★あなたは飛行機に乗ったことがありますか。
私の同級生で仕事上は乗る機会が全くなく特に旅行が趣味でもなく、一度も飛行機には乗ったことがないという人もいます。私が初めて飛行機に乗ったのは社会人になってすぐの職場旅行で伊豆大島に行った時のYS-11でした。既に1980年代に入ってからのことです。1960年代、私が子供の頃には庶民が飛行機に乗ることはまだ夢の時代でした。子供の頃、家族で旅行というと私の家では大抵は自家用車(最初は1960年後期型スバル360、次が2代目ブルーバード411等)を使っていたこともあり、飛行機はおろか1964年に開業した東海道新幹線でさえマイカーを使わないで出かけた特別な機会に1,2度しか乗ったことはありませんでした。現在の私の勤め先では業務で海外へ行く場合には、実費ではなく規則でエコノミーの正規料金が支給されるので実際にはビジネスのディスカウントに乗っている人が多いです。
★閑話休題
さて、今回は自動車でも鉄道でもなく飛行機のカタログ(?)を初めてピックアップします。航空機については殆ど知識がないのですが、古い日航機には妙にそそられるものがあり、当時のブリキの玩具などは見かけるとついつい手が出てしまいます。実は明日はピアノのライブに出る予定でその準備もあるので今回はウィキ君を多用してサクっとアップします。明日のライブは録画をするので、もし出来が良かった時はYoutubeにアップしようかと思います。
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●1966年6月29日午前3時44分 夜明け前の羽田に上陸したビートルズと日航DC-8「松島」 (登録番号JA8008)
有名なJAL特注はっぴ姿で羽田に降り立つビートルズの4人
★第二次世界大戦が1945年(昭和20年)8月15日に日本の降伏で終結した後、日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により直ちに官民問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止された。
終戦(事実上は敗戦)から5年後の1950年(昭和25年)6月15日、GHQにより日本の航空会社による運航禁止が解除されることとなり、1951年(昭和26年)1月に日本航空創立準備事務所が開設された。
国内空運再開に当っては日本航空以外に4社が国内航空運送事業免許の申請の意向を見せたため運輸大臣の諮問機関である運輸審議会に諮った上での行政指導により最終的に日本航空に一本化され、1951年3月末に国内航空運送事業の免許を申請、同年5月22日付で営業免許が日本航空に交付された。そして1951年8月1日付にて資本金1億円の日本航空株式会社が設立された。
★設立当初の日航は日本政府主導による半官半民の体制で、本社は現在の銀座日航ホテルがある場所に置かれた、役員を除く社員は僅か43名であった。
社員は徐々に増えていくが、当初は大半が航空機運航関連業務経験のある復員軍人や学徒出陣兵、更には英語が堪能な日系2世を多数採用した。その後、定期運航開始に向けて、まず1951年(昭和26年)8月27日~29日にフィリピン航空からチャーターしたダグラスDC-3型機で、運航関係者や報道関係者を対象にした試験招待飛行を実施した他、1951年9月には羽田空港や大阪、福岡、札幌などの当初の就航予定地に支所や出張所を開設した。
★1951年(昭和26年)10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員と共にリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始した。
その後、同年11月1日より正規ダイヤの運航に移行し、羽田空港-千歳空港間の運航を開始すると共に、より大型のダグラスDC-4B型機もノースウエスト航空からリースして運用した。
