★8月に入りましたね。しかし、ここ東京は蒸し暑いです。72年前に広島に原爆が投下された今日2017年8月6日の東京の最高気温は35度の予報ですので夏本番ですね☆
この暑さでも年金暮らしのウチのハス向かいの家は昭和30年代初頭に建てた家で、いまだにエアコンはなく南北の窓を1日中全開にして扇風機を廻していたりしますYO
★ボクが初めて人妻に惚れたのは、1966年(昭和41年)、小1の時のクラスメートK君の家に遊びに行った時であった。K君の御父様は誰もが知る有名企業のオーナー社長で文字通り御殿のように大きく、しかし洋風でとても洒落た造りの家に住んでいた。アニメちびまる子ちゃんに出てくる花輪君の家をちょっと小さくした感じといえばイメージ出来るだろうか。K君の家に行くと御母様がバヤリスオレンジなどを出してくれたのだが、その御母様に小1のボクは一目見て惚れてしまった。というか、心臓がドキドキした。日本人離れした美貌は恐らくハーフかクォーターだったのでは?と今になって思うのだが、社長になれば大きな御屋敷に住んで、あんな綺麗な奥さんが貰えるんだと子供のボクは思ったものだった。
ところが、会社社長でなく、ボクのウチの近所のクリーニング屋さんの奥様と御嬢様がまた物凄い美人だったのである。御主人はスポーツ刈りでシャキシャキとして妙に早口で口数が多くて元気がよく、いかにも男気も覇気もあるといった感じの人だったのだが、会社の社長でもない個人商店なのにあんなに綺麗な奥さんが貰えることもあるのか!と子供だったボクは不思議に思ったりしたものだった☆☆
★閑話休題
今日は「自動車カタログ棚から」シリーズ第356回記事として、1925年(大正14年)のパッカード日本語版カタログをピックアップします。こんな古いクルマには興味がない、もっと新しい年代のクルマのカタログをアップして欲しいとお叱りを受けそうですが、情報の稀少性の観点から、例え見る人が殆どいなくとも戦前の物はなるべく優先的にWeb上にアップしておこうと思います。実は356回目ということで、ポルシェ356関係のカタログでとも思ったのですが、過去に手持ちのポルシェ356のカタログは既に大半を御紹介してしまっていますので、日本ではポルシェと同じ三和自動車が輸入していたという理由を無理矢理付けることとして今回は戦前のパッカードをアップすることとしますNE☆☆
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★自動車史/自動車文化史研究の第一人者であった五十嵐平達氏(1924~2000)はネコ・パブリッシングの月刊誌スクランブルカーマガジン(後のカーマガジン)1981年4月号に掲載された「人力車と日本人とパッカード」と題する記事の中で「現在の若い人々でもその車名を知らぬ人は居ないだろう」と書かれている。しかし、その記事の掲載から36年を経た2017年現在ではパッカードと聞いて自動車のブランドを連想する人は少なく、むしろPCのヒューレット・パッカード(Hewlett-Packard Company)を連想する人の方が多いのではあるまいか。
★「パッカードの良さはオーナーに聞け」(Ask the Man Who Owns One)という宣伝コピーほど自信に満ちてフェアなものはないだろう。
19世紀末(1899年)の創業したパッカードはこの有名なコピーを用いて高級車市場での業績を伸ばした。1935年(昭和10年)に廉価版120を出すまでのパッカードは映画スターや大富豪が主な顧客であったが、中流向けの廉価版を販売したことは、ロールス・ロイスのように絶対的な高級車であり続けたパッカードのブランドイメージを大きく低下させる結果となり、戦後の凋落、ひいては、あろうことか1957年(昭和32年)にスチュードベーカーのOEMによる兄弟車となった後、1958年(昭和33年)のパッカード・ブランド自体の消滅に繋がった。創業から数えて約60年でパッカード・ブランドはその歴史に終止符を打ったのである。
★戦前の自動車界に於いてロールス・ロイス、イスパノ・スイザ、ピアスアロウ、キャデラック、メルセデス・ベンツなどと並ぶ高級車の代表的なブランドであったパッカードは、戦前の日本においても高級車の代表格であり皇室、華族、警察を含む官公庁の公用車、大企業の社用車等として相当な台数が輸入された。
