー)の共作曲。ジョンが主夫生活に入る直前のリリースで全米1位となった。ジョンもギターとボーカルで参加。レコーディングの時点でボウイ28歳、ジョン34歳。リリースから既に40年以上の時を経ているが、まるで古びていない。
★オマケ(その3): David Bowie 「Across the Universe」 1975
オマケ2のフェイムと同時にアルバム「ヤング・アメリカン」に集録された言わずと知れたジョンの名曲。ジョンもレコーディングに参加。ヤング・アメリカンがリリースされた1975年、私は高1だったのですが、熱狂的なボウイ・ファンのクラスメイトがいました。その彼もバンドをやっていてルックスもボウイにそっくりだったことを思い出します。
★1957年 メルセデス・ベンツ ミニバスO319 ダルマバス ~ 自動車カタログ棚から 304
★2016年1月23日付、このブログのアメブロ順位、約180万人中?の総合508位、5,652人参加の「コレクション」カテゴリーの何と第1位!強者が多くハードルが高い2,757人参加の「書籍化ブログ」で8位!
しかし、アクセス解析をみると幾つかの画像に集中的にアクセスされています。ブログの本文ではなく古い自動車カタログなどのレアな画像が順位を押し上げているのは確かなようです。すぐに順位は下がるでしょう。それでも、リンク元をみると【お気に入りまたはブックマークから】が毎日500~600アクセスもあり、顔は見えなくとも密かに読者となってくださっている方が大勢いるのは嬉しい限りです。
★今回は「自動車カタログ棚から」シリーズの第304回として、古いメルセデス・ベンツのバスをピックアップします。カタログが手元のカタログ棚には1部しかないため、オマケとしてメルセデスのミニカーを沢山アップすることにします。
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★メルセデス・ベンツ・ブランドのバス(乗合自動車)の歴史は古くブランドの誕生と殆ど同時期の20世紀初頭まで遡る。その100年を超える歴史をセールスカタログで追い、カタログを用いて研究・精査し全貌を知ることは恐らくドイツ国内に於いてさえ不可能に近く、1980年代半ばに至るまでベンツブランドの大型バスの輸入自体もされなかった極東の島国・日本に於いてはダイムラーベンツの製造したバスに関する古い印刷物(特に1950年代以前)には殆どお目にかかることがない。
200年、300年の時を経た家が普通に住居として使われているような欧州では歴史を大切にするだけにシュトゥットガルト(Stuttgart)のメルセデス・ベンツ博物館(Mercedes-Benz-Museum)にだけは、過去の印刷物もかなりの量が収蔵されていると思われるがパーフェクトではなかろう。バスの実車ともなると保存されている車両はその長い歴史を概観できる程には多くはない。トヨタ博物館の広報ではトヨタ車の過去のセールス・カタログについてはほぼパーフェクトに収集を完了したとしているが、1936年(昭和11年)のトヨダAA型から数えて2016年で創立80年となるトヨタ自動車に対して、カール・ベンツがベンツ社(Benz & Cie)を設立したのは1883年(明治16年: 但し、自動車の量産は1890年開始)とトヨタより半世紀以上も歴史が長いのである。
★今回はそんなレアな古いベンツ(・・・という呼び方は古くからの日本独自の慣習であって、海外では通常「ベンツ」ではなく「メルセデス」と呼ぶ)のバスのカタログの一つをご紹介したい。
三菱が1960年(昭和35年)秋に最初の小型バス「ローザ」(本シリーズ第81回記事参照)をリリースするに当って大いに参考にしたと言われる、ダルマのようにコロコロと可愛らしいデザインのベンツの小型バス「メルセデス・ベンツO319」である。
★メルセデス・ベンツ L319(Mercedes-Benz L319)は、1955年(昭和30年)から1967年(昭和42年)にかけてダイムラー・ベンツで製造された小型商用車である。
1950年代当時の欧州の標準的なバンよりは大きく標準的な小型トラックよりは小さ目のこの車は、ダイムラー・ベンツ社としては初めて生産したサイズの商用車であった。ボディ形式はトラック、バン、小型バス(O319)のほか消防車を始めとする各種特装ボディが存在した。
ナチスドイツによる第二次世界大戦の敗戦から10年を経た1955年(昭和30年)の時点でダイムラー・ベンツ社は既に世界の乗用車市場において確固たる地位を築いており、商用車市場に於いても戦前から続く幅広いラインナップを取り揃えていた。商用モデルは1945年(昭和20年)デビューのL 3500シリーズやオペル・ブリッツのOEM製品L701が存在したが、1950年(昭和25年)3月デビューのフォルクワーゲン・タイプ2の成功とオペル・ブリッツのフルモデルチェンジの影響によりダイムラー・ベンツ社も新たなカテゴリーの車の開発を進めることなった。
★1955年(昭和30年)9月のフランクフルトショーでメルセデス・ベンツ「L319」はデビューした。
車両総重量3600kg、最大積載量1.6~1.8トン、ボディ型式はパネルバン、トラック、ミニバス(O319)、各種の特装車までを幅広く取り揃えていた。L319は世界的に成功したフォルクスワーゲン・タイプ2のリアエンジン・リアドライブの模倣はせずオーソドックスなフロントエンジン・リアドライブのレイアウトを採ったものの、両車のシルエットは良く似ていた。しかし、大衆車ビートルベースのタイプ2よりもL319は二回り程大きな体躯を持っていた。当時のメルセデスを始めとするトラックの主流であった突き出たボンネットを持たない近代的なキャブオーバー・レイアウトが採られ、運転手は車両の最前部に座ることで非常に良好な視界を得ることが可能となった。また、積載空間(バスに於いては客室空間)を最大に確保すると同時に同時代の商用車として充分に斬新なデザインの外観を併せ持っていた。下回りは板バネと固定車軸のサスペンションであったが、単純故に壊れにくく整備も容易であった。エンジンはメルセデス製の乗用車用エンジンが流用され、最初のL319にはメルセデス・ベンツ180Dと同じ43psエンジンが載せられた。その後、65psのガソリン・エンジン車も加えられ、エンジン出力の向上や細部の改良を経て(1966~67年式ガソリンエンジン車では2L/90ps)、1955年のデビューから12年を経た1967年(昭和42年)に至るまで、シリーズ合計で約14万台が生産された。同クラスのメルセデス・ベンツの商用車は1968年式よりメルセデスT2と称する新型にフルモデル・チェンジされた。
なお、戦前1930年代からの伝統でメルセデスのバスの名称の頭には、オムニバス=omnibus=乗合自動車の意味の「O」(オー)が付けられ、L319のミニバスには「O319」の名称が与えられた。
【主要スペック】 1957年 メルセデス・ベンツ O319 ミニバス (1957 Mercedes-Benz Mini-bus Typ.O319)
全長4820㎜・全幅2080㎜・全高2400㎜・ホイールベース2850㎜・車両総重量3606kg・水冷4気筒1897ccガソリンエンジン・最高出力74ps/4500rpm・圧縮比6.8:1・変速機4速コラムMT・四輪リジットサス・電装系12V・乗車定員: 運転席含め11/18/19名(3仕様)・最高速度95km/h(59m.p.h.)