当初の日航は国内線の運航のみで、しかも当時日本に乗り入れていた旧連合国陣営の外国航空会社5社による共同設立会社であるJDAC (Japan Domestic Airline Company)との運航委託を条件とした営業免許だったこともあり、JDACの1社であるノースウエスト航空の機材と運航乗務員による委託運航という体制だった。しかし翌1952年(昭和27年)4月に、ノースウエスト航空の乗務員が運航していた「もく星号」が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあり、同年10月にノースウエスト航空との運航委託契約が切れるのを待って新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によりノースウエストの乗務員の手によらない日航自身による運航を開始した。
★1953年(昭和28年)10月1日、日本政府が積極的に助成し外交上のトラブルから守ることを旨とした「日本航空株式会社法」の公布に基づき特殊法人である新たな「日本航空株式会社」が資本金20億円で誕生し、それまでの日本航空株式会社は同日付で新会社に一切の権利義務を承継して解散した。現在の日本航空株式会社はこの際の新会社である日本航空株式会社の法人格を引き継いでいるため、1951年8月ではなく1953年10月1日が日航の設立年月日となっている。
(以上、ウィキペディアより抜粋の上、日本航空10年史「日本航空10年の歩み」の記載に基づき加筆修正)
★日本航空 国際線 航空機運用 初期の歴史 (日本航空10年史より抜粋)
・1954年(昭和29年)2月2日 ダグラスDC-6B「City of Tokyo」東京~サンフランシスコ間就航(週2往復)
・1954年(昭和29年)2月5日 ダグラスDC-6B 東京~那覇:当時は米国領(週2往復)
・1958年(昭和33年)2月12日 ダグラスDC7-C型1号機「City of San Francisco」(JA6301) 東京~サンフランシスコ間就航
・1958年(昭和33年)2月23日 ダグラスDC7-C型2号機「City of Honolulu」(JA6302) 東京~サンフランシスコ間就航
・1958年(昭和33年)3月9日 ダグラスDC7-C型3号機「City of Los Angeles」(JA6303) 東京~サンフランシスコ間就航
・1958年(昭和33年)4月12日 ダグラスDC7-C型4号機「City of Hong Kong」(JA6305) 東京~サンフランシスコ間就航
・1959年(昭和34年)5月28日 ダグラスDC7-C 東京~ロサンゼルス間就航
・1959年(昭和34年)6月27日 ダグラスDC7-C 東京~シアトル間就航
以下、ジェット旅客機の時代に突入
・1960年(昭和35年)8月12日 ダグラスDC-8 東京~サンフランシスコ間就航
・1960年(昭和35年)9月5日 ダグラスDC-8 東京~ロサンゼルス間就航
・1961年(昭和36年)6月6日 ダグラスDC-8 東京~パリ間就航(北極経由)
・1966年(昭和41年)6月29日 ダグラスDC-8「松島」(JA8008)ビートルズを乗せて羽田到着
【主要スペック】 1958年 ダグラスDC7-C 旅客機 (1958 Douglas DC7-C)
全長34.5m・全幅(翼長)38.9m・全高9.7m・発動機(レシプロ・ピストン・ターボ・コンパウンド・エンジン)3400馬力×4基・巡航速度570km/h・航続距離6500km・巡航高度3500~4000m・最大座席数99席
●1960年? 日本航空ダグラスDC-7C カタログ (縦15.5×横26.2cm・2つ折4面)
恐らく1960年(昭和35年)8月18日よりDC-7Cがそれまでの国際線運用から東京~千歳線に転用された際の国内線搭乗記念パンフレット。簡単なスペックとDC7-Cの特長が概説されている。日航10年史によると運行当初の羽田~千歳間の料金は片道8500円、往復16150円で片道料金8500円は当時の初任給と同額程度の高額であった。現在の貨幣価値に置き換えれば、羽田~千歳間が片道15~20万円にもなる高額料金であり、飛行機は今のように庶民が気楽に乗れるものではなかった。