CG初代編集長 小林彰太郎氏(1929年11月12日-2013年10月28日)の著作によれば、1930年(昭和5年)の東京にパッカードは254台も登録されていたという。トラック・バスも含めた東京の自動車登録台数が21063台だった時代の話である。何と100台に1台以上がパッカードだったことになる。ちなみに現在2017年の東京の自動車登録台数は1930年の210倍の442万台程度であり、単純に全自動車の100分の1強という比率で現在の東京に置き換えれば、東京の街に5万台近いパッカードが走っているという計算になる。それに対して1930年の東京にキャデラックは僅か66台、リンカーンに至っては28台のみの登録であったという。当時、既にキャデラックは日本GMが、リンカーンは日本フォードが設立されていたにも関わらず、である。いかに戦前の日本でパッカードが高級車として人気が高かったかが分かる数字である。戦前、多数国内登録されたパッカードだが、車齢を重ねた戦後は1960年代に至るまで持ち前の頑丈な造りから霊柩車に改造されて余生を送る例が多かった。
★パッカードは1915年(大正4年)にV12エンジンを搭載して登場したのち、日本には1920年代に入って6気筒及び8気筒車の輸入が開始された。
五十嵐平達氏の著作に宮内庁への納入は1930年頃からとの記述があるが、今回ご紹介する1925年のカタログに宮内省御納入車の写真が掲載されており、五十嵐氏の記述より早い輸入極く初期の段階から皇室にもパッカードが入った模様である。但し、五十嵐氏の著作によれば宮内省(現宮内庁)への納入車両は8気筒以下に限られ何故か12気筒は納入されなかった関係で、皇室に遠慮してか日本国内の社長族や大富豪も12気筒車はあえて購入しなかったとのことである。
パッカードの当初の国内輸入元はウィキペディア等では有楽町の三柏商会とされているが、今回ご紹介するカタログには、東洋総代理店「内外興業株式会社」の印字がある。内外興業の住所も麹町区有楽町とあり、同じ有楽町に存在したという三柏商会との関係は不明である。尚、その経緯は不明ながら1931年(昭和6年)にパッカードの輸入元は三和自動車に変更となった。三和自動車は、戦後1953年(昭和28年)よりポルシェの輸入により極めて有名となったが、パッカードについてもその終焉に至るまで輸入代理店を務めた。
●1937年パッカード・エイトと1950年ダットサン・スリフトDS-2型
1959年(昭和34年)3月、宮内庁ガレーヂにて。五十嵐平達氏撮影。入念に手入れをされた宮内庁ガレーヂの車両は何れも新車のような状態にあったが、当時9年落ちのダットサン・スリフトは既に大半が廃車となっていたはずでこの車が日本で最も状態の良い個体であったに違いない。パッカードは今回ご紹介のカタログより12年新しい年式。
【主要スペック】 1925年 パッカード6気筒 セダンリムジン333型 (1925 Packard 6 Series Sedan Limousine Type.333)
ホイールベース3378mm(133インチ)・水冷直列6気筒4735 cc(289cu.in)・最高出力65ps(S.A.E.29.4馬力)・車重1874kg・変速機3速MT・乗車定員7名・最高速度:不明・米国内販売価格$2885(日本国内販売価格:1万5500円※)
※1925年(大正14年)時点の大卒初任給が50円、平均年収700円というデータがあるので、15500円という価格は平均年収の約22倍という計算となり、現在の貨幣価値では1億円前後になるものと思われる。
●1925年パッカード・シックス/エイト総合カタログ (縦13×横18.6cm・日本語44頁)