●1957年? メルセデス・ベンツ小型バス O319/O319D カタログ (縦22×横31.3cm・英文8頁+)
カタログNo.ExL 257/2 1260e。西独印刷。20世紀の日本における自動車史研究の第一人者であり、技術者以外で初の日本自動車殿堂入りを果たした五十嵐平達氏(1924~2000年)がメルセデスの自動車画について次のような記述を残されている。
「戦前1930年代半ばから日本画調の二次元的な線とカラーで一世を風靡したメルセデスの自動車画は、当時カタログを手にしたとき、江戸時代の浮世絵画家が自動車を描いたらこうなるのではないかと考えたものである。第二次大戦後は人間的な温かさを感じさせるものへと変化し、自動車画家ワルター・ゴチュケ(Walter Gotschke)のサインが入るようになった」
ゴチュケは20世紀後半に活躍した著名な自動車画家であり、我国でも1970年代前半に日産自動車のモータースポーツシーンを描いたカレンダー画等を手掛けた。このO319のカタログ画にはゴチュケのサインは見当らないためゴチュケ作ではないとしてもデッサン力の確かな優れた画家の手によるものである。絵と車名印字部分が明確に分けられているのは、1950年代メルセデス車カタログ表紙の共通フォーマットであったが、300SL/190SLの登場以後は白地に文字のみという少々無機質かつシンプルな表紙のカタログが増えた。
【中頁から】
概説
1名の運転手と乗客10名・17名・18名の3種
標準ボディカラーはワイン/アイボリー等4種のツートン
エンジン2種
室内図
運転手1名+乗客10名の豪華バス仕様
運転手1名+乗客17名の標準バス仕様
運転手1名+乗客18名の最大バス仕様
快適な運転席。キャブオーバーのためキャビン中央には大きなエンジンルームの突き出しあり。
空調システム
頑丈なクロスメンバーのフレーム、エンジン、ブレーキ解説
46psディーゼルエンジンと74psガソリンエンジン
前輪も板バネサス
エンジン整備時にはフロント・パネルが外れる。
リアにはラゲッジスペース
図面(1名の運転手と乗客10名・17名・18名の3種)
スペック
裏面カタログ・ナンバー印字箇所
●1961年?メルセデス・ベンツ 日本語版 総合カタログより「日本に輸入されたO-319」 (縦21×横27.5cm・12頁)
メルセデス・ベンツ日本総代理店ウェスタン自動車と総販売元の梁瀬自動車のダブルネームで発行された日本語版総合カタログの1頁。まだ300SLが掲載されており、1960年登場の220SEクーペも掲載されているので、1961年ないし1962年の発行?上掲のカタログでは2850㎜だったホイールベースが3110mmに変っている。当時の日本には乗車定員10名の豪華仕様のみが入荷したらしい。
★オマケ(その1): 仏ディンキー541番 1/43スケール メルセデス・ベンツ15人乗り小型バス O319
全長11.5cm。ダイキャスト製。国内当時定価:不明(調査中)。1963年5発売。前後サスペンション機構のみで開閉アクションなしの素朴なモデル。このあたりのオールド・ディンキーは円安ユーロ高を差し引いても、日本国内より欧州の方が流通価格は高いようだ。近年、中国のアトラス・エディション(Atlas Editions)よりPTT仕様の精巧な復刻が出ている。復刻は裏版の刻印がMADE IN FRNCEではなくMADE IN CHINAであるため判別は容易。
★オマケ(その2): 英マッチボックス68B番 1/90メルセデス・コーチ
全長7.2cm。ダイキャスト製(ルーフ部分はプラ製)。国内当時定価:150円。1965年発売。オマケ1の仏ディンキーとカラーリングも同じだが、フロントウンド中央にピラーが入ったワンサイズ大きな23~25名乗り程度のリアエンジンバスをモデル化しているようだ。沢山開けられた天窓が魅力的なモデル。
★オマケ(その3): デンマーク・テクノ913番 1/43スケール メルセデス・ベンツ・デリバリートラック「TUBORG」
全長16.5cm。ダイキャスト製。国内当時定価:不明。デンマークの酒造メーカー「ツボルグ」の宣伝車。荷台左右のシャッターが開閉する絶妙なアクション付。テクノからはこれと同一キャブを利用した通常のトラック、ゴミ収集車、ミルク運搬車、牛運搬車、フルトレーラーパネルバンなど夥しいバリエーションがリリースされている。画像のモデルは残念ながらキャブルーフ上のツボルグの王冠のような飾りが欠品しているものの、文字通りズッシリと重く魅力的なミニカー。
オマケ1との並び
★オマケ(その4): デンマーク・テクノ950番 1/60スケール メルセデス・ベンツ バス O302
全長19cm。ダイキャスト製。国内当時定価1950円。1964年デビューの大型観光バスO302をモデル化しており、前後左右のドア、下部ラゲッジスペース、リアエンジンフード等開くべきところは全てが開閉し前輪には後年ダイヤペットが模倣したルーフを押すと左右に曲がるステアリング機構が付いている。更にヘッドライトにはジェエリーが埋め込まれている。カラーバリエーションは赤・クリームや上下の塗色が逆転したものなど多数あり。このあたりのバスモデルは日本では人気がなく、1970年代のダイヤペットの国産大型バスの方が評価は高いようだ。
全てが開閉するアクション付
★オマケ(その5): BUB 1/87スケール メルセデス・ベンツL319「PORSCHE」+ポルシェ64積載トレーラー
全長12cm(連結状態)。ダイキャスト製。国内定価:税抜3800円。2010年発売。世界限定1000セット。品番06810。日本では京商が取扱いのHOスケールBUBのミニカーは小さくとも精巧で魅力的な作風だが、輸入数が少ないため買い逃すとやっかいだ。
★オマケ(その6): BUB 1/87スケール メルセデス・ベンツLP608「Martini-Racing」+ポルシェRSRターボ#2
全長13cm(連結状態)。ダイキャスト製。国内定価:税抜3800円。2012年発売。世界限定1000セット。品番07853。このモデルは出た時に買い逃してしまい、画像はアメブロで知り合ったスーパーカーオヤジ様からお譲り戴いたもの。
オマケ5との並び
★オマケ(その7): 米澤玩具 1/18スケール 1962年 三菱ライトバス ローザ「幼稚園バス」
全長33cm。ブリキ製。当時価格:都内330円・地方360円。米澤玩具 製品番号744番。1965年発売。和製O319とも言える初代三菱ローザの唯一の立体造形物。はとバス仕様が先に市場に出た(第81回記事のオマケ参照)。左ハンドルなのは御愛嬌。コンディションはイマイチながら生き残っていたこと自体が貴重なモデル。
★オマケ(その8): メルセデス・ベンツ O319 バス 画像集
現存車両の画像集。
★オマケ(その9): メルセデス・ベンツ O319D 実車動画
室内の画像からはCOEのため運転席と助手席の間にエンジンカバーが突き出ていることが確認できる。
★1957年 クライスラー ニューヨーカー 黄金時代のアメ車 ~ 自動車カタログ棚から 305
★2016年1月25日(月)朝の東京の最低気温は、何と1966年以来半世紀ぶりの記録となるマイナス2.6度と冷え込んだ。気温が低いにしても朝から寒気がひどく、暖房の付いている電車の中でも寒気は引かず、オフィスに出て暖房がガンガン効いた部屋に入っても寒気は収まらないので仕方なく室内なのにコートを着たままで仕事。で、熱でもあるのかなー?と一応熱を測ってみると何と38.7度(@_@;)
仕事帰りに医者に行き、インフルエンザの検査を受ける。結果はインフルエンザA型(@_@;)
しかし、何日も仕事を休む訳にもいかず、かと言って他の人にウイルスをうつす訳にもいかないので出勤は控え電話で連絡を取り進められる仕事は進める。
林檎が食べたくて仕方がないのだが、独り者が寝込んでいる状態では林檎の皮をむくことも出来ない。というか、実は林檎の皮のむき方がよく判らないので(皮のむき方を教えて貰えるところがあるのだろうか?ボーイスカウトとか??)、健康な時でも丸かじり以外は出来ないのだがww
将来の自分の孤独死が頭をよぎる(@_@;)
・・・・・という訳でワタス的には結構シンドイ1週間でござんした(>_<)
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★2016年3月期が1兆4400億円の営業利益が見込まれるトヨタ自動車では今年の春闘で平均年7.1ヶ月分のボーナスを要求するそうだ。
トヨタの経営側はベア・アップの満額回答は避けつつもボーナスは満額回答する例が多いため、トヨタのボーナス平均支給額は260万円にも届く可能性が高いという。トヨタ車が国内のみならず海外でも売れに売れ、その利潤を労使で分かち合うのは当然のこととも言えるが、年間ウン百万といった高額のボーナスを貰ったことがない立場からみると羨望の念を禁じ得ない。しかし一方で、日本で40%を占める中小企業ではボーナス自体が支給されない例も多く、その代りに家族経営的な小規模なところなどでは定年制度もなく元気に働ける限りは幾つになっても働かせて貰えるといった恩恵もあると聞く。反対に、外資系などで2000万円超えといった高額年棒契約の場合にも基本ボーナスというものはないようだ。その場合、あくまで年棒であるので業績評価等により翌年は年棒が更に上がる可能性もあるが、逆に半額以下に激減あるいは最悪の場合には契約更新なしという恐れもある。
★2015年の輸入車の販売台数はドイツ車が一人勝ちの状況であった。1位は圧倒的なブランド力を持ちつつ廉価なAクラスも大きく伸びたメルセデス・ベンツの65162台、2位フォルクスワーゲンの54766台、3位BMWの46229台、4位アウディ29414台と続く。ポルシェも6690台で8位にランクインした。これに対してアメリカ車はどうかというと、フォード4968台、シボレー825台、クライスラー466台と惨憺たる数字が並んだ。日本では「ガソリンをドカ食いする上に壊れやすいアメ車」といった昔のイメージが抜け切らず、人口減少により市場規模が縮むことが確実である日本市場から、フォードは2016年末までに完全撤退(但しオーナー向けの保守サービスだけは当面残る)することが発表された。日本では1920年代よりノックダウン生産もされた自動車王フォードの輸入が途絶えることになるとは誰が予想し得ただろうか。2017年以降、マスタングを始めとするフォード車の正規輸入はなくなることとなる。
★今回はGM・フォード・クライスラーのアメリカ車ビッグスリーのひとつ、アメリカ車が今よりも遥かに輝いていた時代、1950年代後半のクライスラーをピックアップします。