国際線に関しては、1964年(昭和39年)に日本がIMF(国際通貨基金)に加盟するまでは特別な公務・業務、留学等の理由がない限り日本人の渡航は原則許可されなかったので、初期の日航国際線の乗客数は1機当たり1桁(10人以下)ということも多かったらしい。海外渡航が自由化された1965年(昭和40年)にジャルパックの第一陣「ヨーロッパ16日間の旅」が御一人様67万5000円で販売されたが、初任給がまだ2万円程度の時代、新車のホンダS600やヨタハチを買ってお釣りが来る金額であった。現在の貨幣価値に換算すれば600~700万円にも当る高額であり、海外旅行は庶民には文字通り高嶺の花と言えた。修学旅行に飛行機に乗って東南アジアなど海外に行くこともある現在と比べると正に隔世の感がある。しかし、1964年以前の日本人は例えお金があっても国が認める正当な理由がない限り海外へ行くことは難しかったのである。
【中面から】
ダグラスDC7ーC「City of San Francisco」(JA6301)
性能・要目
「ダグラス社が製作した最新、最大のピストン・エンジン機・・・・・このダグラスDC-7Cは、ジェット旅客機ダガウラスDC-8が就航するまで、日本航空の太平洋横断空路に活躍していた、ピストン・エンジンによる最新型の長距離旅客機です。民間用旅客機のメーカーとして永い伝統を誇るダグラス社が同社設計陣の総力を結集して造り上げただけあって、速力、航続力、安全性、快適性のいずれに於いても、同社自ら「最後のピストン・エンジン旅客機」と豪語するに相応しい最高の性能を備えています。99人乗りの機体はピストン・エンジン機としては最も大きいものに属し、また、すらりと伸び切った全長34.5mの胴体とスマートな垂直尾翼の外観はデザインの美しさで定評のあるところです(ダグラスDC7-Cの胴体の長さは、鉄道の客車1.7輌分に相当します。」
「ターボ・コンパウンド・エンジンの威力・・・・・ダグラスDC7-Cのエンジンは、普通のピストン・エンジンではありません。ターボ・コンパウンド・エンジンと呼ばれる、この独特のエンジンは、謂わば、ガス・タービン・エンジンとピストン・エンジンのあいのこです。普通のピストン・エンジンでは無駄に放出されていた排気ガスを活用して、タービンを廻し、その力をピストン・エンジンの馬力にプラスしようというアイデアがこのエンジンの基本的な原理で、ピストンの往復運動とタービンの廻転運動とをスムーズに結び合わせるところに独自の工夫が凝らされています。このようにこのエンジンは極めて効率が高く強力なので普通のピストン・エンジンでは到達できない高速度を出すことができ、その上、燃料の消費が少ないので航続力も飛躍的に増大しています。実際、ダグラスDC7-Cは遥か太平洋を越えて東京~ホノルル間を無着陸飛行できる航続力を備えています。」
「電気機関車4台分の馬力・・・・・ダグラスDC7-Cのエンジンは1基につき3400馬力です。日本で一番強力な電気機関車EH-10が3350馬力ですから、ダグラスDC7-Cは4台の電気機関車を合わせたよりも大きな馬力を持っていることになります。これだけ強力なエンジンを動かすのですから、いかに経済的なエンジンとはいえ、ガソリンの消費量は相当大きなものです。ダグラスDC7-Cの燃料タンクを一杯に満たすにはドラム缶にして約150本のガソリンが必要です。」
「夜間飛行の場合・・・・・エンジンの排気口から青い炎が激しく噴出していることがありますが、これはターボ・コンパウンド・エンジンに特有の現象ですから、ご心配はいりません。」
「安全な機密室・自動的な気圧調整・・・・・ダグラスDC7-Cは、太平洋横断空路では高度4000~5000mを飛行していただけに客室は完全な気密室になっており、自動的に気圧調整が行われますので、国内線の飛行高度3500~4000m程度では客室内の気圧は地上と全く変りません。また3分毎に客室内の空気は新鮮な空気と完全に入れ替わります。温度調整も自動的に行われています。」
「気象用レーダーと最新の科学装備・・・・ダグラスDC7-Cは、Weather-Eye(気象の眼)と呼ばれるレーダーを持っています(機首の灰色と黒で丸く塗られた眼球のような部分に内臓されています)。飛行中、このレーダーは電波によって絶えず前方の気象状況を捉えて操縦席にあるブラウン管に映し出しますので、進路に積乱雲や豪雨が現われると操縦士はいち早くこれを察知して飛行機を平穏なコースへ導くことができます。このほか、ダグラスDC7-Cには数々の優れた科学装置を備え、安全、快適な空の旅に万全を期しています。」