V12以外のパッカードを掲載した判型は小さいながらも稀少な日本語版カタログ。但し、総頁数の半分近い20頁が「パッカードの良さはそのオーナーに聞け」という宣伝コピーを実践した形の当時の国内愛用者28名によるアンケート回答と写真の掲載となっている。諸元の掲載もあるが車両自体の解説箇所は少なく、購入検討者には本国版の英文カタログと共にこの日本語の冊子を渡す形であったのではないだろうか。アンケートに回答した愛用者の氏名には三越会長の倉知誠夫氏、三菱合資会社代表の江口定條氏、東京市長(現都知事)を務めた阪谷芳郎氏といったウィキペディアで検索できるような人物の名が見られ、その他、日本郵船、鉄道省神戸改良事務所、神奈川県庁、長野県庁、三重県庁、栃木県庁、奈良ホテルといった法人・役所名称でのアンケート回答も掲載されている。県庁での購入は県知事の送迎用だったのだろうか。
表紙にはパッカードの有名な2つのコピーが躍っている。「Ask the Man Who Owns One」の日本誤訳は、「パッカードの眞價は其の所有者に就て聞かるべし」。「Only Packard Can Build a Packard」は「パッカード會社にして初めてパッカードを製造し得」と略されている。この1925年のカタログは2017年現在で発行から92年の時を経ており、当時20歳だった人でも現在はギネス並みの112歳となっている計算となるので、当時この車の販売に携わった人、オーナーとなった人、運転をした人などは全員が鬼籍に入られているはずだが、この時代のパッカードを所有していた華族などの子弟で当時子供であった人の中には、もしかすると当時乗車したことがあり現在でも90代半ば前後以上のお歳で御存命の人がおられるかもしれない。
【中頁から】
表紙をめくると現われるのは、「1924年11月9日、パッカード製リバチー飛行機で世界一周をした飛行家6名にシカゴ市長よりパッカード8気筒車が賞品として贈呈された」という内容の記事。
パッカード會社の沿革と現状(全5頁)
警視庁消防部御使用パッカード
【1コマ漫画】
子供「母ちゃん、あれよ。のろいパッカードが来てるじゃありませんか」
母「あれはパッカードじゃありませんよ」
子供「それじゃあの後から来るのがほんとのパッカードでしょう。御覧なさい。何故同じように見えてる自動車で先のは違っているのでしょう。」
母「一つは偽物ですよ。後から来るのがほんとのパッカードで世界中で一番善い自動車なの。パッカード會社だから初めてパッカードが出来るのよ。」
【ポートリコに於ける街童批評の流行言】
「向こうに田舎娘が来た。不別嬪だね」「あら、パッカード。美人だわ・・・・・」
【アンケート設問と回答】(計28件・全20頁)
設問
回答頁例
宮内省御買上
神奈川県庁御使用
栃木県庁御使用
新潟県庁御使用
清水正己氏御使用
6気筒エンジン解説
構造説明(スペック)
1925年式6気筒パッカード幌型(フェートン)
1925年式6気筒パッカード箱型(セダン)
パッカード乗用車定價表
裏表紙: 東京市麹町区有楽町1丁目5番地の東洋総代理店「内外興業株式会社」と芝浦工場、大阪支社、名古屋出張所、大連代理店、京城代理店の住所及び電話番号の印字。
★オマケ(その1): 映画ルーズベルト物語に登場した1925年パッカード243型
★オマケ(その2): レストアされた1925年パッカード・リムジン333型
★オマケ(その3): ホワイトボックス1/43スケール 1976年 トヨタ・ランドクルーザー・ダブルキャブトラック
全長12cm。ダイキャスト製。定価4500円(税抜)。1920年代のパッカードのミニカーは手元に1台もなく、しかしオマケにミニカーがなしは少々寂しいということで、これは最近の新製品です。WHITE BOX品番322732。何ともそそられるミニカーながら限定1000台と少な目なので興味がある向きはお早めに。一緒に写っているのは、これまた新製品のミニチャンプス廉価版MAXICHAMPSの1979年ポルシェ911ターボ3.3(定価税抜4800円)。パッカードと同じく三和自動車が輸入していた時代のポルシェ。
左ハンドル
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★1925年 パッカード 戦前 日本語版カタログ ~ 自動車カタログ棚から 356
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