ウォルターP.クライスラー(Walter Percy Chrysler; 1875年4月2日-1940年8月18日)がマックスウェル社とチャーマーズ社を統合して自らの名を冠した自動車会社クライスラー社を設立したのは1925年(大正14年)であった。ブランドとしては2016年現在で90年以上の歴史を持つことになる。
★クライスラー・ニューヨーカー(Chrysler New Yorker)は1938年後期に生産が開始された1939年型(但し1938年の最初期はインペリアルのオプショングレード名称であった)より1997年型まで実に14世代に亘り生産された、アメリカ車の中でも長い歴史を誇った車名のひとつ。
今回ご紹介する1957年および1958年式はニューヨーカーとしては第5世代目に当る。1957年型は1956年9月より、1958年型は1957年10月より生産を始めているので、日本では純国産としては初代クラウンやダットサン110、そして漸く初代スカイラインがデビューしたという時代である。
この時代、クライスラーブランドの中には上からニューヨーカー、サラトガ(Saratoga)、ウィンザー(Windsor)の3車種が存在した。最上級車インペリアルはクライスラーとは別の独立したブランドに格上げされていた。
ボディタイプは、4ドアセダン、4ドア・ハードトップ、2ドア・ハードトップ、2ドア・コンバーチブル、4ドアワゴンの5種。全車種ホイールベース126inで登場したが1958年型では差別化が図られニューヨーカーとサラトガは126inのままウィンザーのみ122inに縮められた。1957年時点でのアメリカ製乗用車は実に80%までがV8エンジンを搭載しており、クライスラーもその例に漏れず全ての車種にV8エンジンが搭載された。テールフィンを持った伸びやかなフォルムは1950年代後半のアメ車黄金期を象徴する1台でもあり、当時の日本製ブリキ玩具(TinToy)の恰好の題材ともなった。
【主要スペック】 1957年クライスラー ニューヨーカー 4ドア・ハードトップ (1957 Chrysler New Yorker 4-door hardtop)
全長5568㎜(219.2in)・全幅2002㎜(78.8in)・全高1420㎜(55.9in)・ホイルベース3200㎜(126in)・車両重量1957kg・FR・水冷V型8気筒6435cc(392cu.in)・最高出力330ps・最大トルク59.4kg-m・変速機トルコン3速AT・電装系12V・乗車定員6名・パワーウインド、パワーステアリング、パワーシート標準装備・燃費4.6km/ℓ・パワーウェイトレシオ5.9kg/ps・最高速度195 km/h (121 mph)・ゼロヨン16.5秒・米国内販売価格:調査中
●1956年9月発行 1957年クライスラー 本カタログ (縦22.8×横32.2・英文24頁)
表紙は中間グレード・サラトガ4ドア・ハードトップ。6mに迫るサイズが生む実に伸びやかなフォルム。
【中頁から】
ニューヨーカー4ドアセダン
ニューヨーカー4ドア・ハードトップ
ニューヨーカー・コンバーチブルクーペ
ニューヨーカー2ドア・ハードトップ
ニューヨーカー・タウン&カントリーワゴン
ダッシュボード
中間グレード「サラトガ」2ドア・ハードトップ・・・・・ニューヨーカー2ドアHTよりサイドモールがシンプル
サラトガ4ドアセダン。サラトガ・セダンと4ドアHTはリア・サイドモールが上位グレードのニューヨーカーより派手な意匠。
サラトガ4ドア・ハードトップ
ウィンザー4ドアセダン・・・・・廉価グレード「ウィンザー」の4ドア及び4ドアHTもリアドアからリアエンドにかけてのサイドモールが派手なツートーン。
ウィンザー4ドア・ハードトップ
ウィンザー2ドア・ハードトップ・・・・・廉価車ウィンザー2ドアHTはサイドモールが一切付かない。ボディラインの美しさが際立ちシンプルな味わいが良い。
タウン&カントリーワゴンのリアビュー。テールライトは後年の日産車(初代セドリックや初代ブルーバード後期型)が酷似したものを付けていた。
シャシー
V8エンジンとブレーキ
この年、デュアルヘッドライトは全車にオプション
運転席からの眺め
裏面: スペック
●1957年10月発行 1958年クライスラー 本カタログ (縦27.5×横35.6cm・英文24頁)
このカタログは裏面に「ACE SUPPLIERS,INC 東京・千代田区有楽町1丁目三進ビル311」の印が押されていることから当時から日本にあったもの。エース・サプライヤーというのは当時の日本のクライスラー販売会社なのだろうか。
【中頁から】
ニューヨーカー4ドア・ハードトップ
ニューヨーカー2ドア・ハードトップ(上)と4ドアセダン(下)
ニューヨーカー タウン&カントリーワゴン
ニューヨーカー2ドアコンバーチブル
中間グレード「サラトガ」2ドア・ハードトップ・・・・ニューヨーカーとはサイドモールが異なる。
中間グレード「サラトガ」の4ドア・ハードトップ及び4ドアセダン
廉価グレード「ウィンザー」の4ドアセダン及びタウン&カントリーワゴン
廉価グレード「ウィンザー」4ドア・ハードトップ
広く美しいインテリア
ダッシュボード
オートマセレクトボタンはダッシュ左端に付く。
裏面: スペック
★オマケ(その1): 野村トーイ 1/19スケール 1958年クライスラー・ニューヨーカー4ドア・ハードトップ (Nomura Toy 1958 Chrysler New Yorker 4-door hardtop)
全長29.5cm。ブリキ製。当時定価:不明。製造:山崎玩具(I.Y.Metal Toys)、販売元:野村トーイ。この時代のアメリカ車のブリキ製モデル玩具の9割は輸出されたと言われるため、国内向けの日本語表記の箱は非常にレア。私はカテゴリー的にアメ車のブリキ・コレクターではないのですが、これは日本語の箱に強烈に惹かれて入手した1台。昭和30年代の(私が生れた頃の)日本国内の玩具店の店頭に並んでいる姿を想像すると、思わず込み上げてくるような懐かしさと感動に涙が出る。野村トーイからは同じ年式のニューヨーカー・ワゴンも出ています(但しワゴンの日本語箱は未確認)。
箱絵に描かれた白/赤ツートンのフロントフェンダーには、「New Yorker」のレタリングが入れられているが、箱にはクライスラー ニューヨーカーではなく「クライスラー自動車」と印字されているところが時代を感じさせる。右端には何故かホワイトハウス風の赤屋根の建物が描かれている。描かれている車のドアノブの形状は実車と異なるが玩具本体とは同じ。
★オマケ(その2): アルプス 1/15.5スケール 1957年クライスラー・ニューヨーカー4ドア・ハードトップ (Alps/Iwaya 1957 Chrysler New Yorker 4-door hardtop)
全長36cm。ブリキ製。国内定価:不明。旭玩具の1962年インペリアルやマルサンの1956年フォードと並んで人気・評価共に高いモデル。アメリカ車のブリキモデルと言うと一般にはマルサンの1951年キャデラックが有名だが大量に残っており入手が容易なため現在の市場評価は比較的低い。このニューヨーカーは2013年12月にヤフオクに若干傷みのある元箱付で出品された際の画像をお借りしたもの。落札額は136万1000円とコレクターズガイド本「The Big Book of TIN TOY CARS」(Schiffer出版)に記載されている評価額15000ドルよりは2割程度安価で終了した。サイズもあり造りも丁寧な傑作モデル。
室内のダッシュパネルも実車に忠実にプリント再現されている。
★オマケ(その3): 2016年米国映画「キャロル」予告編
2016年 2月 11日日本公開のアメリカ映画「キャロル」(ケイト・ブランシェット/ルーニー・マーラ出演)は、異性間ではなく同性間の愛情を描いたラブストーリーですが、1952年ニューヨークのクリスマスシーズンのデパートの玩具売り場が2人の出会いの場面として登場します。予告編を見る限り鉄道模型と人形、ドールハウスが見える程度ですが時代的に当時大量に輸出されていた日本製ブリキ玩具が登場するのを期待したいところです。クルマ好きには登場する実車も見所ですが、アメリカ映画らしくかなり正確な時代考証が為されていそうです。これが日本映画の場合では近年の作品であっても登場する自動車はかなりアバウトな時代考証がされていることがあります。この映画にはショパンの別れの曲(邦題)が使われていることも見逃せません。
★1964年いすゞワスプ&ベレットエキスプレス ベレットの兄弟達 ~自動車カタログ棚から 306
★節分も過ぎて、次は愈々バレンタインですね。過去30年位?はチョコゼロの超悲惨な人生なので、何とか今年は不遇な人生からオサラバしたいところです。本チョコならお返しは100倍、義理チョコでも10倍はお返ししても惜しくはないというところですね。バレンタインは商魂に踊らされているだけ、義理チョコと義理返しは悪習以外の何物でもないとの意見もありますが、やはりバレンタインはある種男のロマンと言えますよね。
しかしまあ、また今年も例年通り不二家あたりで自分で買ってきてチョコの爆食いをするという悲惨なパターンになりそうです(T_T)
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★1960年代の国産乗用車の大きな特徴として、乗用車と同じデザイン基調の兄弟車たるライトバンやトラックが多数存在したことが挙げられる。
クラウン、マークⅡ、コロナ、パブリカ、ファミリア、コンパーノ、コルト800、ダイハツフェローにはセダン以外にバン・トラック双方のバリエーションが存在したのを始め、日野コンテッサ1300にはブリスカという名のトラック、そして、いすゞベレットには「ワスプ」という名のトラックと「ベレット・エキスプレス」という名のライトバンが存在した。
話をライトバンに限るならば、1960年代のセダン型国産乗用車ではライトバンのバリエーションを持たない車種の方が少なかった。ニッサンセドリック、ブルーバード、プリンスグロリア、プリンススカイライン、いすゞベレルには何れもバンボディが存在したし、軽自動車においてもホンダN360にはLN360、スバル360にはスバルカスタムという名のバンボディが存在した。トヨタ2000GTやフェアレディSP/SRのような純粋なスポーツカーとプレジデント、センチュリー、デボネアといった超高級車を除けば、殆どの国産乗用車にはバンボディが存在したのである。