「日本航空国内線航空路図」
現在では概ね1時間30分の東京(羽田)~札幌(千歳)間945kmの所要時間が2時間15分。
「日本航空国内支店・営業所 一覧」
★オマケ(その1): 「日本航空10年の歩み」TEN YEARS OF PROGRESS JAPAN AIR LINES(A4判・日本語/英語併記170頁)
1964年10月1日発行。非売品。今回の記事作成に当たって参考とした書籍です。
【中頁から】
ダグラスDC-7C「City of San Francisco」(JA6301)
DC7-Cのコクピット
DC-7Cのファーストクラス客室・・・・・1960年代前半に実際にファーストクラスに乗った子供がいたのかどうかは疑問。男の子の横に置いてあるのは米澤玩具製59cmサイズのブリキの日航DC7-Cと思われます。
奥付
★オマケ(その2): 米澤玩具 1/113スケール 日本航空DC-7C 「City of San Francisco」(JA6301)
全長30.5cm・翼長34.5cm。米澤玩具品番301。当時定価:都内220円・全国240円)。ブリキ製。手で押して走らせるとフリクション・ギアに連動して4つのプロペラが回転し、前側上部に付いた白いレバーをリア側に引くと窓の乗客のプリントが隠れてドアが開きスチュワーデスが姿を現すというギミック付。米澤玩具からは品番325として「電動 日本航空DC-7C」全長59cm(当時定価:都内1100円・全国1160円)という巨大サイズの日航DC-7Cも発売されている。一緒に写っている車は1970年代のトミカやバンダイのエアポートシリーズのミニカー(DC7-Cとは時代が合っていません)。
窓には乗客の姿があります。
白いレバーを後ろへ引くと乗客が隠れます。レバーの左下にあるのはJALの3文字を図案化した鶴丸以前の初期の日航ロゴマークです。
そして、後部ドアが開いてスチュワーデスが姿を現わします。
★オマケ(その3): 寺井商店(ダイヤ) 1/100スケール 日本航空DC-7C 「City of Hong Kong」(JA6302)
全長34.5cm・翼長39cm。当時定価:不明。ブリキ製。手で押して走らせるとフリクション・ギアに連動して4つのプロペラが回転するギミック付。JA6302は実機では、「City of Honolulu」であるところが、この玩具の機種には「City of Hong Kong」とプリントされている。
機首には「City of Hong Kong」のプリント
箱の左側には何故か夜の銀座が描かれています。
★オマケ(その4): 寺井商店(ダイヤ) 1/100スケール程度 日本航空DC-3 (JA3470)
全長25cm・翼長26cm。当時定価:不明。ブリキ製。日航が最初期に導入した双発プロペラ機DC-3の可愛らしい玩具。これも手で押して走らせるとフリクション・ギアに連動して2つのプロペラが回転するギミック付。鶴丸以前の初期の日航ロゴマーク入り。
★オマケ(その5): 1966年 ビートルズ来日映像「毎日ニュース」
1966年(昭和41年)6月29日、日航DC-8「松島」で上陸したビートルズの映像。冒頭の130セドリックタクシー、ビートルズの乗った1959年キャデラックや護衛の車列、武道館周辺を警備した機動隊のいすゞTXやニッサン680等、登場するクルマ達は国産旧車好きなら必見です。
★オマケ(その6): 1966年 ビートルズ来日映像「ミスター・ムーンライト」
日航DC-8で来日し首都高を1959年キャデラックに乗ったビートルズが警視庁の観音パトカー等に護衛されて走行する絵にジョン・レノンのミスター・ムーンライトの歌が被る有名な映像。羽田に降り立つビートルズの4人が着た「はっぴ」があまりに有名となり、現在のJAL国際線ファーストクラスに搭乗すると同デザインのはっぴが貰える(らしい)。
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★1958年 日本航空ダグラスDC7-C 鶴丸 ビートルズ ~ 航空機カタログ棚から 001
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