★いすゞベレットのボディ・バリエーションを実車で揃えることはベレット・フリークの人々が抱く夢の一つであろう (かく言う私もかつてはそれを夢見ていた)。
もしベレットを1台のみ所有するならば、一般にベレットの頂点と言われるツインカム搭載のGTタイプR(GTR)よりも私は1964年(昭和39年)10月から1966年(昭和41年)9月までに生産された初期型1600GT(PR90)を選ぶ。初期型1600GTのシンプルなエクステリア・デザインと立体的なインパネ・デザインは後年のGTRよりも遥かに魅力的だからである。ベレットだけに限らない話だが、概ね1967年(昭和42年)以前の生産車は手作業による丁寧な仕上げが為され、後年の生産車より格段に造りが良いこともポイントが高い。
もしベレットの実車をボディ・バリエーションで一通り揃えるとするならば、以下の6種類が必須と言える。
1) セダン4ドア
2) セダンBタイプ (後輪リジット)
3) GT (クーペボディ)
4) GTファストバック
5) エキスプレス (ライトバン)
6) ワスプ (トラック)
勿論、蒐集対象を上記3)のGTクーペボディのみに絞り、1964年9月以前のセダンと同じ前後エンドの外観を持つ最初期型から始まり、69年デビューのGTRや最後に加わったハト派の1800GTNまでの一通りのバリエーションを集めてみるというのも面白いだろう。往年の名レーシングドライバー生沢徹氏が夥しい数のナロー911を蒐集しているように、クーペボディのベレGのバリエーションを猛然と集めてみるという手法である。但し、1964年9月以前の最初期型ベレGは現存が確認されているのは1台のみと言われるため、年式別にパーフェクトに蒐集することは非常にハードルが高い。
ところが、上記1)~6)のベレットのボディ・バリエーションを全て揃えることは、実はベレGを集めるより以上に更にハードルは高い。その理由は5)の1964年(昭和39年)10月から1967年(昭和42年)まで製造された「ベレット・エキスプレス」(ライトバン)は現存が確認されている個体が僅かに2台、うち1台はいすゞ本社に里戻りすることが決まっていること、6)の1963年(昭和38年)11月20日から1971年(昭和46年)まで製造された「ワスプ」(トラック)は今しも土に帰りそうな朽ち果てた廃車体を含めても現存15台程度と非常に少ないためである(現存数は何れもベレット・サルーンクラブの調査による)。
勿論、現存数がゼロではないためベレットへの情熱(とある程度の資力)があれば、1)~6)のボディ・バリエーションを実車で揃えることは全く不可能とも言えない。もしも現存個体が極めて少ないと言われるベレット・エキスプレスが発見出来たならば、蒐集の山はもう大方越えたと言えるかもしれない。
★今回の「自動車カタログ棚から」は、現存車両の少ないベレットのトラックバージョン「ワスプ」とライトバン「ベレット・エキスプレス」のカタログを駆け足でご紹介することとしたい。
いすゞ「ワスプ」はベレットと同じく1963年(昭和38年)11月20日に発売された1トン積みトラックである。
ワスプのボディ前半部や荷台後方のキャラクターライン等のエクステリア・デザイン、インパネ等はベレット・セダンと同一基調のものであり、誰の目にもワスプはベレットのトラック・バージョンに見える。しかし、シャシーは全くの別物でありベレットがモノコックであったのに対してワスプは独立した頑丈なフレームを持ち、サスペンションも全面的に異なり後輪ではベレットのような独立懸架でなく荷重に耐え得るようリジットとされた。また、ホイールベースもベレットの2350㎜に対してワスプは2500㎜と150㎜長い(全長はベレット・デラックスの4090㎜に対してワスプは4095㎜とほぼ同一)。ステアリング機構もベレットのラック&ピニオンに対して、ワスプではオーソドックスなボールスクリュー式が採用された。エンジンは翌1964年4月にベレット1300に搭載されたG130型1325ccガソリン58psとベレットディーゼルと同じC180型1764ccディーゼル50psの2種が用意され、内外観の変更を受けつつもエンジンについては1971年の終焉に至るまで一度も変更を受けなかった。
★ベレットのライトバンである「ベレット・エキスプレス」は、トラック「ワスプ」のWB2500㎜のシャシーにバン・ボディを載せた新たなバリエーションとして1964年(昭和39年)9月22日に発表された。
フロントグリルはシンプルなワスプのものとは異なりベレット・セダンと基本的に同一のものが付けられた。テールライトは俗にオムスビと言われる初期型ベレット・セダンのものとデザインを同一基調としつつも角ばらせた上で下半分を橙色のウインカーとした。このテールライトはセダン以上に進歩的な設計であった。リアシートを倒した状態の2名乗車時500kg積、5名乗車時は300kg積。エンジンは当初、ワスプ同様にG130型1325ccガソリン58psとC180型1764ccディーゼル50psの2種が用意されたが、僅か1年でディーゼルはラインナップから外れた。繊細な商品の運搬や乗用車としても使用されるライトバンではディーゼルの音や振動が敬遠され殆ど売れなかったものと思われる。ベレット・エキスプレスは、4ナンバーの商用車でありながら59万8000円とベレット4ドア(スタンダード)より3万5000円も高価であったことや電動式リアウインドを下げなければテールゲートが開かないことなど使い勝手の悪さもあり、後継車のフローリアンバンのデビューを待たずに1967年中には生産が中止された。
【ワスプ及びベレットエキスプレスの変遷】
・1963年(昭和38年) 11月20日・・・・・ワスプ(KR10型) 新発売: ワスプ=Wasp=働き蜂の意味
・1964年(昭和39年) 9月22日・・・・・エキスプレス発表(発売は10月?)
・1965年(昭和40年) 10月・・・・・エキスプレス・ディーゼルを生産中止
・1966年(昭和41年) 10月・・・・・ワスプ及びエキスプレス・マイナーチェンジ(フロントグリル周り変更、エキスプレスでは同年のセダンと同一の新グリルに変更、インパネをセダン系に準じて平板なデザインに変更、ミッションをフルシンクロ化)
・1967年(昭和42年) ?月・・・・・ベレット・エキスプレス生産中止(後継車は1968年デビューのフローリアンバン)
・1968年(昭和43年) 9月・・・・・ワスプ・マイナーチェンジ(異形角型ヘッドライト、インパネを木目に変更)
・1971年(昭和46年) ?月・・・・・ワスプ生産中止(後継車は1972年デビューのフローリアントラック「ファスター」KB20型)
【主要スペック】 1964年いすゞワスプ KR10 (1964 ISUZU WASP Typ.KR10)
全長4095㎜・全幅1525㎜・全高1615㎜・ホイールベース2500㎜・車重1040kg・FR・G130型ガソリン水冷4サイクルOHV1325cc・圧縮比7.5・最高出力58ps/5000rpm・最大トルク9.8kgm/1800rpm・変速機4速コラムMT(2・3・4速シンクロ)・最大積載量1000kg・乗車定員2名・最小回転半径5200㎜・電装系12V・箱型断面梯子型シャシーフレーム・前輪独立/後輪固定サス・操行装置ボールスクリュー式・燃費13.5km/ℓ・最高速度116km/h・東京店頭渡価格52万5000円
●広報誌「いすゞニュース」1966年3月号 表紙 (B5判)
日比谷公園入口のフラワーショップ「日比谷花壇」前のいすゞワスプ。荷台に花を満載した姿は移動販売車のように見える。
●広報誌「いすゞニュース」1965年12月号 表紙 (B5判)
瀟洒な洋品店前のいすゞベレット・エキスプレス「サントリー配送車」。右に写っているサントリー配達員を演じている人物は一般人ではなく、俳優・待田京介氏(1936年6月22日-)。サントリー配送車のカラーリングが白に淡い緑を縦横に配したものであったことが判る貴重なカラー。
●1966年いすゞベレット・エキスプレス 広告 (B5判)
広報誌「いすゞニュース」1966年3月号より。「ベレットの高速性能と小型トラックの運搬力を一つに纏め上げたいすゞの傑作」のコピー。
●1963年10月? いすゞワスプ 大判リーフレット (縦26×横36.4cm・表裏1枚)
裏面はいすゞトラック・バスの一覧となっており、いすゞ商用総合カタログとして東京モーターショーで配布されたものかもしれない。
●1963年10月? いすゞワスプ リーフレット (A4判・表裏1枚)
裏面はワスプの概要解説とスペック表。
裏面: 概説
裏面: スペック
裏面: 図面
●1963年10月? いすゞニュース別冊「ベレット&ワスプ お答えします集」 (縦17×横18cm・12頁)
ベレット・ワスプのデビューに際して発行された別冊。両面表紙で片側はベレット、もう片側はこのワスプのカラー。
●1964年2月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・16頁分)
カタログNo.172。恐らくワスプ最初の本カタログ。
【中頁から】
フロントグリル
ベレット・セダンに準じたインパネ周り
1300ガソリンと1800ディーゼルの2種のエンジン
フレーム付シャシー
長さ1745㎜×横幅1355㎜の荷台
リア周り
●1964年9月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:印字なし。
【中頁から】
倉庫にて
高原にて
森永牛乳の配達
●1964年? いすゞワスプ 輸出用カタログ (A4判・英文2つ折4面)
カタログNo.51C1-1。輸出用の英文カタログながら掲載されている車両は国内向け右ハンドル車のみ。ライセンスナンバー「品4ろ60-85」のクルマは上掲の1964年9月発行のカタログに登場するものと同一でいすゞの広報車だったようだ。
●1965年10月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2003。荷傷みの少ないパネルバン(型式KR10V)を追加。パネルバンは車重が1140kgとノーマルのワスプより100kg重く、G130ガソリン58psエンジンのみを搭載した。
【中頁から】
パネルバン追加
●1966年11月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2007。マイナーチェンジ。フロントグリルから平仮名の「いすゞ」エンブレムが消え、内装はセダンの1966年4月のMCに準じ平板なダッシュとなった。600kg積みの移動販売車を追加。
【中頁から】
フロントグリル中央にあった「いすゞ」の平仮名エンブレムが消えた。
インパネをセダンに準じて変更
リアビュー
移動販売車 追加
●1968年9月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2013。ベレットBタイプ等と同様の異形角型ヘッドライトを装着しグルリ周りの印象は大幅に変った。ダッシュパネルは木目が標準となった。
【中頁から】
コラージュ
木目インパネ
図面
●1970年10月 いすゞワスプ 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2024。発行時期から推して恐らくワスプ最後のカタログ。
【中頁から】
「ワスプは猛烈な働き蜂」
ホーンリング中央には旧年式セダンの赤地にISUZUの白文字パーツが使用されている。
「雨にも負けず、風にも負けず、名づけてワスプパネルバン」
●1965年4月 いすゞベレット・エキスプレス 本カタログ (縦27.2×横25.1cm・8頁)
カタログNo:印字なし。恐らくこのカタログの初版は1964年10月。大判のなかなか魅力的なカタログ。登場する車両は全て「品4す31-60」のライセンスプレートを付けた淡い水灰色のボディ。
【中頁から】
サイドビュー
草原にて
浜辺のデート
1300ガソリンと1800ディーゼルの2種のエンジン
リアウインドは運転席からリモート昇降操作を行う。
スペック
●1965年10月 いすゞベレット・エキスプレス 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2002。デビュー1年にして早くもディーゼルがカタログ落ちした。登場する車両は全て「品川4ひ13-00」のライセンスプレートを付けた淡いベージュもしくは白灰色のボディ。この時期までの初期型エキスプレスは廃車体を含めても現存車両が1台も確認されていない。
【中頁から】
リアビュー
高原の渓流にて、パパは釣り
セダンに準じたインパネ周り
2人乗り500kg積み、5人乗り300kg積みの2種のレイアウト。リアシートはワンタッチで水平に倒すことが出来た。
スペアタイヤはリア床下に格納
●1966年10月 いすゞベレット・エキスプレス 本カタログ (A4判・8頁)
カタログNo:ST-2006。マイナーチェンジ。同年4月のベレット・セダンのMCに準じてフロントグリル及びインパネ周りが変更された。ボディカラーは青、金緑、赤の3色。現存が確認されている2台のエキスプレスは全てこの後期型で、赤いボディの車両がフルレストアを受け、いすゞに里帰りする模様だ。
【中頁から】
工事現場にて
ペットショップにて
草原にて
インパネ周りをセダンのMCに準じて変更
標準ボディカラー3色
★オマケ(その1): 1966年前期 いすゞベレット1600GT 現存車両画像
ベレットのセダンやGTについては当時物から近年のTLV等に至るまでミニチュアモデルが多数リリースされていますが、超マニアックなベレットの兄弟と言えるワスプとベレット・エキスプレスには残念ながらミニチュア(立体造形物)が存在しないため、オマケに個人的に好きなベレGの画像を掲載することにします。2016年1月31日(日)お台場・船の科学館前臨時駐車場で開催されたニュー・イヤー・ミーティングの場外駐車場にて撮影。個人的にはポルシェ356Aクーペの次に好きなクルマがこの時期のベレGであり、見ているだけでも文字通り胸がキュンとなるクルマ。
★オマケ(その2): トミカ発売15周年記念 1/50スケール 1972年いすゞベレット1600GTR
しかし、オマケに1台もミニチュアがないのは少々寂しいということで、これまで倉庫に仕舞ってしまい行方不明だったために画像がアップ出来なかったベレットのミニカーを1台。全長8cm。アンチモニー製。ベレットが生産中止となって12年を経た1985年夏に発売されたミニチュアモデル。ベレットが旧車となって発売された初のミニチュア。品番No.908。手元の個体にはシリアルナンバー33の刻印がされている。ブロンズメッキで彩色がされていないのが残念だが長いことこの最終型はこれが唯一のミニチュアモデルだった。ところが、近年になってTLVがこれと同じまさかの最終型を1/64スケールでモデル化した。
【過去のベレット関連記事】
御興味がありましたら、併せてご覧ください。
・1963年いすゞベレット・・・・・第163回記事
・1966年いすゞベレット・・・・・第196回記事
・1967年いすゞベレット・タクシー・・・・・第11回記事
・1965年いすゞベレット1600GT・・・・・第32回記事
・1969年いすゞベレット1600GTR・・・・・第86回記事
・1972年いすゞベレット・・・・第197回記事
★2016年2月11日 オノ・ヨーコ「私の窓から」~ 東京都現代美術館の特別展
★2015年11月8日~2016年2月14日まで開催されている、東京都現代美術館の特別展「オノ・ヨーコ ~私の窓から」を観てきた。2月11日(祝)は午前中に主任学芸員・関 直子氏による1時間程度のギャラリートーク(解説)があり、本展を企画した関氏による解説は洋子さんのアートを理解するには最良と思われる極めて秀逸なものであった。
●1969年12月 WAR IS OVER ポスター
このあまりにも有名なポスターは後年の複製品も沢山出回っているが、これは慶應義塾大学アート・センター所蔵のオリジナル。
●1969年12月 WAR IS OVER 国内向け ポスター (横尾忠則 作)
「戦争は終りだ・・・・それは君次第!」の日本語訳が赤字で印字されている。1969年暮れの日本では日比谷野外音楽堂に集まった群衆がこのポスターを持って東京駅まで後進したことが当時の一般紙の報道にも残されている。
★特別展示の最初に我々の眼前に現れるのは、「クリケットメモリーズ」(1998)という作品である。
それは13個の虫籠(むしかご)が天井から吊られ各々の虫籠には以下のプレートが付けられている。その日、その場所にいた虫だとしたら?と想像してみる。世界史に興味のある向きであれば大体何が起こった日付と場所であるかは分かるであろう。これは過去の過ち、哀しみを忘れないという強い意志表示でもある。私は1980年12月8日がリストに入っていることに不覚にも涙が溢れた。
・1914年6月14日 ボスニア・サラエボ
・1937年12月13日 中国・南京
・1942年7月17日 ソ連・スターリングラード
・1943年1月18日 ポーランド・ワルシャワ
・1945年2月13日 ドイツ・ドレスデン
・1945年8月6日 日本・広島
・1956年10月23日 ハンガリー・ブタペスト
・1959年3月10日 チベット
・1968年3月16日 ベトナム・ミライ
・1975年4月17日 カンボジア・プノンペン
・1976年6月16日 南アフリカ・ソウェト
・1980年12月8日 アメリカ・ニューヨーク
・1992年4月5日 ボスニア ヘルツェゴヴィナ・サラエボ
★1933年(昭和8年=平成天皇と同年)2月18日生まれの洋子さんは日本では1932年4月~1933年3月生まれの学年に当り、1940年(昭和15年)10月9日生まれのジョン・レノンより学年で言えば8年上ということになる。
ジョンも子供の頃から自分で絵本を創るなど、音楽以外の分野でも独自の才能を発揮していたが、洋子さんはジョン以上にアートに囲まれた環境で育ち、独自のアート世界=とりわけコンセプチュアル・アートの世界を構築した。今回の展示では洋子さんの戦前の生い立ちから世界初公開となる1950年代初頭の未だ10代だった頃の前衛作品群や1960年代前半の日本における活動の紹介に重点が置かれていた。それは、この展示の趣旨が「出生地である東京という都市の文脈から再考する」というものであったからだ。
●「IMAGINE」「REMEMBER」・・・・・重要な言葉たちの展示
●私の窓から(FROM MY WINDOW) 2002
ダコタハウスの部屋からセントラルパークを見下ろす窓にかつて一緒に暮らしたジョンの幻影が写る。
★もとより洋子さんの人生・アートからジョン・レノンの存在を切り離して語ることは不可能であり(逆にジョンを語る際に洋子さんの存在を完全に切り離すことも不可能である)、有名なWAR IS OVERの1969年のポスターや日本オリジナルの同時期の横尾忠則氏による国内イベント専用ポスター、ジョンに影響されて始めたロック・ミュージックの日本での活動として1974年8月に福島県郡山市開成山公園内の総合陸上競技場で行われたワンステップフェスティバルの貴重な横尾忠則氏によるポスターや関連資料の数々も展示された。上述の主任学芸員・関氏による解説ではワンステップフェスティバルには洋子さんをトリに竹田和夫氏のクリエーションが参加したことに触れられていたが、ワンステップにはキャロル、四人囃子、シュガーベイブ、サディスティック・ミカ・バンド等の当時のメジャーなバンドは殆どが参加したという日本の音楽史に残る一大イベントであり、コンプリートな映像作品が残されていないことは残念としか言えない。
●1974年 ワンステップフェスティバル ポスター (横尾忠則 作)
●1973年 シングルレコード 「女性上位ばんざい」
東芝EMI規格番号: EAR-10344。洋子さんがジョンに影響されて始めたロック・ミュージックのレコードも展示された。これは超レアな日本限定発売の1枚。
●会場入口
●特別展チラシ
●特別展「図録」
今回の特別展の図録。300頁に及ぶ大著で装丁自体もアートとなっている。洋子さんの序文に始まり、関主任学芸員等による解説、作品リスト等内容は充実しており、洋子さんの歩みに興味のある向きは必携の1冊。税込2250円。
★オノ・ヨーコ 「Voice Piece For Soprano」
2015年11月9日、東京都現代美術館にて。特別展に合わせて来日した洋子さんのパフォーマンス。
★プラスティック・オノ・バンド「Live Peace in Toronto 1969」
1969年9月13日、カナダ・トロント「ロックンロール・リバイバル・コンサート」にて。ジョン・レノンのリードボーカルにエリック・クラプトンのギターという夢の競演が実現した唯一の屋外ライブ。ジョン28歳、エリック24歳、洋子さん36歳。後半は洋子さんのパフォーマンス。16:45位からジョン&ヨーコ登場。
★1968年 トヨタ カローラ・スプリンター 最初のスプリンター ~ 自動車カタログ棚から307
★さてと・・・・・。
ついに今年もやってきました、バレンタインデー!!
戸籍真っ白、チョコゼロ歴30ウン年?の悲惨な人生を今年もまた積み重ねるのだ!(爆)
でもって、またまた不二家でチョコ買ってきて爆食いするってパターンなのだ!(爆)
それでいいのだ!いやいや、全然、良くはないのだ!!(爆)
ていうか・・・、実写版バカボンってアニメを超えられるかえwww
・・・話をチョコに戻して、花輪君みたいにホントは沢山もらいたかったりするのだけんども、
「チョコを手に持つ独居老人、都会の孤独死www」
なんて見出しで派手に三面記事を飾る人生になりそな予感なのだ!(爆)
こりゃ、そろそろイチから人生やり直さないとマズイのん!(爆)
えーっ!でも、もうこの歳じゃ手遅れだって?!(爆)
★低気圧の影響で昨日そして今日2月14日も時ならぬ春の陽気になっています。東京は2日続けて最高気温が20度を上回る5月並みの陽気となるようです。しかし、明日2月15日(月)には気温が急降下し、最高気温11度まで下がり冬に戻るとの予報です。寒暖の差が大きいですね。体調を崩さないように気を付けたいと思います。
★閑話休題
前回は私のブログをいつも読んでくださっている方にはまるでつまらないかもしれない記事となりましたので(?)、仕切り直して今日は「自動車カタログ棚から」シリーズの第307回です。
最近、カローラ、サニー、サニークーペとアップした流れで、サニークーペのライバル、カローラ・スプリンターをご紹介します。個人的には子供の頃に街で見かけた懐かしいクルマの1台です。
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★トヨタの小型車スプリンター(Sprinter=短距離走者の意味)は、1968年(昭和43年)5月1日、ファストバックルーフを持つカローラのスポーティーなバリエーション「カローラ・スプリンター」として誕生した(型式KE15)。
その際、新たなトヨタの販売チャンネルとしてトヨタオート店(現ネッツ店)が誕生した。デビューから僅か2年後の1970年(昭和45年)5月6日には2代目(型式KE25)にフルモデルチェンジし、2代目への移行に当りカローラにもクーペボディが登場し、カローラとスプリンターは販売チャンネルの異なる双子車として再スタートした。2代目移行当初のスプリンターはクーペボディのみであったが、翌1971年(昭和46年)8月27日には4ドアセダンが加えられ、1972年(昭和47年)3月にはセリカ1600GTと同じツインカム2T-Gを搭載したカローラ・レビン/スプリンター・トレノ(型式TE27)が誕生するなどを経て、カローラとスプリンターは1995年(平成5月に誕生した8代目に至るまで基本的に同じ歴史を歩んだ。その後、スプリンターは2000年(平成12年)8月でセダン及びトレノの生産を終え、2002年(平成14年)7月にはバン、ワゴン、カリブの生産も終え、34年に亘り親しまれたスプリンターの車名は惜しくも消滅した。
★カローラとスプリンターは2代目以降に於いては双子車となったため、「カローラ・スプリンター」という車名は1968年(昭和43年)5月1日発売の初代にのみ使われたものである。
「カローラ・スプリンター」は、カローラをベースとしてスポーティーなスタイルと高性能を併せ持つクーペ型の5人乗り小型車としてデビューした。1967年(昭和42年)10月26日~11月8日に東京・晴海で開催された第14回東京モーターショーのトヨタブースに「カローラ・クーペ」として展示された車両の市販化であった。
1960年代後半、我が国の爆発的なモータリゼーションの進展期にあって様々なライフスタイル、様々な需要に対応すべく、若者(もしくは若い心を持ったドライバー)やありふれたセダンとは一味違う洒落たクルマを求める人々を購買層として開発された車種であった。2ヵ月早く1968年(昭和43年)3月2日に発売された日産のサニークーペが事実上のライバルであった。
全幅1485㎜、室内幅1250㎜のスペースに後席3名掛けの乗車定員5名というのは今日の感覚では相当無謀に感じるし、第14回東京モーターショーにカローラ・クーペとしてデビューした際のカーグラフィック誌では当時の小林彰太郎編集長がこのスタイルでは乗車定員は5名でなく4名だろうとも予想しているのだが、当時の国産セダンで全幅1500㎜前後に後席3名掛けは普通のことであったし、何より先にライバルのサニークーペが5名乗りとしてデビューしていたためトヨタとしても乗車定員4名には出来なかったのではないだろうか。
【1968年4月8日付 トヨタ カローラ スプリンター プレスリリース(抜粋)】
トヨタ自動車販売㈱は、4月8日、カローラシリーズにファストバックスタイルの乗用車「カローラ・スプリンター」を発表、5月1日より発売する。
これは多様化する大衆車需要に応えるために開発されたもので、性能、スタイル共に好評のトヨタ・カローラをベースとし、洗練されたファストバックスタイルに豪華でスポーティーな感覚を盛り込んだ新しいタイプの5人乗りセダン(乗用車)である。
1)「ファストバックスタイル」・・・・・スプリンターのスタイルはカローラをベースにしたファストバックで、スポーティーな高性能車のイメージを強調している。特にサイドまで廻りこんだ大型リアコンビネーションランプが美しいリアビューを更に印象的なものとしている。
2)「十分な室内スペース」・・・・・本格的なファストバックスタイルを採用したにも関わらず、後部座席空間を犠牲にせず5人乗り乗用車として十分な室内スペースが確保されている。
3)「豊富な車種」・・・・・需要層の多様な好みに応えるため、標準タイプ、デラックス、ツインキャブ73psのSLの3種にフロアシフト、コラムシフト、トヨグライド(オートマチック)の3種のミッションを組み合わせた7車種を揃えている(SLはフロアシフトのみ)。
4)「高速性能」・・・・・本格的なファストバックスタイルを採用した結果、空気抵抗が減少し、カローラで実証済の高速性能は更に5キロ向上し、スプリンターSLは最高時速160キロ(カローラセダンSLは155キロ)、スプリンター標準タイプ及びデラックスは145キロ(カローラセダンでは140キロ)となった。
【初代カローラ・スプリンターの変遷】
・1967年(昭和42年)10月26日~11月8日・・・・・第14回東京モーターショーに「カローラ・クーペ」の名称で展示
・1968年(昭和43年)4月8日・・・・・カローラ・スプリンター(KE15型)プレス発表
・1968年(昭和43年)5月1日・・・・・新発売
・1969年(昭和44年)2月12日・・・・・フロント・ターンシグナルを白から橙色に変更し大型化・ヘッドレスト、3点式シートベルト、4ウェイフラッシャー、発煙筒等の安全対策装備実施
・1969年(昭和44年)8月26日・・・・・1200(KE17型)プレス発表
・1969年(昭和44年)9月1日・・・・・3K型1166ccエンジン搭載のスプリンター1200にマイナーチェンジ・トヨタのカタログ等広報印刷物からカローラの文字が消え単にスプリンターとなる。
・1970(昭和45年)5月6日・・・・・2代目KE25型のデビューに伴い生産終了
【主要スペック】 1968年 トヨタ カローラ スプリンターSL 〈型式KE15-S〉 (1968 Toyota Corolla Sprinter SL Typ.KE15-S)
全長3845㎜・全幅1485㎜・全高1345㎜・ホイールベース2285㎜・車両重量730kg・FR・K-B型水冷直列4気筒OHV1077cc・K-B型ツインキャブ・圧縮比10.0・最高出力73ps/6600rpm・最大トルク9.0/4600rpm・変速機4速フロアMT・乗車定員5名・電装系12V・前輪ディスクブレーキ・最小回転半径4550㎜・平坦路定速燃費21km/ℓ・ゼロヨン17.5秒・最高速度160km/h・東京店頭渡価格58万7000円
●1969年11月 スプリンター1200 広告
週刊サンケイ臨時増刊1000万人の乗用車1969年11月7日号より。1969年9月にMCを受け1200となった初代最終型スプリンターの広告。特徴的なリアビューに「思わずふり返らせる車」のコピー。この最終型では車名からカローラの文字が消えている。標準車49万3500円、デラックス53万1500円、ツインキャブのSL59万4000円。同時期のサニークーペGL(最上級車)が53万5000円であったので、スプリンター・デラックスがほぼ同額、SLは約6万円高価だった。但しサニークーペの60ps最高速140kmに対して初代最終型スプリンターSLの性能は77ps最高速160kmとサニーを大きく上回っていた。
●1968年4月 カローラ・スプリンター 簡易カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・3つ折6面)
トヨタカタログNo.31025。最初の簡易カタログ。
【中面から】
この美しい薄い青メタリック(ネレウス・ブルー・メタリック)のボディはこの簡易カタログにのみ登場。
●1968年6月 カローラ・スプリンター 本カタログ (縦32.9cm×横24.5cm・24頁)
トヨタカタログNo.30042。この最初の本カタログの初刷は恐らく1968年4月。洒落た縦長大判カタログ。SLを含めた全グレード掲載。
【中頁から】
デラックス
ハンドル、シフトノブ、インパネと全て木目尽くし
この初期型ではヘッドレストが付かない。
フロアMT、コラムMT、トヨグライドATの変速機3種
エンジン、サスペンション、ブレーキ、オプション
ボディカラーは5色
スペック
図面
●1968年6月 カローラ・スプリンターSL 専用カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・12頁)
トヨタカタログNo.30043。このカタログの初刷も恐らく1968年4月。ツインキャブ73ps最高速160km/hの最高グレードSL専用カタログ。後年のセリカでもGTだけは専用カタログが出されたのと同じ手法が早くも採られている。外観上のSLの識別点は砲弾型フェンダーミラーと前後左右のSL文字のバッチ。内装ではインパネが3連メーター(左からスピード、水温/燃料、タコメーター)となる。
【中頁から】
丸型3連メーターのインパネ
6750rpmからレッドゾーンのタコメーターと4速シフトノブ
ツインキャブ73psエンジン
テストコースにて
ボディカラー5色及びスペック
●1969年2月 カローラ・スプリンター 簡易カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・3つ折6面)
トヨタカタログNo.31035。フロント・ターンシグナルを白から橙色に変更した上で大型化し、1969年4月1日の保安基準改正でシートベルト等の設置義務化が為されることに備えて安全装備が大幅に充実した。
【中面から】
SL
橙色の大型となったフロント・ターンシグナル
●1969年2月 カローラ・スプリンター 本カタログ (縦32.9cm×横24.5cm・22頁)
トヨタカタログNo.30048。
【中頁から】
正面
ヘッドレスト、シートベルトを装備
変速機3種
SLではフロントグリルに付く「SL」エンブレムの意匠が変更された他、黒基調だったインパネ周りが木目風のものに変った。
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●1969年10月 スプリンター1200 簡易カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・3つ折6面)
トヨタカタログNo.30061。このカタログの初刷は恐らく1969年8月。3K型1166cc搭載のKE17型にマイナーチェンジし、標準車とデラックスは60psから68psにSLは73psから77psに出力を向上させたが、外観はKE15型の69年2月以降の生産車と基本的に同一で判別し難い。このKE17型からカタログ等の印刷物ではカローラの文字が消え単にスプリンターとなった。しかし、フロントグリル中央にはカローラの花の冠のマークが従来通り付いたままとなっている。
【中面から】
裏面: スペック
●1969年8月 スプリンター1200 本カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・24頁)
トヨタカタログNo.30062。
【中頁から】
1200についての解説
運転席
ヘッドレスト、2点式シートベルト装備
標準車及びデラックスは60psから68psに大幅パワーアップし、最高速は150km/hに上がった。
SL
●1969年8月 スプリンター1200SL 専用カタログ (縦29.7cm×横23.8cm・12頁)
トヨタカタログNo.30060。
【中頁から】
インパネ
ヘッドレスト及び3点式シートベルト装備
3人掛けのリアシートはサニークーペのようにトランクスルーではなかった。
ツインキャブ77psエンジン。SLも4psパワーアップしたが最高速は160km/hのまま変わらず。
★オマケ(その1): ダイヤペット183番 1/40スケール 1968年カローラ・スプリンター
全長9.5cm。ダイキャスト製。1969年6月、米澤玩具発売。当時定価550円。ボンネット・トランク・ドア全開閉の183番として市場に出た。ボディカラーは藤紫、卵黄、赤等。この183番に先立ち1969年2月にサニークーペがダイヤペット182番として市販されているのは実車の発売順序と同じで面白い。182番にはダイヤペット初期から使われた味わい深い被せ箱が存在するが183番はウインドパッケージのみ。その後、1971年6月にトランクの開閉機構を省き227番として再販。更に再販時には257番としてゼッケンシール等を貼ったラリーカーが定価600円で市販された。同時期には258番ローレルラリーカーと260番117クーペラリーカーも市場に出ており、通常品に単に紙シールをベタベタ貼っただけのラリーカーのような安易なバリエーションは正にコレクター泣かせと言える。
フル開閉アクション
正面
183番ノーマル
257番ラリーカー
★オマケ(その2): 香港プレイアート7146番 1/55スケール 1968年カローラ・スプリンターSL
全長7cm。ダイキャスト製。1970年代後半まで国内市場で見かけた製品。その後、プレイアートを衣替えして販売した増田屋の黒箱ポケッター・シリーズではこれは販売されなかった(と思う)。プレイアートはトミカと被る車種も多いが、トミカより発売が少し早かったようで、この初代スプリンター、ファミリア・ロータリークーペあたりはプレイアートにしか小スケールミニカーが存在しない貴重品。プレイアートは当時定価200円ながら、温泉地の土産物屋などでは1台300円、400円といったボッタクリ価格で売られているのを見かけ、同じ香港のヤトミングあたりと並び妖しい匂いがプンプンする小スケールミニカーだった。画像の4色以外にもカタログには黄緑が出ているなどカラーバリエーションは膨大。ホイール・バリエーションも2種あり。しかし、プレイアートの小スケールミニカーは今となっては同時代のトミカよりも見つけ出すことは難しいのではないだろうか。
★オマケ(その3): 子供の頃に描いた自動車図鑑のカローラ・スプリンター
1969年(昭和44年)、小4の夏休みに私が作った私製自動車図鑑の中のカローラ・スプリンターSLを描いた頁。上からカワサキ650W1スペシャル、怪奇大作戦スーパーカートータス、ホンダモンキー、カローラ・スプリンターSL。48.7万円と書いてある価格はSLではなく標準車のもの。怪奇大作戦のトータスは何を見て描いたのものだったかすっかり忘れてしまった。
★1964年プリンス・グロリア ワゴン/エステート 魅惑のワゴン ~自動車カタログ棚から 308
★先月、94歳の伯母が亡くなった。伯母は先の大戦の折、1945年(昭和20年)に御主人(私の叔父に当る)をシベリアで失くしたのだが、子供はいなかったので直系の親族は1人もなく、兄弟は全員80代後半以上となって施設に入るなどしているため、私が相続手続きをおこなっている。伯母は軍人遺族の恩給を受給していたのだが、その金額は国民年金などとは正に天地の差があった。フツーにサラリーマンをやっているのがちょっとバカバカしくなるような金額と言えば大凡の想像がつくだろうか。軍人恩給は原則として大日本帝国当時の階級毎の給与を現在の貨幣価値に換算した仮定俸給年額(兵145万円~大将833万)に応じて支給されるらしいので、従軍当時の叔父は下士官などではなく、ある程度の位であったようだ。しかし、である。軍隊時代の階級によって戦後70年以上を経た現在でも年金の支給額に大きな差が付くとは何ということであろうか。同じ人間であるのに、下士官と大将とでは戦死して遺族が受給するお金にも雲泥の差がつくとは・・・。
★閑話休題
この週末は時間が取れず月曜夜となりましたが、なるべく1週間飛ばさないように急いでアップしておきます。「自動車カタログ棚から」シリーズの第308回としてワゴンとしては国産車史上最も美しい1台といえるクルマをご紹介します☆☆
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★1959年(昭和34年)1月、初代スカイラインのボディに当時の小型車規格を超える1900ccエンジンを搭載して生まれた初代グロリア(同年の皇太子御成婚を記念し、グロリア=栄光と命名された)は1962年(昭和37年)9月にスカイラインベースではない真のニューモデルと言える2代目グロリアにフルモデルチェンジした。
フラットデッキスタイルにボディ周囲を一回りするメッキのモールディング(このディテールからハチマキグロリアの愛称が付けられた)、表情豊かで印象的なフロントグリルに薄手のルーフ、楕円形のテールライト等のディテールを含めたデザインは同時代の国産乗用車の中ではひときわ輝いており、そのスタイリングの完成度の高さは海外でも高い評価を受けたプリンスの傑作である。
1962年の秋に一斉にデビューした国産中型車(全長4700mmの小型車規格の国産フルサイズカー)は、2代目40系クラウン、初代後期H31横目のセドリック、そしてこの2代目グロリアと何れも現在の目で見ても非常に魅力的なクルマばかりだが、華のあるデザインという点では何と言ってもグロリアに軍配が上がるだろう。
★2代目グロリアは初代から踏襲したG2型4気筒94psエンジンを搭載してデビューしたが、1963年(昭和38年)6月には国産初の6気筒OHCのG7型105psエンジンを搭載したスーパー6が追加され、更に1964年(昭和39年)3月にはルーフをリアエンドまで延ばした商用4ナンバー・バンボディの「ワゴン」(V43A-1型)、1965年(昭和40年)2月にはワゴンと同じボディシェルを持つ乗用5ナンバーの「エステート」(W41A-1型)が追加された。
★グロリア・ワゴン及びエステートにはグロリア・デラックスの4気筒G2型エンジンは搭載されず全て6気筒G7が搭載された。商用のワゴンには圧縮比を8.8から8.3に下げ100psとしたG7、乗用のエステートにはスーパー6と同様8.8の圧縮比により105psを発生する高出力のG7が搭載された。ワゴンはセダンのスタンダードグレード「グロリア6」及び「スペシャル」(4気筒)に準じた簡素な内外装、エステートにはセダンのデラックスに準じた豪華な内外装が与えられた。ワゴンとエステートの外観上の識別点で最も分かりやすいものはサイドモールの有無で、乗用エステートにはサイドモールが付く。
このグロリア ワゴン及びエステートの最大の魅力は楕円形テールライトを含めセダンと同一基調で纏め上げられたデザインにあり、半世紀以上を経た現在の目で見てもセダン同様にその魅力は少しも色褪せず極めて魅力的である。
★1966年(昭和41年)3月、同年8月の日産との合併前にマイナーチェンジを受けワゴンはV43A-2型、エステートはW41A-2型に進化するが、外装の変更は行われず、シート等の内装デザイン変更とトランスミッションのギア比変更(第1速を2.980から2.963に変更等)といった小変更に留まった。翌1967年(昭和42年)4月15日のA30系3代目グロリア(所謂タテグロ)へのフルモデルチェンジに伴い生産を終了するまで、ワゴン約3年、エステート2年強という短い生涯であった。生産期間の短いエステートは現存する個体も少ない。
★1960年代の日産セドリック/ブルーバード、マツダファミリア、ダイハツコンパーノではワゴンの名称を乗用5ナンバー車に使用したが、プリンスでは商用4ナンバー車を「ワゴン」と呼び、乗用5ナンバー車には「エステート」の名称が与えられた。日産ではセドリックやブルーバードの乗用5ナンバー車を正式には「エステート・ワゴン」と称したので話はややこしい。しかし、バン、ワゴンボディに6気筒を積んだのはプリンスだけであり、プリンス車におけるワゴンの名称は普通のライトバンとは異なる高級な商用車といったニュアンスであったのかもしれない。
【1965年時点の国産中型乗用5ナンバーワゴン車の比較】
① プリンス グロリア6エステート ・・・・・全長4690mm・6気筒1988cc105ps・車両重量1460kg・最高速度150km/h・価格103万6000円
② トヨペット クラウン カスタム RS46G型 ・・・・・全長4690㎜・4気筒1897cc90ps・車両重量1350kg・最高速度140km/h・価格99万6000円
③ ニッサン セドリック エステートワゴン WP31型 ・・・・・全長4690㎜・4気筒1883cc88ps・車両重量1350kg・最高速度140km/h・価格91万6000円
【主要スペック】1964年 プリンス グロリア6ワゴン V43A-1型 (1964 Prince Gloria6 Wagon Typ.V43A-1)
全長4690㎜・全幅1695㎜・全高1510㎜・ホイールベース2680㎜・車両重量1460kg・FR・G7型水冷直列6気筒OHC1988cc・圧縮比8.3・最高出力100ps/5000rpm・最大トルク15.4m-kg/3600rpm・乗車定員/最大積載量:6名+250kgまたは3名+400kg・変速機フルシンクロ3速コラムMT・最小回転半径5400㎜・燃料タンク容量44ℓ・電装系12V・東海道地区統一現金正価85万円
●1965年 プリンス グロリア6エステート 写真(縦15.5×横17.1cm)
プリンス自動車1966年卓上カレンダーより。
●1965年 プリンス グロリア スペシャル タクシー仕様 写真(縦15.5×横17.1cm)
同上カレンダーより。4ナンバー・ワゴンと同じ簡素な外装のセダン・スペシャルの国鉄構内タクシー仕様車の珍しいスタジオフォト。
●1964年8月 プリンス グロリア6ワゴン 本カタログ (A4判・12頁)
プリンス自動車カタログ№.00077。最初にデビューしたのは4ナンバーの「ワゴン」。
【中頁から】
リア
サイド
前後席
6気筒G7エンジン
スペアはリア床下に吊り下げ
スペック
図面
●1964年9月 プリンス グロリア6ワゴン 簡易カタログ (縦20.6×横18cm・8頁)
プリンス自動車カタログ№.00114。この時期のプリンス車の簡易カタログはこの正方形に近い小型サイズ。
【中頁から】
この簡易カタログにのみ掲載の写真
●1964年10月 プリンス グロリア6ワゴン 本カタログ (A4判・12頁)
プリンス自動車カタログ№.00115。上掲の1964年8月発行の改訂版カタログで表紙と中頁の半分位の写真が差し替えられているが車両自体に変更はなし。
【中頁から】
ギラギラ輝くクロームが魅力的なフロントビュー
リア
サイド
●1965年4月 プリンス グロリア6エステート 本カタログ (A4判・12頁)
プリンス自動車カタログ№.00121。5ナンバー乗用ワゴンの最初のカタログ。
【中頁から】
スーツ姿のビジネス軍団が乗り込む。
名神にて
サイドビュー
リアビュー
運転席
スペック
●1965年9月 PMCプリンスB200エステート 輸出向けカタログ (A4判・英文2つ折4面)
カタログNo:印字なし。圧縮比8.8の高出力G7エンジンを積んだエステートの輸出仕様カタログ。車両型式は(L)W41AE。(L)=Leftの印字があるので、左ハンドルも存在したようだ。国内向けエステートと異なりサイドモールとフェンダーミラーが付かず、リアウインカーがオレンジ色となっている。
【中面から】
楕円テール内側のウインカーがオレンジ色
●1965年? プリンス グロリア6エステート 輸出向けリーフレット (A4判・英文表裏1枚)
カタログNo:印字なし。これも圧縮比8.8のG7エンジン搭載車だが上掲のカタログではB200であった名称が国内向けと同一のグロリア6エステートとなっている。ホイールキャップ中央に円形の窪みのない、ワゴンと同じ意匠のものを付けている。左下に輸出業務部技術課のスタンプが押されているので、かつてプリンス自動車で保存されていたカタログのようだ。
●1966年3月 プリンス グロリア6ワゴン 本カタログ (縦24.2×横25.5cm・変則14頁)
プリンス自動車カタログ№.00160。マイナーチェンジというよりも小変更を受けた商用4ナンバー「ワゴン」V43A-2型のカタログ。グロリア・スーパー6の写真が頁をめくると、ワゴンの外観→ワゴン6名乗り250kg荷物→ワゴン3名乗り400kgと変化するユニークなカタログ。1966年から1968年前半あたりまでの日産との合併前後のプリンス車のカタログは菅原文太のS54スカイライン2000GTを始めとして何故か現存数が少ないものが多い。
【中頁から】
表紙をめくるとセダン「スーパー6」
更に頁をめくるとワゴン
6人乗り+250kg積みにも・・・
3人乗り+400kg積みにもなります・・・。
●1966年3月 プリンス グロリア6ワゴン 本カタログ (縦36.3×横25.7cm・12頁)
プリンス自動車カタログ№.00159。マイナーチェンジというよりも小変更を受けた乗用5ナンバー「エステート」W41A-2型の大判カタログ。
【中頁から】
サイドビュー
雨の日のリアビュー
インパネ
ホテルに納品
ディテール: テールゲートはリアウインドを下げてから下ヒンジで開く。リアウインドは運転席のスイッチでもリア外部の鍵穴にキーを入れても上下できる。
魅力的なテールライト
【過去の2代目グロリア 関連記事】
御興味がありましたら、併せてご覧ください。
・1963年プリンスグロリア デラックス ・・・・・第57回記事
・1963年プリンスグロリア スーパー6・・・・・第58回記事
★オマケ(その1): 1961年?プリンス グロリア デラックス
グロリアワゴン/エステートは現在に至るまで立体造形模型は造られていないので(スクラッチビルド作品は除く)、2016年2月21日(日)に観てきたパシフィコ横浜でのイベント「第8回ノスタルジック2デイズ」の画像を少しオマケに載せておきます。展示販売されていた、この稀少な初代4灯グロリア、販売価格は現状渡しで890万円、レストア渡し1550万円!とのこと。
★オマケ(その2): 1961年?トヨペット クラウン 1900デラックス
地区表示が付く前の都内ナンバーが貴重。ホワイトのボディはノンオリジナル。価格を聞くのを忘れてしまったが、こうした稀少車は「ASK」(応談)となっていることが多い。
★オマケ(その3): トラック野郎 2台
一番星号は全国歌麿会(田嶋順市会長)、ジョナサン号はトラックアート歌麿の特別出展車両。ジョナサン号はレプリカ、一番星号は映画で使われた本物とのこと。
一番星号
ジョナサン号
★オマケ(その4): 1970年マツダ・ファミリア・ロータリークーペ「スパ・フランコルシャン」ワークス車両レプリカ
★オマケ(その5): 第8回ノスタルジック2デイズ・アラカルト
会場入口
イベントグッズ
恒例?ピンクレディー・トリビュートユニット「オレンジレディー」のライブ
崎陽軒の初代トヨエース(イベントプログラムに掲載された貴重な写真を使用した広告)